鑑定人 氏家京太郎

鑑定人 氏家京太郎』とは

 

本書『鑑定人 氏家京太郎』は『鑑定人 氏家京太郎シリーズ』の第一弾で、2022年1月に280頁のハードカバーとして双葉社から刊行された長編のサスペンスミステリー小説です。

公的な科学捜査研究所と対峙する民間の鑑定人を主人公とすることで、現在の鑑定業務の問題点を洗い出す、お仕事小説であり、かなり惹き込まれて読み終えました。

 

鑑定人 氏家京太郎』の簡単なあらすじ

 

民間で科学捜査鑑定を請け負う“氏家鑑定センター”。所長の氏家京太郎のもとに舞い込んだのは、世間を騒がせる連続殺人犯の弁護士からの鑑定依頼だった。若い女性3人を殺害し死体から子宮を抜き取る猟奇的な事件だが、容疑者は、3人のうち1人の犯行だけは否認している。3人の殺害を主張する検察側の鑑定通知書に違和感を感じた氏家は、犯人の体液の再鑑定を試みる。しかし、試料の盗難や職員への暴行など、何者かからの邪魔が相次いでー。警視庁科捜研と真っ向対立しながら挑む裁判の行く末は?(「BOOK」データベースより)

 

鑑定人 氏家京太郎』の感想

 

本書『鑑定人 氏家京太郎』は、鑑定人を主人公とした推理小説ですが、鑑定という職務を紹介したお仕事小説としての一面もある長編のサスペンス感にあふれた推理小説です。

冒頭から、一般人になじみの深い筆跡鑑定の様子を見せることで筆跡鑑定の業務の内容を示すとともに、主人公の氏家京太郎の人となりを簡単に示してあり、物語の導入部として実に入りやすい設定となっています。

そこでは、氏家が警視庁科学捜査研究所のOBとしての立場や科捜研を辞めた事情、また科捜研と対立している立場も明確にしてあるのです。

 

氏家は人権派と呼ばれている吉田士童弁護士から、世を騒がせている連続殺人犯の弁護のための鑑定の依頼を受けます。

その事件は連続通り魔事件であり、那智貴彦という男が続けて三人の女性を殺し、その腹をY字形にきり割いて子宮を摘出して放置したというものでした。

吉田弁護士は、依頼人の那智が最初の二人の殺害は認めたものの最後の一人は殺していないと否認しているため、最後の事件で現場で採取された体液のDNA鑑定を依頼してきたのです。

 

検察側の鑑定人である科学捜査研究所の提出してきた鑑定書と正面から対決することになり、全体的に不利な状況から如何にして弁護側に有利な証拠を見つけ出すか、つまりは科捜研の提出した鑑定をどのようにしてひっくり返すことができるか、に焦点が当たってくるのです。

ここで、普通は見聞きすることのないDNA鑑定などの鑑定業務の内容が描かれることになり、その点でも興味が沸く内容です。

でも、本書『鑑定人 氏家京太郎』ではそれだけにとどまらず、主人公の氏家京太郎とその氏家と対決することになる科学捜査研究所の鑑定人である黒木康平と氏家との関係や、吉田弁護士とその対決相手となる東京地検第一級検事の谷端義弘検事との間の二組の人間関係のわだかまりなど、直接の業務外の関りという見どころも用意してあります。

勿論のことですが、第一は那智貴彦という殺人犯が犯したとされる第三の殺人事件の真実を探り出すということが最大の見せ場ではありますが、こうしたそれぞれの人間関係も物語の幅を広くしているのです。

また、氏家鑑定センターの所員である、感情よりも論理を優先できる女と言われているDNA鑑定を担当の橘奈翔子などの職人気質の署員たちが登場しつつ、氏家の職務を助けています。

氏家たちの仕事は裁判の手続きの流れの中で重要な意味を持ってきますので、裁判の具体的な手続きも簡単に説明しながら物語が進みます。

例えば、刑事裁判の公判前整理手続きの流れの説明やその手続き自体の問題点が指摘され、またDNA鑑定の重要性や「DNA鑑定のバイブルと呼ばれている」と表現してある『科学的証拠とこれを用いた裁判のあり方』という実在の著作などを引用しつつ、試料に関しての重視すべき観点などを指摘してあります。

 

 

本書内で氏家は、本件では鑑定結果通知書だけの提出しかなく、試料の採取方法も鑑定過程の記録写真も説明されていない、と指摘しています。

このような運用が通っている現実もあると言い、また、現実に下関で起きた事件を引き合いに、科捜研の品質管理体制の問題点なども指摘しているのです。

氏家は、1990年5月に起きた「足利事件」を例に、「人は必ず間違うという真理」を声高に叫びます。彼の言う「無謬性の問題」です。

 

こうして、専門的な事柄を私達一般素人にもわかりやすく説明しながら、鑑定業務を紹介しつつ、事件の真相に辿り着く氏家たち鑑定センターの所員たちの努力は胸のすくものでもあり、知的な好奇心を満たす作業でもあります。

そういう意味で本書は実に面白く読むことができました。

ちなみに、本書『鑑定人 氏家京太郎』の主人公の氏家京太郎という人物は中山七里の『特殊清掃人』にサプライズ登場してくるそうです。

近いうちに読んでみたいものです。

 

世界でいちばん透きとおった物語

世界でいちばん透きとおった物語』とは

 

本書『世界でいちばん透きとおった物語』は、2023年4月に240頁の文庫として新潮文庫から刊行された長編の推理小説です。

とある作家が書いたとされる原稿をめぐる謎をメインにした物語で、そのアイデアも含めてかなり惹き込まれて読んだ作品でした。

 

世界でいちばん透きとおった物語』の簡単なあらすじ

 

