神坐す山の物語

奥多摩の御嶽山にある神官屋敷で物語られる、怪談めいた夜語り。著者が少年の頃、伯母から聞かされたのは、怖いけれど惹きこまれる話ばかりだった。切なさにほろりと涙が出る浅田版遠野物語ともいうべき御嶽山物語(「BOOK」データベースより)

 

柳田国男の『遠野物語』を思わせる、浅田次郎の描き出す怪異譚で構成される短編集です。本書のタイトルは「かみいますやまの・・・」と読むそうです。

 


 

神上がりましし伯父
作者と思われる語り手(主人公)自身の体験。普通の人には見えないものが見える霊力を持った自分が、自分に会いに来た伯父の姿を見て、伯父の死を知る。

兵隊宿
主人公の祖母イツの語る、雪の降る夜に行方不明者を探していた砲兵隊の物語。

天狗の嫁
主人公が語る、主人公の母親のすぐ上の姉である少女のように小柄なカムロ伯母の、嵐(伊勢湾台風)の夜などの思い出


主人公の母親とは親子ほどにも歳が離れていたちとせ伯母が寝物語に語る、夏の新月の晩にやってきた喜善坊と名乗る修験者の話。

見知らぬ少年
主人公自身が出会った、かしこと名乗る一人の少年とのひと夏の物語。

宵宮の客
ちとせ伯母が寝物語に語る、一夜の宿を求めてやってきた一人の男の物語。

天井裏の春子
ちとせ伯母が寝物語に語る、狐が憑いた、仮に春子と呼ばれたモダンガールの物語。

 

どの物語も、これまでに私が読んできた浅田次郎の作品とは毛色が異なった作品集でした。

 

先に『遠野物語』のようだとは書きましたが、私は遠野物語を読んだことはなく、本書「あとがき」などで記されている言葉をもとに分かりやすいかと思い書いたものです。つまりは、不思議物語集だということです。

 

 

本書の舞台は東京都の西部にある「御嶽山(みたけさん)」山頂の武蔵御嶽神社です。高名な木曽の「御嶽」との混同を避け、「ミタケ」と読ませたのだろう、と本文中にありました。

この神社が作者浅田次郎の母方の実家であったそうで、本書「あとがき」での作者の言葉によれば、浅田次郎の作品である『あやし うらめし あなかなし』に収録された「赤い絆」と「お狐様の話」のモチーフとなった出来事はすべてこの神社を舞台にした本当にあったこと、だといいます。

 

 

本書は、それらの物語と同列の短編ということになります。

聞き語りの形式で書かれている「あとがき」で、聞き手東雅夫氏の「ストーリーは、どの程度脚色されたのでしょうか」という質問に対し、著者は、「神上がりましし伯父」での白黒二頭のお狗様を目撃するエピソードは実体験だと言っていますし、他の話にしても、そうした話が事実として語り継がれていた、と述べられています。

 

この「あとがき」の最後で、作者が「余分なことは一行も書くまいと心に決めていました。」とあったのですが、この文言が読み手として気になりました。

つまりは、実際に読んでみて、いつも通りの浅田次郎のうまい文章だとの感想は持ったものの、「余分なこと」の有無などは何も感じられなかったのであり、読み手として作者のその姿勢は何も感じなかったのです。

 

また、「具体的には、どのようにすれば最小限の文章の中に、大きな物語を入れられるのかを常に考えていました」と言われているのですが、その点でも感じるところはありませんでした。

結局、読み手としての力量の無さを指摘されただけのような気がしたものです。

 

短い定型詩が文学の主流であり続けたのが日本文学の特徴だという作者は、日本を表現するにはそれと同じような気持ちで書かないといけないというのです。

そんな読み方のできていない私にはかなり耳の痛い「あとがき」でした。

 

本書の内容に関しては、内容がホラーであり、これまでの浅田作品にみられるユーモアに満ちた文章は影をひそめ、神域の厳かな雰囲気を醸し出す、落ち着いた文章で構成されています。

