あおなり道場始末

豊後、坪内藩の城下町にある青鳴道場。神妙活殺流の遣い手だった先代の死から早一年、道場は存亡の危機にあった。跡を継いだ長男の青鳴権平はまだ二十歳と若く、その昼行燈ぶりから、ついには門人が一人もいなくなってしまったのである。米櫃も底をついたある日、「鬼姫」と巷で呼ばれる妹の千草や、神童の誉れ高い弟の勘六に尻を叩かれた権平がようやく重い腰を上げる。「父の仇を捜すために道場破りをいたす」。酔って神社の石段で足を滑らせて亡くなったとされる先代の死には不審な点があり、直前には五つの流派の道場主たちと酒席を共にしていた。三人は、道場再興と父の汚名を雪ぐため、まずはその一つ、新当流の柿崎道場に乗りこむ―。(「BOOK」データベースより)

葉室麟のいつものタッチとは異なる、軽妙な長編時代小説です。

 

神妙活殺流の青鳴道場では先代の死から一年が経ち、明日の米も無い状態にありました。そこで青鳴道場の跡取りである青鳴三兄弟は、道場破りをしようということになるのでした。

というのも、収入の確保のほかに、先代の死に不審な点があり、道場破りをしながら先代の死の謎をも探り出そうというのです。

しかしながら、弟の勘六は神童と呼ばれるほどの頭脳の持ち主ではあるものの剣の方はさっぱりで、妹の千夏は「鬼姫」と呼ばれているほどの達者ではありますが他の道場主を倒すには心もとなく、頼りの長男の青鳴権平は二十歳と若いながらかなりの使い手ではあっても、彼の秘剣は三本に一本しか決まらないという欠点があったのです。

 

葉室麟という作者の作品はは、直木賞を受賞した『蜩の記』を始めとする一連の作品のように、清冽な生きざまの侍の姿を緊張感のある文体で描き出しているところにその特徴を見ることができます。

しかしながら、本書はその対極にある、ユーモラスな筋立ての物語です。本書のようなコミカルな葉室麟の作品としては、私は他に初期に読んだ『川あかり』という作品を思い出すだけです。家老の暗殺を命じられた藩で一番の臆病者の伊東七十郎という若者が、川止めにより足止めされた宿で様々な人に触れ、成長する物語で、爽やかな印象を持ったものです。

残念なことに、本書ではそうした印象はありません。というよりも、物語として不都合な点のほうが多く見られ、残念な印象でした。

青鳴三兄弟のキャラクター設定はなかなかに面白そうに思ったのですが、例えば長男権平之秘剣が三本に一本しか決まらないという設定が生かされているとは思えないところや、結局は青鳴道場と他の五つの道場との争いでしかない点など、あまり物語の世界観の構築が上手くいっているとは思えなかったのです。

最終的には先代の死の謎とあわせて他の道場との絡みの意味も明らかにされるのですが、歯切れが悪いと感じてしまったのです。

ただ、ネットで読む本書の評価にはかなり高いものがありました。私のように否定的に感じているものは殆どなかったように思います。つまりは、個人的な好みとしての印象でしかなかったようです。

潮鳴り

俊英と謳われた豊後羽根藩の伊吹櫂蔵は、役目をしくじりお役御免、いまや“襤褸蔵”と呼ばれる無頼暮らし。ある日、家督を譲った弟が切腹。遺書から借銀を巡る藩の裏切りが原因と知る。弟を救えなかった櫂蔵は、死の際まで己を苛む。直後、なぜか藩から出仕を促された櫂蔵は、弟の無念を晴らすべく城に上がるが…。“再起”を描く、『蜩ノ記』に続く羽根藩シリーズ第二弾!(「BOOK」データベースより)

『蜩の記』と同じ羽根藩を舞台にした羽根藩シリーズの第二弾となる、長編の時代小説です。


葉室麟が直木賞を受賞した『蜩の記』の続編ということで、かなりの期待を持って読んだ作品ですが、残念ながらその高いハードルの故か、期待外れに終わった作品となりました。

そもそも『蜩の記』とは何の関連性もありません。舞台となる藩が同じというだけです。 藤沢周平の『海坂藩大全』に代表される「海坂藩」と同様な物語環境を構築されようとされているのでしょうか。

