流人道中記

万延元年(一八六〇年)。姦通の罪を犯したという旗本・青山玄蕃に、奉行所は青山家の安堵と引き替えに切腹を言い渡す。だがこの男の答えは一つ。「痛えからいやだ」玄蕃には蝦夷松前藩への流罪判決が下り、押送人に選ばれた十九歳の見習与力・石川乙次郎とともに、奥州街道を北へと歩む。口も態度も悪い玄蕃だが、道中で行き会う抜き差しならぬ事情を抱えた人々を、決して見捨てぬ心意気があった。(上巻 : 「BOOK」データベースより)

「武士が命を懸くるは、戦場ばかりぞ」流人・青山玄蕃と押送人・石川乙次郎は、奥州街道の終点、三厩を目指し歩みを進める。道中行き会うは、父の敵を探し旅する侍、無実の罪を被る少年、病を得て、故郷の水が飲みたいと願う女…。旅路の果てで明らかになる、玄蕃の抱えた罪の真実。武士の鑑である男がなぜ、恥を晒して生きる道を選んだのか。(下巻 : 「BOOK」データベースより)

 

江戸時代も末期の万延元年、一人の流人を蝦夷松前藩まで押送する若き与力の姿を描いて侍とは、法とは何かを問う、長編の時代小説です。

 

姦通の罪を犯した青山玄蕃が切腹を拒んだため、三人の奉行が知恵を絞り出した結論が預かりという処置でした。

そこで玄蕃を青森の三厩まで押送する役目を仰せつかったのが十九歳の見習い与力の石川乙次郎だったのです。

 

史料に残りえなかった歴史を書きたい」という作者の言葉がありました。読了後、あらためてそういう目で本書を眺め直してみると、江戸末期の世相および種々の手続き、流人押送の前例等々が微に入り細にわたって記されていました。

実際、よくもまあこれだけ詳しく調べたとあらためて感心させられます。その上で「そのためには、残りえた史料をなるたけ多く深く読み、名もなき人々の悲しみ喜びを想像しなければならない。」と続くのです(『流人道中記』浅田次郎 : 参照)。

例えば冒頭から二十頁まで、三人の奉行による議論の場面がありますが、雨にけむる和田倉御門外評定所までの描写には短いながらも素晴らしいものがあります。

ちなみに、この場面の挿絵の出来栄えのもまた見事です(挿絵が語る 二人の旅路 : 参照)

加えて、ここでの三人の奉行の青山玄蕃に対する処遇についての議論自体が、前提となる当時の世相、旗本としての面目、侍という存在のもつ思考方法などの理解が無ければかけるものではないのです。

 

このように、本書の頁を繰る場面ごと描かれる、今とは異なる当時の建物や部屋のたたずまい、そこにいる武士や町人の発する言葉、振る舞いなど、当時の細かな知識が必要なことがよく分かります。

更に例をあげると、旅に際し与力は馬に乗ってもよいが同心は駄目だとか、天領内は直参の面目からも馬に乗れなどの言葉、また、目的地の三厩までの概ね一月の旅程で一人片道二両掛かるという叙述、後に出てくる「宿村送り」という制度など。

また、知行二百石の旗本であっても、御目見以下の分限では冠木門しか許されず、長屋門は駄目、それでも、奴、女中をそれぞれ三人、都合六人の使用人を使う、などきりがありません。

そして、こうした細かな知識がこれでもかと物語の流れの中に記されていながらもなぜか読書の邪魔をしません。さらりと書かれているので、読み手もさらりと読み流してしまうのでしょう。

でありながらも、どこかで見た、読んだ豆知識として頭の片隅には残っているようで、再度似た情報に接していくうちに固定されていくのです。

 

このような点を背景に、何といっても押送人である石川乙次郎の成長の様子が読みごたえがあります。

旅の途中で巻き起こる様々な出来事に対する玄蕃の対処、それに対する乙次郎の見方の変化は小気味がよく感動的です。

ただ、上巻を読み進めるうちは、旅の途中の初めて食べた鰻の味や次の按摩や稲葉小僧のエピソードなどは浅田次郎の名作『壬生義士伝』や『黒書院の六兵衛』などの感動からは遠い印象しかありませんでした。

 

 

しかし、下巻に入り小僧の亀吉の哀しみに満ちたエピソードや、「宿村送り」などという聞いたこともない話などを読み進むうちに様子が変わってきます。

これまでのエピソードの小さな興奮が読み手の心に積み重なっていたのでしょう。クライマックスに至っては強烈な感慨を抱くまでに至っていました。

本来であれば、その間の状況をこそ述べるべきなのかもしれませんが、ネタバレなしで書く自信はありません。

旧態依然とした社会制度、そうした制度を顧みることもない役人、人間が制度の中で生きるということを体現する侍の生き方、などに対する浅田次郎の思いが凝縮されたラストだと思います。

先日読んだ浅田次郎の『大名倒産』などで示された繫文縟礼で示される幕府の制度も同様の思いから書かれたと思われます。

 