ただ、「ホラー」と言い切っていいものかは疑問もあります。怪異譚ではありますが、怖がらせるという話ではなく、神域で起きる通常ではありえない話ということに過ぎないからです。

また、各短編の話の主体が、主人公自身の経験であったり、伯母が聞いた話であったりと、若干混乱しそうになったりもしますが、丁寧に読みさえすれば何の問題もありません。

 

浅田次郎の母方の実家で実際に起きたという、話を集めたものともいえます。どこか自身の幼いころの話にも通じる懐かしさもある短編集でした。

長く高い壁

1938年秋。流行探偵作家の小柳逸馬は、従軍作家として北京に派遣されていた。だが、突然の要請で前線へ向かうこととなる。検閲班長の川津中尉と共に、北京から半日がかりで辿り着いた先は、万里の長城、張飛嶺。そこで待っていたのは、第一分隊10名が全員死亡という大事件だった。なぜ、戦場に探偵作家が呼ばれたのか。10名は戦死ではないのか!?分隊内での軋轢、保身のための嘘、軍ならではの論理―。従軍作家の目を通し、日中戦争の真実と闇が、いま、解き明かされる。「戦争の大義」「軍人にとっての戦争」とは何かを真摯に捉え、胸に迫る人間ドラマ。(「BOOK」データベースより)

 

日中戦争を背景に、万里の長城で起きた事件を描く長編の推理小説です。

 

作者の浅田次郎は「戦争を書くことは自分の使命だと思っています。」と言われ、これまでにも『日輪の遺産』『歩兵の本領』『終わらざる夏』『帰郷』などの戦争をテーマにした作品を発表しておられます。それは一つには浅田次郎自身が自衛隊出身だということもあるのでしょう。

そこには、

戦後は復員兵と街娼があふれていたのに、「悪い過去」を語る人はいない。僕の両親も戦争の話はしなかった。楽しかった思い出は話しても、辛かった話はけっしてしないんです。「負の歴史」というのは、語り継いでいかないと、そうやって消えてしまうんです。

という思いがあるようです。また、別な場所では

昭和26年、つまり終戦直後に生まれた僕の世代は、・・・・・・ 親からたくさん戦争の話を聞いて育っていて、だからこそ戦争を描くべき使命感がある。

とも言われていて、軍隊を描く明確な意思をもっておられるようです。

昭和二十六年生まれの浅田次郎氏は私と同じ時代を生きている人であり、彼が見た傷痍軍人などの風景は私の見た風景でもあります。ただ、同じ風景を見ているはずなのにそこから感じ取るものがこんなにも異なるのか、とも思い知らされます。

そうした作者が日中戦争を舞台に描かれたのが本書です。

 

万里の長城の「張飛嶺」で第一分隊の十名全員が死亡するという事件が起き、周りが共産匪の仕業だと決めつける中、従軍作家として北京に派遣されていた小柳逸馬が、探偵作家だということを理由に現場に派遣され、この事件の真相を探るように命じられます。

小柳逸馬は東京帝大卒で小説家志望だった検閲官の川津中尉とともに前線へと向かい、二等兵から叩き上げの小田島軍曹の出迎えのもと、関係者を尋問し、現場検証を経てこの事件の謎の解明へと導きます。

解明のための尋問の対象は、青木軍曹、加藤一等兵、山村大尉、海野伍長、それに張氏飯荘オーナーの張一徳といった面々であり、実社会を反映した個性豊かな人間たちばかりだったのです。

 

小柳らの活動を通して、読者には軍隊の仕組みも次第に明らかになります。例えば小田島の上官の銀行員であった山村大尉は軍人としての給料が出ますが、なんと銀行からの給料も支払われていたそうです。

他にも小柳逸馬のような従軍作家には少なくない支度金が支払われていたなどの知識もちりばめられています。

 

そもそも本書では「張飛嶺」での第一分隊全員の死亡の原因という謎もさることながら、この事件の解決のために何故に流行作家が派遣されたのか、などの事実も明確にされます。

