無敵の犬の夜

無敵の犬の夜』とは

 

本書『無敵の犬の夜』は、2023年11月に148頁のハードカバーで河出書房新社から刊行された長編の文芸小説です。

惹句を一覧してエンターテイメント小説と思い読んだ私の思いとは異なり、文藝賞という純文学作品に与えられる賞の受賞作であり、今一つ私の理解が及ばない作品でした。

 

無敵の犬の夜』の簡単なあらすじ

 

北九州の片田舎。幼少期に右手の小指と薬指の半分を失った中学生の界は、学校へ行かず、地元の不良グループとファミレスでたむろする日々。その中で出会った「バリイケとる」男・橘さんに強烈に心酔していく。ある日、東京のラッパーとトラブルを起こしたという橘さんのため、ひとり東京へ向かうことを決意するがー。どこまでも無謀でいつまでも終われない、行き場のない熱を抱えた少年の切実なる暴走劇!第60回文藝賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

 

無敵の犬の夜』の感想

 

本書『無敵の犬の夜』は、第60回文藝賞受賞作です。つまり、当サイトが対象としているエンターテイメント小説ではありませんでした。

そもそも、本書を知ったのは「王様のブランチ」のBOOKコーナーでの作家インタビューにとうじょうしていた著者の小泉綾子を見たときであり、そのときは本書の内容にはそれほど関心はありませんでした。

その後、Amazonの『無敵の犬の夜』の頁に「任侠映画×少年漫画」などとあって、どう考えてもエンターテイメント小説としか思えないものだったことから読んでみようと思ったのです。

もちろん、そこには大きく「文藝賞受賞作」と示してあったのですから、「文藝賞」が純文学作品に与えられる文学賞だということを知らなかった私が間違っただけのことです。

 

本書の内容は上記の「簡単なあらすじ」に書いてあることに尽き、それ以上のものではありません。

そして本書の印象としては、主人公のが東京に殴り込みに行くその少し前のあたりまでは、単純に世の中に対する不満しかない少年の、暴力に対する妄想をそのまま言語化した作品だというものでした。

角田光代氏や島本理生氏といった著名な作家たちが本書を絶賛する理由が全く分からなかったのです。

 

とにかく最初は、その時の感情にまかせて先行きのことなど何も考えずに突っ走る界の行動が、自分の少年の頃を考えても理解できるものではありませんでした。

界の無鉄砲さはとどまるところを知らず、自分から破滅へと向かっているようにしか思えず、こうした主人公を描くことの意味がよく理解できなかったのです。

 

この物語の終わり方にしても、作者自身が「負けを認めないために目標のハードルをどんどん下げて、まやかしの勝利を手にしてこれでよしとする」という終わり方が良いと思う、と書いておられましたが( Book Bang : 参照 )、物語を終わらせるために勝利の意味を変えることの意義もまた理解できませんでした。

本書『無敵の犬の夜』の惹句に、意識されている「絶望と意識されない絶望が、絶妙に描き出されている」と書かれているのは角田光代氏であり、「人を殺したくなるほど肥大する」思春期の葛藤の「切実さが丁寧に描かれている」と書いているのは島本理生氏です。

こうした思春期の思いつめた絶望を丁寧に描き出されている点が評価されている思うのですが、そうした文学的な評価がよくわかりません。

主人公の界の単純さ、それも思慮の浅い無鉄砲の描写の何が評価の対象になるのでしょう。

 

しかし、本書も終盤になると、それまで乱暴な言葉の羅列としか思えていなかった本作品が、妙に気になってきました。

それまでの私の本書に対する印象が覆されてくる様子は、私の小説の読み方否定するかのようであり、読書に対する自信が失われていく過程でもありました。

何が原因でそのように感じたのか、今でもよく分かりません。

ただ、無鉄砲なその行動は、その時点の感情でしか動いていないというそのことに惹かれていったように思えます。つまりは何の打算も無いということでしょうか。

 

結局、現時点まで本書『無敵の犬の夜』が多くの作家たちから支持される理由はよく分からないのですが、単純な暴力への渇望というだけではない、少年の直情的な行動の描き方自体がが評価されていると思っています。

それにしても、よく分からない作品でした。

父がしたこと

父がしたこと』とは

本書『父がしたこと』は、2023年12月に256頁のハードカバーでKADOKAWAから刊行された長編の時代小説です。

青山文平という作家は、新刊が出るたびに前著を越える作品を提供してくれる作家さんであり、本書もその例にもれず実に面白く、感動的な作品でした。

 

父がしたこと』の簡単なあらすじ

 

目付の永井重彰は、父で小納戸頭取の元重から御藩主の病状を告げられる。居並ぶ漢方の藩医の面々を差し置いて、手術を依頼されたのは在村医の向坂清庵。向坂は麻沸湯による全身麻酔を使った華岡流外科の名医で、重彰にとっては、生後間もない息子・拡の命を救ってくれた恩人でもあった。御藩主の手術に万が一のことが起これば、向坂の立場は危うくなる。そこで、元重は執刀する医師の名前を伏せ、手術を秘密裡に行う計画を立てるが……。御藩主の手術をきっかけに、譜代筆頭・永井家の運命が大きく動き出す。(内容紹介(出版社より))

 

父がしたこと』の感想

 

本書『父がしたこと』は、本書の「武士が護るべきは主君か、家族か」という惹句にそのテーマが端的に表現されています。

これまでも青山文平の作品では主君に忠実に生きる侍の生きざまが描いてありましたが、本書でもまた侍の生きる姿が描かれています。

ただ、本書が特殊なのは、侍の生きる姿と同時に家族の大切さが描かれていることに加え、さらに医療のあり方をも問うている感動作であることです。

 

本書の独特な表現として挙げていいと思うのは、舞台となる藩の名前や場所などの藩に関する具合的な情報は殆ど示してない点と、藩主の名前は明記せずに御藩主としか示してないことです。

でも、主役である永井家として元重登志夫婦とその子の重彰佐江夫婦とその子のについては詳細に描き出してあります。

本書の主人公永井重彰は役職が目付であり、父親は小納戸頭取であって御藩主の身近にいてその世話を一身に執り行っている、などの詳しい説明がなされているのです。

 

また、名前も明らかにされていない御藩主や、名医と言われる向坂清庵についてもその人となりについてはそれなりに頁数を費やしてあります。

重要なのは中心となる永井家の人々であって個々人の特定は必要ですが、永井家が尽くすべき藩主は藩に一人しかおらず御藩主というその地位にいる人物が重要なのだということでしょう。

