『黄昏の岸 暁の天 十二国記 8』とは
本書『黄昏の岸 暁の天 十二国記 8』は『十二国記シリーズ』の第八弾で、2001年5月に講談社X文庫から刊行され、2014年3月に478頁で新潮文庫から刊行された、長編のファンタジー小説です。
本書は『魔性の子』が蓬莱での泰麒高里の物語であるのに対し、高里が不在の間の異世界〈十二国〉の様子が描かれていて、かなりの読み応えを感じた作品でした。
『黄昏の岸 暁の天 十二国記 8』の簡単なあらすじ
王と麒麟が還らぬ国。その命運は!? 驍宗(ぎようそう)が玉座に就いて半年、戴国(たいこく)は疾風の勢いで再興に向かった。しかし、文州(ぶんしゆう)の反乱鎮圧に赴(おもむ)いたまま王は戻らず。ようやく届いた悲報に衝撃を受けた泰麒(たいき)もまた忽然(こつぜん)と姿を消した。王と麒麟を失い荒廃する国を案じる女将軍は、援護を求めて慶国を訪れるのだが、王が国境を越えれば天の摂理に触れる世界──景王陽子が希望に導くことはできるのか。( 内容紹介(出版社より))
『黄昏の岸 暁の天 十二国記 8』の感想
本『十二国記シリーズ』のエピソード0である『魔性の子』では蓬莱(日本)に流された高里の様子が描かれていましたが、その間の異世界側のようすが本書『黄昏の岸 暁の天 十二国記 8』で描かれています。
具体的には、まずは本書冒頭の「序章」において泰麒、つまりは戴国の麒麟である高里が蓬莱(日本)に流された時の事情が描かれています。
戴国ではやっと泰王驍宗がその座について国の再興が為されようとしていたのですが、将軍の阿選の策謀により泰王が行方不明となる事態が起きていたのです。
そしてそうした事態に応じて、「序章」に続く「一章」では戴国の女将軍李斎が助けを求めるために瀕死の状態で慶国の王宮に現れたところから始まります。
こうして、戴国を助けるためにまずは蓬莱に流された泰麒を探すために各国の王や麒麟が力を合わせることとなるのです。
あらためて本シリーズを俯瞰すると、戴国の物語が主になってシリーズの根底になっていることに気がつきます。
まずは、本書の姉妹編ともいえる『魔性の子』があり、その後にシリーズ第二弾の『風の海 迷宮の岸』では、泰麒である高里が驍宗を王として選択する様子が描かれていました。
そして、次がシリーズ第八弾の本書『黄昏の岸 暁の天』であり、各国が力を合わせて蓬莱に流された泰麒を探す様子が描かれているのです。
次にシリーズ第九弾の『白銀の墟 玄の月』(新潮文庫 全四巻)が本書の続編となっており、行方不明となった泰王驍宗の謎、そして戴国の行方が語られます。
そうした位置付けの本書ですが、あらためて本書の一番の魅力を見ると、泰麒の行方を捜すそのストーリー展開の面白さにあると思います。
蓬莱にいる泰麒を探すためには麒麟の力を借りるしかかなく、各国の麒麟が力を合わせて泰麒の所在を探すことになる物語の展開が面白いのです。
そして、その過程でこの異世界の成り立ちそのものへの考察をする場面がありますが、その考察において遠藤周作の名作『沈黙』で描かれているような神の存在に対する弱い人間の叫びと同様な問いかけがあります。
そこでの李斎の言葉が、本書『黄昏の岸 暁の天』について検索すると数多くの書評やブログで同じ箇所が取り上げられているほどにインパクトが強い表現です。
それは、各国の麒麟たちが力を合わせて蓬莱にいる泰麒を探す行為が天の理に反しないかを蓬山に住む女仙たちの主である碧霞玄君に会いにいく場面で李斎が言った言葉です。
李斎は、天が存在することを知ったときに発した「では、どうして天は戴をお見捨てになったのです!?」と問い、それに対し陽子は、「もしも天があるならそれは無謬ではない。実在しない天は過ちを犯さないが、もしも実在するなら、必ず過ちを犯すだろう」と断じるのです。
本書の魅力の第二はこうした異世界の構造を借りた、天(神)の存在への疑問という現代社会にも通じる社会の在りように対する徹底した考察にあると思います。
『沈黙』では神は民を見捨てるのかという問いに対して明確な答えはなく、個々の読者への問題提起としてあったように思えますが、本書では明確にその答えを示してあります。
陽子のその言葉に対する評価は人それぞれでしょうし、個人的に納得できるかと言えば否定的な答えしかないと思われます。
しかしながら、こうした態度は『十二国記シリーズ』全般を通しての著者の姿勢として現れていると思われ、異世界の構造の真実味を増していると思われます。
こうして本書もまたシリーズ全体の存在感を高める一冊として、かなりな面白さをもって読むことができた作品と言えます。
本書に続『白銀の墟 玄の月』の全四巻と合わせて、シリーズ内の大作としての存在感を有しているのです。