『嘘と正典』とは
本書『嘘と正典』は、2019年9月早川書房からハードカバーで刊行され、2022年7月にハヤカワ文庫JAから384頁の文庫として出版された長編のSF小説です。
私の好きなSF小説であり、第162回直木賞の候補作になっている作品ではあるものの、その内容は決して分りやすいものではありませんでした。
『嘘と正典』の簡単なあらすじ
マルクスとエンゲルスの出逢いを阻止することで共産主義の消滅を企むCIAを描いた歴史改変SFの表題作をはじめ、零落した稀代のマジシャンがタイムトラベルに挑む「魔術師」、名馬スペシャルウィークの血統に我が身を重ねる青年の感動譚「ひとすじの光」、音楽を通貨とする小さな島の伝説「ムジカ・ムンダーナ」など6篇を収録。圧倒的な筆致により日本SFと世界文学を接続する著者初の短篇集。第162回直木賞候補作。(「BOOK」データベースより)
『嘘と正典』の感想
『ゲームの王国』で第38回日本SF大賞と第31回山本周五郎賞とをW受賞した小川哲のSF作品を中心にした短編集で、本書は第162回直木賞の候補作品となりました。
ほとんど「時間」をテーマにしたSF作品と言える作品でしょうが「ひとすじの光」と「ムジカ・ムンダーナ」は違います。
本書には意外性に満ちた六編の物語が収められています。それは、物語の設定自体の意外性のこともあり、物語の展開の意外性ということもあります。
そして、殆どの物語は、一読しただけではその意味を掴むことができませんでした。再読、三読して初めて物語の内容がくみとれた、ということもありました。
結局、最後まで意味がよく分からないままに終わった、という作品もあります。「魔術師」など特にそうで、第一話目がこの作品でしたからなおのこと本書全体を分かりにくいと思い込んだきらいすらあります。
もしかしたら、そのあいまいさこそが作者のねらいだったのでしょうか。
ともあれ、本書は普通の人間には一読しただけでは分かりにくいだろうと思う物語ばかりです。
しかしながら、発想のユニークさ、予想外のストーリー展開は妙に心惹かれる作品でもありました。
この作者の評判の作品で、日本SF大賞を受賞した『ゲームの王国』も読んでみるか、迷っているところです。
『嘘と正典』の感想
「魔術師」
この物語はSFではありません。しかし、SFの設定を借りたマジックの話であり、またミステリーでもある話です。
私はこの物語の構造を今でも理解できていません。結局、父親の理道はどこに消えたのか、姉のマジックの結果はどうなるのか、作者の意図は、何もわからないのです。
それは、一つには単純にタイムマシンだけだけではなく並行世界の話まで持ち出してあるからです。並行世界を前提とするならば、どんな結論でもありになってしまいます。
この物語をよくわからないと言う人は多いと思ったのですが、各種レビュー、評論を見る限りではわかりにくいいう人はほとんどいませんでした。
ちなみに、この物語に出てくる「サーストンの三原則」については下記サイトに詳しく書かれています。興味のある方はご覧ください。
「ひとすじの光」
この物語はSFではありません。実在の「スペシャルウィーク」という名の競走馬についての話を巡る家族の話です。
血統を追う主人公のすがたがある種のミステリーとして展開されます。競走馬のサラブレッドの血統を追うことで、父親を理解しようとする主人公の姿が描かれるのです。
「時の扉」
途中で挟まれる「ゼノンのパラドクス」やそれに基づく「時間」の概念の理解。そして罰としての時間の理解は面白く読みました。
三回にわたり語られてきた過去を改変するエピソードがそれぞれに意味を持ち、クライマックスの仕掛けへとなだれ込んでいきます。
一人のユダヤ人とその迫害者との関係性をつづったこの話ですが、物語としての意味は王と語り部との関係性だけなのか、それ以外にもあるものなのか、分かりません。
「ムジカ・ムンダーナ」
音楽を通貨とする、その発想には驚かされましたが、実のところ、通貨とされた音楽の実際の機能を思い浮かべることが困難で、なんとも不思議としか言いようのない物語でした。
大河は、父親の遺品の「ダイガのために」と題された一本のカセットテープに録音してあった音楽の意味を探るためにここまでやってきました。それは、つまりは残されていた音楽を通して大河と父親との関係を描こうとしているのでしょうか。
「最後の不良」
この短編で言われていることは社会生活を営んでいる人間の“他者とのかかわり”という本質にかかわるものなのでしょう。
ただ、この物語の結末が結局何だったのか、主人公の怒りを描いただけなのか、何となく落ち着きませんでした。
「嘘と正典」
前提として、今の共産主義社会の存在はマルクスの思想とエンゲルスの経済との合致がもたらしたものとする考えがあります。その上で、マルクスとエンゲルスとの出会いをなかったものにしようとするのです。
その上で、最終的には、この本のタイトルにもなった「正典」の意味が明かにされ、思いもかけない結末が描かれます。