また向坂清庵という名の医者にしても、藩内に多数存在する医者を名乗るものの中でも向坂清庵という名医が重要だから明記してあると思われるのです。

その上で、本書では物語の中心となる永井一家と御藩主それに名医の向坂清庵以外は登場しないと言い切ってもいいほどに誰も登場しません。

 

当初、本書の「父がしたこと」というタイトルからして、本書の主題は侍のあり方、つまり主君のために尽くすか、それとも家族のため生きるかが問われる父の姿が描かれている物語だと思っていました。

ところが読み進めるうちに永井重彰の子の拡の生まれつきの病に関連した医療関係の描写に重きが置かれており、単にこれまでのような侍の生き方を正面から問う作品とは違いそうだと思えてきたのです。

しかしながら、ネタバレになるので詳しくは書けませんが、主君に尽すことを本分とする侍の生き方を描いてきた青山文平の作品である本書は、やはり本分を尽くした侍の物語でした。

そこに、医療の本質を絡めた感動の物語として仕上がっていたのです。

 

本書『父がしたこと』ではその冒頭から重要な登場人物である向坂清庵という名医についての描写から始まります。

物語の中心となる、向坂清庵医師に御藩主の治療を依頼した件についての永井重彰とその父親の元重との会話に関連して向坂清庵についての人物紹介が始まるのです。

その際の話の中で、『蔵志』や『瘍科秘録』などの具体的な書物名と共に当時の華岡流外科の説明が為されます。

その話の流れは、そのまま前作『本売る日々』で紹介されていた実在の書物名が取り上げられ語られた流れそのままでした。

もしかして、前作で詳しく調べられた書物の中にあった医療関係の書物から本書のアイデアを得られたのではないかと思ったほどです。

そういう意味では本書は前作『本売る日々』の続編的な位置にある作品かもしれないなどと思ったものです。

しかし物語としては関係のないものでした。

ただ、前作での、民間における「地域の文化の核にもなっていた」( 本の話 : 参照 )名主らの物語に対する「官」側の核の話だということができるかもしれません。

同時に、前作『本売る日々』で描かれていた佐野淇一という村医者の話が本書に結びついているとも言えそうです。

 

 

それはさておき、本書は侍の物語であると同時に医療小説でもあるという珍しい作品で、江戸時代末期で行われた二件の外科手術、即ち「痔漏」と「鎖肛」という手術を華岡青洲の流れを汲む向坂清庵という名医が執行する話が中心になっています。

つまり、藩主の痔ろうと息子の閉ざされた肛門の新設ついて外科処置を施す話であって、蘭方の外科医による処置を手順まで詳しく描写するというこれまでにない蘭方医の描き方が為されているのです。

医学の歴史にも言及することで、本書の主題となる侍のあり方、主君のために尽くすのか、家族のため生きるのかという問いの背景を堅実なものとして、侍の生き方についての問い掛けを明確にするという効果を期待しているのでしょう。

 

同時に、本書で見るべきは御藩主や重彰の子の拡の病に関連しての永井親子の関わり方だけではなく、永井重彰の妻佐江とその母登志の侍の妻としてのあり方もまた見どころの一つとなっています。

御藩主に尽す永井元重、重彰親子の姿に焦点が当たるのは当然のことですが、永井親子の妻たちの姿も現代に生きる一人の人間の姿としてもあてはまるものだと思えたのです。

こうした妻の姿を通して、夫である侍たちが主君のために尽すことができたのだと、あらためて感じ入ったものです。

 

読後に調べていると、この「鎖肛」という名前は華岡青洲がつけたものであり、華岡青洲の医業であったとの記載がありました。

同じ頁には「数多の資料から説得力ある心の動きを抽出できるのは時代小説の強みです」との言葉もありましたし、母親の登志についても「武家の妻らしい肝の据わり具合を見せる彼女は、唯々諾々と慣習に従うようなこともない」と記してあります( カドブン: 参照 )

やはり、この作家の作品にはずれはなく、作品ごとに新たな感動をもたらしてくれる素晴らしい作家さんだと恐れ入るしかない作品でした。

ぎんなみ商店街の事件簿 BROTHER編 SISTER編


ぎんなみ商店街の事件簿 BROTHER編』とは

 

本書『ぎんなみ商店街の事件簿 BROTHER編』は、両書共に2023年9月に256頁のソフトカバーで小学館から刊行された長編の推理小説です。

 

ぎんなみ商店街の事件簿 BROTHER編』の簡単なあらすじ

 

史上初! ひとつの事件にふたつの真実

古き良き商店街で起きた不穏な事件。探偵役は四兄弟と三姉妹、事件と手がかりは同じなのに展開する推理は全く違う!? 〈Sister編〉との「両面読み」がおすすめです!
ぎんなみ商店街近くに住む元太・福太・学太・良太の兄弟。母は早くに亡くなり父は海外赴任中だ。ある日、馴染みの商店に車が突っ込む事故が起きる。運転手は衝撃で焼き鳥の串が喉に刺さり即死した。事故の目撃者は末っ子で小学生の良太。だが福太と学太は良太の証言に違和感を覚えた。弟は何かを隠している? 二人は調査に乗り出すことに(第一話「桜幽霊とシェパーズ・パイ」)。
中学校で手作りの楽器が壊される事件が発生。現場には墨汁がぶちまけられ焼き鳥の串が「井」の字に置かれていた。学太の所属する書道部に犯人がいるのではと疑われ、兄弟は真実を探るべく聞き込みに回る(第二話「宝石泥棒と幸福の王子」)。
商店街主催の「ミステリーグルメツアー」に随行し、長男で料理人の元太は家を空けている。学太が偶然脅迫状らしきものの断片を見つけたことから、元太が誘拐事件にかかわっている可能性が浮上。台風のなか兄の足跡を追う福太たちに、ある人物が迫る!(第三話「親子喧嘩と注文の多い料理店」)(内容紹介(出版社より))

新・読書体験。驚愕のパラレルミステリー!

