跳ぶ男

土地も金も水も米もない、ないない尽くしの藤戸藩に、道具役(能役者)の長男として生まれた屋島剛は、幼くして母を亡くし、嫡子としての居場処も失った。以来、三つ齢上の友・岩船保の手を借りながら独修で能に励んできたが、保が切腹を命じられた。さらに、藩主が急死し、剛が身代わりとして立てられることに。そこには、保の言葉と、藩のある事情があった―。(「BOOK」データベースより)

 

道具役(能役者)の家に生まれた一人の若者の生き様を描いた長編の時代小説です。

 

本書についてはその感想を書くことが非常に難しい作品です。言えるのは、本書は一種の芸道小説であるということだけでしょう。

そして簡単なあらすじとしては、上記の「データベース」に書かれているくらいしか書けないと思います。あらすじを示すこと自体がネタバレになると思われるからです。

その意味でも、これまでこの作者が書いてこられた作品群とは少々その趣を異にしています。つまり、江戸時代の武家の素養としての「能」に焦点をあて、そのほかの侍ならではの事柄は切り捨てて侍の世界を描いてあるのです。

 

そして「能」に特化されていて、「能」自体のことや、武家同士のつながりに「能」が果たしている役割などの「能」が重用される理由については詳しく描かれていますが、能関連の専門的な言葉の説明などはあまりありません。そのために、読者としてはついていくのにかなり苦労すると思われます。私は苦労しました。

そういう意味では、読者は置いていかれがちになる小説でもあります。

同様に、野宮」や「定家」、「関寺小町」などの「能」の曲についても書かれてはいるのですが、もともと能の素養のない身としては、曲についての説明もついていくことが難しくも感じます。

さらには、例えば「登城は戦場」だという言葉であったり、知行地の主となった藩士の、名主などの村役人を招いて行う慰労会のことを指す「椀飯行事」という催しなど、これまでの時代小説では聞いたこともない事柄が数多く記されています。

また、文章そのものも「場処」や「居る処」など、常とは異なる文字使い、言葉遣いが随所で為されていて、能という特別な世界についての書であることを意識せざるを得ない書き方をしてあるのです。

 

これまで 松井今朝子が『道絶えずば、また』という作品などの『風姿花伝三部作』では歌舞伎の世界を舞台にしたミステリーを書き、第137回直木賞を受賞した『吉原手引草』という作品では吉原を舞台とするというように、特別な世界を描写した作品はありました。しかしながら、本書のように「能」に特化した作品は初めてです。

 

 

特別という点では、これまで書いてきた「能」についての作品だという印象が一転する最後の処理がまた見事です。このことを書くこともネタバレになるかもしれず、とにかくこれ以上のことは私の力量では書くことはできないと思われます。

ただ、青山文平という作家のすごさを改めて思い知らされる作品だったことだけははっきりと書くことができます。

遠縁の女

『機織る武家』血の繋がらない三人が身を寄せ合う、二十俵二人扶持の武家一家。生活のため、後妻の縫は機織りを再開する。『沼尻新田』新田開発を持ちかけられ当惑する三十二歳当主。実地検分に訪れた現地のクロマツ林で、美しい女に出会う。『遠縁の女』寛政の世、浮世離れした剣の修行に出た武家。五年ぶりに帰国した彼を待っていたのは、女の仕掛ける謎―。直木賞受賞作「つまをめとらば」に続く清冽な世界。傑作武家小説集。

青山文平著の『遠縁の女』は、三篇の中編小説からなる時代小説集です。貨幣経済が発達し、武士が刀だけでは生きていけなくなって久しい、江戸中後期を生きる小禄の武家とその家族たちを描いてきた青山文平ですが、本書もその例にもれません。

「機織る武家」
縫は、入り婿である武井由人という郡役所の下僚の後添えとして嫁いできた。夫は無能であり、更なる家禄の差し替えに際し、縫は賃機で武井家の生活を支えることになるが、この機織りが縫らの生活を変えることになるのたった。

姑と入り婿とその後添えという血のつながらない三人の暮らし。姑は体面を気にし、夫は職務に関してはろくでなしという他なく、「美濃紙一枚ほどの広さの居場所」を後生大事に抱える夫のその片隅に自分の居場所を見つけるしかない縫でした。

その縫が自分の腕一本で三人の生活を支えることになったとき、嫌なことを嫌とはっきりという姑が変わり、夫も普通の人へと変化していくとき、縫自身の思いも変化していきます。