そこでは、軍隊というもののありようも絡めて明らかにされていくのですが、理不尽な組織としての軍隊が描かれるこの点こそが、浅田次郎の書きたかったことなのでしょう。

 

ちなみに、事件の舞台をなっている「張飛嶺」は、万里の長城の中でも特に峻嶮な場所の「司馬台長城」をモデルとした架空の場所だそうです( カドブン インタビュー : 参照 )。

 

ともあれ、初めてのミステリーとは思えない、しかし、いかにも浅田次郎らしい物語でした。

わが心のジェニファー

婚約者の求めで日本にやってきた米国人青年。東京、京都、大阪、九州、北海道…。神秘のニッポンを知る旅を始めた彼を待ち受ける驚きの出来事と、感涙の結末とは!(「BOOK」データベースより)

一言で言うと、一人のラリーというアメリカ人青年を通してみた日本という国を紹介した物語です。ただ、作者である浅田次郎の考えというフィルターを通したアメリカ人青年の主観的な日本感だということからか、微妙な違和感を感じます。

作者は、日本に留学している外国人留学生の日本感を聞いてたそうですから、ラリーという青年の日本感にはかなりの客観性はあると思われます。しかしながら、ラリーの語る日本は過剰なまでのサービスの国であり、日本人はみんな親切で、現実を知る人間にとっては妙な齟齬を感じました。

たしかに、日本人の親切さなことは事実であり、サービスの行きとどくことも事実だとは思うのですが、本書で述べていることはさすがに行きすぎではないかと思われるのです。

ただ、本書は物語もラリーが湯の町別府を訪れる後半に入るとファンタジーの要素が強くなってきますが、ファンタジーという観点からあらためて考えてみると、なにも後半ということではなく、この物語の当初から緩やかなファンタジーと言っていい気もしてきました。

浅田次郎という作家がもともとコメディータッチの作風を得意としていることを考え合わせると、緩やかなファンタジーの中に軽い皮肉を含ませながらも、やはり自然と融合した文化を育んできた日本という国への賛歌である、と素直に捉えていいのではないかという気がしてきたのです。


本書が面白い小説家と問われれば、大絶賛しつつ是非お読みなさい、というわけにはいきません。正直面白い物語だったとは思えないのです。それでもなお、この人の文章は読みやすく、心地よいものであったということは言えると思います。

壬生義士伝』や『天切り松-闇がたりシリーズ』で見せた名調子はありません。普通の散文だと言えると思います。それでもなお、心地よく読める文章であるというのは、私の好みと合致したというよりも、浅田次郎という作家の素晴らしい才能ゆえのことだと思われるのです。

夕映え天使

東京の片隅で、中年店主が老いた父親を抱えながらほそぼそとやっている中華料理屋「昭和軒」。そこへ、住み込みで働きたいと、わけありげな女性があらわれ…「夕映え天使」。定年を目前に控え、三陸へひとり旅に出た警官。漁師町で寒さしのぎと喫茶店へ入るが、目の前で珈琲を淹れている男は、交番の手配書で見慣れたあの…「琥珀」。人生の喜怒哀楽が、心に沁みいる六篇。(「BOOK」データベースより)

「夕映え天使」
男やもめの親子がやっている中華料理屋に、住み込みで雇われていたその女は、親子二人の生活に深く馴染んだ頃に居なくなった。しばらくして警察から一本で電話が入った。
「切符」
両親はそれぞれに女や男を作って出ていった。広志がじいちゃんと暮らす家の二階には間借り人の八千代さんが男と暮らしている。東京オリンピックの開会式の日、運動会を見に来てくれると約束してくれた八千代さんは二階の部屋を出ていくことになった。
「特別な一日」
定年を迎えたと思われる男の「特別な一日」を追いかけたSFチックな短編。
「琥珀」
荒井敏男は、とある町の片隅で十五年の間「琥珀」という名の珈琲専門店を営んでいた。そこに、定年前の有給休暇消化の旅をしているという男が飛び込んでくる。
「丘の上の白い家」
それぞれに不幸を背負う少年たちと、丘の上の白い家に住む天使のような少女との人生の交錯が描かれます。
「樹海の人」
演習で富士樹海に取り残された主人公の遭遇したものは現実か。