古き良き商店街で起きた不穏な事件。探偵役は三姉妹と四兄弟、事件と手がかりは同じなのに展開する推理は全く違う!? 〈Brother編〉との「両面読み」がおすすめです!
ぎんなみ商店街に店を構える焼き鳥店「串真佐」の三姉妹、佐々美、都久音、桃。ある日、近所の商店に車が突っ込む事故が発生した。運転手は衝撃で焼き鳥の串が喉に刺さり即死。詮索好きの友人を止めるため、都久音は捜査に乗り出す。まずは事故現場で目撃された謎の人物を捜すことに。(第一話「だから都久音は嘘をつかない」)
交通事故に隠された謎を解いた三姉妹に捜査の依頼が。地元の中学校で起きた器物損壊事件の犯人を捜してほしいというものだ。現場には墨汁がぶちまけられ、焼き鳥の串が「井」の字に置かれていた。これは犯人を示すメッセージなのか、それとも……?(第二話「だから都久音は押し付けない」)
「ミステリーグルメツアーに行く」と言って出掛けた佐々美が行方不明に!? すわ誘拐、と慌てる都久音は偶然作りかけの脅迫状を見つけてしまう。台風のなか、姉の足跡を追う二人に、商店街のドンこと神山が迫るーー。(第三話「だから都久音は心配しない」)(内容紹介(出版社より))

 

ぎんなみ商店街の事件簿 BROTHER編』の感想

 

本『ぎんなみ商店街の事件簿』の『BROTHER編』と『SISTER編』という作品は、発生した同じ事件を両編それぞれに異なる探偵役が調査し、結果的として内容の異なる二つの真実を見つけるという独特な構成のミステリー小説です。

つまりは本書『ぎんなみ商店街の事件簿』は、『BROTHER編』『SISTER編』という二冊の姉妹編を読み終えて初めて作品としての評価ができるような物語だと言えます。

私は『ぎんなみ商店街の事件簿 BROTHER編』を最初に読んだのですが、ぎんなみ商店街で起きるいろいろな事件の謎を、料理人の元太を長男とする福太学太良太という四兄弟が探偵役として解決する物語として、単品だけでも面白い作品でした。

同じことは姉妹編の『SISTER編』についても言え、ただ探偵役が内山家の佐々美都久音という三姉妹に代わっている点が異なるだけです。

 

両書で起きる事件は「ぎんなみ商店街で起きた交通事故」、「中学校で手作り楽器が壊された事件」、「発見された脅迫状から推測される誘拐らしき事件」の三件であって、普通の推理小説で起きる殺人事件などではありません。

そして、両方の作品で起きる事件は同じものですが、ただそれぞれの作品において起きた事実の持つ意味が異なってくるのであり、見つけるべき真実も異なっています。

客観的な事実は同じでありながら、関わる当事者ごとに見るべき視点をずらし、取り上げる事実も異なることでその先にあり発見されるべき真実も異なるものになります。

 

両方を読み終えてみると、確かに起きる事件は一つです。

その上で各事件の背後には登場人物の家族や友人関係があり、それぞれの関係性が複雑に絡んでいて、それらを背景にした真相がきちんと構築されていいるのです。

そうした構成、つまり『BROTHER編』と『SISTER編』とで起きる事実を同じくしながら矛盾なく意味を持たせる、という作業がどれほど困難さは素人でも分かります。

ここでの二冊はそうした困難な作業を乗り越えて、両編それぞれで破綻することなく評価の高いミステリーとして仕上げてあるのです。

 

登場人物たち、それぞれの兄弟姉妹の個性はうまく書き分けられており、軽いユーモアも散りばめられていて読みやすく、それなりに読み通すことがきついなどということはありません。

兄弟姉妹の仲の良さは読んでいても心地よく、当然ですが商店街の各店の登場人物も共通でありながら問題解決に同じような役割を果たしている点もまた読みやすい構成です。

それぞれの兄弟姉妹の抱える問題もユーモラスな面もあり、小暮家、内山家の家族の内情も面白く描かれていて好感が持てます。

さらには、小暮家、内山家が互いに相手の担当する巻に少しずつ登場してそれなりの役割を果たしたりと両編の繋がりにも配慮を見せてあります。

 

しかしながら、綜合的にみると個人的には決して好みの作品とは言えませんでした。

上記のようなうまい作りを見せてありながら、違和感を感じ感情移入できないのは何故かというと、探偵役となる両家の兄弟姉妹のうちの一人が中心的な存在となっていて最終的なひらめきを見せていること、頭脳役の担当はその弟なり妹なりが控えていること、などの構造が同じだということでしょう。

でも、違和感の正体はそうしたことに加え、なによりも両編での小暮家兄弟、内山家姉妹が物語の中から浮いて見えるという点にあると思います。

個人的に、この町でミステリーの探偵役として動き回る両兄弟姉妹に不自然さを感じてしまったようで、こればかりは個人的な好みの問題なのでどうしようもないことだと思われます。

この点を除けば非常に考えられた面白い作品だと言え、一読する価値はあると思わる作品でした。

エヴァーグリーン・ゲーム

エヴァーグリーン・ゲーム』とは

 

本書『エヴァーグリーン・ゲーム』は、2023年11月に364頁のソフトカバーでポプラ社から刊行され、第12回ポプラ社小説新人賞を受賞した長編のエンターテイメント小説です。

わが国ではメジャーとは言えないチェスというゲームをテーマにした物語で、大変興味深く読んだ作品でした。

 

エヴァーグリーン・ゲーム』の簡単なあらすじ

 

【選考委員、絶賛の嵐! 第12回ポプラ社小説新人賞受賞作!!】
世界有数の頭脳スポーツであるチェスと出会い、その面白さに魅入られた4人の若者たち。
64マスの盤上で、命を懸けた闘いが繰り広げられるーー!

「勝つために治せよ、絶対に」
小学生の透は、難病で入院生活を送っており、行きたかった遠足はもちろん、学校にも行けず癇癪を起してしまう。そんなとき、小児病棟でチェスに没頭する輝と出会うーー。
<年齢より才能より、大事なものがある。もうわかってるだろ?>
チェス部の実力者である高校生の晴紀だが、マイナー競技ゆえにプロを目指すかどうか悩んでいた。ある日、部長のルイに誘われた合コンで、昔好きだった女の子と再会し……?
「人生を賭けて、ママに復讐してやろう。」
全盲の少女・冴理は、母からピアノのレッスンを強要される日々。しかし盲学校の保健室の先生に偶然すすめられたチェスにハマってしまいーー。
「俺はただ、チェスを指すこの一瞬のために、生きている。」
天涯孤独の釣崎は、少年院を出たのち単身アメリカへわたる。マフィアのドンとチェスの勝負することになり……!?