最早、夫の居場所の片隅に自分の居場所を見つける縫ではなく、縫の居場所に夫も、そして姑もいついているのです。姑や夫に対する縫の心情の変化は何と言えばいいのか、言葉がありません。

世の片隅で生きることを望むという縫の抱える屈託が明らかにされるこの物語の終盤は、少し話がずれたかと思うこともありますが、縫の全面的な開放という意味ではそれなりの落ち着き先だったのかもしれません。

「沼尻新田」
柴山和巳は父親から持ちかけられた新田開拓の話をあまり喜ばしいものとは思ってはいなかった。しかし、沼尻新田と呼ばれるその土地を調査した折の一人の野方の女との出会いがすべてを変えてしまう。

当時の武家の給料には、家禄を米俵で受取る蔵米取りと、自らが有する領地から上がる年貢が給料となる知行取りとがありました。本来は領地を持ち国を治めるという姿こそが武家の本来の姿であったということです。

そうした知行取りであることに誇りを持っている柴山の家にもたらされた新田開発の話。その現地を調査した柴山和巳は、一人の野方の女と出会うのです。

誰もが上手くいかないと思っていた沼尻新田開発でしたが、その開発には柴山家中興の祖と言われた柴山和巳の隠された意図がありました。ある種のファンタジーとも言えそうな、一人の侍の一途な想いを語る好編です。

「遠縁の女」
好きな剣術が頭打ちになっていた片倉隆明は、父からもたらされた五年を目途とした武者修行の旅に出ることとなる。五年を過ぎ、急な知らせで帰郷すると、幼なじみの女が待っているのだった。

剣術修行の末に行きついた強い百姓らの稽古する野の稽古場という道場で、片倉は百姓らの剣の強さとの違いに気づきます。それは武士は「死を呑んでいる」ということでした。百姓らの剣は生きるためであり、武士の剣は死ぬためのものである、ということです。

ここでの展開が非常に面白かったのですが、本題はここではありません。この物語の後半にありました。

急な知らせで郷里に帰った主人公の片倉隆明ですが、読者にとっても思いがけない展開となります。

信江という娘がその「遠縁の女」だったのですが、この女の行動に次第に絡め取られていく片倉の描写は、前半の修行は何だったのか、という印象を覚えます。

妖艶な女の恐ろしさがぐっと迫ってきて、ここにおいて、父親が言った片倉の五年の修行の本当の意味が明らかになるのでした。

励み場

いくら、陣屋の元締め手代に上り詰め、土地の人間の敬意を一身に集めても、信郎にとっては、そこは励み場ではないのだ。いまの信郎が、己の持てる力のすべてを注ぎこむのに足りる場処ではない。信郎が妙に金に身ぎれいで、身代を大きくするのに関心を示さないのも、信郎の励み場が陣屋にではなく、武家にあるからだろう。(本書より)
信郎は江戸へ出て勘定所の下役になり、実績を積み上げて、真の武家を目指すのだが……。
「仕事とは何か」・「人生とは何か」・「家族とは何か」を深く問う書き下ろし時代長篇。(内容紹介 より)

本書は読了後は上質なミステリーを読んだようでもあります。それでいながら、青山文平のいつものテーマである「侍」の姿、そしてその妻が自らに正直生きる姿が示されているのです。

本書においては「名子」という存在が大きな位置を占めています。本文において「江戸幕府開闢(かいびゃく)時に、武家の身分より領地をとって農民になった名主の、昔の家臣が『名子』」であるとの説明があるのですが、こうした存在は今まで全く知りませんでした。

そしてまた、徳川の代になって新たに開かれた田畑に入植してできた村か否かで新田村と本田村とに分かれるなどの説明があります。

このような村社会の成り立ち自体が本書では重要な意味を持っており、書名の『励み場』もこの社会構造に深くかかわってきます。その上で「勘定所は、幕府の御役所の中で数少ない励み場である。」との一文が意味を持ってくるのです。

本書の主人公としては、豪農の娘智恵とその夫笹森信郎ということになります。また、智恵の姉である多喜も重要な位置を占めており、中心人物の一人として挙げることができるでしょう。この姉多喜の妹知恵に対する呼びかけ方の変遷なども伏線としてあるところです。