大御所ミステリ作家の宮内彰吾が死去した。宮内は妻帯者ながら多くの女性と交際し、そのうちの一人と子供までつくっていた。それが僕だ。「親父が『世界でいちばん透きとおった物語』という小説を死ぬ間際に書いていたらしい。何か知らないか」宮内の長男からの連絡をきっかけに始まった遺稿探し。編集者の霧子さんの助言をもとに調べるのだがー。予測不能の結末が待つ、衝撃の物語。(「BOOK」データベースより)

 

世界でいちばん透きとおった物語』の感想

 

本書『世界でいちばん透きとおった物語』は、私がこれまで読んだどんなミステリーとも異なるアイデアで構成された作品です。

読み終えたとき、単純に、問題となっている原稿にまつわるいくつかの謎が解き明かされていく様子と共に伏線が回収されていくさまを楽しんだものです。

それは、推理小説のストーリーを楽しむ私のような読者でも感心するほどのものでした。

 

しかし、本当の衝撃はそのあと、何段階かに分れて訪れてきました。

最後の頁での、主人公の父親が選んだであろうと同じ一語、の意味が分かったときの驚き、次いで本書の内容を思い起こしてみたときに思い付いた京極夏彦と同様の版面の作り方に対する驚愕、その後もしかしてと試してみたときの衝撃は言葉にできませんでした。

「電子書籍化絶対不可能」や「ネタバレ厳禁」というこの本の過剰とも思える惹句は、読み終えてみると不思議なほどに納得してしまいます。

それほどに本書の仕掛けは秀逸であり、貼られた伏線の回収作業も腑に落ちるものでした。

 

ここで京極夏彦という人は、私は一度はその『姑獲鳥の夏』という作品を手に取ったものの、その作品世界になじめず途中で投げ出してしまった作家さんです。

 

 

この人の自分の作品に対するこだわりの強さは他の追随を許さない、という話は聞いたことがあったのですが、本書で書かれている内容はまたそれを裏付けるものでした。

その点について知りたい人は下記サイトを参照ください。

 

本書『世界でいちばん透きとおった物語』は推理小説としても普通によくできた作品だと思います。

本妻ではない母親のもと父親としての記憶は全くないままに、実の父である大御所ミステリ作家の宮内彰吾が亡くなり、ただ、宮内の長男と名乗る男から宮内の最後の原稿があるらしいので調べてほしいとの連絡だけが舞い込みます。

母親も数年前に亡くなっているため、主人公の藤阪燈真はなんの手掛かりもないままに父親の遺稿である筈の原稿を探し始めるのです。

こうして本書は、燈真の父親である宮内は本当に原稿を残したのか、残したとしてその原稿はどこにあるのか、またその原稿の内容はどんなものなのか、という様々な謎を追及していくことになります。

この物語は、単純にそのままの作品として読んでも面白い推理小説として満足しながら読み終えたことでしょう。

 

ところが、その上に先に述べたような仕掛けが施されているのですから、作者の努力、というか苦労は半端なものではなかったと思われ、作品の評価は上がるばかりです。

作家の努力ということに関しては、本書の中でも京極夏彦という作家の頁レイアウトなどに対するこだわりの強さについてなどに言及されています。

作家という人種の能力にはその豊富なイマジネーションなどには毎度驚かされているのですが、そうした頁のレイアウトにまでこだわっているとは考えたこともありませんでした。

 

こうした作家の努力に関し、編集者の戸川安宣氏が本書について書かれている一文には、竹本健司の『涙香迷宮』という作品が挙げられていました( Book Bang:参照 )。

この作品は「いろは歌」をテーマに書かれた作品で、そこで示されている膨大な数の「いろは歌」には驚かされたものです。

 

 

さらに、本書『世界でいちばん透きとおった物語』の最後に書かれていた献辞で示されていた「A先生」については、多くのサイトで泡坂妻夫だとの指摘があり、そこで示されていた『しあわせの書 迷探偵ヨギ ガンジーの心霊術』も読んでみました。

たしかにこの作品の仕掛けは驚きだったのですが、本書の仕掛けはそれ以上のものだと言えると思います。

本当はこの作品を紹介するだけでもネタバレになるのかもしれませんが、この作品も驚きをもって読んだことに間違いはないので、紹介だけはしておきたいと思います。

 

 

本書についてはその驚きについてどれだけ言葉を費やしても言い表すことができるとは思えません。

ただ、一度読んでみてほしいというだけです。

杉井 光

※ 杉井光:作品一覧(Amazonの頁へリンク)

杉井光』のプロフィール

 

電撃小説大賞の銀賞を受賞し、2006(平成18)年電撃文庫『火目の巫女』でデビュー。その後電撃文庫「神様のメモ帳」シリーズがコミカライズ、アニメ化。ライト文芸レーベルや一般文芸誌で活躍。他の著書に「さよならピアノソナタ」シリーズ、「楽園ノイズ」シリーズ、『終わる世界のアルバム』、『蓮見律子の推理交響楽 比翼のバルカローレ』などがある。

引用元:杉井光 | 著者プロフィール

 

杉井光』について

 

現時点ではありません。

遠火 警視庁強行犯係・樋口顕

遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』とは

 

本書『遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』は『警視庁強行犯係・樋口顕シリーズ』の第八弾で、2023年8月に360頁のハードカバーで幻冬舎から刊行された長編の警察小説です。

本書は「女性の貧困」の問題を取り上げていますが、あくまで今野敏作品として重すぎることなく、いつも通りに読みやすい作品でした。

 

遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』の簡単なあらすじ

 

東京・奥多摩の山中で他殺体が発見された。警視庁捜査一課の樋口班は現場に急行。調べを進めていくと、殺されたのは渋谷署の係員が職質をしたことがある女子高生で、売春の噂があったことが判明する。樋口顕は被害者の友人である美人女子高生と戸外で面会。すると、その様子を撮影した何者かによってインターネット上に写真を流され、同僚やマスコミから、あらぬ疑いをかけられてしまう。秀でた能力があるわけではなく、他人を立てることを優先し、家族も大切にしながら、数々の難事件を解決してきた樋口。謀略を打ち破り、殺人事件の真相に辿り着くことができるのか。女性の貧困、性の商品化、SNSの悪意、親子関係の変質…。現代日本の歪みを照らし出す社会派ミステリーの白眉。(「BOOK」データベースより)