本書の解説を書かれている鵜飼哲夫氏によると、本書は感覚的に捉えたものが思想であるとする小説作法に似ているらしく、表現したい思想や感情を念入りに表現するという浅田次郎の流儀とは異なる「新たな境地」示しているのだそうです。

そうした理解は私の力量を越えた次元のものであり、私の読書力では本書と他の作品との差異を認識できるものではありません。ただ、浅田次郎という作家は、人間の営みそのものに根差す心情、情念を切り取り表現しようとしているという印象は受けます。

それは、「夕映え天使」での、男たちの心に住み着いてしまった一人の女への想いであり、また「切符」での、一人の少年の二階に住んでいた優しい八千代さんへとの別れに対する哀しみでもあると思うのです。

浅田作品に共通して漂っている雰囲気は、「昭和」という時代の持つ、感傷とも異なるやりきれなさのような感情です。

ご本人の言葉として、「切符」についてではありますが、「『切符』のテーマを一口で言えば、『喪失』ということになりますね」と言われています。発展のシンボルとしての東京オリンピックは同時に「以前あった風景がどんどん壊されていく」ということだと言われるのです。

また、「幸せな人間を書いても面白い話は作れない。しかし、不幸の様相というのは千差万別だから、全部違ったストーリーができる」とも言われています。そこから「琥珀」のような物語も生まれてくるのだとも言われます。

そうした、「切符」における「喪失」感や、「琥珀」で描かれている町にゆったりと流れる時間、「丘の上の白い家」に見られるどうしても乗り越えられない運命のようなむなしさ等々が、美しい文体で描かれている本書です。

間違いなく浅田次郎の物語であり、切なさあふれる短編集です。

霧笛荘夜話

とある港町、運河のほとりの古アパート「霧笛荘」。法外に安い家賃、半地下の湿った部屋。わけ知り顔の管理人の老婆が、訪れる者を迎えてくれる。誰もがはじめは不幸に追い立てられ、行き場を失って霧笛荘までたどりつく。しかし、霧笛荘での暮らしの中で、住人たちはそれぞれに人生の真実に気付きはじめる―。本当の幸せへの鍵が、ここにある。比類ない優しさに満たち、心を溶かす7つの物語。(「BOOK」データベースより)

「港の見える部屋」
横なぐりの雨が沫(しぶ)く嵐の晩に星野千秋と名乗る女が来た。何度も死にそこねたというその女は、眉子という名のホステスに世話を受ける。
「鏡のある部屋」
隣の部屋に住んでいた眉子の本名は「吉田よし子」といった。二枚目の夫と二人の子を得て経済的にも恵まれていたのだが、よし子は家を出た。
「朝日のあたる部屋」
その次の部屋には眉子に可愛がられていた鉄夫という名のヤクザ者が住んでいた。人の良い鉄夫は、すぐ上の部屋に住む四郎という売れないバンドマンを助ける。
「瑠璃色の部屋」
四郎は、すぐ上の足の悪い姉に助けられ北海道の田舎町から上京してきた。そんな四郎は、隣の部屋に住むオナベのカオルに文句を言われながらも助けられていた。
「花の咲く部屋」
集団就職で工場にやってきた花子は、給料も先に上京していた年の離れた兄に前借をされていた。そんな花子が駆落ちの末に転がり込んだカオルの部屋は、馥郁たる香りが溢れるゼラニウムやブーゲンビリアの花園だった。
「マドロスの部屋」
自分が送った遺書を読んだ娘の現実を知った園部幸吉は、復員後一年近くも着ていた軍服をマドロス服と取り換え、「霧笛荘」にやってきた。
「ぬくもりの部屋」
「霧笛荘」の買収の担当だった山崎茂彦は、成果を上げられないでいたが、早急の解決のためだと高額の買収費用を準備される。

