父がしたこと

父がしたこと』とは

本書『父がしたこと』は、2023年12月に256頁のハードカバーでKADOKAWAから刊行された長編の時代小説です。

青山文平という作家は、新刊が出るたびに前著を越える作品を提供してくれる作家さんであり、本書もその例にもれず実に面白く、感動的な作品でした。

 

父がしたこと』の簡単なあらすじ

 

目付の永井重彰は、父で小納戸頭取の元重から御藩主の病状を告げられる。居並ぶ漢方の藩医の面々を差し置いて、手術を依頼されたのは在村医の向坂清庵。向坂は麻沸湯による全身麻酔を使った華岡流外科の名医で、重彰にとっては、生後間もない息子・拡の命を救ってくれた恩人でもあった。御藩主の手術に万が一のことが起これば、向坂の立場は危うくなる。そこで、元重は執刀する医師の名前を伏せ、手術を秘密裡に行う計画を立てるが……。御藩主の手術をきっかけに、譜代筆頭・永井家の運命が大きく動き出す。(内容紹介(出版社より))

 

父がしたこと』の感想

 

本書『父がしたこと』は、本書の「武士が護るべきは主君か、家族か」という惹句にそのテーマが端的に表現されています。

これまでも青山文平の作品では主君に忠実に生きる侍の生きざまが描いてありましたが、本書でもまた侍の生きる姿が描かれています。

ただ、本書が特殊なのは、侍の生きる姿と同時に家族の大切さが描かれていることに加え、さらに医療のあり方をも問うている感動作であることです。

 

本書の独特な表現として挙げていいと思うのは、舞台となる藩の名前や場所などの藩に関する具合的な情報は殆ど示してない点と、藩主の名前は明記せずに御藩主としか示してないことです。

でも、主役である永井家として元重登志夫婦とその子の重彰佐江夫婦とその子のについては詳細に描き出してあります。

本書の主人公永井重彰は役職が目付であり、父親は小納戸頭取であって御藩主の身近にいてその世話を一身に執り行っている、などの詳しい説明がなされているのです。

 

また、名前も明らかにされていない御藩主や、名医と言われる向坂清庵についてもその人となりについてはそれなりに頁数を費やしてあります。

重要なのは中心となる永井家の人々であって個々人の特定は必要ですが、永井家が尽くすべき藩主は藩に一人しかおらず御藩主というその地位にいる人物が重要なのだということでしょう。

また向坂清庵という名の医者にしても、藩内に多数存在する医者を名乗るものの中でも向坂清庵という名医が重要だから明記してあると思われるのです。

その上で、本書では物語の中心となる永井一家と御藩主それに名医の向坂清庵以外は登場しないと言い切ってもいいほどに誰も登場しません。

 

当初、本書の「父がしたこと」というタイトルからして、本書の主題は侍のあり方、つまり主君のために尽くすか、それとも家族のため生きるかが問われる父の姿が描かれている物語だと思っていました。

ところが読み進めるうちに永井重彰の子の拡の生まれつきの病に関連した医療関係の描写に重きが置かれており、単にこれまでのような侍の生き方を正面から問う作品とは違いそうだと思えてきたのです。

しかしながら、ネタバレになるので詳しくは書けませんが、主君に尽すことを本分とする侍の生き方を描いてきた青山文平の作品である本書は、やはり本分を尽くした侍の物語でした。

そこに、医療の本質を絡めた感動の物語として仕上がっていたのです。

 

本書『父がしたこと』ではその冒頭から重要な登場人物である向坂清庵という名医についての描写から始まります。

物語の中心となる、向坂清庵医師に御藩主の治療を依頼した件についての永井重彰とその父親の元重との会話に関連して向坂清庵についての人物紹介が始まるのです。

その際の話の中で、『蔵志』や『瘍科秘録』などの具体的な書物名と共に当時の華岡流外科の説明が為されます。

その話の流れは、そのまま前作『本売る日々』で紹介されていた実在の書物名が取り上げられ語られた流れそのままでした。

もしかして、前作で詳しく調べられた書物の中にあった医療関係の書物から本書のアイデアを得られたのではないかと思ったほどです。

そういう意味では本書は前作『本売る日々』の続編的な位置にある作品かもしれないなどと思ったものです。

しかし物語としては関係のないものでした。

ただ、前作での、民間における「地域の文化の核にもなっていた」( 本の話 : 参照 )名主らの物語に対する「官」側の核の話だということができるかもしれません。

同時に、前作『本売る日々』で描かれていた佐野淇一という村医者の話が本書に結びついているとも言えそうです。

 