そして、彼らは己の全てをかけて、チェスプレイヤー日本一を決めるチェスワングランプリに挑むことに。
チェスと人生がドラマティックに交錯する、熱い感動のエンターテイメント作!(内容紹介(出版社より))

 

エヴァーグリーン・ゲーム』の感想

 

本書『エヴァーグリーン・ゲーム』は、チェスというボードゲームをテーマにした、第12回ポプラ社小説新人賞を受賞した小説です。

チェスというゲームについては、将棋がゲームの中で獲った駒を自身の手駒として使うことができるのに対して、チェスの場合はゲームから退場してしまうということを聞いたことがあります。

ほかにはキングやクイーン、そしてポーンという駒の名前を聞いたことがあるくらいで、駒の動きすらも知らないというのが正直なところです。

 

本書はそのチェスというボードゲームに魅せられて自分の人生をチェスに捧げ、「チェスワングランプリ」という日本一のチェスプレイヤーを決める大会に出場する四人の物語です。

基本的に、チェスをテーマにした作品としてはとてもよくできたエンターテイメント小説だと思います。

しかし、日本一を決める大会の出場者のトップの四人の人生が互いにすでに何らかのかかわりを持っていたという点は違和感を感じました。

でも、彼らの人生がそのどこかの場面で少なからず交錯しているという点は、エンターテイメント小説としては仕方のないことであり許容範囲というべきだとの思いもあります。

こうした設定こそがエンターテイメント小説を盛り上げるのであり、過度なリアリティーの追及は作家の想像力に縛りを掛けてしまうものでしょう。

 

そうした疑問を除けば、本書『エヴァーグリーン・ゲーム』はチェスというゲームに魅せられた人たちを主人公にした面白い作品でした。

先に書いたこととは矛盾するようもでありますが、登場人物たちもそれぞれに個性豊かです。

病を抱えた少年、チェスのできる喫茶店の経営者、その店で腕を磨いた目の見えない娘、そして裏社会との関係が疑われている傍若無人な態度の男という四人です。

それぞれに人生の生きがいをチェスというゲームに求め、トップに立つことを目標としているのです。

 

ほとんどの読者はチェスというゲームを知らず、その点は作者にとって大きなハンディだと思います。

でも、チェスというゲームを知らなくても本書を読むのに不都合はないという点は作者のうまいところでしょう。

ただ、作者も作中で述べられているように、チェスには引き分けが多いという点が分かりにくいゲームになっているとも言えそうです。

この点に関しては、作中で「ステイルメイト」という言葉について「相手を追い詰めていく過程で起こる、強制的な引き分けのこと」という説明がされてありました。

「チェスの精神として、自殺でゲームが終わるのはよくない」ということなのだそうです。

ただこの点の説明だけでは私にとっては若干分かりにくいので、例えば下記サイトなどを参照してください。

 

その他、将棋では「きまった指し方」である定跡や、攻めや守りの型があるそうですが、チェスにもいろいろな定跡があり、「シシリアンディフェンス・ドラゴンバリエーション」や「アクセラレイテッド・ロンドンシステム」などの名前が当初から出てきます。

もちろん、そうした定跡の説明があってもチェスの素人である読者に理解できるはずもなく、ただ名前だけが挙げてありますが、チェスというゲームの雰囲気を盛り上げるには効果的でしょう。

 

本書『エヴァーグリーン・ゲーム』では、こうしたチェスというゲームの特性を織り交ぜながら、チェスに魅せられた四人の人生が語られていきます。

ラストは、若干出来すぎの印象もありますが、それでも面白く読み終えることができました。

個々人の人生に光をもたらし、生きる目的を持たせてくれたチェスというゲーム。そのゲームで頂点に立つべく奮闘する四人の物語は予想外に読みがいのある作品でした。

奔れ、空也 空也十番勝負(十)

奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』とは

 

本書『奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』は『空也十番勝負シリーズ』の第十弾で、文春文庫から2023年5月に文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

このシリーズ最終巻となる本書ですが、この作者の近時の他の作品と同様に、何となくの物足りなさを感じた作品でした。

 

奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』の簡単なあらすじ

 

京の袋物問屋の隠居・又兵衛と知り合った空也は、大和国室生寺に向かう一行と同道することになった。途中、柳生新陰流正木坂道場で稽古に加わるのだが、次第にその有り様に違和感を抱く。一方、空也との真剣勝負を望む佐伯彦次郎が密かに動向を探っていた。空也の帰還を待ちわびる人々の想いは通じるか、そして勝負の行方は!?(「BOOK」データベースより)

 

奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』の感想

 

本書『奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』は『空也十番勝負シリーズ』の第十弾で、いよいよこの物語も終わりを迎えることになります。

つまり、『居眠り磐音シリーズ』全五十一巻に続いて、本『空也十番勝負シリーズ』も完結することになるのです。

ところが、本書の著者自身の「あとがき」で、八十一歳を超えた佐伯泰英氏自身が『磐根残日録』を書きたいとの思いがあると書いておられます。

本シリーズのファンとしては大いに喜ばしいことで、『居眠り磐音シリーズ』も未だ終わることなく続行すると思ってよさそうです。

 

ただ、著者佐伯泰英の近年の著作に関しては全般的に芝居がかってきた印象が強く、往年のキレが亡くなってきたように感じてなりません。

そんな印象を抱えたまま、本書『奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』を読むことになったのです。

 

いよいよ大和へと赴くことになる坂崎空也ですが、途中で知り合った京の袋物問屋の隠居の又兵衛に連れられて柳生道場へと向かうことになります。

そこで、旧態依然とした柳生剣法に違和感を抱き、ついに皆が待つ姥捨の山へと向かいますが、やはり途中で修行のために山にこもります。

その後、襲い来る薩摩の刺客を退け、最後の対決相手として用意されていた佐伯彦次郎との勝負に臨む空也でした。

 

こうして、前述したように痛快時代小説である『居眠り磐音シリーズ』の続編的な立場のシリーズ作品として始まった本『空也十番勝負シリーズ』も最終巻を迎えることになりました。

でありながら、先に述べたように物足りなさを感じてしまいました。

それは多分、空也の強さが予想以上のものになってしまったことにもあるのではないかと考えています。

その生活態度も含めて常人の域を超えたところで生きている空也は、もう普通の人間ではなく超人と化しているのです。

そしてその超人はいかなる問題が起こっても単身で剣一振りを抱えただけで敵役を倒して問題解決してしまい、他の人達の問題解決の努力も意味がないものとしてしまいます。

一般的な痛快時代小説ではスーパーマンすぎる人物はいらず、頭をそして肉体を使い共に苦労して涙しながら問題解決の方途を探ることこそが求められていると思います。

つまり、皆で力を合わせて努力し、そのひと隅に主人公の剣の力がある、という設定がいるのではないでしょうか。

 

他の剣豪小説でも、主人公は常人以上の努力をして名人と言われる域に達しているはずなのですが、本シリーズでの空也の場合、そうした名人たちの努力をも楽に超えているような印象を持ってしまったように思えます。

