名主の裔

斎藤月岑は神田雉子町に居をかまえる、草創名主24家のひとつ、斎藤家の9代目である。祖父、父と3代にわたって著わした「江戸名所図会」は斎藤家の悲願の作であった。江戸最後の名主の目を通して江戸から東京に変わる時代相を描く表題作、「江戸繁昌記」の寺門静軒の生涯を描く「男の軌跡」を収める中篇集。(「BOOK」データベースより)

 

本書は中編「名主の裔」と、短編「男の軌跡」との二作品から構成されています。

 

「名主の裔」は、斎藤市佐衛門(月岑)という江戸最後の名主である実在した人物の眼を通して、幕末の黒船来航の頃から明治期に至るまでの当時の江戸の町の様子を描いた作品です。身勝手な幕府の役人の下で振りまわされる名主や、明治期になっても同様に新政府の役人の勝手なお達しに右往左往する名主たちの姿が描かれています。

江戸の町の町人地の支配は町奉行の下に三人の町年寄がいて、その下に『草創(くさわけ)名主』『古町(こちょう)名主』『平名主』それに『門前名主』と、町奉行支配下になった時期によって呼称が違い、また事実上の身分も異なっていたようです。

本編の主人公の神田雉子町に住んでいる斎藤市佐衛門は、徳川家康の時代からの名主である草創名主二十四家のひとつ斎藤家の九代目で、号を月岑(げっしん)と言い、「江戸名所図絵」「東都歳時記」「武江年表」などの著作を著している、実在した江戸最後の名主です。

 

 

本書が出版されたのが1989年であり、前に紹介した1988年出版の「東京新大橋雨中図」の次に発表された作品のようで、この両作品は雰囲気もよく似ていて、エンタテインメント性はあまりありません。近年の「お狂言師歌吉シリーズ」(2005年)「東京影同心」(2011年)の作風からすると別人のようです。

「男の軌跡」に至っては更に暗い話で、幕末に実在した儒学者、寺門静軒の物語です。仕官を願うもかなわず、結局、「江戸繁昌記」という江戸の風俗を記した本を出版するのです。

本書は著者のデビュー作だそうで、この作品だけを先に読んでいたら、多分以後はこの作家の作品は読まなかったでしょう。面白くないというのではなく、全体的な雰囲気の暗さが好みではないのです。

東京新大橋雨中図

文明開化の光と影を描いて一世を風靡した“光線画”の異才・小林清親―その苦闘の軌跡と幕末から明治の激動に翻弄される人々の哀歓を浮き彫りにする渾身の長篇力作。(「BOOK」データベースより)

 

明治浮世絵の三傑の一人に数えられ、最後の浮世絵師と呼ばれた小林清親の物語です。

 

幕臣であった小林清親は、幕府の終焉により、年老いた母と共に徳川家とともに駿府へ移住する。苦しい生活のため撃剣興行に加わるが上手くいかず、結局は江戸へと舞い戻ることになる。そこで大黒屋と知り合い、趣味で書いていた画で身を立てていこうと決心する。

 

ウィキペディアを見ても小林清親の略歴の説明とは若干の違いがあるようです。しかし、本書は小説ですからそうした細かいことは言うべきではないのでしょう。

先に2002年に出されているこの作者の『信太郎人情始末帖シリーズ』を読んでいたので、その筆致の違いに少々戸惑いもありました。主人公の小林清親という人が実在の人物であることも知りませんでしたし、舞台が浮世絵の世界であることもまた違和感のもとになっているのかもしれません。

 

 

でも本書は、明治維新を敗者の側から見た物語である、という点は面白い視点でした。明治期の描写と言えば、例えば津本陽の『明治撃剣会』や浅田次郎の『一刀斎夢録』がありますが、これらは侍からの視点での描写です。

 

 

本書のように元は侍とはいえ下級武士であり、今は一般庶民の目から見た、生活に根差した描写は無かったように思うのです。宇江佐真理の「おぅねぇすてぃ」はそうかもしれませんが残念ながら読んでいません。