主人公である豊後羽根藩の伊吹櫂蔵はお役御免となり、家督を弟に譲り自分は皆の眼から逃れて海辺の小屋で寝起きし、「襤褸蔵」と呼ばれながらも酒に浸る日々を送っていました。

その襤褸蔵が通っていた飲み屋にいたのがお芳という女でした。この女は、かつて一人の若侍に惚れた末に捨てられ、場末の飲み屋でたまには男に身をまかせるまでの女にまで落ちぶれていたのです。

その店の客としていたのが、江戸の呉服問屋三井越後屋の大番頭という身分も更には家族も捨てて俳諧の道へと走った咲庵(しょあん)という俳諧師でした。

三人共に心に鬱屈を抱えながらも死ぬこともならずに海辺のこの地に流れ着いていたものですが、ある日、櫂蔵のもとに弟の死の知らせが届きます。残された遺言書を読み、自分の知らないところで弟が苦悩していたことを知るのでした。

その後、弟の代わりに出仕するようにとの藩からの命が下るのですが、その命を持ってきたのが勘定奉行の伊形清左衞門であり、この男こそがお芳をもてあそんだ侍でした。

櫂蔵は皆の反対を押し切り、お芳と咲庵との力を借り、弟の死の真相を探るために再出仕するのです。

本書は、襤褸蔵とまで呼ばれるほどに堕ちた一人の男の再生の姿を描いた物語であり、お芳や咲庵の再生の物語でもあります。しかし、端的に言えば物語の舞台設定が安易に過ぎると思えて仕方ないのです。

そのそもの櫂蔵の再仕官という藩命が下るという点も疑問ですが、その点はさておいても、櫂蔵の再生の力になる江戸の大店の大番頭だった咲庵が偶然にも櫂蔵との酒の仲間であったり、彼ら二人が会う飲み屋の女が、敵役の井形清四郎から捨てられた女であるお芳であることなども都合が良すぎます。

勿論、葉室麟の作品ですからそれなりの物語として仕上がってはいると思います。これが葉室麟という名前を抜きにして読んだとすれば、普通の面白みのある小説として評価しているのではないでしょうか。

しかしながらやはりどうしても葉室麟という名前がある以上は『蜩の記』にみられた文章の美しさ、描かれる主人公の生きざまの清冽さなどが要求され、そして本書ではそうした格調の高さが感じられませんでした。

それはやはり、戸田秋谷の清廉さの漂う佇まいに比しての、本書の主人公である櫂蔵の生きざまの描き方の不徹底さにあると思われ。それはやはり舞台設定の安易さに帰着するとしか思えないのです。

比べても仕方がないとは思うのですが、葉室麟の数年後に『つまをめとらば』で直木賞を受賞された 青山文平という作家は寡作であり、出版されるどの作品も高いレベルを保っています。それに比して葉室麟という作者は多作であり、だからというべきか、作品の品質は次第に落ちているような気がします。

勿論、全部の作品を読んでいるわけではないし、いち素人が大きなことは言えないのですが、葉室麟という作家の素晴らしさを知っているだけに残念です。

ま、このように言いながらもついついとこの作家の作品を手に取り、読み進めることだとは思います。その価値は十分にある作家さんだと思うのです。

影踏み鬼

伊東を慕い新撰組に入隊、後に赤報隊へ身を投じた久留米脱藩隊士・篠原泰之進。彼の眼を通じて見た、新撰組の隆盛と凋落を描く。(「BOOK」データベースより)

常であればマイナーな存在でしかない篠原泰之進という男を中心に据え、新たな視点から見た新撰組の物語でした。これまでの葉室麟の小説とは趣が異なり、抒情性を排した文章で語られています。

本書では新選組を殺人集団として捉えられており、近藤勇も土方歳三も、勿論沖田総司でさえも殺戮者として描かれています。時代の流れの中でその意に反し剣をとらざるを得なかった青春群像劇、という描き方の多いこの頃の新選組の物語の中で、本書は若干そのニュアンスを異にします。

ここまで新選組を殺戮者として描いたのは、 津本陽の『虎狼は空に―小説新選組』があったくらいでしょうか。とは言っても、『虎狼は空に―小説新選組』では、集団としての新選組というよりは、個々の隊員の剣戟の場面の凄惨さの方が目立っていたと記憶しています。