 

遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』の感想

 

本書『遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』は、『警視庁強行犯係・樋口顕シリーズ』の第八弾となる作品です。

 

本書の帯には「女性の貧困、性の商品化、SNSの悪意、親子関係の変質・・・」とあり、さらに「現代日本の歪みを照らし出す社会派ミステリーの白眉。」という文言がありました。

今野敏の作品の中には社会的な問題をテーマとして掲げてある少なからずの作品があるようです。

しかしながら、例えば本シリーズで言えば前作の『無明 警視庁強行犯係・樋口顕』のように、どちらかといえば警察組織内での人間関係に光を当ててあるような作品が主のように思えます。

 

 

本書の場合、組織内の人間関係も描いてはあるのですが、それよりも「女性の貧困」の問題を取り上げ、そこから性の商品化などの社会的な問題を取り上げてあります。

とは言っても、正面から社会派の推理小説として構えているのではなく、軽く読めるエンターテイメント作品として仕上げてあります。

そうしたタッチこそが今野敏の作品の特徴であり、皆から支持されている由縁でしょう。

 

さらには、軽く読める作品だとはいっても、心に残る言葉などが随所に挟まれているところも読者の支持を得ている理由の一つになっているのだと思われます。

例えば、刑事としての自分の仕事を理由に家族に苦労を強いてきた自分の、仕事だからと許されるとの思いがあったことについて、それは「自分の大切なものを他人に押し付け、相手の大切なものを軽視するということなのだ。」と指摘しています。

こうした警句めいた文言が随所にあるため、言葉が読み手の心に少しずつ積み重なっていき、この作者の描き出す物語は言葉を、そして人間存在を大切にしているという印象へと繋がり、それは今野敏の著作に、ひいては本書の評価へもつながっていくのでしょう。

 

また、主人公の樋口顕の性格を描写するに際し、樋口は相手が誰であろうと落ち着かなくなると言っています。

樋口は約束の時間に遅れたくないという気持ちが強いけれど、それは「待たされるより待たせることの方が苦手」だからだと、自分よりも相手の立場をより慮っているのです。

 

さらには、主人公以外の登場人物の描き方でも、例えば田端捜査一課長天童管理官との間で交わされた言葉で、せっかちな田端と天童のブレーキを掛ける会話などがあります。

こうした会話から「この二人の呼吸は絶妙だ」と樋口は感じ、結局、捜査員の尻を叩きつつ慎重にやれと言っているのだ、と結論付けているのです。

このような描写が随所に描かれていて、登場人物の性格が知らずのうちに刷り込まれ、読者はより一層感情移入することとなり、とりこになっていくのです。

 

本書『遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』では、青梅署の管轄内で起きた殺人事件の被害者が未成年の女性の可能性があるということで、少年課の氏家の助けを求め、樋口と共に捜査本部に詰めることになります。

被害者の女性が渋谷署の生活安全課の捜査員梶田邦夫巡査部長などが見知った人物で、ポムという女子高校生の企画集団が浮かんで来るのです。

その中で「女性の貧困」、性の商品化などの社会的な問題提起が為され、樋口らの活躍で事件は解決します。

 

繰り返しになりますが、そんな問題を仲間の力を借りつつ解決していくこの作品は、面白いと言わざるを得ない作品です。

と同時に、本書を含む本『警視庁強行犯係・樋口顕シリーズ』は、今野敏の多くのシリーズ作品の中でも人気が高いシリーズであることがよく理解できる、次回作が待たれるシリーズなのです。

踏切の幽霊

踏切の幽霊』とは

 

本書『踏切の幽霊』は、2022年12月に文藝春秋から289頁のハードカバーで刊行された長編のミステリー小説です。

第169回直木三十五賞の候補となった作品ですが、読みながらも今一つのめり込むことができなかった作品でもありました。

 

踏切の幽霊』の簡単なあらすじ

 

マスコミには、決して書けないことがあるー都会の片隅にある踏切で撮影された、一枚の心霊写真。同じ踏切では、列車の非常停止が相次いでいた。雑誌記者の松田は、読者からの投稿をもとに心霊ネタの取材に乗り出すが、やがて彼の調査は幽霊事件にまつわる思わぬ真実に辿り着く。1994年冬、東京・下北沢で起こった怪異の全貌を描き、読む者に慄くような感動をもたらす幽霊小説の決定版!(「BOOK」データベースより)

 

踏切の幽霊』の感想

 

本書『踏切の幽霊』は、ホラーとミステリーが融合した第145回直木賞の候補となった作品です。

著者の高野和明の、第65回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門、第2回山田風太郎賞を受賞するなど多くの受賞歴がある『ジェノサイド』以来、十一年年ぶりとなる作品です。

 

 

主人公はかつては全国紙の社会部遊軍記者だったのですが、妻を亡くして以来仕事にもやる気をなくし、現在は「月刊女性の友」という女性雑誌の記者となっている松田法夫という男です。

その女性雑誌で松田を拾い上げてくれた編集長の井沢勉から野口進という衆議院議員の収賄疑惑を追う仕事をあきらめ、新たに心霊ネタを取材するように言われます。

ある8ミリ映像と写真を見せられ、その映像の真偽も含め調べるようにと言われたのですが、その夜から深夜午前一時三分になると無言電話がかかるようになります。

この写真の調べが進むと、幽霊の映った踏切では一年前に若い女が被害者の殺人事件が起きており、未だ犯人は捕まっていないことが判明します。

心霊写真などの調査に入った筈の松田は、知らないうちにその裏に潜む巨悪へと繋がる事件へと迫るのでした。

 

