本書『52ヘルツのクジラたち』は、2021年本屋大賞を受賞し、また第4回未来屋小説大賞を受賞した新刊書で260頁の長編の現代小説です。
児童虐待の問題をテーマに、声を上げても聞いてもらえない女と文字通り声をあげることのできない少年との交流を描いた作品で、決して好みとは言えない、しかし多分読むべきであろう作品でした。
『52ヘルツのクジラたち』の簡単なあらすじ
52ヘルツのクジラとは―他の鯨が聞き取れない高い周波数で鳴く、世界で一頭だけのクジラ。たくさんの仲間がいるはずなのに何も届かない、何も届けられない。そのため、世界で一番孤独だと言われている。自分の人生を家族に搾取されてきた女性・貴瑚と、母に虐待され「ムシ」と呼ばれていた少年。孤独ゆえ愛を欲し、裏切られてきた彼らが出会い、新たな魂の物語が生まれる―。(「BOOK」データベースより)
ある片田舎のあばら家に越してきた女は働くでもなく、誰かの妾だろうと村の年寄りに噂されていた。
幼いころから母親や義父の虐待に会いながらも母親への愛情を求め続けてきた女は、祖母の家だというその家で一人の少年と出会う。
母親からもムシと呼ばれていたその少年は体中にあざを作り、言葉を発することができないでいた。
自分の子供の頃と重ね合わせた女は、その少年を自分の家に引き取り住まわせることにしたのだった。
『52ヘルツのクジラたち』の感想
本書のタイトルで書かれている「52ヘルツのクジラ」とは、その声の周波数が普通とは異なりあまりに高いため、他のクジラに聞こえない声を発しているクジラのことを言うそうです。
その存在は確認されているものの実際の姿は今も確認されていない、と本書の中で紹介されています。
このクジラは本書の作者町田そのこの創作ではなく実在するのだそうです。詳しくは下記サイトを参照してください。
誰にも届かない歌声をあげ続けているけれどその声を聞く者はいない。それは本書の主人公の三島貴湖も、またムシと呼ばれる少年もそうです
著者本人が「52ヘルツのクジラ」の存在を知って「声なき声を発している存在」をイメージし、虐待にあっている子どもなどを考えたのだそうです。( Real Sound : 参照 )
そして、この声なき声の象徴として母に虐待され「ムシ」と呼ばれていた少年を書いたとも言われてました。
さて本書『52ヘルツのクジラたち』ですが、読み始めてしばらくは物語の展開が読めず、ある種ファンタジーのような作品だと思って読み進めていました。
主人公貴湖の日常が、過去の思い出を挟みながら綴られていきます。しかし、その過去での日常は、今もそうではあるのですが、一段と淋しさと悲しさに彩られているのです。
「虐待」という言葉がまとわりつく過去の自分と、「虐待」を今受けているかもしれない今知り合った子供とが、何もない田舎の風景の中に溶け込んで語られていきます。
ところが、第三章に入り、主人公の貴湖の過去が話が断片ではなく語られ始めると、話しは途端に重く、暗くなってきます。
ここで語られているのは育児放棄(ネグレクト)であり、さらに言えば家庭内の虐待でもあります。そうした仕打ちを受けてもなお貴湖は母親の愛情を求めていたのです。
それまでも少しずつ語られる貴湖の過去において、貴湖は母親に「わたしのこと、少しは好きだった?」と尋ねる場面があります。
実の母親に自分のことが好きだったかと確認しようとするその姿自体が普通ではなく、ただ哀しさだけが溢れています。
本書『52ヘルツのクジラたち』は、読んでいて気分がどんどん落ち込むとまでは言いませんが、決して明るくはなく、勿論読書の楽しさは殆どありませんでした。
でも一方で、貴湖は古い友達の美晴と再会し、そこでアンさんと出会います。この出会いは貴湖に新しい生き方を教えてくれ、自分自身を取り戻していくのです。
しかしながら、貴湖はその後に知り合い、恋をした新名主税という男との暮らしの中でまた新たな虐待に会います。
ここで新名主税という男と別れられないという主人公の心情は、私には分かりません。
また、そうした人間を描いた小説を自分から読みたいとも思いません。本屋大賞の候補作品とならなければ自分から読むことはなかったはずです。
しかし、悲しい過去が描かれていても、中には読むに値する作品はあります。そして本書は読むだけの価値があったと思えた作品だったのです。
本書『52ヘルツのクジラたち』ではアンさんという重要な人物が登場します。この人物に関してはまたそれだけで一編の物語が書けるような背景を持った人物として描かれています。
貴湖のどん底だった人生から救い出してくれた恩人でもあるアンさんに関してはあまり書くことができないのがもどかしくも思いますが、読書の喜びを奪ってしまうことになるので仕方ありません。
一方、美晴というキコの友人もまた重要な役目を果たしています。
しかしながら、この人物に関しては現実にここまで他人のことにかかわることができる人間はいないだろう、という疑問があります。
美晴がいたからこそ貴湖は再生できたと言っても過言ではありません。しかし、そのかかわり方は尋常ではないのです。
単なる同級生にここまで真摯に関わることでのできる人はいそうになく、現実的ではありません。しかし、いないと断言できないのも事実ではありますが。
そして物語は進み、本書『52ヘルツのクジラたち』は感動的なクライマックスを迎えます。
わたしが最終的に本書を読むべき作品だと思ったのは、このクライマックスが現実的だったからなのかもしれません。
ここまで読んできた物語全体があいまいになってしまうファンタジー的な終わり方でないことに納得させられた気がします。
ちなみに、本書のカバーの“そで”の部分に隠された「5」「2」という数字があるそうです。このことは、著者のインタビューを読むまで気付きませんでした( 好書好日 : 参照 )。