本書では、斉藤一だけは篠原泰之進と心を通じる男として描いてあるのが印象的でした。二人とも維新という激動の時代を潜り抜けて明治の世まで行きぬいた二人でもあり、また共に剣の使い手であることからなのか、作者の中で通じるものを感じたのでしょうね。

また、作者は篠原泰之進らは「人間的な甘さを残した人たち」だと言っています。そうした甘さを否定する土方らに対し「新撰組の内側で『これは違うんだ」と言い続けた人間である』というのです。( 葉室麟 インタビュー : 参照 )

作者の視点によって人物の評価が異なるのは当然ですが、「人間的な甘さ」のない「秋霜烈日の厳しさ」の中にいる土方らによる、「人間的な甘さ」を残した篠原らの否定、という見方は、よくある「非人間的」存在としての土方らという見方とはまた異なる評価と思われ、面白く感じました。

著者による上記インタビューの中では、篠原の妻となる「萩野」という女性についても触れられていました。殺戮者である土方らに対して、篠原が「自分を失わないでいられた」のは、「ある意味では家庭があったから」だそうです。その家庭があったから「バランスがとれ」ていたのだと言うのです。


こうした実在の女性を描くことで、英雄である土方とは異なる、普通の人である篠原を描こうとしたのだと作者は言います。そして、その試みは成功しているのではないでしょうか。

ただ、近藤や土方らを組織人として描いてあるためか、そうではなく本書自体が篠原目線での物語であるためか、若干新選組の個々の隊士としての表現には今一歩感情移入できなかったような気はします。その点が残念ではありました。

新選組を描いた作品と言えば、 子母澤寛の『新選組三部作』を外すわけにはいきませんが、本書のように近藤や土方、沖田といった、中心人物ではない隊士を主人公にした作品と言えば、まずは 浅田次郎の『壬生義士伝』があります。郷里に残してきた家族のために必死に金を得、そして家族のために生き抜く吉村貫一郎という隊士を主人公にした作品で、映画、テレビドラマ化、漫画化といろいろなジャンルで映像化された名作です。


また、 木内昇の『新選組 幕末の青嵐』があります。項ごとに異なる隊士の視点で語られる子の小説は、新選組を多視点で描くことで新選組という組織を客観的に浮かび上がらせています。浅春群像劇としての新選組としての一面もあり、エンタメ小説としても面白い作品でした。

また全く名も無い隊士を描いた作品として 中村彰彦の『新選組秘帖』があり、他の作家は描きそうもない新選組隊士を描く、新しい切り口の新選組の物語です。他の小説では名前すら出てこないような人々を中心に据えて、それらの人々そのものを描き出そうとした試みは斬新です。

橘花抄

両親を亡くした卯乃は、筑前黒田藩で権勢を振るう立花重根に引き取られたが、父の自害に重根が関与したと聞き、懊悩のあまり失明してしまう。前藩主の没後、粛清が始まった。減封、閉門、配流。立花一族は従容として苦境を受け入れるが追及は苛烈を極め、重根と弟・峯均に隻腕の剣士・津田天馬の凶刃が迫る。己の信ずる道を貫く男、そして一途に生きる女。清新清冽な本格時代小説。(「BOOK」データベースより)

本書は、第二の黒田騒動と言われた黒田家第三代の光之の跡目を巡る騒動にまつわる物語を描いた長編時代小説です。本書は登場人物も多く、人間関係が複雑なため読んでいて幾度となくその関係性の確認をしなければなりませんでした。

この黒田騒動については、葉室麟は『鬼神の如く―黒田叛臣伝―』という作品も表していますが、本書では黒田騒動そのものは直接には関係しないのですが、時代背景として知っておけば更に本書の面白さは深まることと思われます。

本書の背景を簡単に記しておくと、前藩主は黒田光之、現藩主は三男綱政、光之の嫡男は綱之です。綱之は現在では出家して泰雲と名乗っています。前藩主光之は何故か綱之を廃嫡し三男綱政を跡目としますが、ここにおいて争いが生じでいるのです。

本書の中心となるのは立花重根(しげもと)、その弟峯均(みねひら)、そして重根の家に預けられることになった卯乃という娘です。

重根は藩の重鎮として、現藩主である綱政と前藩主光之ととの不仲を、また綱政と嫡男綱之との不仲を元に戻そうとします。しかし、現藩主綱政やその取り巻きは重根自らの利益のためとしか考えません。

