『ラウリ・クースクを探して』とは
本書『ラウリ・クースクを探して』は、2023年8月に240頁のハードカバーで朝日新聞出版から刊行された、直木賞と織田作之助賞それぞれの候補作となった長編です。
エストニアを舞台にした、時代に翻弄された若者を描いた作品で、思いもかけずに深く惹き込まれた作品でした。
『ラウリ・クースクを探して』の簡単なあらすじ
ソ連時代のバルト三国・エストニアに生まれたラウリ・クースク。黎明期のコンピュータ・プログラミングで稀有な才能をみせたラウリは、魂の親友と呼べるロシア人のイヴァンと出会う。だがソ連は崩壊しエストニアは独立、ラウリたちは時代の波に翻弄されていく。彼はいまどこで、どう生きているのか?-ラウリの足取りを追う“わたし”の視点で綴られる、人生のかけがえのなさを描き出す物語。(「BOOK」データベースより)
『ラウリ・クースクを探して』の感想
本書『ラウリ・クースクを探して』は、バルト三国の中の一番北に位置するエストニアという国を舞台にした、コンピュータ・プログラミングに魅せられた主人公たちを描いた作品です。
本書本文の前に「エストニアは、バルト三国のなかでもっとも北に位置し、・・・1991年に独立を回復した。IT先進国として知られる。
」という説明があります。
単純ですが、エストニアという国のソヴィエト連邦との微妙な関係と、IT化が進んだ国という本書の存在意義にもかかわる重要な点について触れてあります。
そして、本書をその内容からすると、異論があるとは思いますが青春小説と分類できる作品だと思います。
それぞれの属する国家との関係を抜きにしては語れない三人の成長を、その中心にいるラウリの人生を通して描いてあるのです。
すなわち、ロシアという大国との関係に翻弄される弱小国のエストニアに住み、歴史から排除されて生きるしかなかった人物の生き方をただ淡々と記した、しかし心の奥に深くしみわたった作品でした。
本書『ラウリ・クースクを探して』は、ある人物がラウリ・クースクという人物の伝記を書くためにエストニアの各地を取材をする中で、登場人物たちの過去に戻る形式で物語は進みます。
この<ある人物>は物語の途中までは人物像がはっきりとはしない“わたし”として登場していて、誰であるかは明確ではありません。
個人的には、“わたし”がガイド兼通訳のヴェリョと共に探しているところからエストニア人以外であり、本書の作者という体裁なのかと思っていました。
本書中盤でその正体が明らかにされるのですが、そういえばその観点は十分にありうるのだと、そのことを考えなかった自分が考え足らずだったと思ったものです。
本書『ラウリ・クースクを探して』は、視点の主である“わたし”がラウリ・クースクという人物について評価を示すところから始まります。
ラウリ・クースクは無名であり、エストニアという国の歴史の中で「なにもなさなかった
」人物であって、「歴史とともに生きることを許されなかった人間
」だというのです。
この言葉の意味は後に深い意味を持って読者の前に示され、読者それぞれの歴史に照らし、胸に刺さる言葉となってきます。
もちろん、国の存続という大きな出来事とは関係のない、個人の履歴の中の小さな事柄に過ぎない出来事ではあるでしょうが、まぎれもなく世の中の流れから取り残された思い出なのです。
その後、彼が生まれたボフニャ村での取材の場面に移り、数字が好きな、しかしどこか抜けたところのある子だった、という紹介から始まります。
その後に電子計算機と出会い、コンピュータ・プログラミングを覚え、初等教育を終えて中等教育のためにタルトゥ市の十年制学校に編入して生涯の親友となるイヴァン・イヴァーノフ・クルグロフやカーテャ・ケレスと出会うことになります。
三人は楽しい日々を送りますが、時代はエストニアの独立へと動くことになるのです。それはまた、親友のイヴァンとの別れを意味することでもあります。
ラウリは歴史の表舞台で華々しく活躍した人間ではありません。それどころかエストニアという国の歴史の中で「歴史とともに生きることを許されなかった人間
」だったのです。
そんなラウリの人生を記録したいという“わたし”は、ラウリの人生を追いかけます。
本書『ラウリ・クースクを探して』が何故に私の心を動かしたのか、そのことについて杉江松恋氏が書いておられた一文( 好書好日 : 参照 )が納得できるものでした。
杉江氏はそこで、客観的な描写の先に「ラウリは自分である」と感じる読者は多いだろう、と書かれているのです。
つまり、“わたし”が取材し、記した事実に“わたし”の主観はなく単に事実のみが綴られているのです。
そして、その事実がそのまま読者の心に残り、その上に読者の感情が積み重ねられていき、最終的に自分のこととして感情移入するのだと思われるのです。
特に、本書序盤のごく初期コンピュータのブラウン管の画面についての「ラウリにとってはその画面の中に世界のすべてがあった。」という文言などは、私の経験とも重なり沁みわたりました。
社会人となってかなり経ってからのことではありますが、ブラウン管上に指示通りの言葉が表示されたり、図形が動いた時など感動したものです。
病を得て外で働くことができなくなったときに、自宅でできる作業としてプログラミングを選んだのは必然でもありました。
本書が直木賞候補作として選ばれたのも納得です。
知恵遅れではないか疑われ、いじめを受け、プログラミングの才能を見出されたものの、コンテストで一番にはなれなかったラウリ。
ラウリのイヴァンやカーテャへの、そしてエストニアとロシアという国に対する思いは国家間の思惑とはまた異なったところにあります。
そうした個人的な思いを貫いてきたラウリの人生に、読者はそれぞれの思いを重ね、深く入り込んでしまうのでしょう。
大きな派手さはないものの、とても心地よい時間を過ごせたと感じた心に残る作品でした。