 

 

迫力の陸蒸気(おかじょうき)や、灯がともった硝子入りの窓の新橋ステンション、などの小林清親が見た新しい東京の町が描かれながら、光線画という新しい手法で注目され、人気絵師として成長していく小林清親の内面をも含めた描写は読みごたえがありました。

彼を取り巻く人々や女性との関わりをも含めた、一市民としての小林清親の生活を描いた本書は、第100回(昭和63年度下半期) 直木賞受賞作品です。

しかし個人的には、面白い小説ですから是非読んで下さい、とは言えない本でした。どこが、という説明が少々難しいのです。エンターテインメント性に欠ける、ということかもしれません。勿論直木賞を受賞する作品ですし、確かに素晴らしい作品なのですが、個人的には「読みたい本とは言えない」ということです。

東京影同心

金子弥一郎は慶応3年に異例の若さで定町回り同心となったものの、幕府は瓦解して町奉行も消滅。新政府に仕官した同僚の誘いにも気が進まず、元岡っ引の始めた料理茶屋に居候を決め込んだが、ひょんな縁で佐幕派の「中外新聞」で種取り記者として探索にあたることに。元「八丁堀」同心の矜持を描く傑作長編。(「BOOK」データベースより)

 

主人公金子弥一郎は、若くして定町回り同心に抜擢されたが、直ぐに明治維新を迎える。新政府のもとで仕える気も無く、日々を無為に過ごしていた主人公金子弥一郎だったが、思いがけなく「中外新聞」の種取り記者として働くこととなった。

 

表題から想像される内容とは異なり捕物帖ではありません。

御一新により家屋敷は勿論同心職も失ってしまうまでの話を、捕物も交え描いた「つかみぼくろ」。

かつての手下の常五郎の料理茶屋に世話になり無為に過ごしているうちに、とあることから「中外新聞」の種取り記者として働くこととなるまでを描く「ミルクセヰキは官軍の味」。

明治の新政に不満を抱く者達の不穏な動きを追う金子弥一郎の活躍を描く「東京影同心」。

 

以上の三章からなる、江戸から東京へと変わりゆく時代を背景に、主人公の生き様が描かれています。

何といっても一番の魅力は、雰囲気にあふれる「時代」の描写でしょうか。また、登場人物の会話も実に魅力的です。別に検証したわけではありませんが、明治初期の東京の町の描写もかなり調べて書いておられるのだろうと思います。出身は福岡県ということなのですが、江戸ッ子の会話が小気味よく響きます。

 

ただ一点、薩摩示現流の初太刀を鍔もとで受けたかのような描写があるのですが、示現流の初太刀を受ける、そのことが困難だと他の本で読んだ気がします。改めて調べるようなことでもないのでそのままですが、思い違いかもしれません。

彩りに添えられた芸者の米八とのこれからの行く末も気になるところです。シリーズ化されないのでしょうか。待たれるところです。

信太郎人情始末帖シリーズ

呉服太物店美濃屋の跡継ぎの信太郎と引手茶屋千歳屋の内儀おぬいの二人を中心とした人間模様を描く人情物語です。

 

信太郎にはおすずという許嫁がいたのですがおぬいのもとに走ってしまいます。その後、おすずは賊に辱められ自死してしまうのです。芝居小屋の手伝いをしながらおぬいと暮らす信太郎ですが、おすずの死の責は自分にあると自責の念にかられながら生きています。

信太郎とおぬいの二人を軸に、仕事場の芝居小屋やおぬいの千歳屋、信太郎の実家の美濃屋などの二人を取り巻く人々の人間模様が語られていきます。

全七巻の物語は当初は信太郎の捕物帖的な展開を見せていますが、そのうちに二人を中心とする人情話が主になり、そして家族の物語へと変化していきます。連作短編という形式も、その実、長編と言って良いでしょう。

 