加えて、芝居がかった印象まで持っているのですから物語をそのままに楽しめないのも当然なのでしょう。

そうした印象を持ったのは私だけかもしれませんが、非常に残念です。

とはいえ、全く面白くなくなったのかといえばそうではなく、痛快時代小説としての面白さをそれなりに持っているので悩ましいのです。

今はただ、続巻を楽しみに待ちたいと思います。

襷がけの二人

襷がけの二人』とは

 

本書『襷がけの二人』は、2023年9月に368頁のハードカバーで文藝春秋から刊行された長編小説です。

二人の女性の、大正から昭和そして戦後の時代にわたる交流を描いた第170回直木賞候補となった作品で、読みごたえを感じた作品でした。

 

襷がけの二人』の簡単なあらすじ

 

裕福な家に嫁いだ千代と、その家の女中頭の初衣。
「家」から、そして「普通」から逸れてもそれぞれの道を行く。

「千代。お前、山田の茂一郎君のとこへ行くんでいいね」
親が定めた縁談で、製缶工場を営む山田家に嫁ぐことになった十九歳の千代。
実家よりも裕福な山田家には女中が二人おり、若奥様という立場に。
夫とはいまひとつ上手く関係を築けない千代だったが、
元芸者の女中頭、初衣との間には、仲間のような師弟のような絆が芽生える。

やがて戦火によって離れ離れになった二人だったが、
不思議な縁で、ふたたび巡りあうことに……

幸田文、有吉佐和子の流れを汲む、女の生き方を描いた感動作! 
第170回直木賞候補にノミネート。
再会 昭和二十四年(一九四九年)
嫁入 大正十五年(一九二六年)
噂話 昭和四年(一九二九年)
秘密 昭和七年(一九三二年)
身体 昭和八年(一九三三年)
戦禍 昭和十六年(一九四一年)
自立 昭和二十四年(一九四九年)
明日 昭和二十五年(一九五〇年)(内容紹介(出版社より))

 

襷がけの二人』の感想

 

本書『襷がけの二人』は、大正から昭和、そして戦後を生き抜いた二人の女性を描いた大河小説で、第170回直木賞の候補となった作品です。

上記の出版社の「内容紹介」を読むと「幸田文、有吉佐和子の流れを汲む、女の生き方を描いた」作品だとの説明があります。

幸田文も有吉佐和子も読んだことがない身には、その「流れ」と言われてもよく分からないのですが、「幸田文」に関しては本書の著者嶋津輝が自分と「幸田文」との関係について記した一文がありました( 本の話 : 参照 )。

『おとうと』などの作品で有名な「幸田文」は、父親である明治の文豪幸田露伴に家事をきびしく躾けられたそうで、柳橋の芸者置屋に住み込み女中として働いた際には近所で噂になるほどの有能さだったと言います。

 

 

一方、「有吉佐和子」については『華岡青洲の妻』や社会派と言われる『複合汚染』などの作品を残された方というほどの認識はありました。

ただ作家としてではなく、タモリの「笑っていいとも」というお昼のバラエティ番組の冒頭のコーナーに出た有吉佐和子が、「最後まで全部のコーナーをぶち壊して、1人でしゃべって帰っていった。」事件は衝撃的でよく覚えています。

 

 

結局のところ、文章が上手くてストーリーテラーとしての才能があった有吉佐和子と、「格調高くて目が離せない味わいがある」幸田文ということができるのかもしれません。

 

本書の時代背景が大正時代であることや、主人公が女中さんであることから思い出したのでしょうか、思い出したのが中島京子の『小さいおうち』という作品です。

この『小さいおうち』という作品もまた、まだ大正時代の香りを残していた時代を背景としていて、本書と同じく一人の女中さんの視点で語られる物語だったのす。

 

 

本書『襷がけの二人』を読んだ当初の印象としては、優しく品のある文章だということ、そして「粋」ということでした。

「粋」という印象は、主人公の女性が奉公することになった相手が三味線のお師匠さんであるところから来たのでしょう。

しかしながら、本書冒頭の「再会」の章で感じた本書に対する「粋」という印象は、次の「嫁入り」の章から修正されていきます。

本書で描かれているのは、「粋」とはかけ離れた「家」を第一義と考える当時の価値観のもとでの夫こそ絶対であり、嫁はその下で奉公人と共に家に尽くす存在であった嫁の姿です。

その上で、主人公の悩み、夫婦の障害が予想外のものだった、ところから印象が変化していったものと思われます。

 

私の印象はさておき本書では、大正時代から昭和へと時代は変わるなか、千代の嫁ぎ先である山田家での千代と女中頭のお初こと初衣、それに女中のお芳との楽し気な暮らしが描かれます。

このあたりの描き方は楽しげであり、読んでいてもほほ笑ましく感じたものです。

新郎の茂一郎は寡黙で何を考えているか分からない夫であり、何もわからない千代はただ、新しい環境になじむことだけを考えていたこともあり、初衣とお芳との暮しはそれは楽しいとも言えるものだったのです。

一方、茂一郎は初衣を嫌い抜いており、千代はそのことが不思議でならなかったのですが、その理由はゆっくりと明らかにされていきます。

また、茂一郎と初枝の生活は、夫婦の営みがうまくいかないこともあって次第に破綻に向かい、茂一郎は家に帰ることもなくなり、まさに千代、初枝、お芳らとの暮らしがあったのです。

 

その後主人公の千代と初衣との暮らしは開戦により一変し、戦時下で三人は離ればなれになっていくのです。

千代はそんな変化にもめげずにたくましく生きていくのですが、こうした女性の強さ、たくましさをあまり重くならないタッチで描き出しているところが幸田文や有吉佐和子の姿が見られるのでしょうか。

そうした影響の点はともかく、本書の千代の姿は読んでいてほほ笑ましい箇所もあり、また強さを見せつけられる面もあって、惹き込まれていきました。

昭和初期から戦後にかけて女性が一人で生きていくことがどれほど大変だったことか、男の私でもその一端は窺い知ることができます。

同時に、中心となる女性二人それぞれについて、性的な事柄をあっさりと語らせながらも物語展開の重要な出来事としているのには驚き、そんな性的な事柄を重要なポイントとする必要があったのかと疑問に思ったのも事実です。

しかし、そうした点は読後に色々な文章で高く評価してあり、疑問に思うことが逆におかしい気にもさせられました。

 

作者の文章自体に感じたのが優しさ、品のある美しさです。女性がたくましく生きていく姿が、格調ある文章で綴られている本書はそれだけでも読む価値があります。

残念ながら直木賞を受賞することはできませんでしたが、候補となるに十分な理由がある作品だと思いました。

ラウリ・クースクを探して

ラウリ・クースクを探して』とは

 