 

ただ、残された青山玄蕃の家族を思うと、玄蕃の自己満足ではないか、もっと他の方法があったのではないか、との思いがあるのも事実です。

玄蕃の貫いた人間としての生き方、玄蕃なりの武士道は結局は残された家族らの犠牲の上に在るのではないでしょうか。

そうしたことも含めて、浅田次郎ここにあり、と明言できるさすがの小説でした。

大名倒産

泰平の世に積もりに積もった大借金に嫌気のさした先代は縁の薄い末息子に腹を切らせて御家幕引きを謀る。そうとは知らぬ若殿に次々と難題が降りかかる!笑いと涙の経済エンターテインメント、始まり、始まり―(上巻 : 「BOOK」データベースより)

御国入りで初めて見る故郷の美しさ、初めて知る兄弟の情。若殿は倒産阻止を決意するが、家臣共々の努力も焼け石に水。伝家の宝刀「お断り」で借金帳消しの不名誉を被るしかないのか。人も神様も入り乱れての金策に、果たして大団円なるか―(下巻 : 「BOOK」データベースより)

 

浅田次郎が得意分野の一つとする、長編のユーモア時代小説です。

個人的には、浅田次郎のユーモア小説としては今一つという印象でした。

 

越後松平丹生山三万石は借金二十五万両、利息だけで年三万両を抱え、全く金がなかった。そこで元藩主である第十二代松平和泉守は「大名倒産」を図り、何も知らない庶子の小四郎にすべてをかぶせることにした。

しかし、その小四郎こと松平和泉守信房は何とか藩の立て直しを図ろうとする。

ところが、丹生山松平家にとりついていた貧乏神は、薬師如来に助けられて心を入れ替え、七福神の力も借りて、小四郎を助けることとするのだった。

 

利息だけでも年に三万両という膨大な借金を前に、大名家をつぶしてしまおう、それも借金に充てるべき金をため込んで返さずに大名倒産を企図するというその発想自体、普通ではありません。

当然、登場人物もそれに合わせて普通ではありません。

御家滅却を図る中心人物としてある御隠居様こと先代の松平和泉守自身が、時には百姓与作、また時には茶人一孤斎、他にも職人左前甚五郎、板前長七などを演じ分ける奇人です。

そのそれぞれの人格の持つ才能は超一流だというところが一段と奇人ぶりを示しています。

更には江戸定府の天野大膳やご隠居様の側近である加島八兵衛などがいます。

 

それに対し、丹生山松平家の立て直しを図ろうとする立場では中心となる小四郎がいて、それを助ける仲間として幼少期の寺子屋仲間の磯貝平八郎矢部貞吉それに他家の勘定方であった比留間伝蔵らがいて小四郎を助けます。

特筆すべきは小四郎を助ける存在として貧乏神七福神などがおり、影の存在としてこの物語を仕切っていることです。

 

とにかく、まさに浅田次郎の物語であり、浅田次郎の『憑神』のように神様をも巻き込んでのドタバタ劇が演じられるのです。

ただ、『憑神』で登場した貧乏神は、「陽」の印象があった神様でした。だからこそ映画版では西田敏行が貧乏神に扮しても違和感がなかったのです。

 

 

しかし本書においての貧乏神はまさに見た目から貧乏であり、「陰」の神様です。そもそも怪我をした貧乏神が仏である薬師如来に助けられた恩返しに善きことをするというのですからちょっと違います。

その上で貧乏神の依頼に応じて小四郎らを助けようとする、酒を浴び、あるいは恋に溺れる人間味あふれた存在である七福神がいます。

このように、この物語で登場する神や仏は、浅田次郎の物語らしく実に人間的です。

例えば毘沙門天(別名多聞天)ことヴァイシュラヴァナ弁財天ことサラスヴァティーと艶めいた関係があり、また斬り殺されそうになっていた人間を助けるために死神に口づけをすることでこれを助けたりもしています。

 

以上のように、本書は浅田次郎ワールド全開の作品としての魅力が満載された作品です。

それは、小四郎の次兄・新次郎とその妻お初とのやりとりや、三兄・喜三郎の人柄や小四郎との会話、小四郎の育ての親である間垣作兵衛の話など、心を打つ場面が随所にあるところからもわかります。

一方、お初の父であり、大番頭という侍の中の侍と言われる小池越中守が丹生山へ帰る小四郎について大好きな鮭を食べるためだけに国入りをするなど、コミカルな側面も同様です。

 

浅田次郎の文章が胸に迫る理由の一つに、人物の心象描写の上手さがあります。短めの文章で畳みかけるように、疑問文を投げかけ、事実を断定し、その時の心根を断言します。

天切り松 闇がたりシリーズ』のときは、浅田次郎本人が、また十八代目中村勘三郎が言う「黙阿弥を彷彿とさせる江戸弁」でもって「男の色気」を出していたのですが、本書ではそうした技巧ではなく、浅田次郎の文章の力で読ませていると思われます。