このように、本シリーズは捕物帖と思っていると思惑と違うということになるかもしれません。しかし、捕物帖的要素も随所にあるのは間違いないですし、何より、全体を通して信太郎とおぬいの生活の変化、それに伴い描かれる人情話は思惑を超えた面白さがあると思います。

確かに、途中から物語の雰囲気が少々変わってはきます。しかしその変化も不快なものではなくて、反対に好ましく、文章の読みやすさとも相まって、テンポよく読み進めることが出来るでしょう。全七巻という長さも最後になれば逆に短いとさえ感じられるのではないでしょうか。実際、読み終えた後はその後の物語を読みたいと思ったものです。

 

信太郎人情始末帖シリーズ(完結)

  1. おすず
  2. 狐釣り
  3. 水雷屯
  1. きずな
  2. 火喰鳥
  3. その日
  1. 銀河祭りの二人

杉本 章子

杉本章子という作家さんは、幕末から明治初期の日本を舞台にした作品が多いように見受けられます。第100回直木賞を受賞した「東京新大橋雨中図」もそうですし、2011年に出版された「東京影同心」もそうです。

また、時代背景の描写が上手いのでしょう、幕末から明治期の町の雰囲気が伝わってきます。侍(為政者)目線ではなく、一般庶民の目で見た東京の町の印象の方が強いでしょうか。そんな町で生きる庶民の会話がまた生きて感じます。福岡出身の筈なのに上手いものだと感心してしまいます。当たり前と言えば当たり前ですが、作家という人はプロとして語り口まで勉強するものなのでしょう。しかし、一般的な知識と違い、語り口は慣れしかないと思うのですが。

少し調べてみると、杉本章子という作家の時代考証の確かさを指摘しているレビューを多く見かけます。先に書いたこの人の文章の印象も。こうした考証の裏付けがあって生きているのでしょう。

あまり普段耳にすることのない歴史上の実在の人物を取り上げている点も、特徴の一つとして挙げて良いかもしれません。「東京新大橋雨中図」は最後の浮世絵師と呼ばれた小林清親の物語ですし、「東京影同心」に出てくる「中外新聞」も実際に存在したものです。他にも多数あります。

以上のような考証の確かさは物語の背景を強固なものとしているのですが、文章は非常に読みやすく、テンポよく読み進むことが出来ます。詩情豊かにと言うと誤りかもしれませんが、それでも正確な情景描写は落ち着いて読み進むことが出来ます。

面白いです。



突然ですが、杉本章子さんが2015年12月4日に乳がんのために亡くなられました。62歳ということですが、私よりも若い。あまりにも早すぎます。
杉本章子さん死去 福岡市在住の直木賞作家 西日本新聞より)

つい先日(11月7日)、宇江座真理さんが同じく乳がんで亡くなられたばかりでした。情感に満ちた時代小説の書き手がまた一人いなくなり、寂しいばかりです。

御冥福をお祈りいたします。

天下一の剣 伊藤一刀斎

剣豪伊藤一刀斎の生涯を描いた長編の時代小説です。

伊藤一刀斎という、塚原卜伝や上泉信綱などと共に戦国時代、いや日本の剣豪を語るときには必ず名前の挙がる人の名を冠した表題に惹かれて借りてみました。

しかし、小説としては中途半端にしか感じられず、決して面白い小説とはいえない残念な結果でした。

 

己が剣は求道か殺戮か!戦国の世にどこからともなく現れ、終生、自由な求道者として一刀流という巨木を打ち立て、そして忽然と姿を消した謎多き剣豪・伊藤一刀斎―天才兵法者の鮮烈人生をスピード感溢れる筆致で描出した、極上のエンターテイメント。(「BOOK」データベースより)

 

これまで、歴史小説や剣豪ものの時代小説の中にその名前が出てくることはあっても、伊藤一刀斎を主人公とした小説は読んだことがなかったので、図書館で見かけぐに借りたのですが、残念でした。

 

大島で流人の子として生まれ、十五歳の六尺(180cm)豊かな若者として育っていた弥五郎は、山で知り合った山伏に師事し剣術を習う。しかし、その師匠が惨殺されたことからその仇を討ち、島を抜けることとなってしまう。