 

それはさておき、本書は侍の物語であると同時に医療小説でもあるという珍しい作品で、江戸時代末期で行われた二件の外科手術、即ち「痔漏」と「鎖肛」という手術を華岡青洲の流れを汲む向坂清庵という名医が執行する話が中心になっています。

つまり、藩主の痔ろうと息子の閉ざされた肛門の新設ついて外科処置を施す話であって、蘭方の外科医による処置を手順まで詳しく描写するというこれまでにない蘭方医の描き方が為されているのです。

医学の歴史にも言及することで、本書の主題となる侍のあり方、主君のために尽くすのか、家族のため生きるのかという問いの背景を堅実なものとして、侍の生き方についての問い掛けを明確にするという効果を期待しているのでしょう。

 

同時に、本書で見るべきは御藩主や重彰の子の拡の病に関連しての永井親子の関わり方だけではなく、永井重彰の妻佐江とその母登志の侍の妻としてのあり方もまた見どころの一つとなっています。

御藩主に尽す永井元重、重彰親子の姿に焦点が当たるのは当然のことですが、永井親子の妻たちの姿も現代に生きる一人の人間の姿としてもあてはまるものだと思えたのです。

こうした妻の姿を通して、夫である侍たちが主君のために尽すことができたのだと、あらためて感じ入ったものです。

 

読後に調べていると、この「鎖肛」という名前は華岡青洲がつけたものであり、華岡青洲の医業であったとの記載がありました。

同じ頁には「数多の資料から説得力ある心の動きを抽出できるのは時代小説の強みです」との言葉もありましたし、母親の登志についても「武家の妻らしい肝の据わり具合を見せる彼女は、唯々諾々と慣習に従うようなこともない」と記してあります( カドブン: 参照 )

やはり、この作家の作品にはずれはなく、作品ごとに新たな感動をもたらしてくれる素晴らしい作家さんだと恐れ入るしかない作品でした。

本売る日々

本売る日々』とは

 

本書『本売る日々』は、2023年3月に237頁のソフトカバーで刊行された三篇の小説が収められた時代小説集です。

ミステリーの手法がとられたまさに青山文平の物語であり、期待に違わない素晴らしい作品集でした。

 

本売る日々』の簡単なあらすじ

 

時は文政5(1822)年。本屋の“私”は月に1回、城下の店から在へ行商に出て、20余りの村の寺や手習所、名主の家を回る。上得意のひとり、小曾根村の名主・惣兵衛は近ごろ孫ほどの年齢の少女を後添えにもらったという。妻に何か見せてやってほしいと言われたので画譜ーー絵画の教本で、絵画を多数収録しているーーを披露するが、目を離したすきに2冊の画譜が無くなっていた。間違いなく、彼女が盗み取ったに違いない。当惑する私に、惣兵衛は法外な代金を払って買い取ろうとし、妻への想いを語るが……。

江戸期の富の源泉は農にありーー。江戸期のあらゆる変化は村に根ざしており、変化の担い手は名主を筆頭とした在の人びとである、と考える著者。その変化の担い手たちの生活、人生を、本を行商する本屋を語り部にすることで生き生きと伝える“青山流時代小説”。(内容紹介(出版社より))

 

目次

本売る日々 | 鬼に喰われた女 | 初めての開板

 

本売る日々』の感想

 

本書『本売る日々』は、「松月堂」という本屋を営む平助という男が主人公です。

平助は本屋とはいっても「書林」として<物之本>を板行することを夢見ており、今は店頭販売ではなく行商して各地の庄屋などに本を売ることを商売にしています。

そして、「物事の本質が収まった書物」である<物之本>、つまりは「仏書であり、漢籍であり、歌学書であり、儒学書であり、国学書であり、医書」が行商の際に持っていく本でした。