 

 

しかしながら、個々の登場人物にまつわる出来事では丁寧な印象があるものの、ストーリー全体を通しての構造は少々簡略に過ぎると感じられました。

つまりは、小四郎の成功、それに対する御隠居様の末路に至る過程が簡略に過ぎたのです。

その点は、人格を有する神を登場させ、人間の幸、不幸の陰には神や仏の存在があるという物語世界、である以上は仕方のない、というよりは当然のことであるかもしれません。

人間の努力があり、その努力に対して神が力を貸すという世界である以上は、商人の商売繁盛も、豪商の家業繁栄も最終的には神の加護があればこそ、というのですから、物語の流れも少々無理筋になるのでしょう。

ただ、その点が納得できず、浅田次郎という作者に対してはより練り上げられた設定での物語展開を期待してしまうのです。

 

最後になりましたが、書き忘れていたことがありました。

それは、作者自身の「私が生まれた昭和二十六年は、大政奉還から算えて八十五年目にあたる。」との一文に驚かされたことです。

同年生まれの私に、現実を突き付けられた思いだったのです。私は明治維新からまだ百年もたっていない時代に生まれたのだと。

本書は本書として十分に面白い作品です。ただ、それ以上の要求をしてしまうファンがいたということでした。

おもかげ

商社マンとして定年を迎えた竹脇正一は、送別会の帰りに地下鉄の車内で倒れ、集中治療室に運びこまれた。
今や社長となった同期の嘆き、妻や娘婿の心配、幼なじみらの思いをよそに、竹脇の意識は戻らない。
一方で、竹脇本人はベッドに横たわる自分の体を横目に、奇妙な体験を重ねていた。
やがて、自らの過去を彷徨う竹脇の目に映ったものは――。(「内容紹介」より)

 

親子・家族の情愛が満開の浅田次郎節にのせて展開される長編のファンタジー小説です。

 

第一章の冒頭の「旧友」の項で、ある会社の社長の堀田憲雄が中野の国際病院に駆けつけるところからこの物語は始まります。その病院には堀田と同期入社の竹脇正一が入院していました。

次の項「妻」では視点が変わり、竹脇正一の妻節子の視点で語られます。夫正一は誕生日の翌日、すなわち定年退職の翌日の十二月十六日に、帰りの地下鉄の中で花束を抱えたまま倒れたのでした。

それから項が変わるたびに竹脇正一の娘・茜の夫である大野武志、大野武志の親方でもある永山徹と視点が変わります。

そして第二章での「マダム・ネージュ」と「静かな入り江」という二つの項では、共に竹脇正一の視点で、マダム・ネージュと仮の名前を入江静という二人の女性との会話が示されます。

その後も、そして、三章、五章という奇数の章では大野武志や看護師の児島直子、隣のベッドに眠る榊原勝男、娘の茜、大野武志、節子の視点と項ごとに語りの主体が変わるのです。

また第四章と第六章では竹脇正一の視点で、隣のベッドに寝ている榊原勝男との銭湯行き、榊原勝男ことカッちゃんの初恋の人である峰子との地下鉄丸ノ内線での会話、正一が初めて心から愛した古賀文月についての話が語られます。

つまり、偶数章では項が変わっても視点は竹脇正一に固定され、語る対象が異なるだけになります。

 

このように各章の項ごとに視点の主体が変化しながら物語は進んでいくのですが、こうしてこの物語の全体像を改めて見直してみると、実に慎重に計算され、伏線があちこちに張り巡らされた小説であることが鮮明に浮かび上がってきます。

 

本書で重要な役割を果たしているのが地下鉄です。それもかつては営団地下鉄と言っていた今の東京メトロの丸ノ内線です。

この丸ノ内線は私が学生の頃よく乗った地下鉄です。中野坂上駅から分岐した一つ目の駅の中野富士見町に住み、次いで竹脇正一が始発駅と言っている荻窪へと引っ越しましたので、いつも乗っていた電車なのです。

御茶ノ水駅を経由して池袋まで走るこの路線は、さだまさしの「檸檬」という歌や、吉田拓郎の「地下鉄にのって」という歌にも歌われていて、青春を過ごした街・東京を思い出させる路線でもあります。

 

 

 

さらに個人的なこととの絡みで言えば、本書の主人公の竹脇正一は、作者の浅田次郎の誕生年である1951年の生まれであって私と同年齢でもあります。

ですからこの本で述べられている幼い頃から学生時代頃までの想い出のほとんどは、熊本市という地方都市から上京していた私の思い出とも重なるのです。

 

そうした個人的な心情を除いても、本書で描かれている情感の描写は見事です。

特にクライマックスになってからの、短めの文章をたたみかける、心の奥に訴えかけてくるリズミカルな言葉の連なりの美しさは他の人では書けないものがあります。

例えば、第六章での「黄色いゆりかご」の項での二つの《神田》での、「君がはたちになれば・・・」からの一文と、「僕がはたちになれば・・・」との一文とのリフレインは心打たれます。