何とか本土に辿り着いた弥五郎は、その後三島神社の矢田部宮司に拾われ、行儀作法も習い、有名な甕割刀をも手に入れるのだった。

 

以上はこの小説の冒頭部分であり、物語はまだまだ五十頁にも達していないのですが、少々好みと違う小説だと気づきました。

どうも、読み手である私とこの小説との交流は上手くいかないのです。登場人物に深みを感じられず、歴史的事実の羅列としか感じられませんでした。

 

そもそも伊藤一刀斎という人物はその詳細がよく分かっていない人らしく、生年や生誕地など異説が多数存在するそうです。

本書は『一刀流口伝書』などで伝わるエピソードをつないで小島英記という作家なりの伊藤一刀斎を作り上げようとしています。

しかし、それが決して成功しているとは言えないのです。もう少しそうした伝承を練り上げ、物語として展開されるのを期待していたのですが、かないませんでした。

 

更には小説としての小さな違和感が少なからず残りました。

例えば伊藤一刀斎は自分こそが天下最強との自負を抱いていながら、師とも仰ぐ上泉伊勢守信綱との久しぶりの邂逅の時も旧交を温めるだけで別れています。最強を自負する以上は決着をつけたいと思う筈なのに、何故にこの二人は戦わないのでしょう。

また、後継者を選ぶために愛弟子たちに命懸けの戦いを命じるという話は歴史的な事実としてあるのだそうですが、何故命がけの戦いを命じたのか、そうした理由、意味については何も語られていません。こうした点をこそ想像力で満たしてほしかったのです。(もしかしたら一刀流は一子相伝であり、そのことを書いてあったにもかかわらず私が見落としたのかもしれません。)

 

ただ、立ち会いの場面は剣筋をきちんと示し、立ち会いの臨場感を感じられる表現になっており、この丁寧さが物語本体にも欲しいと思いつつ読んだものです。

一度はこの作家の作品はもう読まないと書いたのです。しかし、もしかしたらこの作家の他の作品はこうした不満は無いのかもしれないので、何かのきっかけがあれば他の作品も読んでいたいと思います。

小島 英記

945年に福岡県八女市生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、日本経済新聞に勤めた後、作家となった。

まだ一冊しか読んでいないので色々書けません。そして、その限りでは私の期待とは一致しませんでした。

ただ、この人には『小説横井小楠』という作品があります。我が郷土の生んだ偉人である横井小楠を描いた作品であるのなら読まずばならないでしょう。

新選組裏表録 地虫鳴く

本書『新選組裏表録 地虫鳴く』は、無名の隊士に焦点を当てて新たな新選組の姿を描き出す長編の時代小説です。

一般の新選組の物語には名前すら出てこない無名の隊士の行動を軸に、伊東甲子太郎が暗殺される「油小路事件」へ向けての新選組が描かれていて、掘り出し物の面白い小説でした。

走っても走ってもどこにもたどりつけないのか―。土方歳三や近藤勇、沖田総司ら光る才能を持つ新選組隊士がいる一方で、名も無き隊士たちがいる。独創的な思想もなく、弁舌の才も、剣の腕もない。時代の波に乗ることもできず、ただ流されていくだけの自分。陰と割り切って生きるべきなのか…。焦燥、挫折、失意、腹だたしさを抱えながら、光を求めて闇雲に走る男たちの心の葛藤、生きざまを描く。(「BOOK」データベースより)

 

木内昇の『新選組 幕末の青嵐』に続く新選組を描いた作品です。

新選組 幕末の青嵐』も新しい視点で描かれた面白い小説でしたが、本書も中心となる登場人物の殆どはその名前を知らないであろう人物が配されていて実にユニークです。

 

 

多数ある新選組の物語では、試衛館出身の仲間を中心に芹沢鴨や伊東甲子太郎らが登場するのが一般です。

しかし、本書『新選組裏表録 地虫鳴く』では、そうした物語には名前すら出てこない無名の隊士が、その内面まで突き詰めて描写されています。

そうしたあまり知らない人物たちの行動を軸に、伊東甲子太郎が暗殺される「油小路事件」へ向けての新選組が描かれているのです。

 