峯均は、宮本武蔵の二天一流を会得した使い手で、兄重根の護衛として共に藩のために尽力しています。

卯乃は、嫡男綱之の廃嫡のときの騒動により、父村上庄兵衛を亡くしています。誰も後難を恐れて手を差し伸べない中、重根が幼い卯乃を引き取ったのでした。しかし、父庄兵衛の自害に重根が関与したと聞き、懊悩のために失明して重根の元を離れ、重根の継母りくの元に行きます。そこに峯均も共に住んでいたのです。

この三人それぞれの生き方を追いかけているのです。そして、侍の侍としての生き方を追いながら、そこに卯乃の女としての想いが重なります。その上に、少なくない場面で心象表現のために引用される古歌や、りくを中心として為されている香道による香りなど、本書で語られている内容はかなり複雑なうえに、贅沢な内容をも持っています。ほんの少しではありますが、 朝井まかての『恋歌』を思い出してしまいました。

時間をかけてゆっくりと読むべき作品だと思われます。

陽炎の門

下士上がりで執政に昇り詰めた桐谷主水。執政となり初登城した日から、忌まわしい事件が蒸し返され、人生は暗転する。己は友を見捨て出世した卑怯者なのか。自らの手で介錯した親友の息子が仇討ちに現れて窮地に陥る主水。事件の鍵となる不可解な落書の真相とは―武士の挫折と再生を切々と訴える傑作。(「BOOK」データベースより)

 

葉室麟らしい、侍の生き様を描く長編の時代小説です。

 

三十代も半ばの若さで藩の執政に登用されることになった桐谷主水は、かつて藩主親子を誹謗する内容の落書の筆跡を、友人であった芳村綱四郎のものと断定し、切腹させた過去を持っていた。

その後、芳村綱四郎の娘由布を妻とした主水だったが、由布の弟である喬四郎から仇打ちを果たすべく申し込まれる。

しかし時が経つにつれ、落書の筆跡は綱四郎であるとの主水の確信も、喬四郎が持っていた主水が綱四郎を陥れたとの密告書も、次第にその根拠を失いそうになるのだった。

 

葉室麟の他の作品でもストイックな主人公が描かれていますが、本書においても主人公の主水は、侍として自己に厳しく、友人を死に追いやった自分に疑問符を付きつけています。侍として嘘はつけず、筆跡を友人のものと断定したことは正しかったとしても、ひとりの人間として見た場合、他に取るべき方途は本当に無かったのか、自らの行いを問うているのです。

全ては、落書、密告書を書いたのは誰か、という謎に向かって話はすすみ、物語は20年前の夏に起きた「後世河原の騒動」に収れんされて行きます。

 

特に意識しないでも何となく犯人の見当はついてくることもあり、ミステリーとして良い出来なのかは分かりません。しかし、時代小説としては相当なものだと思います。

ただ、物語の流れは、落書の書き手は誰なのか、などの謎の解明に割かれていき、私の好みからは少々遠ざかっていきました。

侍としての桐谷主水の生き方をもう少し突き詰めて描いてほしい、と思ったのです。主水が、筆跡を綱四郎のものと断じた自らの行為についての心の葛藤をそれなりに描写してはありますが、半端になった感じがしました。

 

とはいえ、さすがの葉室麟作品です。読み応えがありました。

蜩ノ記 [ DVD ]

『雨あがる』の小泉堯史監督が葉室麟の時代小説を映画化。ある罪で10年後の切腹を命じられた戸田秋谷。その切腹の日まで秋谷を監視せよとの藩命受けた檀野庄三郎は、秋谷の家族と生活を共にし始める。役所広司、岡田准一、堀北真希、原田美枝子が共演。(「キネマ旬報社」データベースより)

檀野庄三郎を演じた岡田准一は本作での演技が評価され、第38回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞しました。

監督は『雨あがる』『博士の愛した数式』の小泉堯史監督で、丁寧な詩画を作られる人だという印象があります。

役所広治の演技はさすがであり、静謐な原作の雰囲気を丁寧に再現してある、み応えのある映画でした。

この君なくば

伍代藩士の楠瀬譲と栞は互いに引かれ合う仲だが、譲は藩主の密命を帯びて京の政情を探ることとなる。やがて栞の前には譲に思いを寄せる気丈な女性・五十鈴が現れて……。
激動の幕末維新を背景に、懸命に生きる男女の清冽な想いを描く傑作長編時代小説。( Amazon「内容紹介」より )