笹森信郎が自分の人生をかけるに足る「励み場」を求めて呻吟する様は、読み手の心に深く刺さります。それはつまり武士になることであり、そのために勘定奉行所の下役という今の仕事に励む信郎ですが、とある名主のもとに調査に出かけた折の会話など、人生そのものに深くかかわるものであり、信郎の生きかた自体に迫るものでもあります。

そして、その信郎を必死で支えようとする智恵は智恵で、ただひたすらに夫のことを考え続け、ある一歩を踏み出そうとし、その描写の緊張感はたまりません。

また、夫笹森信郎とその妻智恵、そして智恵の姉多喜と家族らの智恵に対する思いなど、夫婦同士の、そして家族の間のひたむきな思いやりは、読む者の心に少しの感動をもたらしてくれます。



これまでは青山文平の小説では『白樫の樹の下で』こそが一番の作品だと思ってきたのですが、本書を読むに至りその考えも変わらざるを得ないようです。研ぎ澄まされた雰囲気や文章の持つ美しさなどは、なお『白樫の樹の下で』のほうが勝っている、とは思うのですが、物語自体の奥行き、重みは本書が勝ると思うのです。

侍を描き、心に残る作品としては少なくない数の作品があるのですが、中でも印象的だった作品としては、第146回直木賞を受賞した 葉室麟の『蜩の記』があります。数年後の切腹を控えていながら、静謐に生きる戸田秋谷とその家族の姿を描いた本書は、その硬質でありながら情感豊かな文章も含めて衝撃的でした。

また、既に古典とも言える作品として、 山本周五郎の『樅ノ木は残った』があります。これは、仙台藩伊達家でのお家騒動、いわゆる伊達騒動を描いた作品で、それまで悪人として描かれることの多かった原田甲斐を新たな視点で描きなおした作品です。平幹次郎主演で、1970年のNHK大河ドラマになったことでも知られています。新潮文庫では全三巻として出版されています。

半席

御家人から旗本に身上がるべく、目の前の仕事に励む若き徒目付の片岡直人。だが上役から振られたのは、腑に落ちぬ事件にひそむ「真の動機」を探り当てる御用だった。職務に精勤していた老侍が、なぜ刃傷沙汰を起こしたのか。歴とした家筋の侍が堪えきれなかった積年の思いとは…。折れた心の真相を直人が見抜くとき、男たちの「人生始末」が鮮明に照らし出される。正統派時代小説の名品連作。(「BOOK」データベースより)

青山文平の短編作品集の一つに『約定』という作品集があります。その本の中に、筏(いかだ)の上を走り堀に飛び込み死亡した侍について書かれた「半席」という短編がありました。本書第一作目の「半席」がそれです。

作者がこの短編を気にいったためか、この短編に登場する片岡直人を主人公に、新たに物語を紡ぎ出し、一冊の作品集として仕上げたものです。

この片岡直人の徒目付、つまりは監察役という職種を生かし、既に処分は決まっているもののはっきりとした理由が分かっていない事件の真実を聞き出すという職務を遂行させるのです。

それは罪を負うべき事柄の理由を明らかにしない当事者の、責めを負うに至った本当の理由を明らかにしようとするのであり、つまりは推理小説で言うホワイダニット(Why done it)ものということもできます。

つまりはミステリーとしての面白さを持った作品であり、更にはただ処分を待つだけの老人たちから話を聞く片岡の、彼らの人間の真実に触れることでこれまで見えていなかったものが見えてくる、その人間模様の奥深さをもあわせ持った作品集ということができるのです。

上司の内藤康平によれば、片岡直人の青臭さこそが犯人も本音を言う気になるだろう、ということです。この内藤康平という男がまた面白く、この物語の魅力の一つになっています。

それぞれの話を簡単にみると、

「半席」では、筏(いかだ)の上を走り、堀に飛び込み死亡した侍について。
「真桑瓜」では、共に八十歳以上の侍同士の刃傷沙汰。
「六代目中村庄蔵」は、一季奉公の侍の主殺し。
「蓼を喰う」は、辻番所組合の仲間内を手に掛けた御庭番。
「見抜く者」は、徒歩目付の仕事の中でも特に人の恨みを買いやすい人物調べの絡んだ話。
「役替」は、同じ町内の、共に召し挙げられた仲間の父親との思いもかけない邂逅がもたらした行く末。

という話です。

私にとっても他人ごとではない、「老い」の末に自らの人生を思い起こすときにもたらされる悲痛な感情を描き出した好編ばかりです。また、片岡直人という青年が内藤康平という上司に見守られながら成長していく物語でもあります。