 

この平助の一人称視点で本書は語られますが、舞台となる土地の名前は出てきません。「この国」とか「東隣の国」などと代名詞で表現してあるだけです。

また「この国」についての描写も「この国の城下には・・・藩校の姿はない。」とあるくらいであり、また「玉井村」とか「小曾根村」などという固有名将は出てきますが、それ以上の説明はありません。

つまりは、「地名」はこことは異なる場所という意味しか持たず、ただ平助を始めとする登場人物たちの行いこそが問題であって、江戸時代であるという以外、細かな時代や具体的な場所にはそれほど意味はないということなのでしょう。

 

平助の他の登場人物としては、第一話で小曾根村の惣兵衛、とその若き妻サク、第二話では「東隣の国」にある杉瀬村の庄屋の藤助がおり、弾三話で再び小曾根村の惣兵衛が登場し、さらに小曾根村の自慢としての名医佐野淇一、平助の住む城下の医師西島晴順などがいます。

 

第一話「本売る日々」は、書物の行方をめぐるミステリーです。

ここで描かれているのは、誰がとか、どうしてなどではなく、本を盗ったと思われるサクの心の動きやその行いについての惣兵衛の処置についての謎にすぎません。

そこでの「森の際」についての主人公の話が何と心に染み入ってくることか。作者の筆の力の素晴らしさはもともと知っていたつもりなのだけれど、本書の「森の際」についての語りは深く心を打ちました。

結末の見事さもやはり私の好きな青山文平の作品だと、やはりこの人は最高だと思わせる、余韻のある結末でした。

 

第二話「鬼に喰われた女」は、東隣国の杉瀬村の名主である藤助から聞いた八百比丘尼をめぐる話です。

ある名主の家で引き受けた藩士とその家の娘との間の話ですが、藤助の語りの後に交わされた藤助と私との会話の展開は意外性に満ちたものでした。

八百比丘尼の話に持っていく構成のうまさもさることながら、八百比丘尼の話から一人の娘の話へ、そしてその後の藤助の告白の驚きへと、物語としての面白さを詰め込んだ一編でした。

 

第三話「初めての開板」は、医学というものの在りように着目した好編です。

平助の弟佐助の娘の八恵の喘病があまりよくないことから、平助は、第一話に出てきた惣兵衛から聞いていた、小曾根村で「称東堂」の看板を掲げている佐野淇一という六十過ぎの医者を思い出していました。

惣兵衛は、自分の村には佐野淇一という医者がいるから医の不安なく暮らすことができ、日本一豊かな村だと言っていたのです。

一方、この国の頼りにならないと言われていた大工町の西島晴順という医者が、何故か名医と言われるほどになっていたのです。

 

本書『本売る日々』では、「世の中を変革させる力を持っていた」在郷町にいた名主などの在の人びとを中心として描かれています。

作者の青山文平は、地域の文化の拠点となっていた村の指導者層である名主の存在に焦点を当てるために、彼らを訪ねて学術書を行商する本屋を主人公とする本書を書こうと思い立ったそうです。

また、作者の小説作法として、見つけた素材が内包する物語を紡ぎ出すだけだと書かれています。ただ、本書の場合、その素材を見つけるのが大変だったとも書かれているのです( 文藝春秋BOOKS 本の話 : 参照 )。

 

事実、本書の中には聞いたこともない数々の書物が登場します。

第二話に登場する本居宣長の「古事記伝」などはその名称は聞いたことがあったものの、第一話の「芥子園画伝」などそのほとんどは聞いたこともない書物ばかりです。

第三話に至っては医学書の話であるため一段と理解しがたい話になるはずなのに、和田東郭の『蕉窓雑話』、賀川玄悦の『産論』、『医宗金鑑』、『下台秘要方』、『景学全書』等々ずらりと並びます。

これらの本をそれなりに理解したうえでなければ文章の中に取り込むことはできないでしょうから、作者の努力というべきか苦労は相当なものであっただろうことは素人にも分かります。