運河のほとりにある古いアパート「霧笛荘」。そのアパートの管理人の老婆が、六つの部屋に住んでいた六人の住人について語る、全七編のせつなさあふれる短編集です。

連作短編集と言ってもいいくらいに、それぞれの話の登場人物が少しづつ関連しているのですが、物語自体は独立した話として成立しています。そして、それぞれの話は、通常の「幸せ」な生活からはずれた人生を送らざるを得ない、「不幸せ」な人生を送っている人たちの、切なさあふれる物語です。

しかしながら、ここに登場する人たちは、皆自分の自分の人生に正直に、そして一生懸命に生きようとしている人たちです。浅田次郎は、通常の「幸せ」の基準とは合わない、自分の生に真剣に立ち向かう人々へエールを送っているようでもあります。

浅田次郎のユーモアに満ちた物語からすると、本書はかなり暗い分野に属しますので、こうした物語は苦手という方もいるかもしれません。しかし、浅田次郎の美しい文章で語られる切ない物語は、やはり心に染み入る浅田次郎の物語です。

この物語に関しては、イメージCDが出されています。試聴してみると、バイオリンの高嶋ちさ子、ピアノの加羽沢美濃らの演奏で、心地よく、美しいメロディーが聞こえてきました。右のイメージリンクからAmazonへ行き、是非試聴してみてください。

薔薇盗人

「あじさい心中」 リストラにあった北村は、ふと出かけた地方競馬にも負け、ふと立ち寄ったとある温泉町で、盛りを過ぎた踊り子と出会い一夜を過ごしてしまう。

踊り子が自分語りをする場面は、浅田次郎らしい哀切に満ちた場面です。会ったばかりの男と女の交情の結末は思わずうなってしまいました。

「死に賃」 死の苦痛と恐怖から免れるためにはいくら払うか、と聞いてきた長年の友人の小柳が、真夜中の心不全で逝った。その小柳から貰った、安楽死を約束するというダイレクトメールが大内惣次の手にあった。死期を感じた大内。しかしそのサービスは摘発され、代わりに身近にいた秘書の松永の存在に気づく。

金儲けのために一生懸命に働いてきた主人公の、死の床での話は夢か現実か。主人公に尽くした秘書の美しさがファンタジーの中に光る好編です。

「奈落」 一人の男が何故か未到着のエレベーターの扉が開いたため、そのまま乗りこみ落ちて死んだ。その通夜の後、男の属していた会社の社員たちは男についていろいろ語るのだった。

死んだ男の会社の社員らや役付き、社長や会長達の、死んだ男をめぐるそれぞれの思惑を絡めながらの会話のたびに、隠された秘密が少しずつ明かされていきます。全編会話文だけの、サラリーマンの悲哀も漂う、少々考えさせられる短編です。

「佳人」 お嫁さん紹介を生きがいとしている母に、完全無欠な男と言える吉岡英樹という部下を紹介してみる気になった。そして、吉岡を呼び母に会わせたのだが・・・。

ショートといっても良いくらいの、十五頁ほどしかない短編です。しかし、ショートだからこその意外なオチが待っていました。

「ひなまつり」 もうじき中学生になる弥生が一人で留守番をしていると、前に隣の部屋に住んでいた吉井さんが訪ねてきた。こんな人がお父さんだったらと思うけれど、ダメなんだろう。でも、・・・。

弥生の視点で語られる本作品は、昭和の匂いが強く漂う小品です。もうすぐ中学生なろうとする女の子の一途な思いを描いてあります。

「薔薇盗人」 豪華客船の船長である父親に向けての小学六年生の男の子の、自分の近況を報告している手紙という形式で進みます。

すべてが無垢な子供の視点で、客観的に記されています。そこには、母親が家庭訪問に来た先生と長いこと話しこんでいたりする姿も報告してあるのです。

どの物語も人と人とのつながりについて、幾種類もの見え方を示してくれている作品集です。特に冒頭の「あじさい心中」が浅田次郎らしさが一番出ている作品に思え、心に残りました。