「役目柄『なぜ』だけではなく、事態を『いかに』収めるか、ということが問われる話もある。」と書いておられたのは文芸評論家の杉江松恋氏です。

青山文平という一押しの作家のお勧めの作品がまた増えました。

つまをめとらば

女が映し出す男の無様、そして、真価―。太平の世に行き場を失い、人生に惑う武家の男たち。身ひとつで生きる女ならば、答えを知っていようか―。時代小説の新旗手が贈る傑作武家小説集。男の心に巣食う弱さを包み込む、滋味あふれる物語、六篇を収録。選考会時に圧倒的支持で直木賞受賞。(「BOOK」データベースより)

 

本書は、六編の物語からなる短編の時代小説集であり、第154回直木賞を受賞した作品です。

 

「ひともうらやむ」
女ならば誰しも惚れると思われる長倉家本家の総領で眉目秀麗のうえに目録の腕前を持つ秀才の長倉克巳が、皆のあこがれの的であった、医師浅沼一斎の娘世津を娶ることになったのだが・・・。

「つゆかせぎ」
妻の朋が急な病で逝ってからしばらくして、地本問屋の手代が、竹亭化月の筆名で戯作を書いていたという朋を訪ねてきた。朋は木挽町の芝居小屋の娘であったため、意外でもなかったのだが・・・。

「乳付」
神尾信明に嫁いだ民恵は長男新次郎を産んだ。しかし、産後の肥立ちが悪く乳をやることもできないでいたため、瀬紀という遠縁の妻女に乳付をしてもらうことになった。瀬紀は民恵と同じ年かっこうであったが、同じ女でも魅入られてしまうほどに輝いていた。

「ひと夏」
石山道場奥山念流目録の腕前を持つ部屋済みの身分の高林啓吾は、誰が赴任しても二年ともたないという勤めを命じられる。現地では、藩の役人をあからさまに見下す百姓たちだったが、それに対し何もできない事情があった。

「逢対」
無益の者が出仕を求めて日参する「逢対」に、幼馴染の北島義人と共に同行した竹内泰郎だったが、自分だけ呼び出されることになった。

「つまをめとらば」
妻の不義で離縁し独り身の深堀省吾は、幼馴染の山脇貞次郎に家作を貸すこととなった。省吾にとり、幼馴染との暮らしは心地よいものだったが、貞次郎には思いを寄せている言い出せずにいる娘がいるというのだった。

 

著者は「女は本質的に、人間の存在の地肌で生きてい」て、そして「男は女を通じてはじめて、人間の存在の地肌に触れることができる。」と言っています。人間として、男は女を通してしか実現できないと言っているようです。

「男がしでかす諸々の問題も、さかのぼれば、その多くは、根源的なよるべなさに行き着くのではないでしょうか。」ということになるのです。

 

本書はそうした男どもの存在をあからさまに描き出してあります。

ただ、これまでのこの作家の物語と、少しですが趣が異なります。女性をモチーフにしているからでしょうか、全体的にどことなくユーモアに包まれているのです。

また、これまでの作品では“侍”を前面に押し出し、その生き方を直截的に描くことが多かったと思います。

勿論これまでもユーモラスな物語が皆無だというわけではありません。しかし、それらの作品も結局は“侍の生き方”に結びつくものでした。

本書の場合、「乳付」を除いてはやはり主人公は男で、さまざまな女性の形を描くことで男である主人公の内面を描き出してはいるのですが、特に「ひと夏」や「つまをめとらば」は侍というよりは一個の人間を描いてある、と言えるのではないでしょうか。

 

現在の、あまたおられる時代小説作家の中で一番私の好みに合致するのがこの青山文平という作家さんです。侍のあり方を問う物語の組み立て、硬質ではあるものの格調高く、品格を保っているその文章は心揺さぶられるものがあるのです。

鬼はもとより

どの藩の経済も傾いてきた宝暦八年、奥脇抄一郎は江戸で表向きは万年青売りの浪人、実は藩札の万指南である。戦のないこの時代、最大の敵は貧しさ。飢饉になると人が死ぬ。各藩の問題解決に手を貸し、経験を積み重ねるうちに、藩札で藩経済そのものを立て直す仕法を摸索し始めた。その矢先、ある最貧小藩から依頼が舞い込む。剣が役に立たない時代、武家はどういきるべきか!?(「BOOK」データベースより)