先にも書いたように、本書『踏切の幽霊』は高野和明という作家の『ジェノサイド』という作品以来、十一年ぶりの作品だそうです。

言われてみれば、高野和明の作品は何冊か読んでいたのですが、久しぶりにその名を聞いた気がします。

どちらかというまでもなく、この作家の作品には重いトーンの作品が多く、特に江戸川乱歩賞を受賞した『13階段』などは死刑制度をテーマにしていることもあり、途中で読むのをやめようかと思ったほどです。

また、幽霊そのものが主人公となった、「49日以内に100人の自殺志願者を助ける」という内容の『幽霊人命救助隊』という作品も書いています。

「死」というものを正面から見つめながら考えさせる物語ですが、エンターテイメント小説として仕上がっている作品です。
 

 

本書は、『幽霊人命救助隊』とは異なり、幽霊をテーマにしたエンターテイメント小説ではあるものの、ミステリー作品であり、けっしてホラーではありません。

超自然的な現象により調査のきっかけが得られたり、方向性が示されたりはしますが、きちんとしたミステリーです。

ただ、この超自然的現象の存在を受け入れることができない人はミステリーとして楽しめないかもしれません。

事実、私がそうであり、本書が直木賞の候補作品となっていることが理解できないでいる一人でもあります。

 

ただ、こうしてあらためて本書『踏切の幽霊』の内容を思い返しているうちに、本書の価値を見直す気持ちになっていることも事実です。

主人公松田の、亡くした妻を思いやる心、気持ちは随所に示されており、夫婦について考えさせられる作品でもありました。

そうした点でも物語としてそれなりに面白く読んだのは事実であり、ただ、直木賞候補作品であることからか、ミステリーとはいっても幽霊により主人公の取るべき道筋が示される点に違和感を感じてしまったと思われます。

あとは読み手の好みによって変ってくる作品ではないでしょうか。

脈動

脈動』とは

 

本書『脈動』は、『鬼龍光一シリーズ』の第六弾で、2023年6月に352頁のハードカバーでKADOKAWAから刊行された長編の伝奇+警察小説です。

単純に、今野敏の小説として楽しく読めた作品ですが、それ以上のものではなく、伝奇小説としても、警察小説としても標準的な作品でした。

 

脈動』の簡単なあらすじ

 

警察官による暴力や淫らな行為ー警視庁内で非違行為が相次ぐ。常時ではあり得ない不祥事の原因とは?事態の悪化をおそれた警視庁生活安全部少年事件課の巡査部長・富野輝彦は旧知のお祓い師・鬼龍光一を呼び出す。その結果、警視庁を守る結界が破られており、このままでは警察組織は崩壊するという。一方、富野は小松川署で傷害事件を起こした少年の送検に立ち会い、半グレ集団による少女売春の情報を掴む。一見無関係なふたつの出来事は、やがて奇妙に絡み合う…。(「BOOK」データベースより)

 

脈動』の感想

 

本書『脈動』は、単なる警察小説ではなく、伝奇小説と融合したミステリーシリーズである『鬼龍光一シリーズ』の第六弾となる作品です。

さすがに今野敏の作品らしく読みやすく、伝奇小説+警察小説としてそれなりの面白さはあるのですが、しかしながら伝奇小説としても警察小説としても中途に感じ、本書であればこそという面白さまでは感じませんでした。

 

ここで「伝奇小説」とは、本来は「中国の唐-宋時代に書かれた短編小説のこと( ウィキペディア-伝奇小説:参照 )」をいうらしいのですが、現在の日本では、「奇異なる伝承(の物語)」のなかでも「伝承・史実の幻想的再解釈」を成立条件とする作品を指しているそうです( ウィキペディア-伝奇ロマン:参照 )。

私にとっての「伝奇小説」は、この現在の日本的な意味での「伝奇小説」であって、半村良の『石の血脈』や『産霊山秘録』から始まり、その後に夢枕獏菊地秀行のいわゆる伝奇バイオレンス作品と呼ばれる作品群を読んだものです。

 

 

話を元に戻すと、本『鬼龍光一シリーズ』は、そうした伝奇小説の中でもさらに警察小説との融合作品という側面が強いシリーズになっています。

本書『脈動』では警視庁内での「非違行為」つまり警察官の不祥事が多発するという事態に陥りますが、その原因が、警視庁に設けられていた結界が破られたことにあるというのです。

つまりは、警察は「本来は霊的には恐ろしく不浄な場所の筈です」が、霊障、即ち霊によって起こる障害が起きないように「結界」を張ってその中を浄化していたのが破られ、不祥事が多発しているというのです。

そこで、警視庁生活安全部少年事件課少年事件第三係所属の巡査部長である富野輝彦とその部下の有沢英行が、鬼道衆の鬼龍光一や奥州勢の安部孝景といったお祓い師たち、それに元妙道の池垣亜紀などの力を借りてその原因を探り、事態の解決を図るのでした。

 

ここで登場してきた鬼龍光一安部孝景、それに池垣亜紀などの重要人物たちについては簡単な紹介しかありませんし、彼らの呪法についての説明なども全くありません。

しかし、それも当然で、本書は『鬼龍光一シリーズ』の第六弾だったのであり、彼らはこのシリーズの中心人物だったのです。

というのも、『鬼龍光一シリーズ』の鬼龍光一という名前を見て、かつて読んだ『拳鬼伝シリーズ』(現在は改題され、『渋谷署強行犯係シリーズ』となっています)の琉球空手使いの整体師竜門の物語だと勝手に思い込んでおり、読まずにいたのでした。

ところが、いざ本書『脈動』を読んでみると全く異なる物語であり、『拳鬼伝シリーズ』の格闘小説というよりは伝奇小説であって、陰陽道などが絡む物語であり、さらには警察小説の要素も持った物語だったのです。

 