獅子吼

時代と過酷な運命に翻弄されながらも立ち向かい、受け入れる、名もなき人々の美しい魂を描く短篇集。(「BOOK」データベースより)

「獅子吼」 「飢えたくなければ瞋(いか)るな。」という父の訓(おし)えを胸に、檻の中で生きている獅子。視点は移り、獅子の世話をしている草野二等兵に動物園の動物たちの殺害命令が下りる。
「帰り道」 高度成長期の時代を背景に、ハイミスの清水妙子という女性の、二つ年下のインテリ工員の光岡に対する想いを描いた作品。
「九泉閣へようこそ」 ひなびた温泉宿での恋愛模様ですが、結局は九泉閣という「宿」目線になったりと、よく理解できない小説でした。
「うきよご」 東大を目指す浪人生の物語です。松井和夫は、京都の実家でも尚友寮でも自分の場所が見つかりません。腹違いの姉との微妙な雰囲気を漂わせながらも、一人の浪人の一時期が切りとられています。
「流離人(さすりびと)」 冬の日本海岸を走る列車で知り合った「さすりびと」と自称する老人の回想で、終戦近い中国大陸をいつまでも赴任先へと旅をしている軍人の話が語られます。
「ブルー・ブルー・スカイ」 戸倉幸一はカジノで大負けし、帰り道でポーカー・マシンで大当たりを出すが、そこに現れたのは、ギャングを思い立ちコルト・ガバメントを握りしめたサミュエルだった。

「獅子吼」は戦争の無意味さを忍ばせた作品。誰もが知っている『かわいそうなぞう』という童話のもとにもなった、上野動物園での象の花子の殺処分の話をもとに練られてであろう作品です。声高に反戦をうたいあげるのではなく、この作品のように非日常の世界を作り上げながら、人間ドラマと絡めた上での動物目線の話は浅田次郎ならではの物語です。

「帰り道」は最後の一行に至るまでの話の運び方のうまさにつきます。ただ、物語の意図はよく分かりませんでした。当時の時代を描いた、というだけのことでしょうか。それとも最後の一行のための物語でしょうか。

「九泉閣へようこそ」は、先にも書いたように男女の物語のようで、そうではないような、よく分かりません。

「うきよご」は、昭和という時代でも、またかつての渋谷の匂いでもない、作者と同じ世代の私にも感じられない独特の雰囲気を持った、不思議な小説です。かつて読んだ浅田次郎の『霧笛荘夜話』の雰囲気を思い出していました。この作品も時代や場所を感じさせない物語であり、ファンタジックな雰囲気を持っていました。

「流離人(さすりびと)」は、戦争に対する作者の思いがわりとはっきりと表れているファンタジックな物語で、かなり好きな物語でした。

最後の物語である「ブルー・ブルー・スカイ」も、意図が分かりにくいお話でした。

どの物語もまぎれもなく浅田次郎の語り口です。しかしながら、若干理解しにくい作品もありました。ただ、表題作の「獅子吼」や「流離人(さすりびと)」などはまさに私の好きな浅田次郎の作品でした。

お腹召しませ

お家を守るため、妻にも娘にも「お腹召しませ」とせっつかれる高津又兵衛が、最後に下した決断は…。武士の本義が薄れた幕末維新期、惑いながらもおのれを貫いた男たちの物語。表題作ほか全六篇。中央公論文芸賞・司馬遼太郎賞受賞。(「BOOK」データベースより)

