廃病院に集まった十二人の少年少女。彼らの目的は「安楽死」をすること。決を取り、全員一致で、それは実行されるはずだった。だが、病院のベッドには“十三人目”の少年の死体が。彼は何者で、なぜここにいるのか?「実行」を阻む問題に、十二人は議論を重ねていく。互いの思いの交錯する中で出された結論とは。(「BOOK」データベースより)
冲方丁初の本格派の長編推理小説で、第156回直木賞の候補作になっている作品です。
安楽死をするために集まった十人の少年少女たちでしたが、予定の場所には誰も知らない死体がありました。そこで、集まった十二人は何故このような事態に陥ったのか話し合うことにしたのです。
このような話の筋道を聞くと、ちょっとした映画好きであれば誰しもがシドニー・ルメット監督の『十二人の怒れる男』という作品を思い出すことでしょう。
密室劇であるこの映画はヘンリー・フォンダやリー・J・コッブという名優が出演しており、ある殺人罪の裁判での陪審員評決の様子を描いた作品です。一人の陪審員の主張する疑問に、次第に他の陪審員が意見を翻していく様子を描くものでした。
この映画はテレビ版でのリメイクなどを繰り返され、日本でも三谷幸喜による『12人の優しい日本人』などとして舞台化や映画化されたりと影響を受けた作品が多数出ています。
本書はこの『十二人の怒れる男』をモチーフに、一人の少年の異議により、次第に意見を変えていく少年少女たちの様子を描いた推理小説です。
最初に異議を唱えた少年は、誰も知らない死体があるという異常な状況のもとでは安楽死できないと主張し、この状況を解明しようとするのですが、結局は少年少女らは互いに探偵役となり、それぞれの行動を追いかけようとします。
その際の議論が、私の苦手とする緻密な論理の積み重ねであり、まさに本格派のミステリーというべき展開です。この緻密な論理の積み重ねの物語であることが、私が今ひとつこの物語の世界に入り込めない理由の一つでした。
更に、その延長線上にあるとも言えるでしょうが、本書が安楽死願望で集まった子供たちの安楽死のための議論であるということです。
つまりは、『十二人の怒れる男』での陪審員の評決のような必然的な議論とは異なり、自分が死ぬために他人を説得する必然性を感じることができなかったのです。
勿論本書の中ではそれなりの理由付けはありますし、そもそも本格派ミステリーで謎ときのための舞台設定という前提条件にケチをつけること自体がおかしいのかもしれません。
物語としては第156回直木賞候補作となっている作品だけのことはあり、それだけの評価を受ける作品としての面白さは十分にあると思います。
ただ、個人的好みから若干ずれているというだけのことであり、冲方丁という作者の多才さを思い知らされる作品ということもできます。
本書のような設定の物語として、 米澤穂信の『インシテミル』という作品があります。この物語は、十二人の男女が時給十一万二千円というアルバイト広告に魅かれ、地下に設けられた「暗鬼館」というゲーム用の専用部屋に集まり、一週間の間ただ何もしないでいるという話です。
しかし、自分以外の者を殺害した者は報酬が二倍などのルールがあるために、この一週間は恐怖しかない次巻となるのです。事実、三日目には参加者の一人が死体となって発見されるのでした。
ついでと言っては語弊がありますが、同様にゲーム性の強い作品として挙げられるのが貴志祐介の『クリムゾンの迷宮』という作品です。
時間も場所も何も分からない突然放り込まれたままに、目の前にある「携帯ゲーム機」と、そこに表示された文字だけを頼りに、何か行動を起こさなければなりません。次第に明かされていく状況の中、生き延びるすべを探すのです。
ところが、私は何故かこの『クリムゾンの迷宮』はけっこう面白いと思って読んでいます。この物語の設定の異常性が振り切れていて、読み手の日常とかけ離れ過ぎていて、物語の世界に入りやすかったからかもしれません。
ちなみに、本書『十二人の死にたい子どもたち』が映画化されます。
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『十二人の死にたい子どもたち』が映画化されます。を参照してください。