 

地方の小藩で、明治維新という時代の流れに流されつつも、互いを想いやる、ある武士と娘との恋物語を葉室麟らしい格調高い文章で語っている物語です。

 

九州の日向にある伍代藩に住まう民間の漢学者である桧垣鉄斎の娘栞(しおり)と楠瀬譲(くすせゆずる)という軽格の武士の二人は、密かに想い合う仲でした。

しかし、譲は伍代藩の藩主忠継に重用され、次第に藩政に深くかかわるようになり、和歌の添削を受けるために通っていた桧垣鉄斎の住居である此君堂(しくんどう)に訪れることもできなくなっていきます。

鉄斎の死後、此君堂で栞が鉄斎の後を継いで和歌を教え始め、そこに譲が再び和歌の添削を受けに通い始めます。しかし、やはり何かと周りの眼はやかましく、更に譲は大阪の藩邸に詰めることになるのです。

 

どうしても直木賞受賞作である「蜩の記」と比べてしまい、戸田秋谷というひとりの武士の生き様に焦点を当てて書かれている『蜩の記』に対して、栞と譲という二人に焦点があっている本書はまとまりが無いように感じてしまいます。

また、『蜩の記』で感じた全編を貫く清冽な印象もまた本書では感じられませんが、本書は時代の中での二人の恋が主題であり、武士の生きざまは副次的なものでしょうから、それは当然のことなのでしょう。

 

とはいえ、本書はやはり 葉室麟の作品であり、格調のある文体と共に示される漢学の素養とも合わせて、やはり面白い小説です。

 

和歌を絡ませている恋物語としては、先般直木賞を受賞した 朝井まかての『恋歌』があります。

 

 

残念ながら小説の出来としては『恋歌』に軍配が上がるとしても、結局は本書も時代に翻弄される二人の行く末に対する関心から引き込まれて読み進めました。

 

蛇足ではありますが、タイトルの「この君なくば」の「この君」とは竹のことであり、「何ぞ一日も此の君無かるべけんや」という「『晋書』王徽之伝」の中にある言葉だそうで、桧垣鉄斎の住居である此君堂もここからとっているということです。

月神

明治十三年、福岡藩士出身の月形潔は、集治監建設のため横浜港から汽船で北海道へと向かった。その旅のさなか、亡き従兄弟の月形洗蔵を想った。尊王攘夷派の中心となり、福岡藩を尊攘派として立ち上がらせようとしていた洗蔵。だが、藩主・黒田長溥は、尊攘派の台頭を苦々しく思っており、洗蔵は維新の直前に刑死した。時は過ぎ、自分は今、新政府の命令によって動いている。尊敬していた洗蔵が、今の自分を見たらどう思うのか?激動の明治維新の中で国を思い、信念をかけて戦った武士たちを描く、傑作歴史小説!(「BOOK」データベースより)

本書は前半と後半で異なる物語が語られます。

前半は明治維新時の福岡藩に実在した、同じ葉室麟の作品である『春風伝』にその名前が出てきた月形洗蔵という人の物語であり、後半は月形洗蔵の従兄弟である月形潔の明治期における北海道での樺戸集治監での物語です。

そして、明治維新という波を地方の小藩から見た物語です。今まで良く知らなかった薩長同盟の実質的な立役者月形洗蔵、その月形洗蔵を反発しながらも動かしていた福岡藩の藩主黒田長溥等々の人々が語られているのは実に興味深い物語でした。明治維新という時代の変革に振り回される小藩の様子が良く描かれていたのではないでしょうか

当時のダイナミックな時代の動きは単純に個人の力だけでは動かないのだと、当り前のことですが、改めて思い知りました。

ただ、出来ればこの月形洗蔵の話で一冊の物語を読みたいと思いました。結局、後半の月形潔の物語までも少々中途半端に感じたのです。

潔は時代を照らす月の光たらんとするも、集治監の所長として過酷な環境下で囚人たちに対し厳罰で臨まなければならない現実との相克に悩み続けますが、脇の人物の配置など、葉室麟という作家にしては少々雑な感じがしたのは残念でした。