「お腹召しませ」
高津又兵衛は、入り婿である与十郎が公金を使いこんで女郎を身請けし、逐電してしまっていた。又兵衛が腹を切ればお家の存続だけは認められるらしい。妻や娘も、死に処を得たと思って「お腹召しませ」と言うのだった。
「大手三之御門御与力様失踪事件之顛末」
横山四郎次郎が行方不明になった御百人組の詰め所がある大手三之門は、三方を囲まれていて逃げ場は無く、神隠しとしか言いようがないのだった。しかし、五日後、その横山が記憶喪失の状態で見つかる。
「安藝守様御難事」
芸州広島藩藩主浅野安芸守茂勲(もちこと)は、ひたすらに訳のわからない斜籠(はすかご)の稽古をしなければならなかった。何故にこのような稽古が必要なのか、誰も教えてはくれない。そのうちに、老中の屋敷での斜駕籠の披露をすることとなった。
「女敵討」
江戸勤番についている奥州財部藩士の吉岡貞次郎のもとを、旧知の間柄の稲川左近が訪ねてきて、貞次郎の妻が不貞を働いているので女敵討をせよと言ってきた。江戸での妾との間に子まで為している貞次郎は、女敵討のために帰郷するが・・・。
「江戸残念考」
大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いにも負けて、徳川慶喜は一人江戸へ帰ってきた。御先手組与力の浅田次郎左衛門を始めとした御家人たちの間では「残念無念」の言葉しか出てこないのだった。
「御鷹狩」
前髪も取れていない檜山新吾ら若者三人は、薩長の田舎侍に抱かれている夜鷹を切り捨てようと、夜中、家を抜け出し、夜鷹狩りを御鷹狩りと言いかえつつ、勢いで切り殺してしまう。

明治維新の頃を舞台に、多分浅田次郎本人が祖父から聞いた話を脚色し、現代と過去とに共通する、滑稽さの中にある一片の哀しみを漂わせた物語を語ります。第1回中央公論文芸賞と第10回司馬遼太郎賞を受賞した作品で、浅田次郎の特徴でもある、ユーモアに包まれてはいるものの真摯に生きる人間の哀しみを漂わせた短編作品集です。

各挿話の終わりには著者自身がその物語について語っています。不要とも思われかねないこの著者のまとめは、これはこれなりに面白い試みであって、短編のけじめを上手くつけていると感じられます。

浅田次郎の軽いユーモアに包まれた作品は、 葉室麟青山文平の作品とはまた異なった視点からの侍の生きざまを描き出している物語と言えるでしょう。一昔前の 池波正太郎山本周五郎といった大御所たちとも違う、独自の世界を構築している時代小説の中でもユニークな地位を得ているのです。

直木賞を受賞している 葉室麟の『蜩の記』は、全編が緊張感のある硬質な文章で貫かれていて、正面から、格調高く、武士の生きざまが描写してありました。一方 青山文平は、デビュー作である『白樫の樹の下で』の中で、とある道場の三人の若者の「人を斬る」ことに対する懊悩を通して、なおも侍たらんとする姿を描いていました。

それらの作品と、本書や『黒書院の六兵衛』などの浅田次郎の時代小説では、その表現方法はかなり異なります。しかしながら侍のありようについての考察、という点では共通する者を感じるのです。ただ、浅田次郎作品が、前に挙げた二人の作家と比べると一番「情」において豊かと言えるかもしれません。

歩兵の本領

1970年代の日本という時代を背景に、自衛隊に入隊した若者たちの姿が哀しみを持ちつつもユーモアという衣に包まれて描かれています。全部で九つの物語で構成されている短編集です。

それぞれの物語では上官であったり同僚であったりと、さまざまな切り口の話が繰り広げられるのですが、そこは浅田次郎の物語ですから、各々の物語の底にはきっちりと人情物語がひそんでいます。そして、狭い世界の中で繰り広げられる物語であるために同じ人物が繰り返し登場します。登場人物への照明の当たり方の程度が違う、と言ったほうが良いのかもしれません。

本書においても、人物の心情を挟み込みながら交わされる会話文の調子の良さ、見事さという浅田節は健在です。この文章の美しさ、語りの調子の良さに乗せられて、読み手は簡単に浅田次郎の世界に引き込まれてしまうのです。

