伊吹 有喜

イラスト1
Pocket


本書『雲を紡ぐ』は、ホームスパンを中心とした一人の少女と壊れかけた家族の再生を描いた長編小説です。

繊細な心を持ち外に出ることができなくなった少女の、ホームスパンに対する愛情を存分に描いた心温まる作品で、第163回直木賞の候補作となりました。

 

雲を紡ぐ』の簡単なあらすじ

 

壊れかけた家族は、もう一度、ひとつになれるのか?羊毛を手仕事で染め、紡ぎ、織りあげられた「時を越える布」ホームスパンをめぐる親子三代の心の糸の物語。(「BOOK」データベースより)

 

主人公の少女美緒は、父方の祖母が作ってくれた鮮烈な赤色をしたショールを心の逃げ場としていました。そのショールが母親の手で捨てられたとき、美緒は写真で見た岩手県にある祖父の工房「山崎工藝舎」へと向かいます。

美緒は「人の視線が気にかかり、怖い。だから相手の顔色をうかがう。で、がんばる。」と後に太一に評される繊細な子です。

母親の顔色を窺い、家にいない父親を恐がり、学校では友達の顔色を窺って常に笑みを張り付け、それがおかしいと笑われる。結局、電車に乗れなくなり、家に、部屋に閉じこもるようになります。

そこに母親によりショールを捨てられるという事件が起こり、澪は祖父のところへ逃げるのです。

 

雲を紡ぐ』の感想

 

ホームスパン」とは、「ホーム=家」「スパン=紡ぐ」毛織物のことであり、それぞれの家で糸を紡いでつくった布が語源だと本書内に書いてありました。

正確には、

ホームスパンとは、手紡ぎによる、主に太めの粗糸などを使った手織りの織物のことを指す。引用元:株式会社日本ホームスパン

のだそうです。

 

私は、本書『雲を紡ぐ』のような普通の家庭の、どこにでもあるようないじめや引きこもり、その原因かもしれない冷え込んだ夫婦関係などを描いた作品を、本来は好みません。

私の好むところはハードボイルドであり警察小説であり、アクション満載のインパクトが強烈なエンターテイメント小説なのです。

 

しかし、例えば夏川草介の『神様のカルテシリーズ』のように真摯に命の尊厳を見つめる作品などにも心打たれ、浅田次郎の『壬生義士伝』のような人間ドラマにも心惹かれます。

 

 

そして、二年ほど前に読んだこの伊吹有喜という作家の第158回直木賞候補作となった『かなたの友へ』という作品が心に残っていました。

ひたすらに人を想い、ノスタルジックな雰囲気の中で一生懸命に生きる姿を描いてある作品は私の琴線に触れたものです。

 

 

その伊吹有喜が再び直木賞の候補作となった作品が本書『雲を紡ぐ』です。やはり、本作品も読んでいて心地よいと感じる仕上がりでした。

ヒステリックな母親真紀と、自信に満ちた母方の祖母の強い言葉、それに対し言葉が少なく常に逃げているとしか思えない父親広志という、主人公美緒の家庭の描写はうまいものです。

それに対し、美緒が世話になる「山崎工藝舎」関係の登場人物、父親広志の従妹である川北裕子は一歩引いています。それよりも祐子の息子の太一の存在の方が大きく感じるほどです。

勿論、祐子も美緒に羊毛の洗い方などの羊毛を紡ぐ工程を教えたりと、それなりの存在感が無いわけではありません。

でも、この家庭で育った美緒に対する太一の言葉は専門家のようでもあり、できすぎの印象はありました。それでも自身の経験として語る太一の言葉には重みがありました。

 

一方、美緒が暮らすことになる父方の祖父である山崎紘治郎の存在感は突出しています。後に読んだ直木賞の桐野夏生の選評で「祖父の達観は出来過ぎ」とありましたが、確かに否定はできません。

しかし、人気の毛織物の職人である祖父の仕事に関する言葉は重みがあって当然だと思われ、ただ、美緒の人生についての紘治郎の言葉は納得せざるを得ないのです。

 

その他にも、登場人物たちの造形がステレオタイプであり、「朝の連続テレビ小説」のようだと表される一因になっているなどの評は、指摘されれば全面否定できないところではあります。

それでも読み手の心に迫ってきたのは事実でしょう。だからこそ直木賞の候補作として選ばれたものだと思います。

父親の従妹である「山崎工藝舎」の祐子や、その子の太一なども含め、この作者の醸し出す雰囲気、読みやすさの一因がステレオタイプな人間像からくるものだとしても、やはり心に沁み、琴線に響く作品です。

 

家族をテーマに書かれた作品としては少なからずの作品がありますが、受賞歴のある作品から選ぶとすると、まず瀬尾まいこの『そして、バトンは渡された』があります。

父親が三人、母親が二人いて、家族の形態は十七年間で七回も変わった十七歳の森宮優子を主人公とする長編小説です。親子、家族の関係を改めて考えさせられる2019年本屋大賞を受賞した長編小説です。

でも皆から愛されていた彼女を主人公とするこの物語は、確かにいい作品かもしれませんが、私の好みとは異なる作品でした。

 

 

第155回直木賞を受賞した荻原浩の『海の見える理髪店』はいろいろな家族の在り方を描いた全六編からなる短編集です。

例えば、表題作の「海の見える理髪店」は、予想外の展開を見せますが、何気ない言葉の端々から汲み取れる想いは、美しい文章とともに心に残るものでした。特に最後の一行は泣かる作品です。

