芸者をやめたお文は、伊三次の長屋で念願の女房暮らしを始めるが、どこか気持ちが心許ない。そんな時、顔見知りの子供が犠牲になるむごい事件が起きて―。掏摸の直次郎は足を洗い、伊三次には弟子が出来る。そしてお文の中にも新しい命が。江戸の季節とともに人の生活も遷り変わる、人気捕物帖シリーズ第四弾。(「BOOK」データベースより)
髪結い伊三次捕物余話シリーズの四作目です。
「鬼の通る道」 不破友之進の十二歳になる息子龍之介は近頃、いなみの方針で小泉翆湖という儒者が開いている私塾で素読吟味に向けた勉強をしていた。ところが、その竜之進が熱を出し、塾通いができなくなっていると聞いた。
「爪紅」 お文のことを考えながら永代橋を渡っていた伊三次は、かつて贔屓の客で今はつぶれてしまった廻船問屋播磨屋の内儀・喜和の娘のお佐和と出会った。爪紅を刺した娘が相次いで死ぬ事件を追っていた伊三次は、お喜和がやっているという小間物屋をのぞいてみる。
「さんだらぼっち」 辰巳芸者のお文は、茅場町の木戸番夫婦の駄菓子を売っている店で一人の侍とその幼い娘と知り合った。また、お文は伊三次の長屋近くに住むお千代という子の夜泣きのため眠れないでいた。
「ほがらほがらと照る陽射し」 前話で長屋にいられなくなる事件を起こしてしまったお文は日本橋で芸者を始めていた。一方、お喜和の見世に寄った伊三次は掏摸の直次郎という男と出会う。お佐和に惚れたというのだった。
「時雨てよ」 いよいよ広いが古さの目立つ佐内町の家へと移った伊三次とお文の生活が始まった。そこに、九兵衛という小僧の頭を結うことになり、ついでに弟子として雇うことになった。また、おみつは子が流れたものの、お文に懐妊の兆しが見えるのだった。
「鬼の通る道」は、まだ少年の龍之進の抱えた鬱屈と、その秘密に気付いた伊三次の話です。少年の繊細な心を大切にしながらも伊三次はどう動くのか、気になる一編です。
「爪紅」は、捕物帳としての側面が強い物語です。でありながら、やはり伊三次の過去の話が深く絡んできます。やはり本作品は“捕物余話”だと思わされる話でした。
「さんだらぼっち」は、「心の中を風が吹き抜けて行くような空しさに襲われる
」こともあるお文の、幼子に対する思いを思わせる哀しい話です。いなみの懐妊もあり、いまだ子のない自らを思うのでしょうか。
伊三次と一緒になったお文の、芸者をやめてからの普通のおかみさんとしての生活もまた描かれています。ただ、それまで芸者として生きてきたお文の生きざまはそんなに簡単に変えれるものではないでしょう。
ここで「さんだらぼっちは米俵の両端に当てる藁の蓋のことである。桟俵法師が訛ったものだ
」そうです。
「ほがらほがらと照る陽射し」は、お文の、早苗という女の子に対する思いがあのような事件を起こしたことを知った伊三次は新しい家に移ることを本気で考えます。と同時に、直次郎という男のお佐和に対する純情が胸を打つ一編になっています。
「時雨てよ」は、二人の新しい生活が始まったのはいいのですが、何かと物入りで稼がなければなりません。そこにお文の懐妊です。これからの二人の生活は明るいものだとの兆しのようでもあり、多難な前途を支援すようでもあります。
でも、赤ちゃんの誕生が難儀な出来事の前兆ということもないでしょうし、九兵衛という新人の登場もあり、新しい未来の始まりということになるのでしょう。
著者自身の「文庫のためのあとがき」によれば、著者はまずタイトルを決めてから小説を書き始めるそうです。タイトルを後回しにすると焦点がぼやけてしまうことが多い、とも書いてありました。
これはつまりはタイトルに著者の書きたいことが著されているということでしょうか。
また、この「あとがき」には、意外な事実も書いてありました。
それは、「時雨てよ」というタイトルに関してのことで、このタイトルは「時雨てよ 足元が歪むほどに」という海童という破調の俳句からの引用だというのです。そして、この海童という俳号は女優の故夏目雅子氏だというのでした。
また「余寒の雪」というタイトルも「富士の山 余寒の雪の 目にしみて」からの引用だとありました。