 

剣に倦み女遊びも尽くした奥脇抄一郎は「藩札掛」を命じられる。世話役の佐島兵右衛門(さじまへいえもん)の急死により抄一郎が責任者となるが、飢饉に際しての藩札の刷り増しの命に逆らい、藩札の原版を持って脱藩してしまう。

その後、江戸に出た抄一郎は旗本の深井藤兵衛(ふかいとうべえ)の知己を得るなかで、藩札板行指南を業とするようになるのだった。

 

本書は武士の世界に経済の側面から光が当てられています。つまり、主人公抄一郎は「国を大元から立て直す仕法」の背骨を掴み取り、その仕法を別の藩で試すのですが、その流れが実にダイナミックに描写されています。

藩札の板行には正貨の裏付けが必要だが、刷る額面のおよそ三割は正貨の準備が必要、などの藩札の仕組みから説き起こしていく場面は、経済音痴の私などには実に興味深いものがあるのです。

 

とはいえ、青山文平という作者の根本は常に「侍」存在そのものの在り方を問うています。

「武家とは、いつでも死ぬことができる者であ」って、「武家のあらゆる振る舞いの根は、そこにある」との抄一郎の独白はそのことを正面から答えています。

抄一郎が見つけた仕法の肝(きも)や、佐島兵右衛門の姿から抄一郎が感じる覚悟も、「命を賭す腹」が大事ということでした。本書の少なくない個所で、侍の「死の覚悟」への言及があります。

 

ただ、作者の意図が不明な点があります。それは抄一郎が女遊びに浸る過去を持つという設定です。もしかしたら女遊びの設定も意味を持つのかもしれない親友長坂甚八(ながさかじんぱち)の存在自体が良く分からず、どういう意図を持っているか判りませんでした。

本書の最後の一行も、藩の立て直しの仕法を実行する東北の小藩の執政に絡む女のことで締められるのですから、そこにははっきりとした意図があるのでしょう。

 

蛇足ですが、歴史学者の磯田道史氏が東京・神田の古書店で発見した『金沢藩猪山家文書』をもとに著した『武士の家計簿』という本があります。

この本は金沢藩の経理係であった加賀藩御算用者(おさんようもの)の猪山直之という武士の「家計簿」らしいのです。侍の「心構え」や「あるべき姿」などの観念的な側面で捉えられがちな幕末の武士の姿が、実生活という経済面、実体面から捉えているそうで、一度は読んでみたい本です。

 

 

この『武士の家計簿』は2010年には映画化もされました。テレビで放映されたものを見たのですが、そろばんを通して描かれた侍の姿が絶妙に表現されていたと思います。

 

 

春山入り - 「約定」改題

藩命により友を斬るための刀を探す武士の胸中を描く「春山入り」。小さな道場を開く浪人が、ふとしたことで介抱した行き倒れの痩せ侍。その侍が申し出た刀の交換と、劇的な結末を描く「三筋界隈」。城内の苛めで病んだ若侍が初めて人を斬る「夏の日」。他に、「半席」「約定」「乳房」等、踏み止まるしかないその場処でもがき続ける者たちの姿と人生の岐路を刻む本格時代小説の名品。

「三筋界隈」「半席」「春山入り」「乳房」「約定」「夏の日」の全部で六編の短編が収められた多分初の短編集です。

どの物語も、主人公の身近な人物が侍としての矜持を貫くその姿から、主人公自らの姿勢を正す様が描かれています。

例えば表題作の「約定」では、望月清志郎(もちづきせいしろう)という侍が果たし合いの約定の場所に来ない相手をいぶかりながら、腹を切ります。その後、その果たし合いの場所に来なかった相手が、何故に望月はその日その場所で腹を切ったのか、その理由を推し量る様が描かれています。

その考察の前提には自分も望月も侍である、ということがあり、だからこそ腹を切る理由が分からない。次第に、漠然とした理由は浮かんでくるのですが、断定はできないのです。読者には、望月清志郎が腹を切る前に何故に相手が来ないのか自問する場面が示されていて、そのことが果たし合いの相手方の推量を一段と考えさせるものにしています。

このほか「三筋界隈」は生き倒れの浪人、「半席」では矢野作佐衛門の死に様、「春山入り」では幼馴染の島崎鉄平の行動というように、主人公に身近な人の行いを見て主人公が思料する、という形をとっています。