本書『ラウリ・クースクを探して』は、2023年8月に240頁のハードカバーで朝日新聞出版から刊行された、直木賞と織田作之助賞それぞれの候補作となった長編です。

エストニアを舞台にした、時代に翻弄された若者を描いた作品で、思いもかけずに深く惹き込まれた作品でした。

 

ラウリ・クースクを探して』の簡単なあらすじ

 

ソ連時代のバルト三国・エストニアに生まれたラウリ・クースク。黎明期のコンピュータ・プログラミングで稀有な才能をみせたラウリは、魂の親友と呼べるロシア人のイヴァンと出会う。だがソ連は崩壊しエストニアは独立、ラウリたちは時代の波に翻弄されていく。彼はいまどこで、どう生きているのか?-ラウリの足取りを追う“わたし”の視点で綴られる、人生のかけがえのなさを描き出す物語。(「BOOK」データベースより)

 

ラウリ・クースクを探して』の感想

 

本書『ラウリ・クースクを探して』は、バルト三国の中の一番北に位置するエストニアという国を舞台にした、コンピュータ・プログラミングに魅せられた主人公たちを描いた作品です。

本書本文の前に「エストニアは、バルト三国のなかでもっとも北に位置し、・・・1991年に独立を回復した。IT先進国として知られる。」という説明があります。

単純ですが、エストニアという国のソヴィエト連邦との微妙な関係と、IT化が進んだ国という本書の存在意義にもかかわる重要な点について触れてあります。

 

そして、本書をその内容からすると、異論があるとは思いますが青春小説と分類できる作品だと思います。

それぞれの属する国家との関係を抜きにしては語れない三人の成長を、その中心にいるラウリの人生を通して描いてあるのです。

すなわち、ロシアという大国との関係に翻弄される弱小国のエストニアに住み、歴史から排除されて生きるしかなかった人物の生き方をただ淡々と記した、しかし心の奥に深くしみわたった作品でした。

 

本書『ラウリ・クースクを探して』は、ある人物がラウリ・クースクという人物の伝記を書くためにエストニアの各地を取材をする中で、登場人物たちの過去に戻る形式で物語は進みます。

この<ある人物>は物語の途中までは人物像がはっきりとはしない“わたし”として登場していて、誰であるかは明確ではありません。

個人的には、“わたし”がガイド兼通訳のヴェリョと共に探しているところからエストニア人以外であり、本書の作者という体裁なのかと思っていました。

本書中盤でその正体が明らかにされるのですが、そういえばその観点は十分にありうるのだと、そのことを考えなかった自分が考え足らずだったと思ったものです。

 

本書『ラウリ・クースクを探して』は、視点の主である“わたし”がラウリ・クースクという人物について評価を示すところから始まります。

ラウリ・クースクは無名であり、エストニアという国の歴史の中で「なにもなさなかった」人物であって、「歴史とともに生きることを許されなかった人間」だというのです。

この言葉の意味は後に深い意味を持って読者の前に示され、読者それぞれの歴史に照らし、胸に刺さる言葉となってきます。

もちろん、国の存続という大きな出来事とは関係のない、個人の履歴の中の小さな事柄に過ぎない出来事ではあるでしょうが、まぎれもなく世の中の流れから取り残された思い出なのです。

 

その後、彼が生まれたボフニャ村での取材の場面に移り、数字が好きな、しかしどこか抜けたところのある子だった、という紹介から始まります。

その後に電子計算機と出会い、コンピュータ・プログラミングを覚え、初等教育を終えて中等教育のためにタルトゥ市の十年制学校に編入して生涯の親友となるイヴァン・イヴァーノフ・クルグロフカーテャ・ケレスと出会うことになります。

三人は楽しい日々を送りますが、時代はエストニアの独立へと動くことになるのです。それはまた、親友のイヴァンとの別れを意味することでもあります。

ラウリは歴史の表舞台で華々しく活躍した人間ではありません。それどころかエストニアという国の歴史の中で「歴史とともに生きることを許されなかった人間」だったのです。

そんなラウリの人生を記録したいという“わたし”は、ラウリの人生を追いかけます。

 

本書『ラウリ・クースクを探して』が何故に私の心を動かしたのか、そのことについて杉江松恋氏が書いておられた一文( 好書好日 : 参照 )が納得できるものでした。

杉江氏はそこで、客観的な描写の先に「ラウリは自分である」と感じる読者は多いだろう、と書かれているのです。

つまり、“わたし”が取材し、記した事実に“わたし”の主観はなく単に事実のみが綴られているのです。

そして、その事実がそのまま読者の心に残り、その上に読者の感情が積み重ねられていき、最終的に自分のこととして感情移入するのだと思われるのです。

 

特に、本書序盤のごく初期コンピュータのブラウン管の画面についての「ラウリにとってはその画面の中に世界のすべてがあった。」という文言などは、私の経験とも重なり沁みわたりました。

社会人となってかなり経ってからのことではありますが、ブラウン管上に指示通りの言葉が表示されたり、図形が動いた時など感動したものです。

病を得て外で働くことができなくなったときに、自宅でできる作業としてプログラミングを選んだのは必然でもありました。

 

本書が直木賞候補作として選ばれたのも納得です。

知恵遅れではないか疑われ、いじめを受け、プログラミングの才能を見出されたものの、コンテストで一番にはなれなかったラウリ。

ラウリのイヴァンやカーテャへの、そしてエストニアとロシアという国に対する思いは国家間の思惑とはまた異なったところにあります。

そうした個人的な思いを貫いてきたラウリの人生に、読者はそれぞれの思いを重ね、深く入り込んでしまうのでしょう。

大きな派手さはないものの、とても心地よい時間を過ごせたと感じた心に残る作品でした。

獣の奏者 外伝 刹那

獣の奏者 外伝 刹那』とは

 

本書『獣の奏者 外伝 刹那』は『獣の奏者シリーズ』の第五弾で、2013年10月に講談社文庫から刊行された、長編のファンタジー小説です。

生命の尊さを、夫婦、親子、恋人などそれぞれの姿を通して描き出した、本編では描くことのできなかった感動に満ちた作品集でした。

 

獣の奏者 外伝 刹那』の簡単なあらすじ

 

エリンとイアルの同棲時代、師エサルの若き日の苦い恋、息子ジェシのあどけない一瞬……。 本編では明かされなかった空白の11年間にはこんな時が流れていた!
文庫版には、エリンの母、ソヨンの素顔が垣間見える書き下ろし短編「綿毛」を収録。
大きな物語を支えてきた登場人物たちの、それぞれの生と性。