しかしながら、その努力の上に本書に登場して生きている書物を見つけ、その中から物語を紡ぎ出しているのですから読者はただ単に恐れ入るばかりです。

 

本書『本売る日々』は、こうした作者の努力を前提として、書物を大切に思う庶民、書物を読むことのできる財力を持つ特殊な立場にある人々の、現実を離れたところにある知的なゲームのような物語として仕上がっています。

青山文平という作者の特色がよく表れた、納得の一冊だということができる作品でした。

やっと訪れた春に

やっと訪れた春に』とは

 

本書『やっと訪れた春に』は2022年7月に247頁のハードカバーで刊行された、長編の時代小説です。

ミステリー仕立てで紡ぎ出される本書は、それでも侍の生きざまを描き出した青山文平の作品らしい、読みごたえのある作品でした。

 

やっと訪れた春に』の簡単なあらすじ

 

橋倉藩の近習目付を勤める長沢圭史と団藤匠はともに齢六十七歳。本来一人の役職に二人いるのは、本家と分家から交代で藩主を出すー藩主が二人いる橋倉藩特有の事情によるものだった。だが、次期藩主の急逝を機に、百十八年に亘りつづいた藩主交代が終わりを迎えることに。これを機に、長らく二つの派閥に割れていた藩がひとつになり、橋倉藩にもようやく平和が訪れようとしていた。加齢による身体の衰えを感じていた圭史は「今なら、近習目付は一人でもなんとかなる」と、致仕願いを出す。その矢先、藩の重鎮が暗殺される。いったいなぜー隠居した身でありながらも、圭史は独自に探索をはじめるが…。名もなき武家と人々の生を鮮やかな筆致で映し出す。(「BOOK」データベースより)

 

 

やっと訪れた春に』の感想

 

本書『やっと訪れた春に』は、長沢圭史という橋倉藩の近習目付を語り部として、圭史自身と竹馬の友である団藤匠の生きざまを見つめるとともに、橋倉藩で起きた事件の謎を解明する物語です。

当初は、主人公の圭史が六十七歳という尿意をコントロールできない歳になったことを理由に致仕をするという書き出しからして、例えば藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』のような隠居をした侍の話になるか、と思っていました。

しかし、その思いは全くはずれ、橋倉藩で起きた事件の謎に迫るミステリー仕立てで侍の生きざまを描き出す作品だったのです。

 

 

本書『やっと訪れた春に』では、大きく分けて二つの時間の流れがあり、それぞれにキーワードが設けられているようです。

それは、ひとつは「御師」と呼ばれる圭史の家の庭にある龍のごとき大木の梅をめぐる描写です。圭史は毎年この「御師」の梅の実を梅干しとするのですが、その漬け込みの様子が描かれています。

「御師」の梅干しの漬け込みは今は亡き圭史の家族との対話の時間であり、物語を貫く圭史個人の時間軸です。

 

そしてもう一つ、こちらの方が物語の主となる流れで、四代藩主岩杉能登守重明の「御成敗」と呼ばれる事件を発端とする橋倉藩の時の流れです。

この「御成敗」は「鉢花衆」と呼ばれる十数人の剣士の一団による粛清事件であり、圭史の長沢家と匠の団藤家も「鉢花衆」の一員でした。

この橋倉藩の歴史という時間軸でのキーワードとしては、ほかに今も残っている「鉢花衆」の長沢家と団藤家の他の「いるかいないかもわからぬ一名」という言葉もあります。

これらのキーワードが随所で物語の核を示し、圭史の推論を導いていきます。

 

青山文平の作品の魅力は、ひとつには上記のような物語の構成のうまさがあるでしょう。

また、物の見方が独特であり、心象表現も含めて過不足のない簡潔で清冽な文章で描き出されているという点も挙げられると思います。

例えば、武将は「生き抜くことの過酷さが、家族にそそぐ目を粗くする。」といった文章は、他では見ない、しかし武将の生き方を簡潔に示しています。

この登場人物の心象表現も、細やかな筆致で丁寧な描写であり、また情感豊かな表現は私の好むところです。

圭史と匠の二人が「女」について語るなかで、「女は泉のようだ」と、女は水を抱いており、水さえ湧けばそこは泉になる、などという表現などは独特です。

 