身近な人の心情は明示してはありません。読者は主人公の推量を示されるだけで、主人公の判断が正しいのか否かは読者の判断にゆだねられています。勿論、主人公がそのように考えるだけの根拠は提示されていて、その推量の根底には侍としての振舞いのあるべき姿があるのです。


他の短編も侍の姿を追求する好短編ばかりです。

凛としたその文章といい、侍の生き方を追求するその筋立てといい、やはりこの作家の作品は私の好みにぴたりとはまります。藤沢周平や山本周五郎の作品とは異なり硬質ではありますが、同様に情感豊かで心に染み入ってくるのです。

蛇足ですが、本書は以前「約定」というタイトルで出版されていました。多分ですが、今回の文庫化に当たり改題されたものと思われます。

また、本書の中の一編「半席」は、主人公の片岡直人を主人公として新たに『半席』という短編集が出版されています。

伊賀の残光 - 「流水浮木―最後の太刀―」改題

その誇りに、囚われるな―。鉄砲百人組の老武士、山岡晋平。伊賀衆ながら伊賀を知らず、門番の御役目とサツキ栽培で活計を立てていた。だがある日、伊賀同心の友が殺される。大金を得たばかりという友の死の謎を探る中、晋平は裏の隠密御用、伊賀衆再興の企て、そして大火の気配を嗅ぎ取った。老いてこそ怯まず、一刀流の俊傑が江戸に澱む闇を斬る。

大久保組伊賀同心の山岡晋平には川井佐吉、小林勘兵衛、横尾太一、それに今は亡き中森源三という幼馴染がいました。彼らは門番として忠勤に励んでおり、ひと月に四、五回程の番以外の日は三十俵二人扶持の生計を補うためにサツキの苗の栽培に勤しむ身だったのです。

そうしたある日、川井佐吉が殺されてしまいます。佐吉が殺された理由を探るうちに、本来であれば忍びとして隠密御用を勤める身である伊賀衆が、今では門番という身分に甘んじているという事実に屈託を抱えている者の存在が浮かんでくるのです。

還暦を過ぎた幼馴染らが自分らの存在意義を確認する、その行為に同じ還暦過ぎの身である私はどうしても感情移入してしまいます。これは同世代の人たちには共通する思いではないでしょうか。また、幼馴染らが自分確認のために動き回るその様は老骨達の青春記とでも言えると思います。

青山文平という人は侍が侍として在るそのことをこれまでの作品で書いておられます。

本書の背景とする時代は「安永」年間という設定です。著者の言う「武家の存在じたいの矛盾が浮かび上がる」時代であり、「武家はそれぞれに自己のアリバイを模索せざるをえ」ない時代であって、ドラマが生まれ易い時代だと言います。本書も三十俵二人扶持という軽輩の身とはいえ、自分という存在自体を見つめる武士の物語なのです。

決して派手な物語が展開するわけではありません。あくまで還暦過ぎの初老の男達の自分自身の確認の物語なのです。

蛇足ですが、本書は以前「流水浮木―最後の太刀―」というタイトルで出版されていました。多分ですが、今回の文庫化に当たり改題されたものと思われます。

かけおちる

妻はなぜ逃げたのか。直木賞受賞作家が贈る傑作時代長編

藩の執政として秘策を練る重秀はかつて、男と逃げた妻を斬った。二十年後に明らかになる女心の真相とは。松本清張賞作家の傑作。

二十二年前、妻と姦夫を成敗した過去を持つ地方藩の執政・阿部重秀。残された娘を育てながら信じる道を進み、窮乏する藩財政を救う秘策をついに編み出した今、“ある事情”ゆえに藩政を退こうとするが―。重秀を襲ういくつもの裏切りと絶望の果て、明らかになる人々の“想い”が胸に響く、感涙の時代長編。

疲弊した藩財政の建て直しのため、ある秘策を実地した藩執政の阿部重秀。男と駆け落ちした妻を切り捨てた過去があるが、順調に出世していた。二十年の時が経ち、今また娘が同じ過ちを犯した時、愕然とする重秀のとった行動は、そして、妻はなぜ逃げたのか――伝わり良く、奥行きのある独自の文章表現、江戸の風俗や生活・経済のあり様が丁寧に描き込まれ、瑞々しい心情描写で絶賛された松本清張賞作家の受賞第二作。 いま最も次作を期待される直木賞候補作家、二冊目の文庫(「BOOK」データベースより)