 

浅田次郎にはその名も『地下鉄(メトロ)に乗って』という小説がありました。地下鉄が主人公を過去の世界に連れて行く物語であり、家族について考えさせられるファンタジックな長編小説でした。

第二次世界大戦直後の日本に連れていかれた主人公小沼信次は、そこで過去に戻る前の世界では反発していた若い頃の父小沼佐吉に出逢い、そして、父の来し方をたどることになり、その生きざまを見ることになるのです。

 

 

あらためて本書を見返すと、この物語の終盤に至るまで、私は本書の様子がよく分かりませんでした。

はじめは各項で視点を移し各々の登場人物の心象を描いている描き方からみて、竹脇正一という人物の姿をミステリアスに明らかにしていく物語だとの思い込みを持っていました。

確かにそうした面もあるのですが、しかし、物語が進むにつれて物語はファンタジックな内容へと変化をしていき、竹脇正一のいまだ不明な過去に焦点が当たっていくにつれ、そうではないと思えてきました。

クライマックスに至っては浅田節に取り込まれてしまい、明かされた竹脇正一の生まれの謎などが一気に読み手の心の中に流れ込んできます。

残されたものは感動でしかありませんでした。

 

最後に竹脇正一はどうなるのか、レビューを見るといろいろなとらえ方があるようです。正解はない、個々人の捉え方の問題でしょうから、是非自分で読んで結末を考えてもらいたいものです。

できれば、前に読んだ文章の意味がここにつながるのかという驚きの発見という意味でも、再読をした上で考えてもらいたい作品です。

浅田次郎の語りの手腕に見事にはまってしまった一篇でした。

神坐す山の物語

奥多摩の御嶽山にある神官屋敷で物語られる、怪談めいた夜語り。著者が少年の頃、伯母から聞かされたのは、怖いけれど惹きこまれる話ばかりだった。切なさにほろりと涙が出る浅田版遠野物語ともいうべき御嶽山物語(「BOOK」データベースより)

 

柳田国男の『遠野物語』を思わせる、浅田次郎の描き出す怪異譚で構成される短編集です。本書のタイトルは「かみいますやまの・・・」と読むそうです。

 


 

神上がりましし伯父
作者と思われる語り手(主人公)自身の体験。普通の人には見えないものが見える霊力を持った自分が、自分に会いに来た伯父の姿を見て、伯父の死を知る。

兵隊宿
主人公の祖母イツの語る、雪の降る夜に行方不明者を探していた砲兵隊の物語。

天狗の嫁
主人公が語る、主人公の母親のすぐ上の姉である少女のように小柄なカムロ伯母の、嵐(伊勢湾台風)の夜などの思い出


主人公の母親とは親子ほどにも歳が離れていたちとせ伯母が寝物語に語る、夏の新月の晩にやってきた喜善坊と名乗る修験者の話。

見知らぬ少年
主人公自身が出会った、かしこと名乗る一人の少年とのひと夏の物語。

宵宮の客
ちとせ伯母が寝物語に語る、一夜の宿を求めてやってきた一人の男の物語。

天井裏の春子
ちとせ伯母が寝物語に語る、狐が憑いた、仮に春子と呼ばれたモダンガールの物語。

 

どの物語も、これまでに私が読んできた浅田次郎の作品とは毛色が異なった作品集でした。

 

先に『遠野物語』のようだとは書きましたが、私は遠野物語を読んだことはなく、本書「あとがき」などで記されている言葉をもとに分かりやすいかと思い書いたものです。つまりは、不思議物語集だということです。

 

 

本書の舞台は東京都の西部にある「御嶽山(みたけさん)」山頂の武蔵御嶽神社です。高名な木曽の「御嶽」との混同を避け、「ミタケ」と読ませたのだろう、と本文中にありました。

この神社が作者浅田次郎の母方の実家であったそうで、本書「あとがき」での作者の言葉によれば、浅田次郎の作品である『あやし うらめし あなかなし』に収録された「赤い絆」と「お狐様の話」のモチーフとなった出来事はすべてこの神社を舞台にした本当にあったこと、だといいます。

 

 

本書は、それらの物語と同列の短編ということになります。

聞き語りの形式で書かれている「あとがき」で、聞き手東雅夫氏の「ストーリーは、どの程度脚色されたのでしょうか」という質問に対し、著者は、「神上がりましし伯父」での白黒二頭のお狗様を目撃するエピソードは実体験だと言っていますし、他の話にしても、そうした話が事実として語り継がれていた、と述べられています。

 

この「あとがき」の最後で、作者が「余分なことは一行も書くまいと心に決めていました。」とあったのですが、この文言が読み手として気になりました。

つまりは、実際に読んでみて、いつも通りの浅田次郎のうまい文章だとの感想は持ったものの、「余分なこと」の有無などは何も感じられなかったのであり、読み手として作者のその姿勢は何も感じなかったのです。