結局、冒頭に書いたように、単純に今野敏の小説として楽しく読めた作品で、それ以上のものではない、普通に面白く読めた作品でした。

可燃物

可燃物』とは

 

本書『可燃物』は、2023年7月に280頁のハードカバーで文藝春秋より刊行され、王様のブランチでも特集された長編の警察小説です。

王様のブランチでも特集されていて面白く読んだ作品ではありましたが、これまでの米澤穂信の作品と比すると物語としての面白さは今一つでした。

 

可燃物』の簡単なあらすじ

 

史上初4大ミステリーランキング第1位(『黒牢城』)に輝く著者最新作。

余計なことは喋らない。上司から疎まれる。部下にもよい上司とは思われていない。しかし、捜査能力は卓越している。葛警部だけに見えている世界がある。
群馬県警を舞台にした新たなミステリーシリーズ始動。

群馬県警利根警察署に入った遭難の一報。現場となったスキー場に捜査員が赴くと、そこには頸動脈を刺され失血死した男性の遺体があった。犯人は一緒に遭難していた男とほぼ特定できるが、凶器が見つからない。その場所は崖の下で、しかも二人の回りの雪は踏み荒らされていず、凶器を処分することは不可能だった。犯人は何を使って“刺殺”したのか?(「崖の下」)

榛名山麓の〈きすげ回廊〉で右上腕が発見されたことを皮切りに明らかになったばらばら遺体遺棄事件。単に遺体を隠すためなら、遊歩道から見える位置に右上腕を捨てるはずはない。なぜ、犯人は死体を切り刻んだのか? (「命の恩」)

太田市の住宅街で連続放火事件が発生した。県警葛班が捜査に当てられるが、容疑者を絞り込めないうちに、犯行がぴたりと止まってしまう。犯行の動機は何か? なぜ放火は止まったのか? 犯人の姿が像を結ばず捜査は行き詰まるかに見えたが……(「可燃物」)

連続放火事件の“見えざる共通項”を探り出す表題作を始め、葛警部の鮮やかな推理が光る5編。(内容紹介(出版社より))

 

目次

崖の下 | ねむけ | 命の恩 | 可燃物 | 本物か

 

可燃物』の感想

 

本書『可燃物』は、群馬県警の捜査員を主人公とした、謎解きをメインとした短編の警察小説集です。

短編小説であるためか、米澤穂信の推理小説としてはストーリーの展開に今一つ魅力を感じずに終わってしまいました。

もちろん、各短編での謎解きそのものは決して面白くないなどというべき話ではなく、その意外性など惹かれるものはありました。

ただ、いわば正統派の推理小説のようなトリック重視の作品と感じられ、例えば米澤穂信の『真実の10メートル手前』で感じたような、短編小説なりのストーリー性をあまり感じることができなかったのです。

 

本書『可燃物』の特殊性を見ていくと、まず第一に、本書の探偵役が警視庁ではなく群馬県警に所属しているという点があります。

県警が舞台となる作品は少なからずの作品があってそれほど特殊だとは言えないでしょうが、それでも一応の特色として挙げることができると思います。

この県警を舞台とする作品としては、まずは何かと警視庁との仲の悪さを言われる神奈川県警を舞台にした笹本稜平の『越境捜査シリーズ』があります。

 

 

他に今野敏の作品群でも、『隠蔽捜査シリーズ』では主人公の竜崎伸也が神奈川県警へと異動になっていますし、『横浜みなとみらい署シリーズ』なども神奈川県警が舞台になっています。

 

 

また、佐々木譲は『北海道警察シリーズ』など、北海道を舞台にした警察小説を多く書いておられます。

 

 

第二に、主人公の葛警部の性格設定がかなりユニークです。

他人におもねることをしないのはもちろんですが、まずは事件解決を優先し、捜査の意味の説明などはあまりなく、部下や所轄の警察官を厳しめに働かせているようです。

近時の警察小説では、先にも出てきた今野敏の作品などのように組織としての警察、チームとしての協同作業が描かれることが多いように思われます。

その点、本書ではまずは主人公の葛警部がいて、他の捜査員は葛警部の駒に過ぎないようです。

 

そして第三に、本書『可燃物』は物語としてはいわゆる安楽椅子探偵(アームチェアディテクティブ)と呼ばれる事件解決の手法を採っていると言えます。

ただ、本書の探偵役の葛警部は自ら捜査に乗り出すことが多く、純粋な安楽椅子探偵とは言えません。

でありながらも、自身の捜査は事件解決のため、つまりは自分の推理のための資料を集めているのであり、結局は居ながらにして問題を解決するという安楽椅子探偵類似の思考方法を見せてくれています。

その問題解決の中で如何にしてその事件を実行したかといういわゆるハウダニット、何故そのような犯行に及んだのかというホワイダニットなどの謎を解き明かし、事件の真相を暴いていくのです。

 

さらに第四として、以上のような主人公や物語の世界観が、著者米澤穂信のこれまでの作品群からすると若干異なるということも挙げられるかもしれません。

そして、本書が警察小説であることも、本書の惹句に「著者初の警察小説」とあるようにこの作家にとって初めてのことです。

 

以上のような独特な立ち位置にある本書ですが、個人的には、米澤穂信という作家の作品群の中ではあまり評価は高くありませんでした。

それは、ひとつには先に述べた本書のユニークさで主人公の安楽椅子探偵的な問題解決が描かれている点が、物語としての小説の面白さをあまり感じなかったという点にあります。

もともと私は、小説にはストーリー性を求める傾向にあり、だからこそ本格派の推理小説も若干苦手としています。

しかしながら、謎解きという点ではさすがに米澤穂信の作品というべきであり面白かったのですが、本書はそのストーリー性にかけると感じたのです。

その点では同じ謎解きの短編小説集でも、第155回直木賞の候補作にもなった米澤穂信の『真実の10メートル手前』のような作品を好むのです。

 

君のクイズ

君のクイズ』とは

 