王国の行く末を左右しかねない、政治的な運命を背負っていたエリンは、苛酷な日々を、ひとりの女性として、また、ひとりの母親として、いかに生きていたのか。高潔な獣ノ医術師エサルの女としての顔。エリンの母、ソヨンの素顔、そしてまだあどけないジェシの輝かしい一瞬。時の過ぎ行く速さ、人生の儚さを知る大人たちの恋情、そして、一日一日を惜しむように暮らしていた彼女らの日々の体温が伝わってくる物語集。

【本書の構成】
1 文庫版描き下ろし エリンの母、ソヨンが赤子のエリンを抱える「綿毛」
2 エリンとイアルの同棲・結婚時代を書いた「刹那」
3 エサルが若かりし頃の苦い恋を思い返す「秘め事」
4 エリンの息子ジェシの成長を垣間見る「はじめての…」

「ずっと心の中にあった
エリンとイアル、エサルの人生ーー
彼女らが人として生きてきた日々を
書き残したいという思いに突き動かされて書いた物語集です。
「刹那」はイアルの語り、「秘め事」はエサルの語りという、
私にとっては珍しい書き方を試みました。
楽しんでいただければ幸いです。

上橋菜穂子」 (「内容紹介」より)

 

獣の奏者 外伝 刹那』の感想

 

本書『獣の奏者 外伝 刹那』は、全四巻で完結した『獣の奏者シリーズ』の外伝であり、これまで作者がシリーズ本編では描き出す必要性を感じなかった物語を紡ぎ出した作品集です。

獣の奏者シリーズ』の外伝ではあるのですが、本書に収められた作品はそれぞれが物語として独立しており、はっきりとした主張を持っています。

とはいえ、それぞれの作品の前提となる情報はやはり『獣の奏者シリーズ』で提供された情報を前提としているのであり、スピンオフ的な作品と言われるだけの立場ではあります。

しかしながら、本書の各作品は『獣の奏者シリーズ』が抱えているテーマとは異なるテーマを与えられているという点で、外伝という他ないのでしょう。

 

また、通常ならばファンタジー小説は、彼ら登場人物が私たちが暮らすこの世界とは異なる理(ことわり)の中で、与えられた世界の中で生きる姿を描きだすそのストーリーの面白さを楽しむものだと思います。

しかしながら、本書『獣の奏者 外伝 刹那』の場合はそうしたストーリー展開の面白さではなく、母娘や夫婦、恋人同士といった身近な大切な人との在りようを描き出した作品集です。

母親が我が子に抱く愛情を暖かなタッチで描き出す「綿毛」は、『獣の奏者シリーズ』の主人公であるエリンの母親ソヨンが、エリンをその胸に抱いた時の気持ちを、優しくそして情感豊かに描き出してあります。

シリーズの本編では母親のソヨンは物語の開始早々に亡くなってしまい、殆どその情報がありません。しかし、ここでエリンにお乳をあげるソヨンの母親の姿があります。

 

次の「刹那」では、エリンとその夫イアルの夫婦生活、それも二人の子のジェシ誕生にまつわる出来事がイアルの視点で描かれています。

ジェシの誕生に至るこの話のクライマックスは生命の誕生の美しさと怖さが描かれていて、女性の出産という命がけの作業の尊さが表現されています。

この話の終盤に示される、タイトルの「刹那」という言葉に込められた意味が強く胸に迫ってくるのです。

 

秘め事」は、エリンの師でもあるエサルの若かりし時代を描いた物語です。そこにはエリンの命の恩人でもあり育ての親でもあるジョウンの若かりし頃の姿もあります。

何より人を愛すること、そして愛することの尊さが描かれているのです。

 

はじめての…」では、エリンの子育ての姿が描かれます。ジェシの成長を見守る本編での男勝りのエリンとは異なる、母としてのエリンがここにはいるのです。

 

本書『獣の奏者 外伝 刹那』は上橋菜穂子が描く親子の物語であり、恋愛小説です。

母親の自分の子へそそぐ愛情の深さの描き方が実に自然に、暖かく微笑ましく描かれています。

そして上橋菜穂子が描く恋愛小説である本書の「刹那」や「秘め事」には人間の普通の生活の中にふと訪れる異性への小さな想いが見事に言語化されて表現してあります。

自分の感覚として、人を想うという気持ちの描写として、上橋菜穂子の文章は素直に心に染み入ってくるし、納得しています。

人に対する思いやりの視線、論理的に組み立てられ、そのくせ優しさを持った上橋菜穂子の文章の美しさを堪能するしかありません。

ともぐい

ともぐい』とは

 

本書『ともぐい』は、2023年11月に304頁のハードカバーで新潮社から刊行され、第170回直木賞を受賞した長編の動物文学です。

その自然の描写、動物たちの生態の生々しさは尋常ではなく、街の佇まいこそが不自然なのだと思い知らされるような、存在感に満ちた作品でした。

 

ともぐい』の簡単なあらすじ

 

死に損ねて、かといって生き損ねて、ならば己は人間ではない。人間のなりをしながら、最早違う生き物だ。明治後期、人里離れた山中で犬を相棒にひとり狩猟をして生きていた熊爪は、ある日、血痕を辿った先で負傷した男を見つける。男は、冬眠していない熊「穴持たず」を追っていたと言うが…。人と獣の業と悲哀を織り交ぜた、理屈なき命の応酬の果てはー令和の熊文学の最高到達点!!(「BOOK」データベースより)

 

ともぐい』の感想

 

本書『ともぐい』は、北海道の自然の中で一人生き抜いている熊爪という漁師の生きざまを描いた第170回直木賞受賞作となった作品です。

本書の作者河崎秋子という人の作品では、本書同様に第167回直木賞候補作となった『絞め殺しの樹』という作品があります。

この作品は理不尽な仕打ちばかりの人生を耐え抜く一人の女性の生涯を描いた作品ですが、私の好みとはことなるものの、妙に惹かれる作品でもありました。

その“妙に惹かれる作品”だったという部分が取り出されたのが本書だといっても過言ではなさそうです。

 

本書『ともぐい』の主人公は、熊爪という猟師の男です。彼は大自然の中で山菜を採り、兎や鹿そして熊などの動物を殺すことで生きています。

獲った動物は、取れるものはその皮をはいで毛皮としたり、肉は自分と、飼っている名前のない猟犬とで食べ、また保存食とするのです。

たまには獲った動物の肉などを売ったり、鉄砲の弾丸などを購入するために町へ出かけますが、他人との会話を苦手としていてすぐにでも山へ帰りたいと思っているような人物です。