 

また、「具体的には、どのようにすれば最小限の文章の中に、大きな物語を入れられるのかを常に考えていました」と言われているのですが、その点でも感じるところはありませんでした。

結局、読み手としての力量の無さを指摘されただけのような気がしたものです。

 

短い定型詩が文学の主流であり続けたのが日本文学の特徴だという作者は、日本を表現するにはそれと同じような気持ちで書かないといけないというのです。

そんな読み方のできていない私にはかなり耳の痛い「あとがき」でした。

 

本書の内容に関しては、内容がホラーであり、これまでの浅田作品にみられるユーモアに満ちた文章は影をひそめ、神域の厳かな雰囲気を醸し出す、落ち着いた文章で構成されています。

ただ、「ホラー」と言い切っていいものかは疑問もあります。怪異譚ではありますが、怖がらせるという話ではなく、神域で起きる通常ではありえない話ということに過ぎないからです。

また、各短編の話の主体が、主人公自身の経験であったり、伯母が聞いた話であったりと、若干混乱しそうになったりもしますが、丁寧に読みさえすれば何の問題もありません。

 

浅田次郎の母方の実家で実際に起きたという、話を集めたものともいえます。どこか自身の幼いころの話にも通じる懐かしさもある短編集でした。

長く高い壁

1938年秋。流行探偵作家の小柳逸馬は、従軍作家として北京に派遣されていた。だが、突然の要請で前線へ向かうこととなる。検閲班長の川津中尉と共に、北京から半日がかりで辿り着いた先は、万里の長城、張飛嶺。そこで待っていたのは、第一分隊10名が全員死亡という大事件だった。なぜ、戦場に探偵作家が呼ばれたのか。10名は戦死ではないのか!?分隊内での軋轢、保身のための嘘、軍ならではの論理―。従軍作家の目を通し、日中戦争の真実と闇が、いま、解き明かされる。「戦争の大義」「軍人にとっての戦争」とは何かを真摯に捉え、胸に迫る人間ドラマ。(「BOOK」データベースより)

 

日中戦争を背景に、万里の長城で起きた事件を描く長編の推理小説です。

 

作者の浅田次郎は「戦争を書くことは自分の使命だと思っています。」と言われ、これまでにも『日輪の遺産』『歩兵の本領』『終わらざる夏』『帰郷』などの戦争をテーマにした作品を発表しておられます。それは一つには浅田次郎自身が自衛隊出身だということもあるのでしょう。

そこには、

戦後は復員兵と街娼があふれていたのに、「悪い過去」を語る人はいない。僕の両親も戦争の話はしなかった。楽しかった思い出は話しても、辛かった話はけっしてしないんです。「負の歴史」というのは、語り継いでいかないと、そうやって消えてしまうんです。

という思いがあるようです。また、別な場所では

昭和26年、つまり終戦直後に生まれた僕の世代は、・・・・・・ 親からたくさん戦争の話を聞いて育っていて、だからこそ戦争を描くべき使命感がある。

とも言われていて、軍隊を描く明確な意思をもっておられるようです。

昭和二十六年生まれの浅田次郎氏は私と同じ時代を生きている人であり、彼が見た傷痍軍人などの風景は私の見た風景でもあります。ただ、同じ風景を見ているはずなのにそこから感じ取るものがこんなにも異なるのか、とも思い知らされます。

そうした作者が日中戦争を舞台に描かれたのが本書です。

 

万里の長城の「張飛嶺」で第一分隊の十名全員が死亡するという事件が起き、周りが共産匪の仕業だと決めつける中、従軍作家として北京に派遣されていた小柳逸馬が、探偵作家だということを理由に現場に派遣され、この事件の真相を探るように命じられます。

小柳逸馬は東京帝大卒で小説家志望だった検閲官の川津中尉とともに前線へと向かい、二等兵から叩き上げの小田島軍曹の出迎えのもと、関係者を尋問し、現場検証を経てこの事件の謎の解明へと導きます。

解明のための尋問の対象は、青木軍曹、加藤一等兵、山村大尉、海野伍長、それに張氏飯荘オーナーの張一徳といった面々であり、実社会を反映した個性豊かな人間たちばかりだったのです。

 

小柳らの活動を通して、読者には軍隊の仕組みも次第に明らかになります。例えば小田島の上官の銀行員であった山村大尉は軍人としての給料が出ますが、なんと銀行からの給料も支払われていたそうです。

他にも小柳逸馬のような従軍作家には少なくない支度金が支払われていたなどの知識もちりばめられています。

 

そもそも本書では「張飛嶺」での第一分隊全員の死亡の原因という謎もさることながら、この事件の解決のために何故に流行作家が派遣されたのか、などの事実も明確にされます。

そこでは、軍隊というもののありようも絡めて明らかにされていくのですが、理不尽な組織としての軍隊が描かれるこの点こそが、浅田次郎の書きたかったことなのでしょう。

 

