木内 昇

イラスト1
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文庫

集英社

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現在の上野駅の西側の不忍通りを道なりに北西に進み、言問通りとの交差点を越えたあたりに本書の舞台となる根津遊郭がありました。この根津という土地は近くに「谷中」という地名があることからも分かるように、「東の上野台と西の本郷台との間にはさまれた中央の谷筋」に位置し、湿気のたまる土地であったそうです。本書は、その土地の持つ湿っぽい、どことなくやるせない雰囲気をまとわせた遊郭を舞台として、鬱屈を抱えながら生きている主人公が描かれています。

時は明治10年、明治維新の騒動もひと落ち着きした頃、御家人の次男坊だった定九郎は根津遊郭で立番(客引)をやっていた。定九郎は御一新という時代の変動の中、御家人の次男坊という身分から逃げ、根津に居ついたのだが、結局はそこに捉われているとの思いから脱却できずにいた。いつも此処では無いどこかへの飛躍を思っているが、結局は現在の自分からの逃亡であることに次第に気付き始める。

実に不思議な小説です。読み始めは先に読んだこの作家の「櫛挽道守」と同じく、無名の主人公の生き様を描く重めの物語だと決め付け、手に取るのにためらいを感じつつ読み進めていました。しかし、途中から少々雰囲気が変わってきます。登場人物が夫々に色を持ち始めるのです。龍造はヤクザに声をかけた定九郎の失敗の後始末で男を見せるし、反対に下働きの嘉吉は下衆(げす)な男として強烈で、小野菊は売れっ子花魁としての存在が強調されていきます。それなりに、登場人物のキャラが立ち、物語も動きが出てくるかと期待されます。

しかし、普通は登場人物は血肉を持った人間としての存在感があるものですが、どういう訳か本書の登場人物は定九郎とポン太を除き、その存在感をあまり感じません。強烈な「男」を感じさせる龍造すらも人物の背景は全く不明で、場面に必要な情報だけがあり、他の場面になるとその存在すら感じられないのです。でも、こうした印象は私個人だけのようで、他の人の書評を読んでも誰もこうした印象は書いていません。

ポン太はまた特別です。もしかしたら、ポン太の師匠である三遊亭圓朝の怪談話の登場人物がその場面に置かれているのではないか、そんな印象すらあります。全編を通して定九郎のそばに居るのですが、その実、見えているのは定九郎だけのような、不思議な存在です。

定九郎は常にどこか違う場所の自分を思うのですが、結局は現実に立ち戻り、生簀の中の金魚に自らの身を重ねるのです。そして物語はクライマックスへと向かいます。

全編を通して、昔読んだ漫画でつげ義春の『ねじ式』を思い出してしまいました。物語の内容も表現形式も全く違うのですが、その水底に居るような倦怠感の漂う雰囲気が、どことなく共通しているのでしょう。この物語は作品の世界にのめり込む人と、嫌う人とにはっきりと分かれるような気がします。

蛇足ながら、ポン太という人は三遊亭圓朝の弟子として実在した人だそうです。

[投稿日]2015年04月09日  [最終更新日]2015年4月9日
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