その動物の肉などを買い取ってくれる店が「門屋商店」であり、門屋主人の井之上良輔には世話になっており、良輔に山の話をしつつ、一夜の宿を借りるのを常としています。

この井之上良輔の妻が熊爪が苦手とするふじ乃であり、門屋商店の番頭が幸吉といいます。

そしてこの店にはもうひとり重要な人物がおり、それが陽子(はるこ)という目の見えない少女です。

熊爪は、山で熊を仕留め損ねて大けがをした太一という阿寒湖の畔の集落から来た猟師を助けたことから物語は動き始めます。

 

本書『ともぐい』の一番の魅力は熊爪という男の造形であり、熊爪の犬と共に暮らす山の生活の描写だと言っていいと思います。

他者との交流を好まず、犬と自分一人が生きていくだけに必要な生き物を殺し、それを食し、必要に応じて町へ行って売りさばいて火薬などの必需品を購入する、それだけの暮らしが描かれます。

本書冒頭から、主人公の熊爪が、自分が狩った鹿を解体する様子が詳細に語られています。

自分が村田銃の照準を合わせ仕留めた鹿に小刀を使い、立ちあがった「暖かく緩んだ蒸気」の匂いを嗅ぎながら、内臓を取り出し、赤紫色をした肝臓の端を切り取り、巣食う虫の痕跡のないことを確認して口の中に放り込むと言うのです。

そこにあるのは熊爪と動物との戦いであり、命のやり取りです。

その暮らしの様子が詳細に語られるのですが、その描写が実にリアリティーに富んでいます。

 

ところが、後半になると物語は全く異なる顔を見せてきます。

太一というよそ者が連れてきた「穴持たず」の熊は、熊爪が太一を見つけたときに恐れたように、熊爪の生活に大きな変化をもたらすのです。

それは、熊爪の孤高の生き方にくさびを打ち込み、あれほど嫌っていた他者との関りを熊爪に強制することになります。

そして、大自然の中で、大自然と共に生きてきた熊爪の生活の変化は、単なる生きる場所が移った以上の変化をもたらすのです。

 

作者の河崎秋子は、「道東端の酪農家に生まれ」、「兄が害獣駆除の免許を持っており、仕留めたシカの解体は私の担当だった。」と言われているので、鹿の解体の場面などは実体験に基づいているのでしょう( 東京新聞 Tokyo web : 参照 )。

もともと前著『絞め殺しの樹』の描写でも分かるように、並外れた筆力の持ち主である作者が実体験に基いて描き出しているのですから、上記の描写などリアリティーに満ちているのも当然なのでしょう。

そうした筆力は他の場面でも惜しみなく発揮されており、本書全体の醸し出す雰囲気に読者が惹き込まれるのも当たり前だと思います。

 

先述のように、物語も後半になると熊爪が否応なく人間との関りの中で生きるしかなくなっていく姿が描かれています。

そこでの熊爪の生き方はやはり哀しみに覆われており、先行きを暗示しているようです。

 

本書『ともぐい』は、第170回直木賞受賞作となったというのも納得の作品であり、小説の持つ迫力というものをあらためて感じさせられた、重厚な作品でした。

レーエンデ国物語 喝采か沈黙か

レーエンデ国物語 喝采か沈黙か』とは

 

本書『レーエンデ国物語 喝采か沈黙か』は『レーエンデ国物語シリーズ』の第三弾で、2023年10月に講談社から352頁のソフトカバーで刊行された長編のファンタジー小説です。

これまでの二巻とはまた異なるタッチで展開される革命の物語であり、特に後半の展開はかなり惹き込まれて読んだ作品でした。

 

レーエンデ国物語 喝采か沈黙か』の簡単なあらすじ

 

ルミニエル座の俳優アーロウには双子の兄がいた。天才として名高い兄・リーアンに、特権階級の演出家から戯曲執筆依頼が届く。選んだ題材は、隠されたレーエンデの英雄。彼の真実を知るため、二人は旅に出る。果てまで延びる鉄道、焼きはらわれた森林、差別に慣れた人々。母に捨てられた双子が愛を見つけるとき、世界は動く。(「BOOK」データベースより)

 

レーエンデ国物語 喝采か沈黙か』の感想

 

本書『レーエンデ国物語 喝采か沈黙か』は『レーエンデ国物語シリーズ』の第三弾となる物語ですが、これまでの二巻とは異なり「演劇」を通した革命の物語でした。

これまでの二作品の持つ恋愛の要素や戦いの場面もほとんどないという全く異なる作風でもあり、あまり期待せずに読み始めたものです。

 

本書中盤までは、当初の印象のとおり前二作品との関連性もあまり感じられないままに、これといった見せ場もないため、今一つという印象さえ持っていました。

ところが、中盤以降、主役の二人がテッサの物語に触れるあたりからは俄然面白くなって来ました。

アクションはありません。古代樹の森などのファンタジックな要素さえもありません。

それどころか、本書の時代においては蒸気機関車さえ走っていて、イジョルニ人とレーエンデ人との間にはこれまで以上の落差がある時代です。

そうした時代を背景に、この物語は語られます。

 

本書『レーエンデ国物語 喝采か沈黙か』は、役者のアーロウと劇作家のリーアンという双子の兄弟の物語です。

というよりも、アーロウの視点で語られる兄弟の物語というべきでしょう。

アーロウとリーアンとはは幼いころからいつも一緒にいて互いに互いを必要とし、かばい合って生きてきていました。

しかし、二人が成長してルミニエル座に受け入れられ、そこでリーアンの劇作家としての才能が開花すると、アーロウは役者として生きていながら、リーアンに対しては嫉妬、妬みの気持ちを押さえられなくなっていくのです。

そのうちにリーアンはレーエンデの英雄テッサの物語を戯曲として書く機会を得るのでした。

 

つまり、テッサの物語から120年以上を経て、テッサたちの話は闇に葬られ歴史から消し去られていたのです。

しかし、テッサたちの物語を知ったリーアンが彼らを主人公にした戯曲を書くことを思いついたあたりから物語は大きく動き始め、私も大いにこの物語に惹き込まれていきます。

先に述べたように、心惹かれる恋愛要素も、また派手なアクションはないのですが、二人の兄弟の運命の展開に読者もまた巻き込まれ感情移入せざる得ない面白さを意識せざるを得なくなるのでした。

これまでの二巻とは全く異なる観点からレーエンデの独立を語る本書は、よくぞこうした物語を書けるものだと感心するばかりです。

次はどんな物語を提供してくれるのかと期待は膨らみます。

 

ちなみに、「多崎礼 公式blog 霧笛と灯台」によれば、本『レーエンデ国物語シリーズ』は全五巻であり、第四巻『レーエンデ国物語 夜明け前』、第五巻『レーエンデ国物語 海へ』は2024年刊行予定だということです。

期待して待ちたいと思います。