本書『君のクイズ』は、2022年10月に192頁のハードカバーとして朝日新聞出版から刊行された長編の推理小説です。

殺人事件も暴力性も全くない、ただクイズ番組で、対戦相手が問題文が読まれる前に答えることができた理由を探すだけの物語ですが、非常に読み応えがある作品でした。

 

君のクイズ』の簡単なあらすじ

 

面白すぎる!! 驚くべき謎を解くミステリーとしても最高だし、こんなに興奮する小説に出会ったのも久しぶり。頼まれてもいないのに「推薦コメントを書かせて!」とお願いしてしまいました。小川哲さん、ほんとすごいな。–伊坂幸太郎氏一度本を開いたらもう終わりだ。面白すぎてそのまま読み切ってしまった。熱くて、ワクワクして、予想もつかない感動が襲ってくる。ミステリーでも、バトルものでも、人生ドラマでもある。でもそれだけじゃない。ジャンルはたぶん「面白い小説」だ。–佐久間宣行氏   *    *     *     *『ゲームの王国』『嘘と正典』『地図と拳』。一作ごとに現代小説の到達点を更新し続ける著者の才気がほとばしる、唯一無二の<クイズ小説>が誕生しました。雑誌掲載時から共同通信や図書新聞の文芸時評等に取り上げられ、またSNSでも盛り上がりを見せる、話題沸騰の一冊です!ストーリー:生放送のTV番組『Q-1グランプリ』決勝戦に出場したクイズプレーヤーの三島玲央は、対戦相手・本庄絆が、まだ一文字も問題が読まれぬうちに回答し正解し、優勝を果たすという不可解な事態をいぶかしむ。いったい彼はなぜ、正答できたのか? 真相を解明しようと彼について調べ、決勝戦を1問ずつ振り返る三島はやがて、自らの記憶も掘り起こしていくことになりーー。読めば、クイズプレーヤーの思考と世界がまるごと体験できる。人生のある瞬間が鮮やかによみがえる。そして読後、あなたの「知る」は更新される! 「不可能犯罪」を解く一気読み必至の卓抜したミステリーにして、エモーショナルなのに知的興奮に満ちた超エンターテインメント!『地図と拳』にて第168回直木賞を受賞した小川哲さんの、新たな魅力あふれる極上のエンターテインメント作品であり、もう一つの代表作です!(内容紹介(出版社より))

 

君のクイズ』の感想

 

本書『君のクイズ』は、純粋に知的な興奮を味わうことができるミステリー小説です。

ミステリーではありますが、殺人や暴力などの絡んだ事件性は全くありません。

ただひたすらに、問題文が読まれる前に対戦相手が正答ができた理由を探る主人公の姿が描かれているだけです。

でありながらも、登場人物の人間像やさらには人生をも解き明かしてしまう物語であり、極上の時間を楽しむことができました。

 

「Q-1グランプリ」というクイズ大会の決勝の最終問題で、主人公三島玲央の対戦相手である本庄絆は、アナウンサーが問題を読み始めるも未だ一文字も読まれていない瞬間に正解を解答したのです。

誰もがこのクイズ大会はヤラセを疑いますが、三島は「クイズにはヤラセなどはあってはならないし、同様に魔法であってもならない。クイズとは、知識をもとにして、相手より早く、そして正確に、論理的な思考を使って正解にたどり着く行為だ。」と考えます。

ヤラセではないと考え、問題文が読まれる前に解答するなどという奇跡的なことが何故に可能だったのか。三島は、このクイズ大会のビデオを再度チェックし、その原因を探り始めるのです。

 

後日、「Q-1グランプリ」というクイズ大会を見直し、その過程を自分自身で分析する姿で成り立つこの作品は、そのアイデアだけでなく、論理的に組み立てられたその分析自体に感心してしまいます。

同時に、この番組の録画を見ながらの回想は主人公の自己分析でもあり、さらには問題文が読まれる前に正解を導き出した対決相手の本庄絆の心裡を分析する過程でもあります。

その分析の過程は論理的であるのは勿論、クイズにかけるプレイヤーたちの思考方法までも明らかにしていきます。

その段階を追っていく思考の筋道は読んでいても知的な好奇心が満たされ、驚きと同時に関心をしている自分に気が付きました。

 

クイズというジャンルに特化している本書はまた、テレビ番組の中でも一応の人気を誇る「クイズ番組」の実際や裏側を見せてくれるという意味での好奇心も満たしてくれています。

そして、何と言っても、特にクイズの早押しに際しての解答者たちの心理分析は見事です。

この分析が事実そうであるかは不明ですが、テレビを見ている限りでの早押し解答は、いかにもさもありなんと感じます。

本書の最後に記載されている参考文献の中には、今のテレビのクイズ番組で大活躍を見せている伊沢拓司の著書も挙げられているように、テレビの中で彼らクイズプレイヤーと呼ばれる人たちが発言している言葉にも本書の登場人物が発している言葉と似たような言葉があるので、よりリアリティーに満ちているのでしょう。

 

ちなみに、本書『君のクイズ』の持つ論理性は、作者である小川哲の他の作品、第38回日本SF大賞と第31回山本周五郎賞を受賞し、第162回直木賞の候補作ともなった『嘘と正典』や、第13回山田風太郎賞を受賞し、第168回直木賞を受賞した『地図と拳』といった作品と同様です。

そして、本書も第76回日本推理作家協会賞を受賞し、2023年本屋大賞で6位となっていて、同様に高い評価を受けているのです。

 

 

こうした高い論理性は時には読む者を選ぶかもしれません。

個人的には、先に述べた『地図と拳』などは、その情報量の多さとロジックの難解さに読むのを中断しようかと思ったことさえあります。

しかし、本書はそうした難解さはありませんし、情報量が多すぎるということもありません。

ただ、問題文なしに正解できた理由を探るだけです。その過程で、人物の背景、その歴史をたどることはあっても難解とは感じないと思います。

十分に、読書を楽しめる作品だと思います。

審議官 隠蔽捜査9.5

審議官―隠蔽捜査9.5―』とは

 