ちなみに、事件の舞台をなっている「張飛嶺」は、万里の長城の中でも特に峻嶮な場所の「司馬台長城」をモデルとした架空の場所だそうです( カドブン インタビュー : 参照 )。

 

ともあれ、初めてのミステリーとは思えない、しかし、いかにも浅田次郎らしい物語でした。

わが心のジェニファー

婚約者の求めで日本にやってきた米国人青年。東京、京都、大阪、九州、北海道…。神秘のニッポンを知る旅を始めた彼を待ち受ける驚きの出来事と、感涙の結末とは!(「BOOK」データベースより)

一言で言うと、一人のラリーというアメリカ人青年を通してみた日本という国を紹介した物語です。ただ、作者である浅田次郎の考えというフィルターを通したアメリカ人青年の主観的な日本感だということからか、微妙な違和感を感じます。

作者は、日本に留学している外国人留学生の日本感を聞いてたそうですから、ラリーという青年の日本感にはかなりの客観性はあると思われます。しかしながら、ラリーの語る日本は過剰なまでのサービスの国であり、日本人はみんな親切で、現実を知る人間にとっては妙な齟齬を感じました。

たしかに、日本人の親切さなことは事実であり、サービスの行きとどくことも事実だとは思うのですが、本書で述べていることはさすがに行きすぎではないかと思われるのです。

ただ、本書は物語もラリーが湯の町別府を訪れる後半に入るとファンタジーの要素が強くなってきますが、ファンタジーという観点からあらためて考えてみると、なにも後半ということではなく、この物語の当初から緩やかなファンタジーと言っていい気もしてきました。

浅田次郎という作家がもともとコメディータッチの作風を得意としていることを考え合わせると、緩やかなファンタジーの中に軽い皮肉を含ませながらも、やはり自然と融合した文化を育んできた日本という国への賛歌である、と素直に捉えていいのではないかという気がしてきたのです。


本書が面白い小説家と問われれば、大絶賛しつつ是非お読みなさい、というわけにはいきません。正直面白い物語だったとは思えないのです。それでもなお、この人の文章は読みやすく、心地よいものであったということは言えると思います。

壬生義士伝』や『天切り松-闇がたりシリーズ』で見せた名調子はありません。普通の散文だと言えると思います。それでもなお、心地よく読める文章であるというのは、私の好みと合致したというよりも、浅田次郎という作家の素晴らしい才能ゆえのことだと思われるのです。

夕映え天使

東京の片隅で、中年店主が老いた父親を抱えながらほそぼそとやっている中華料理屋「昭和軒」。そこへ、住み込みで働きたいと、わけありげな女性があらわれ…「夕映え天使」。定年を目前に控え、三陸へひとり旅に出た警官。漁師町で寒さしのぎと喫茶店へ入るが、目の前で珈琲を淹れている男は、交番の手配書で見慣れたあの…「琥珀」。人生の喜怒哀楽が、心に沁みいる六篇。(「BOOK」データベースより)

「夕映え天使」
男やもめの親子がやっている中華料理屋に、住み込みで雇われていたその女は、親子二人の生活に深く馴染んだ頃に居なくなった。しばらくして警察から一本で電話が入った。
「切符」
両親はそれぞれに女や男を作って出ていった。広志がじいちゃんと暮らす家の二階には間借り人の八千代さんが男と暮らしている。東京オリンピックの開会式の日、運動会を見に来てくれると約束してくれた八千代さんは二階の部屋を出ていくことになった。
「特別な一日」
定年を迎えたと思われる男の「特別な一日」を追いかけたSFチックな短編。
「琥珀」
荒井敏男は、とある町の片隅で十五年の間「琥珀」という名の珈琲専門店を営んでいた。そこに、定年前の有給休暇消化の旅をしているという男が飛び込んでくる。
「丘の上の白い家」
それぞれに不幸を背負う少年たちと、丘の上の白い家に住む天使のような少女との人生の交錯が描かれます。
「樹海の人」
演習で富士樹海に取り残された主人公の遭遇したものは現実か。

本書の解説を書かれている鵜飼哲夫氏によると、本書は感覚的に捉えたものが思想であるとする小説作法に似ているらしく、表現したい思想や感情を念入りに表現するという浅田次郎の流儀とは異なる「新たな境地」示しているのだそうです。

そうした理解は私の力量を越えた次元のものであり、私の読書力では本書と他の作品との差異を認識できるものではありません。ただ、浅田次郎という作家は、人間の営みそのものに根差す心情、情念を切り取り表現しようとしているという印象は受けます。

それは、「夕映え天使」での、男たちの心に住み着いてしまった一人の女への想いであり、また「切符」での、一人の少年の二階に住んでいた優しい八千代さんへとの別れに対する哀しみでもあると思うのです。

浅田作品に共通して漂っている雰囲気は、「昭和」という時代の持つ、感傷とも異なるやりきれなさのような感情です。

ご本人の言葉として、「切符」についてではありますが、「『切符』のテーマを一口で言えば、『喪失』ということになりますね」と言われています。発展のシンボルとしての東京オリンピックは同時に「以前あった風景がどんどん壊されていく」ということだと言われるのです。