 

 

ここで書くのは蛇足かもしれませんが、本書『雲を紡ぐ』に岩手県の県名の由来が書いてありました。「言はで思ふぞ、言ふにまされる」という和歌の下の句から来てるそうです。

陸奥国、磐手の郡から献上された鷹「いはて」をめぐる歌だそうで、言えないでいる相手を思う気持ちは、口に出して言うより強い、という意味だそうです。

こうしたトリビア的な知識も頭のすみに残り、そして作品も心に残っていくのです。

[投稿日]2020年09月16日  [最終更新日]2021年4月13日
Pocket

おすすめの小説

家族をテーマにした小説

小さいおうち ( 中島 京子 )
中島京子著の『小さいおうち』は、東京郊外の私鉄沿線の町に住む平井家の女中をするタキという女性がを主人公とする、第143回直木賞を受賞した小説です。昭和を生き抜いたひとりの女性の一途な思いを描いた、回想録の形をとった人間ドラマ、と言っていいと思います。
明日の記憶 ( 荻原 浩 )
若年性アルツハイマー病を患ったやり手営業マンと、その妻の過酷な現実に向き合うヒューマンドラマです。渡辺謙主演で映画化もされました。
エイジ ( 重松 清 )
東京近郊の桜ヶ丘ニュータウンに住む中学2年生の高橋栄司、通称エイジの日常をリアルに描いて、友達や女の子、そして家族への感情をもてあます少年の一時期を描いています。
キネマの神様 ( 原田マハ )
原田マハ著の『キネマの神様』は、映画に対する愛情がいっぱいの、ファンタジックな長編小説です。「映友」に映画に関する雑文を書いていた歩は、父親が書いた映画に関する文章を映友のサイトに載せて見ました。すると、とある人物との問答が大反響を呼び、大人気となったのでした。
三匹のおっさん ( 有川 浩 )
有川浩著の『三匹のおっさん』は、還暦を過ぎたおっさんたちが身近な悪を退治するという連作短編集です。清田清一、立花重雄、有村則夫の三人は幼馴染であり、共に還暦を迎えたおっさんです。剣道や柔道の達人であったり、知恵者であったりという特技を生かして、近所の悪を懲らしめようとするのです。

関連リンク

伊吹有喜さん『雲を紡ぐ』 | 小説丸
手作業で羊毛から糸を紡ぎ、手織りで作り上げるホームスパン。もともとはイギリスの伝統織物だ。それが明治時代に日本に伝えられ、岩手の盛岡、花巻周辺で産業として根付いたという。
作家・伊吹有喜さん『雲を紡ぐ』 「時を超える布」に心惹かれ
映画化もされた直木賞候補作『ミッドナイト・バス』など、人間心理を温かく丁寧に描いた作品で知られる作家、伊吹有喜さん(50)。
伊吹有喜『雲を紡ぐ』の あちこちで立ち止まる - WEB本の雑誌
ふわふわとした感触がいい。初めて羊毛に触れたときの美緒の驚きがあまりに新鮮なので、まるで自分が触っているかのように錯覚してしまう。伊吹有喜『雲を紡ぐ』(文藝春秋)だ。
時を超えるものとは何か――伊吹有喜さんが贈る成長と再生の物語|新刊『雲を紡ぐ』
柔らかな筆致で心の機微を丁寧に描き、たおやかな物語を綴る伊吹有喜さん。新作は羊毛を手で紡いで糸にして織り上げる布・ホームスパンを巡る親子3代の長編小説。
「雲を紡ぐ」の舞台と絶品! ソフトクリーム | 岩手日報
盛岡取材のなかで心惹かれたものに、盛岡町家があります。特に、常居の天窓から降り注ぐ光の美しさに魅せられました。
Web伊吹有喜「折々のいぶき」
伊吹有喜公式ブログ
【著者インタビュー】伊吹有喜『雲を紡ぐ』/布工房を
いじめで高校に通えなくなった娘、無口な父親、激しく非難してくる母親……3人の衝突や葛藤、隠された思いを、岩手県盛岡市の布工房を舞台に丁寧に描いた家族小説。
直木賞候補作家インタビュー「美しい布をめぐる、家族の物語」──伊吹有喜
「戦前の資料を読むと、洒落た文化人たちがホームスパンの上着を着ていました。年月を経るにしたがって自分の身体に添い、温かい着心地が増していくこの服を、皆で競うように着ていたのですね。
盛岡のホームスパンは家族の糸を紡ぐだろうか? 『雲を紡ぐ』
直木賞候補作の紹介シリーズ第4弾は『雲を紡ぐ』(文藝春秋)。いじめで不登校になった東京の女子高生が、岩手県の盛岡で羊毛を糸に紡ぎ、染め、織り上げるホームスパンに挑戦する。壊れかけた家族はまた一つになれるだろうか。
『雲を紡ぐ』伊吹有喜 | 単行本 - 文藝春秋BOOKS
「分かり合えない母と娘」壊れかけた家族は、もう一度、一つになれるか?羊毛を手仕事で染め、紡ぎ、織りあげられた「時を越える布・ホームスパン」をめぐる親子三代の「心の糸」の物語。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です