蜩の記」「銀漢の賦」のような葉室麟ならばこそという物語を読みたいと思います。

春風伝

長州藩士・高杉晋作。本名・春風。攘夷か開国か。国論二分する幕末に、上海に渡った晋作は、欧米列強に蹂躙される民衆の姿を目の当りにし、「革命」に思い至る。激しい気性ゆえに脱藩、蟄居、閉門を繰返しながらも常に最前線で藩の窮地を救ってきた男は、日本の未来を見据え遂に幕府に挑む。己を信じ激動の時代を駆け抜けた二十八年の濃密な生涯を壮大なスケールで描く本格歴史小説。(「BOOK」データベースより)

 

その高名については改めて言うまでもない高杉晋作の生涯を描いた長編の時代小説です。

 

結論から言うと、個人的には今一つの印象でした。特に中国行きの場面はコミックの「おゝい竜馬」を思い出してしまいました。もしかしたら、この本全体の印象も、このコミックの印象に引きずられたのかもしれません。

 

 

そうした不満はありながらも、特に後半の晋作が歴史の表舞台に飛び出してからの展開などはかなり面白く、引き込まれました。

私が知らないだけかもしれませんが、薩長同盟の最初の提唱者が月形洗蔵という人物であることなど、この手の歴史小説では初めて明記してあったのではないでしょうか。この月形洗蔵については別に「月神」という作品で詳細に描写してあります。

 

 

これは葉室麟という作家に限らずの話ですが、どうも私は、歴史小説での詳細過ぎる歴史的事実の摘示は逆に物語としての興を殺ぐと感じてしまうようです。

例えば、同じく葉室麟の、武士として生きるということ、人を想うということの意味を突き詰めた作品である『いのちなりけり』という作品でもやはり情報量が多すぎすると感じたように、私は作者の自由な発想をこそ好むようです。

 

 

ですから、本書『春風伝』にしても、『いのちなりけり』にしても、歴史が好きで詳細な事実までをも知りたい人などにはかなり面白いと思える小説ではないでしょうか。

葉室麟の今後の歴史小説にも期待してみたいものです。

川あかり

コミカルな味付けですが正統派の時代小説です。

川止めで途方に暮れている若侍、伊東七十郎。藩で一番の臆病者と言われる彼が命じられたのは、派閥争いの渦中にある家老の暗殺。家老が江戸から国に入る前を討つ。相手はすでに対岸まで来ているはずだ。木賃宿に逗留し川明けを待つ間、相部屋となったのは一癖も二癖もある連中ばかりで油断がならない。さらには降って湧いたような災難までつづき、気弱な七十郎の心は千々に乱れる。そして、その時がやってきた―。武士として生きることの覚悟と矜持が胸を打つ、涙と笑いの傑作時代小説。(「BOOK」データベースより)

藩で一番の臆病者とされる主人公の伊東七十郎は、専横を極める藩の重鎮への刺客として選ばれます。しかし川止めにあい、暗殺すべき相手を木賃宿で待つ間、うさんくさいその同宿の百姓や旅人達の話を聞くうちに、自らの使命を明かしてしまいます。

そして、川止めが開け、狙いとする相手が現れますが、七十郎は意外な行動に出るのでした。

臆病な若者が主人公でなんの取り柄もないという設定は、実にありがちな設定で、読んでいくうちにあらすじが何となく見えてくるほどです。しかし、それでもあまり不快感を感じずに最後まで読み通してしまいました。

どちらかといえば、物語の面白さというよりもこの作者はどのように決着をつけるのだろうか、という気持ちの方が強かったように思います。 藤沢周平の作品ような余韻は感じず、また、 山本周五郎の『深川安楽亭』という作品で感じたような一場面ものの感動も残念ながらありませんでした。

しかし、時間をおいてあらためて思い起こしてみると、余韻が無いという感想は、読み手である私の直木賞作家の重厚な作品という先入観から来る勝手な思い込みであって、全体的に見ればそれこそが作者の狙いだったのかもしれないと思うようになりました。

事実、ベタな設定ではあっても爽やか読後感は残ります。他に葉室麟の何冊かの作品を読んだ後では、逆に本書は葉室凛という作者にしては軽めの作品として位置づけられると思うようになってきたのです。

また、葉室麟の作品群の中で、本書のようにユーモラスな味を持った作品はそうは無く、私が読んだ範囲では『あおなり道場始末』という作品があるくらいでしょうか。

そういう意味では貴重な作品と言えるのかもしれません。