また、「幸せな人間を書いても面白い話は作れない。しかし、不幸の様相というのは千差万別だから、全部違ったストーリーができる」とも言われています。そこから「琥珀」のような物語も生まれてくるのだとも言われます。

そうした、「切符」における「喪失」感や、「琥珀」で描かれている町にゆったりと流れる時間、「丘の上の白い家」に見られるどうしても乗り越えられない運命のようなむなしさ等々が、美しい文体で描かれている本書です。

間違いなく浅田次郎の物語であり、切なさあふれる短編集です。

霧笛荘夜話

とある港町、運河のほとりの古アパート「霧笛荘」。法外に安い家賃、半地下の湿った部屋。わけ知り顔の管理人の老婆が、訪れる者を迎えてくれる。誰もがはじめは不幸に追い立てられ、行き場を失って霧笛荘までたどりつく。しかし、霧笛荘での暮らしの中で、住人たちはそれぞれに人生の真実に気付きはじめる―。本当の幸せへの鍵が、ここにある。比類ない優しさに満たち、心を溶かす7つの物語。(「BOOK」データベースより)

「港の見える部屋」
横なぐりの雨が沫(しぶ)く嵐の晩に星野千秋と名乗る女が来た。何度も死にそこねたというその女は、眉子という名のホステスに世話を受ける。
「鏡のある部屋」
隣の部屋に住んでいた眉子の本名は「吉田よし子」といった。二枚目の夫と二人の子を得て経済的にも恵まれていたのだが、よし子は家を出た。
「朝日のあたる部屋」
その次の部屋には眉子に可愛がられていた鉄夫という名のヤクザ者が住んでいた。人の良い鉄夫は、すぐ上の部屋に住む四郎という売れないバンドマンを助ける。
「瑠璃色の部屋」
四郎は、すぐ上の足の悪い姉に助けられ北海道の田舎町から上京してきた。そんな四郎は、隣の部屋に住むオナベのカオルに文句を言われながらも助けられていた。
「花の咲く部屋」
集団就職で工場にやってきた花子は、給料も先に上京していた年の離れた兄に前借をされていた。そんな花子が駆落ちの末に転がり込んだカオルの部屋は、馥郁たる香りが溢れるゼラニウムやブーゲンビリアの花園だった。
「マドロスの部屋」
自分が送った遺書を読んだ娘の現実を知った園部幸吉は、復員後一年近くも着ていた軍服をマドロス服と取り換え、「霧笛荘」にやってきた。
「ぬくもりの部屋」
「霧笛荘」の買収の担当だった山崎茂彦は、成果を上げられないでいたが、早急の解決のためだと高額の買収費用を準備される。

運河のほとりにある古いアパート「霧笛荘」。そのアパートの管理人の老婆が、六つの部屋に住んでいた六人の住人について語る、全七編のせつなさあふれる短編集です。

連作短編集と言ってもいいくらいに、それぞれの話の登場人物が少しづつ関連しているのですが、物語自体は独立した話として成立しています。そして、それぞれの話は、通常の「幸せ」な生活からはずれた人生を送らざるを得ない、「不幸せ」な人生を送っている人たちの、切なさあふれる物語です。

しかしながら、ここに登場する人たちは、皆自分の自分の人生に正直に、そして一生懸命に生きようとしている人たちです。浅田次郎は、通常の「幸せ」の基準とは合わない、自分の生に真剣に立ち向かう人々へエールを送っているようでもあります。

浅田次郎のユーモアに満ちた物語からすると、本書はかなり暗い分野に属しますので、こうした物語は苦手という方もいるかもしれません。しかし、浅田次郎の美しい文章で語られる切ない物語は、やはり心に染み入る浅田次郎の物語です。

この物語に関しては、イメージCDが出されています。試聴してみると、バイオリンの高嶋ちさ子、ピアノの加羽沢美濃らの演奏で、心地よく、美しいメロディーが聞こえてきました。右のイメージリンクからAmazonへ行き、是非試聴してみてください。

薔薇盗人

「あじさい心中」 リストラにあった北村は、ふと出かけた地方競馬にも負け、ふと立ち寄ったとある温泉町で、盛りを過ぎた踊り子と出会い一夜を過ごしてしまう。

踊り子が自分語りをする場面は、浅田次郎らしい哀切に満ちた場面です。会ったばかりの男と女の交情の結末は思わずうなってしまいました。

「死に賃」 死の苦痛と恐怖から免れるためにはいくら払うか、と聞いてきた長年の友人の小柳が、真夜中の心不全で逝った。その小柳から貰った、安楽死を約束するというダイレクトメールが大内惣次の手にあった。死期を感じた大内。しかしそのサービスは摘発され、代わりに身近にいた秘書の松永の存在に気づく。