本書『審議官―隠蔽捜査9.5―』は『隠蔽捜査シリーズ』の短編集としては三冊目で、2023年1月に新潮社からハードカバーで刊行された短編の警察小説集です。

『隠蔽捜査シリーズ』の隙間を埋めるスピンオフ短編集であり、当然のごとく非常に面白く読んだ作品でした。

 

審議官―隠蔽捜査9.5―』の簡単なあらすじ

 

信念のキャリア・竜崎の突然の異動。その前後、周囲ではこんな波瀾がーー!? 米軍から特別捜査官を迎えた件で、警察庁に呼び出された竜崎伸也。審議官からの追及に、竜崎が取った行動とはーー(表題作)。竜崎の周囲で日々まき起こる、本編では描かれなかった9つの物語。家族や大森署、神奈川県警の面々など名脇役も活躍する、大人気シリーズ待望のスピンオフ。本書のための特別書き下しも収録!(内容紹介(出版社より))

 

目次

空席 | 内助 | 荷物 | 選択 | 専門官 | 参事官 | 審議官 | 非違 | 信号

 

審議官―隠蔽捜査9.5―』の感想

 

本書『審議官―隠蔽捜査9.5―』は、神奈川県警本部の刑事部長に異動することになった竜崎伸也をめぐる人たちに関する短編が収められているので、『隠蔽捜査シリーズ』のスピンオフ作品集というべきでしょうか。

隠蔽捜査シリーズ』では『初陣 隠蔽捜査3.5』、『自覚 隠蔽捜査5.5』に次ぐ第三弾目の短編集ということになります。

ほとんどの話が、結局は竜崎に相談した結果やはり竜崎が常々言っている原理原則論そのままの言葉に、それまで悩んでいたことが嘘のようにすっきりと問題が解決していきます。

本『隠蔽捜査シリーズ』の魅力は何と言っても主人公である竜崎伸也というキャラクターの存在によるところが大きいででしょうが、本書はその竜崎の魅力そのままに展開されていると言えるのです。

 

「空席」
異色の署長であった竜崎伸也の後任署長が着任するまでの空白の一日の間に発生した事件について、第二方面本部の野間崎管理官に振り回される貝沼悦郎副署長を中心とする大森署員の姿が描かれています。

この後任の署長が、『署長シンドローム』での主人公となる女性キャリアの藍本百合子警視正であり、貝沼がつぶやいたように「うちの署は変わった署長ばかりやってくる」ことになるのでした。

 

「内助」
竜崎伸也の妻である竜崎冴子が、テレビで昼のニュースを見ていたときに感じた違和感から事件の真実に至るという、冴子の名推理がさえわたる異色の短編です。

推理そのものよりも、また竜崎夫婦の姿や、娘の美紀や息子の邦彦をも含めた竜崎家の様子が丁寧に描かれているところが、本シリーズのファンとしては興味深い作品でした。

 

「荷物」
竜崎伸也の息子の邦彦が、友人から預かった荷物が覚醒剤と思われるだった白い粉だったことから、誰にも相談することができずに思い悩む姿が描かれています。

邦彦はどういう方法でこの苦境を乗り越えることができるのか、に関心が集中し、結果は予想がつく範囲ではありましたが、その過程を読ませる作者の力量はさすがであり、すっきりした読後感でした。

 

「選択」
竜崎伸也の娘の美紀が電車内での痴漢騒ぎに巻き込まれる姿が描かれています。

正しいことを行ったものが理不尽に扱われてしまう現実に即しているともいえそうな、それでいて痛快な作品に仕上がっています。

加えて、美紀の会社の様子や同僚まで存在感をもって描いてある作品になっています。

 

「専門官」
神奈川県警の組織の特殊性をもとに、県警内の、特にキャリアを嫌うノンキャリア、という人間関係を描き出してあります。

専門官」とは、ベテラン捜査員のなかの警部待遇の警部補のことだそうです。

本書『審議官―隠蔽捜査9.5―』ではキャリア嫌いで通っている矢坂敬藏警部補に焦点が当たっていて、新しく刑事部長となった竜崎伸也との対立を心配する池辺渉刑事総務課長らの姿があります。

ここでも竜崎の特殊な存在感が光っています。

 

「参事官」
ここでもまた、キャリアとノンキャリアの対立、具体的には、佐藤実本部長から阿久津参事官と組織犯罪対策本部の参事官である平田清彦警視正との仲が悪いので何とかしてほしい、と頼まれた竜崎の姿が描かれています。

この話では永田優子捜査二課長という二十四歳のキャリアが登場してきますが、この人物は『横浜みなとみらい署暴対係シリーズ』でも登場してきている人物と同一人物だと思われます。

 

「審議官」
審議官という幹部でも個人的な感情で動くことがある、という組織の問題を指摘しているようです。

刑事局担当の長瀬友昭審議官が、横須賀の殺人・死体遺棄事件で、自分が米軍関係者の関与があったことを知らなかったことが問題だと、佐藤実本部長に文句を言ってきたのです。

この話の冒頭に出てくる横須賀の殺人・死体遺棄事件は、『探花 隠蔽捜査9』での事件を指していると思われます。

ちなみに、「審議官」とは、「日本の行政機関における官職の名称に使われる語」だそうです。詳しくは、「ウィキペディア(審議官)」を参照してください。

 

「非違」
竜崎伸也の後任である前出の藍本百合子新署長が赴任してから、野間崎管理官が何かにつけ大森署に来るようになったという話です。

今回の来署の理由は、強行犯係の戸高善信刑事の平和島のボートレース場に通う行為が問題だというのでした。

 