本書の終わり近くに「脱柵者」という物語があります。「脱柵」とは脱走の謂いです。自衛隊は「個人の行為が個人の責任に帰着しない世界」であり、「個性を滅却させて・・・緊密な連帯を保ち続けねばならない」世界だと言います。著者は大学出だという主人公にこのような自衛隊についての考察を語らせているのですが、この考察が浅田次郎本人の言葉ではないかと思うのです。

この主人公は自衛隊からの脱走を試みます。「娑婆」への逃走を図るのです。その時の脱走兵に対する上官らの態度は胸に迫ります。

自衛隊を描いた小説でまず浮かぶのは、我が郷土の先輩の直木賞作家である光岡明氏の『草と草との距離』が自衛隊員を描いた小説だったと思うのですが、もし間違っていたらごめんなさい。

浅田次郎の自衛隊に絡んだ作品と言うと後掲の立花もも氏のレビューには浅田次郎のエッセイ『勇気凛々ルリの色』もあわせて読んで欲しいとありました。抱腹絶倒のエッセイらしく、是非読んでみたいものです。

蛇足ながらタイトルになっている『歩兵の本領』とは、1911年(明治44年)に発表された日本の軍歌だそうで、YouTubeで聞くことができます。

五郎治殿御始末

男の始末とは、そういうものでなければならぬ。決して逃げず、後戻りもせず、能う限りの最善の方法で、すべての始末をつけねばならぬ。幕末維新の激動期、自らの誇りをかけ、千年続いた武士の時代の幕を引いた、侍たちの物語。表題作ほか全六篇。(「BOOK」データベースより)

 

「椿寺まで」、「箱舘証文」、「西を向く侍」、「遠い砲音」、「柘榴坂の仇討」、「五郎治殿御始末」の六編が収められている短編集です。

 

明治維新という社会の変革についてゆけない侍の悲哀を描いた作品集です。どの物語も侍の矜持を捨てることを潔しとせず、それでいて明治という新しい世になんとかなじもうとする侍の哀しさが漂う物語として出来上がっています。

「箱舘証文」では「旧なるもの」の取り壊し、「西を向く侍」では太陽暦採用、「遠い砲音」もまた太陰暦から太陽暦に改められるに伴う「不定時法」から「定時法」への変更、「柘榴坂の仇討」では仇討禁止令、「五郎治殿御始末」は廃藩置県と、それぞれの出来事に伴って自らの居場所を失う侍たちのさまざまな悲哀が語られているのです。

この作家の『黒書院の六兵衛』などでもそうでしたが、単純に、時代に流されることについて思い惑うことのない大半の武士たちではなく、「侍」という生き方しかできない、ある意味不器用な人間の、さまざまな自己の貫き方を描いてあります。

侍としての生き方を貫くことと、新時代にあった生き方を選ぶこととの狭間で巻き起こる悲喜劇ですが、そこで繰り広げられる人間模様を謳いあげる浅田次郎という作家の素晴らしさを堪能できる作品集です。

 

中でも「柘榴坂の仇討」は中井貴一と阿部寛を主役に2014年に映画化されました。二人とも好きな役者さんなので早速見ましたが、それなりに期待に添える映画でした。

 

 

「西を向く侍」では、成瀬勘十郎という和算と暦法を学んだ人物が主人公となっていますが、この和算と暦法を主題にした小説を先日読んだばかりでした。それは本屋大賞も受賞した 冲方丁が書いた『天地明察』という作品です。改暦という大事業の意味を詳しく描写しつつ、上質のエンターテインメント小説として仕上がった作品でした。

 

 

物語の流れの中での一時期としての明治維新を描いた作品はあっても、本書のように、明治維新期における侍の苦悩する姿を正面から書いた作品はそんなには知りません。少ない中で挙げると、 津本陽が明治時代の剣術家の悲哀を丁寧に描写した短編集である『明治撃剣会』があります。また、 杉本章子の『東京新大橋雨中図』は、最後の浮世絵師と呼ばれた小林清親を描いた、明治維新期の世相を一般庶民の生活に根差した眼線で描写している作品です。