金儲けのために一生懸命に働いてきた主人公の、死の床での話は夢か現実か。主人公に尽くした秘書の美しさがファンタジーの中に光る好編です。

「奈落」 一人の男が何故か未到着のエレベーターの扉が開いたため、そのまま乗りこみ落ちて死んだ。その通夜の後、男の属していた会社の社員たちは男についていろいろ語るのだった。

死んだ男の会社の社員らや役付き、社長や会長達の、死んだ男をめぐるそれぞれの思惑を絡めながらの会話のたびに、隠された秘密が少しずつ明かされていきます。全編会話文だけの、サラリーマンの悲哀も漂う、少々考えさせられる短編です。

「佳人」 お嫁さん紹介を生きがいとしている母に、完全無欠な男と言える吉岡英樹という部下を紹介してみる気になった。そして、吉岡を呼び母に会わせたのだが・・・。

ショートといっても良いくらいの、十五頁ほどしかない短編です。しかし、ショートだからこその意外なオチが待っていました。

「ひなまつり」 もうじき中学生になる弥生が一人で留守番をしていると、前に隣の部屋に住んでいた吉井さんが訪ねてきた。こんな人がお父さんだったらと思うけれど、ダメなんだろう。でも、・・・。

弥生の視点で語られる本作品は、昭和の匂いが強く漂う小品です。もうすぐ中学生なろうとする女の子の一途な思いを描いてあります。

「薔薇盗人」 豪華客船の船長である父親に向けての小学六年生の男の子の、自分の近況を報告している手紙という形式で進みます。

すべてが無垢な子供の視点で、客観的に記されています。そこには、母親が家庭訪問に来た先生と長いこと話しこんでいたりする姿も報告してあるのです。

どの物語も人と人とのつながりについて、幾種類もの見え方を示してくれている作品集です。特に冒頭の「あじさい心中」が浅田次郎らしさが一番出ている作品に思え、心に残りました。

獅子吼

時代と過酷な運命に翻弄されながらも立ち向かい、受け入れる、名もなき人々の美しい魂を描く短篇集。(「BOOK」データベースより)

「獅子吼」 「飢えたくなければ瞋(いか)るな。」という父の訓(おし)えを胸に、檻の中で生きている獅子。視点は移り、獅子の世話をしている草野二等兵に動物園の動物たちの殺害命令が下りる。
「帰り道」 高度成長期の時代を背景に、ハイミスの清水妙子という女性の、二つ年下のインテリ工員の光岡に対する想いを描いた作品。
「九泉閣へようこそ」 ひなびた温泉宿での恋愛模様ですが、結局は九泉閣という「宿」目線になったりと、よく理解できない小説でした。
「うきよご」 東大を目指す浪人生の物語です。松井和夫は、京都の実家でも尚友寮でも自分の場所が見つかりません。腹違いの姉との微妙な雰囲気を漂わせながらも、一人の浪人の一時期が切りとられています。
「流離人(さすりびと)」 冬の日本海岸を走る列車で知り合った「さすりびと」と自称する老人の回想で、終戦近い中国大陸をいつまでも赴任先へと旅をしている軍人の話が語られます。
「ブルー・ブルー・スカイ」 戸倉幸一はカジノで大負けし、帰り道でポーカー・マシンで大当たりを出すが、そこに現れたのは、ギャングを思い立ちコルト・ガバメントを握りしめたサミュエルだった。

「獅子吼」は戦争の無意味さを忍ばせた作品。誰もが知っている『かわいそうなぞう』という童話のもとにもなった、上野動物園での象の花子の殺処分の話をもとに練られてであろう作品です。声高に反戦をうたいあげるのではなく、この作品のように非日常の世界を作り上げながら、人間ドラマと絡めた上での動物目線の話は浅田次郎ならではの物語です。

「帰り道」は最後の一行に至るまでの話の運び方のうまさにつきます。ただ、物語の意図はよく分かりませんでした。当時の時代を描いた、というだけのことでしょうか。それとも最後の一行のための物語でしょうか。

「九泉閣へようこそ」は、先にも書いたように男女の物語のようで、そうではないような、よく分かりません。

「うきよご」は、昭和という時代でも、またかつての渋谷の匂いでもない、作者と同じ世代の私にも感じられない独特の雰囲気を持った、不思議な小説です。かつて読んだ浅田次郎の『霧笛荘夜話』の雰囲気を思い出していました。この作品も時代や場所を感じさせない物語であり、ファンタジックな雰囲気を持っていました。

「流離人(さすりびと)」は、戦争に対する作者の思いがわりとはっきりと表れているファンタジックな物語で、かなり好きな物語でした。

最後の物語である「ブルー・ブルー・スカイ」も、意図が分かりにくいお話でした。

どの物語もまぎれもなく浅田次郎の語り口です。しかしながら、若干理解しにくい作品もありました。ただ、表題作の「獅子吼」や「流離人(さすりびと)」などはまさに私の好きな浅田次郎の作品でした。