本書『落日』は、第162回直木賞の候補作となった、新刊書で380頁の長編の推理小説です。
著者の湊かなえは「イヤミス」の女王として知られており、事実これまで読んだ数冊の作品は読後感が決して良くは無かったのですが、本書に限ってはそうではありませんでした。
『落日』の簡単なあらすじ
新人脚本家の甲斐千尋は、新進気鋭の映画監督長谷部香から、新作の相談を受けた。『笹塚町一家殺害事件』引きこもりの男性が高校生の妹を自宅で刺殺後、放火して両親も死に至らしめた。15年前に起きた、判決も確定しているこの事件を手がけたいという。笹塚町は千尋の生まれ故郷だった。この事件を、香は何故撮りたいのか。千尋はどう向き合うのか。“真実”とは、“救い”とは、そして、“表現する”ということは。絶望の深淵を見た人々の祈りと再生の物語。(「BOOK」データベースより)
本書『落日』の主人公は甲斐真尋という新人の脚本家です。ペンネームを千尋としていますが、それは姉の千穂から一字を貰ってつけたものでした。
その真尋に声を掛けてきたのが長谷部香という新進の映画監督です。
真尋の書いた脚本の映像や甲斐千尋というペンネームから、真尋が長谷部監督自身の同級生であった甲斐千穂ではないかとあたりをつけてきたものです。
そして、十五年も前に笹塚町で起きた「笹塚町一家殺害事件」を撮りたいと、あの事件を知っているだろう笹塚町出身者の真尋に声を掛けてきたのでした。
『落日』の感想
このごろ読んだ小説の傾向として、性的少数者への差別やDVなど、なかなかに問題を含んだ事柄を描いた作品が続いています。
例えば『新宿特別区警察署 Lの捜査官』は教育虐待や女性差別、そしてより直接に性的マイノリティに対する差別を扱った作品であり、次の『52ヘルツのクジラたち』は家庭内暴力や性的マイノリティの問題を取り上げてありました。
前者はエンターテイメント色が強いミステリー小説であって、後者は心地よい感動をもたらしてくれるヒューマンドラマでしたが、やはり爽快な読後という作品ではありません。
そして本書『落日』ではまた育児放棄や家庭内暴力が描かれていました。どうにも明るくはない作品が続いたところに本書でしたので何となく気乗りのしないままの読書だったのです。
しかし、読み始めるとさすがに湊かなえの作品であり、ミステリーとしての面白さに引き込まれてしまいました。
当初の気乗りの薄さなどどこかに行ってしまい、読了後には「イヤミス」どころか未来を見据えた作品として心地よささえ感じていました。
本書『落日』では、自分の育った町で起こった殺人事件を映画として撮りたいという監督の心を汲んで、主人公甲斐真尋が脚本を書くために事件を調べる様子が描かれています。
本書の構成を見ると、各章の前にエピソードがまずあって、一人の女の子の視点で、その子が家庭内暴力や育児放棄を受けている過去の出来事が描かれ、各エピソードごとにその子の成長の過程が語られています。
そして本章に入ると現在の主人公の甲斐真尋の視点に戻って「笹塚町一家殺害事件」の調査の様子が描写されていくのです。
「笹塚町一家殺害事件」とは、兄が妹を殺した上、家に火をつけて両親をも殺してしまったという事件で、既に犯人である兄には死刑判決が下っています。
長谷部監督は、監督が幼い頃住んでいたアパートの隣の部屋に立石沙良の家族が住んでおり、監督が母親に叱られベランダに出されたとき、同じように隣のベランダにいた子が沙良だろうと思っていました。
監督の父親の死後、監督母子は転居をしたためその後の沙良の家族の消息は分からないでいたのですが、事件で殺されたのがその沙良であったことから、事件の映像化を思い立ったのです。
その事件調査の中で、真尋は事件の被害者である沙良という女の子が他人の人生を狂わせるような噓をついていたことなどを知ります。
そして、さらに郷里で調査を進めていくにつれ、沙良のもつ二つの貌が明らかになり、沙良の兄の立石力輝斗と事件の被害者となった妹の沙良という二人の真実の姿が明らかになっていきます。
その過程で、真尋自身の意外な秘密や過去にまつわる謎やその他の事柄までも明らかになっていくのです。
その点こそが本書の醍醐味ですので、そこは語るべきではないところでしょう。
このように、本書『落日』は意外性に満ちた作りとなっていますが、ともするとストーリーを見失いがちになりました。
というのも、「エピソード」と「章」とで交互に視点の主が異なりますので、その切り替えを意識しておかないと誰のことを書いてあるのか分からなくなることも、筋を見失いがちになる一つの原因だと思います。
そうした意味では、本書で暴かれる真実はその数が多すぎる、ともいえるかもしれません。
読み手とすれば驚かされることが続いており面白くていいのですが、逆を言えば意外性に富んでいるためにその筋を見失いがちとも言えるのです。
でも、それほど複雑というほどではない物語ですから、そう感じるのは私以外、他にはあまりいないだろうとも思います。
どちらにしても、本書は「イヤミス」どころか、明るい未来さえ感じさせる物語になっていて、これまでの読後の後味の悪さなどどこにも見当たりません。
今後、この著者は作風が本書のように変わるのでしょうか。であれば湊かなえという作家の作品をもっともっと読むことになると思うのですが。
そうなることを期待したいと思います。