 

北国にある柳原藩では、執政阿部重秀が藩の財政の立て直しのために行っていた「種川」という鮭の産卵場を人の手で整える作業が実を結びつつあった。

この作業は阿部家の入婿である阿部長英の進言によるものだったが、その長英は江戸詰のため未だ「種川」成功の事実を知らずにいた。

名うての剣士でもある長英は藩の殖産を図らねばならない立場にありながら、江戸中西派一刀流の取立免状を取得することにより自藩の名を高めるべく勤めるしかない自身に悩んでいた。

 

著者の言葉によれば、「かけおちる」とは「欠け落ち」であり「駆け落ち」ですが、本書の「最後の欠け落ち」こそ集団からの脱落を意味する本来の意味での「欠け落ち」だそうで、「カタルシスを醸成」できたそうなのです。

とするならば、この最後に言う「カタルシス醸成」こそ著者の書きたかったことなのでしょうか。

 

本書でも、戦いをこそ本来の姿とすべき侍が、殖産にその身を捧げなければならない矛盾を問うてあります。

その中で、殖産のために苦悩する男を描きながら、その陰に居る妻の描写はあまりありません。でも、母と娘とで併せて三度の「駆け落ち」をしており、それが殖産事業に苦しむ阿部重秀の苦悩を深くしています。

 

阿部重秀の殖産事業に苦しむ過程の描写は前作『白樫の樹の下で』に劣りません。地方にある藩に居る親と江戸詰の子の、興産にかける侍としての生き様が簡潔な文章で描いてあります。

そして、クライマックスへと向かうのですが、物語の終わりの方で娘の語る言葉こそ本書で著者が書きたかったことではないでしょうか。そして、最後に「カタルシスを醸成」が出来ているかどうかを是非直接読んで確かめて貰いたいものです。

 

松本清張賞受賞第一作である本書は前作『白樫の樹の下で』と同じようでいてまた異なるやはり素晴らしい一冊でした。

白樫の樹の下で

いまならば斬れる! 人を斬ったことのない貧乏御家人が刀を抜く時、なにかが起きる――。

幕府開闢から180年余りが過ぎた天明の時代。江戸では、賄賂まみれだった田沼意次の時代から、清廉潔白な松平定信の時代に移り始めた頃。二本差しが大手を振って歩けたのも今は昔。貧乏御家人の村上登は、小普請組の幼馴染とともに、竹刀剣法花盛りのご時勢柄に反し、いまだに木刀を使う古風な道場に通っている。他道場の助っ人で小金を稼いだり、道場仲間と希望のない鬱屈した無為の日々を過ごしていた。ある日、江戸市中で辻斬りが発生。江戸城内で田沼意知を切った一振りの名刀を手にしたことから、3人の運命は大きく動き始める。
著者は長らく経済関係の出版社に勤務した後、フリーライターを経て、2011年、本作で第18回松本清張賞を齢62歳で受賞。(「BOOK」データベースより)

 

小普請組の御家人村上登は仁志兵輔、青木昇平と共に竹刀剣術ではなく昔ながらの型稽古を行う佐和山道場で剣を学んでいた。

「大膾(おおなます)」と呼ばれる辻斬りが江戸の町を騒がせていたその頃、村上登は町人でありながらかなりの剣の腕を持つ巳乃介から一振りの刀を預かることとなるのだった。

 

葉室麟の作品を最初に読んだときもその文章の格調の高さに驚きましたが、青山文平という作家の文章も見事です。硬質で透明感を持った文章で、侍として人を「斬る」ことへの若者の懊悩を剣のことさえも知らない読者に語りかけています。

また、詳しくは書けないのですが「佳絵」という人の横たわる状況の描写の臨場感はまた見事です。ここの描写だけでもいいから読んでもらいたいと思うほどです。これまで作家と呼ばれる人たちの文章の凄さには何度か脱帽させられましたが、この青山文平という人の文章もまた凄いとしか言いようがありません。

 

驚くことに青山文平という作家は、20年ほど前に第18回の中央公論新人賞をとったことがあるけれども、時代小説としては本作品が最初の作品なのだそうです。

本作品については、物語としての面白さは勿論のこととして、「詩的」な文章で綴られているとどなたか書いておられましたが、日本語の美しさ、表現力の豊かさを思い知らされた一冊でもありました。