「信号」
「参事官」で登場していた永田優子捜査二課長竜崎伸也に言っていた「キャリア会」というキャリア組の飲み会で交わされた、細い路地の横断時に、車も通っておらず人の眼もない時に赤信号を守るか、という話にまつわる物語です。

渡るという佐藤本部長の言葉が記者に漏れたことで三島交通部長が怒っているのです。

しかしその裏には、三島交通部長は五十八歳のノンキャリア警視正であり、ここでもキャリア対ノンキャリアの対立の様子が描かれています。

 

本書『審議官―隠蔽捜査9.5―』でも、『隠蔽捜査シリーズ』本編ではあまり焦点が当たらないような登場人物たちに光を当て、その人物をめぐる話が展開されています。

そして、そうした中でもキャリアとノンキャリアの対立の場面が何か所か描かれていて、現実にもそうした問題があるのだろうと推察されるのです。

また、各話の出来自体も勿論面白いのですが、永田優子捜査二課長や藍本百合子大森署新署長など、今野敏の他のシリーズの出演者が少しずつ顔を見せたりして、今野ワールドのファンとしてはそうした面でも楽しみが見いだせます。

今野敏のファンとしては、こうした作品も間を置かずに読みたいと思ってしまいます。

トランパー 横浜みなとみらい署暴対係

トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』とは

 

本書『トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』は『横浜みなとみらい署暴対係シリーズ』の第七弾で、2023年5月に刊行された384頁の長編の警察小説です。

途中までは普通の作品だと思いながらの読書だったのですが、途中から予想外の展開を見せ、なかなかに面白く読むことができた作品でした。

 

トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』の簡単なあらすじ

 

港ヨコハマを暴力から守る「チーム諸橋」の活躍を描く
「横浜みなとみらい署暴対係」シリーズ第七弾!

商品を受け取るも代金を支払わない「取り込み詐欺」。
暴力団の懐を肥やす資金源を断ち切るため、“ハマの用心棒”が倉庫街を駆ける!

神奈川県警みなとみらい署刑事第一課暴力犯対策係係長・諸橋夏男。〈ハマの用心棒〉と呼ばれ、
暴力団から一目も二目も置かれる存在だ。
大量の商品を注文して代金を支払わない「取り込み詐欺」に管内の暴力団・伊知田組が
関与しているらしいが、確証がないという。
県警本部の永田二課長から問い合わせを受けた諸橋は、
県警本部と合同で張り込みを開始、
伊知田が所有する倉庫に品物が運ばれたのを確認するが、ガサ入れは空振りに終わった。
誰かが情報を洩らしたのか!?

好評警察小説シリーズ最新刊。(内容紹介(出版社より))

 

トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』の感想

 

本書『トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』は、いつもの通りの諸橋と城島の二人が活躍する物語で、これまで以上に面白く感じた作品でした。

 

県警捜査二課からの問い合わせを受け、管内の小さな暴力団である伊知田組の取り込み詐欺事件にまつわる捜査から幕を開けます。

依頼に応じて目星をつけた倉庫に食材が運び込まれたのを確認、撮影し、確信をもって令状を取り家宅捜索のために乗り込みますが、荷物は既に運び出されていました。

内部からの情報漏洩を疑いますが、そのうちに事態は思いもかけない方向へと動き始めます。

 

もともと本『横浜みなとみらい署暴対係シリーズ』の魅力と言えば、まずは主役の二人、諸橋夏男警部と係長補佐の城島勇一警部補とのコンビのキャラクターが挙げられるでしょう。

「ハマの用心棒」と呼ばれる諸橋警部とラテン系と言われるほどにポジティブな城島警部補との取り合わせが、その会話も含めてうまく機能しているのです。

その諸橋の下でチームとして動く浜崎吾郎巡査部長を始めとする係員たちそれぞれの個性、さらにはシリーズではおなじみの神奈川県警察本部警務部監察官の笹本康平警視の存在も魅力的です。

 

また、本書『トランパー』の魅力についていえば、、今回初登場の県警本部刑事部捜査第二課課長の永田優子警視、その部下で知能犯捜査第一係の牛尾主任、県警本部組織犯罪対策本部暴力団対策課平賀松太郎警部補などの登場人物たちもうまく機能しているところも挙げられると思います。

それに、物語が第二段階に入って話が一段と広がりを見せてきたときの県警本部警備部外事第二課の保科武昭警部補たちの存在や、なによりも福富町のビルのオーナーの郭宇軒が重要な存在として登場している点も見逃せません。

 

でも、本書『トランパー』での一番の魅力はやはり物語展開の意外性と、そこで繰り広げられる捜査員同士のやり取りにあります。

神奈川県警内部での部署の違いによる捜査員の立場に即した主張があったり、そうした声を乗り越えたところに現れる人間同士の会話に読みごたえがあります。

また、ちかごろ今野敏の物語によく登場する女性のキャリアの活躍も面白いところです。

本書で言えば二課長の永田優子警視ですが、他のシリーズで言えば、『署長シンドローム』に登場する藍本小百合が一番の存在でしょう。

この藍本小百合は『隠蔽捜査シリーズ』で竜崎伸也の後任として大森署に赴任してきた美貌のキャリアの新署長として登場する人物です。

ただ、本書の永田警視はあくまで県警の課長として脇役での登場ですから、藍本小百合ほどの活躍は見せませんが、それなりの存在感は持っています。

 

 

また、今野敏の小説では他部署の警察官などでしばしばみられるのが、印象が良くない警察官が、実は根は悪いやつではないという展開です。

本書でもそうで、どの人物かはここでは書きませんが、そうした設定は読者が物語に感情移入するのに一役買っているような気がします。

 

総じて、本書『トランパー』はまさに今野敏の小説として、とても読みやすく、また惹きつけられる物語の展開もあり、私の好みに合致した作品だということができます。

続編を期待したいシリーズであり、本書はその期待に十分に応えた一冊だったと言えるのです。