まず、冒頭は史談会での阿部隆明という老人の証言の場面から始まります。

この「史談会」は、東屋梢風氏の「新選組の本を読む ~誠の栞~」に紹介してある『新選組証言録』によりますと、「明治22年に設立された。生存者から幕末維新期に関する証言を集め、史料として残すことを目的とした任意団体」であり、この場面は史実の再現シーンなのですね。

 

 

この阿部という老人からまず知りません。ちょっと分かりにくいのですが、この阿部が、本編が始まると高野十郎という名前で登場し、すぐに阿部十郎と改名し、重点的に描かれていきます。

自尊心が高いくせに目的意識が無く卑屈な存在で、常に他者を拒絶しています。ただ、自分をもう一度新選組に誘ってくれた浅野薫にだけは心を許しています。

その浅野は善人であることだけが取り柄のような人物なのですが、やはり試衛館組には負い目を感じているのです。

高名な斎藤一も阿部には何故か心をとどめていて、裏切られ全く孤立している阿部に対し上手く手助けの言葉を言えない自分を悔いるような言葉を発したりもしています。

ついで、篠原泰之進や三木三郎といった伊東甲子太郎の仲間の名前が挙がり、更に中心的な役割を果たす監察方の尾形俊太郎らが登場します。

 

勿論、高台寺党は伊東甲子太郎が中心であり、事実、伊東甲子太郎についてかなり書き込まれています。

しかし心に残るのはいつも土方に鬱屈を抱えているような伊東の実弟の三木三郎や、自分の意思が見えない篠原泰之進であり、卑屈でいながら自尊心は強い阿部十郎なのです。

三木三郎に「屈折に支配されて振り回されている生き方」が気に入っている、と言われる阿部は全く自分の居場所を見失っています。

そして、伊東の腹心とも言える篠原泰之進も引きずられるように行動している男だったのです。

ただ、伊東の「僕には夢があってね。」と語り出すその言葉を聞いて「自分の中のなにかがぐるりと一回転」するのを感じ、「自分にとって心地良い場所だと」あらためて自分の位置を掴みます。

 

本書『新選組裏表録 地虫鳴く』では、これまでその存在も知らない隊士たちが単に「新撰組隊士」としてまとめられる存在ではなく、血と肉を与えられて鬱屈を抱えている一個の人間として動き始めています。

その夫々があるいは鬱屈にけりをつけて途を見出し、あるいはそのまま憤懣を抱きながら袋小路から出れなくなってしまいます。

木内昇はこうした弱さを持つ、普通の人間の描き方が実に上手いのです。

 

また、山崎烝と共に監察方として働く尾形俊太郎が良く書き込まれています。

伊東らが新選組を脱退する話し合いの場に行く途中で、尾形は以前屯所の家主であった八木源之丞と出会い、思わずこみあげてくるものを感じて涙を流してしまいます。こうしたシーンには実に作者の巧みさを感じます。

ここで尾形は、まだ新選組という名称も無く田舎浪士の集団にすぎなかったあの頃から立派になった現在までを一瞬で回顧し、これから離別の場に臨むのです。様々の思いを込めた涙は見事です。

 

心象の描き方はインタビュアーとして培われたものでしょうか。この本の五年後に書かれる「漂砂のうたう」でも情景描写が素晴らしく、直木賞を受賞されます。

 

 

本書『新選組裏表録 地虫鳴く』は『新選組 幕末の青嵐』には一歩及ばない気もしますが、個人の好みの問題でしょう。本作品の方が好みだ、という人もかなり居るのではないでしょうか。

いずれにしても掘り出し物の一冊でした。

櫛挽道守(くしひきちもり)

