定期的に食事はするが、踏み込まない。響子とは二十二年、そうしてきた。死期が近いと告げられるまでは。硲冬樹は画家。売れない絵画きではない。横浜に数軒の酒場を持つ。硲の絵を望んだ響子。消えゆく裸身をキャンバスにして、硲は鑿で消えない絵を刻みつけようとする。男と女、北方ハードボイルドの到達点!(「BOOK」データベースより)
一人の画家の日々を通して男の生きざまを描く、北方謙三らしい長編のハードボイルド小説です。
何作も読んできた北方謙三のハードボイルド小説ですが、本作品で初めて、北方謙三の書く文章が素直に読めないという経験をしました。
私の本書に対する違和感については後述するとして、本書『抱影』の面白さ自体は北方謙三節満載の小説であって、北方ハードボイルド小説として魅せられる作品であるのは事実です。
本書の主人公は五軒の酒場を所有しており暮らしには不自由していない硲冬樹という男です。この男は号二十五万円で売れる抽象画家でもあります。
登場人物としては、酒場のうちの一軒を任されていて硲を慕う辻村というバーテンダーや、信次という若者がいます。
ほかに「ウェストピア」という店を任せているたき子という女など数人の女がいますが、特に重要なのが永井響子という女性です。
この永井響子という女性が硲の人生の中心にあり、つまりは本書の核になっています。
硲はその絵の描き方も北方小説の登場人物らしいものがあります。
対象物の、写真と見まがうほどに正確なデッサンを繰り返して何度も書き、ある時点を境に少しずつデフォルメをする期間に入り自身の体重が一気に減るほどに集中し、最終的には対象物が不明になるほどの抽象画として成立するのだそうです。
私は絵画に関しては全くの素人ですから、このような手法で人の心を打つ抽象画が書けるものなのか、それはわかりません。
しかし、北方謙三の筆はこのような描き方も不自然ではないほどの力強さをもって硲の絵画の過程を描き出していきます。
他方、硲が自分が所有する酒場を巡り、酒を飲みながらの五軒の酒場の様子を確認するという日々を描きつつ、信次とヤクザとの揉め事などをおさめたり、また美大女子学生の画の相談に乗ったりする日常が描かれます。
そうした日常の間に、硲と永井響子という女性とのプラトニックな、しかし強い結びつきが感じられる男と女の関係の描写が挟まれていきます。
こうした物語はまさに北方謙三の書く物語であり、その世界に浸りながら読み進める読書が実に心地よい時間であった筈でした。
ところが本書の場合、硲と響子というプラトニックな二人の関係性の描き方に違和感を感じてしまったようです。
この二人は多分互い惹かれ合っていながらも、あくまでも精神的なそれであり、たまに会う時も食事をして終わり、という関係です。
そんな響子は何の知識もないままの状態で硲の絵を見て、もはや形がなくなっているその絵の対象物が何であるかを断言し、また硲が目指す描きたいものを見抜きます。
こうした関係性が、他の作品ではかすかに残っていた作品の現実味、というかリアリティをなくしているように感じたのだと思います。
すなわち、私は本書で描かれているような関係性を認めることができず、本書で描かれている物語世界に素直に入っていけずに違和感を感じたと思われるのです。
これまでの北方謙三の作品でも少々出来すぎではないかと感じられるようなに人物像に出逢ったことはありました。
しかし、その作品で描かれている世界は、例えば暴力的なそれのような私の知らない世界が舞台であるため、違和感を感じる前提がなかったのではないでしょうか。
しかし、本書の場合は絵画がテーマであり、より身近です。絵画の世界の理解は出来なくても私の生活圏内に存在するものなのです。
抽象画を見てその実態を見抜くなどという芸当はできるはずがない、と頭のどこかで思っているのでしょう。
そうした違和感は、例えば硲の他者に対する女子画学生の加奈に対する態度などへの違和感へとつながり、本書全体への違和感へと連なったのでしょう。
最終的にはかつて見た任侠路線の東映映画を思い出してしまいました。背中の唐獅子牡丹を背負ったままに、消えゆく男と同質のものを感じてしまったのです。
通俗的なものにこそ、私が好む物語の流れがあるようです。
結局、面白いけれど、没入できなかった作品だった、ということができると思います。