本書『櫛挽道守』は、幕末という時代背景のもと、木曽の山奥の町で「お六櫛」の櫛職人を目指す一人の娘の半生を描き出す長編の時代小説です。

家の跡取りとなる男子を産み、家を守ることこそが女の務めであった時代に、職人として生きることを選んだ一人の女の生き様が描かれており、親子、家族、そして夫婦の在り方まで考えさせられる一冊です。

幕末の木曽山中。神業と呼ばれるほどの腕を持つ父に憧れ、櫛挽職人を目指す登瀬。しかし女は嫁して子をなし、家を守ることが当たり前の時代、世間は珍妙なものを見るように登瀬の一家と接していた。才がありながら早世した弟、その哀しみを抱えながら、周囲の目に振り回される母親、閉鎖的な土地や家から逃れたい妹、愚直すぎる父親。家族とは、幸せとは…。文学賞3冠の傑作がついに文庫化!(「BOOK」データベースより)

 

木曾山中の藪原(やぶはら)宿で、「お六櫛」という名産の櫛があります。解かし櫛とは異なり、髪や地肌の汚れを梳(くしけず)るのに用いられる「お六櫛」は、「とりわけ歯が細かく、たった一寸の幅におよそ三十本も」櫛の歯があるそうです。

吾助は、それほどに間隔の狭い櫛の歯を「板に印もつけもせず、勘だけで均等に引くことができる」名人でした。

本書『櫛挽道守』では、父親のような櫛職人になることを目指す、吾助の娘登瀬の半生が語られます。

 

時代は黒船が来航し、攘夷勢力と勤皇の思想との激しい対立が渦巻いている中、登瀬は藪原にある家の職場である板の間しか知らずに暮らしていた。

しかし、時代の波はそうした藪原にも押し寄せる。事故により跡取りである息子直助を亡くした吾助の一家は、登瀬の願いに応え、婿を取ることになるのだった

 

その他の重要な登場人物として登瀬の弟の直助の存在があります。本書の節々に、早世した直助の書いていたという物語が登瀬の前に現れます。

同時に、直助の書いた物語の載った草紙を、直助と共に旅人に売っていた源次という男も登瀬の心の片すみに残る男として現れます。

もう一人実幸というこれもまた天才肌の男が職人として吾助と登瀬の前に現れ、登瀬の家に住み込みとして働き、吾助の技を学んでいきます。この男もまた重要な役目を担っています。

 

本書『櫛挽道守』は、登瀬という女性の成長譚であると同時に、名人である吾助一家の家族の物語でもあり、登瀬の婿との夫婦の物語という側面も持っています。

ただひたすらに藪原で櫛を作る職人でありたいと願う登瀬ですが、その人生は決して明るいものではなく、この物語も全体として重いトーンで進みます。

 

とても「新選組 幕末の青嵐」を書いた作者と同一人物とは思えない雰囲気です。この本を先に読んでいたら、多分他の本は読まなかったのではないでしょうか。私の好みのタッチとは異なるのです。

 

 

でも、家に仕えるのが当たり前であったこの時代で、職人になるというその思いがいかに大変なものであったことか。

その中で自分の意志を貫こうとする一人の女性の強い生き方の物語として見た場合、物語としても引き込まれて読む人は多数いるのではないでしょうか。

 

例えば、一人の女性の生きざまを描き出した作品として朝井まかての『恋歌』や高田郁の『あい―永遠に在り』などがあります。

これらの作品は、ひたすらに夫を想いながら自分の生き方を貫く女性を描いた作品でしたが、これらとはまた異なり、本作品は職人になるために打ち込む女性を描いた作品として魅力的です。

 

 

本書『櫛挽道守』は、けっして私の好みの作品ではなかったのですが、それでもなお主人公の登瀬の姿には惹きつけられるものがあり、小さな感動を呼ぶ作品でした。

蛇足ながら、「木曽のお六櫛公式サイト」では「薮原では一口に『お六櫛』と総称していますが、その種類は多義にわたり、梳き櫛・解かし櫛・挿し櫛・鬢掻き櫛などがあります。」と記されていて、若干『お六櫛』についての説明の記述が違います。少々気になりましたので記しておきます。

新選組 幕末の青嵐

『新選組 幕末の青嵐』は、多視点という新たな観点から新選組を描き出す、長編の時代小説です。

新選組の主な構成員の夫々に均等に光を当て、短めの項立ての中で客観的に新選組を浮かび上がらせているその構成がユニークで、新しい新選組の物語と言える、かなり読みごたえのある小説でした。

身分をのりこえたい、剣を極めたい、世間から認められたい―京都警護という名目のもとに結成された新選組だが、思いはそれぞれ異なっていた。土方歳三、近藤勇、沖田聡司、永倉新八、斎藤一…。ひとりひとりの人物にスポットをあてることによって、隊の全体像を鮮やかに描き出す。迷ったり、悩んだり、特別ではないふつうの若者たちがそこにいる。切なくもさわやかな新選組小説の最高傑作。(「BOOK」データベースより)

 

本書『新選組 幕末の青嵐』は、これまで良く知られている新選組の物語ではあるのですが、特定の個人を取り上げて論じているのではありません。項毎に特定の人物の視点を借り、他の構成員や新選組の出来事をその人物の主観を通して描き出しています。

つまり、視点を借りているその人物の内心を考察するのですから当然その人物像を詳しく語ることになり、且つその者の眼を通して他者を語らせることを繰り返すことで、結果的には様々なフィルターを通した新選組という組織の描写になっているのです。

もっとも、様々の視点の先に据えられているのは最終的には「土方歳三」という人間です。近藤勇や沖田総司といった人物についても照明はあたっているのですが、結果として近藤勇ではなく、土方歳三が中心に浮かび上がっています。

 

勿論、山南敬助の脱走事件や伊東甲子太郎の「油小路事件」などの定番の事件も簡潔かつ丁寧に描写されており、エンターテインメントとしてのかたちも抑えてあります。

前述の手法は、時代の変革期にその命をかけて生き抜いた若者たちの青春群像劇を際立たせることにもなり、こうした定番の事件もまた新たな視点で読むことが出来ました。

 

読み終えてみると、木内昇という作家は思いのほかに情感豊かで優しい作風の作家さんでした。

例えば、土方の義兄にあたる佐藤彦五郎の視点で語られる「盟友」の項では「どこまで行っても手に入らぬと思い込んでいた美しいものは、存外、自分のすぐ近くにあるものだ。それを知ったとき、今まで感じたことのない確かな幸福が、その人物のもとを訪れる。」と記しています。

名主という立場の彦五郎は、夢に向かって走り出せない自分だけど、代わりに夢を果たしている盟友を持つが故に、自分にも豊潤な日々の暮らしはある、と思いを巡らします。

 

更に、「脱走」の項では沖田総司の視点で山南敬助の脱走事件の顛末が語られます。他のどの作者の作品でもポイントとなる場面ではあるのですが、本作品でも特に胸に迫るものがあります。

山南を追いかける総司。その総司の内面の描写。帰営してからの特に永倉の言動が簡潔に描かれます。その解釈にとりたてて新鮮なものがあるわけではないのですが、本作品での山南と総司の描かれ方が描かれ方でしたので、一層に心に迫るのです。

 

他に、「油小路」の項では永倉新八の視点で藤堂平助の最後が語られますが、これがまたせつないのです。

 

このところ、 浅田次郎の『壬生義士伝』などの新選組三部作を読んで間も無いこともあり、読み手として新選組という題材自体の持つセンチメンタリズムに酔っているところがあるかもしれません。

しかし、そういう点を差し引いても本書の持つ魅力は褪せないと思うのです。

 

 

蛇足ですが、私はあとがきを読むまでこの木内昇という作家が女性だとは知りませんでした。「きうち のぼる」ではなく、「きうち のぼり」と読むのだそうです。

本書『新選組 幕末の青嵐』は実に面白い一冊でした。新選組という題材自体の持つセンチメンタリズムを越えたところで展開される本書は是非お勧めです。