さらには、情景の描写がそのうちに自然と物語の背景の説明へと変化しているなど、場面の展開が自然でとても読みやすいのです。

それでいて、特に本書では二人の侍のこれもまたキーワードの一つに挙げられる「斬気」を身に纏うための稽古の様子など、いろんな意味で厳しいものがあります。

 

また、青山文平の作品にはミステリーの要素が入っているため、物語として時代小説とは違った面白さが付加されていることもあるのではないでしょうか。

このミステリーの要素という点では、単にストーリー展開がそうだという以上に、登場人物の生きざま自体が、何故そういう生き方を選ぶか、という生き方の問題としての謎が付加されている場面が多い気がします。

もちろん、それは青山文平の作品だけに限ったことではないとは思うのですが、ほかの作家の場合は青山文平ほどの謎への展開がないと感じるのです。

冒頭の展開にしても団藤匠は、圭史が何も言っていないのに、圭史の元気そうな様子や、穿いているはずの軽衫(かるさん)ではなく着流しであることなどから、袴を穿けぬこと、つまりは下のことが理由だと見当をつけています。

 

たしかに、ここまで人の気持ちを推し量ることができるものだろうかという疑問はあります。

しかし、推理小説ではその論理が正当かどうかは私には問題ではなく、私を納得させてくれるものか、という点だけが重要です。

小説として存在するものである以上、その推論は多分間違った論理ではないでしょうし、またその程度の論理で十分なのです。

このような謎ときが全編にわたって展開されていて、青山文平が言う「生きてる我々が理不尽を含めた周りの変化にもがく姿を書きたい」という思いは、圭史や匠の育ってきた環境を通して表現されており、さらにはクライマックスへと結びついていくのです。

 

やはり、青山文平は面白との思いをあらためて認識させられた作品でした。

底惚れ

底惚れ』とは

 

本書『底惚れ』は2021年の11月に刊行された新刊書で、266頁の長編の時代小説です。

短編集『江戸染まぬ』に収められた「江戸染まぬ」という短編を長編化した作品ですが、青山文平作品にやはりはずれはなく、本書も惹き込まれて読んでしまいました。

 

底惚れ』の簡単なあらすじ

 

一季奉公を重ねて四十も過ぎた。己れを持て余していた男は、密かに想いを寄せていたお手つき女中・芳の二度と戻れぬ宿下がりの同行を命ぜられる。芳への理不尽な扱いに憤り、男は彼女に奉公先を見返す話を持ちかけた。初めての極楽を味わったその夜、芳は男を刺し、姿を消した。芳に刺されて死ねるのを喜ぶ男。しかし、意に反して男は一命をとりとめた。人を殺めていないことを芳に伝えるため、どん底の岡場所のどん底の女郎屋の主となって芳を探す。最底辺の切見世暮らしの男が、愛を力にして岡場所の顔に成り上がる!(「BOOK」データベースより)

 

底惚れ』の感想

 

本書『底惚れ』は先に書いたように、短編小説集の『江戸染まぬ』の中の「江戸染まぬ」という短編を長編化したものです。

 

 

この「江戸染まぬ」で本書のどこまでが描かれていたのかは今では覚えてはいないのですが、主人公の男が芳という女に刺されたところまでは間違いなく描かれていました。

上記の「簡単なあらすじ」にも書かれているように、芳に惚れていた主人公の男は芳のためにお金を工面しようと芳の主人、奉公先の隠し事を売ろうとしたところ、主人に惚れていた芳に刺されてしまいます。

しかし、何とか死ぬことを免れた男は、自分を殺したと思っているだろう芳に、お前は人殺しではないのだと伝えるために芳の行方を探しはじめます。

最終的に、郷里にも帰っていない芳の行く先は岡場所しかないだろうと考え、芳が訪れやすい岡場所を経営するに至るのです。

このように、本書は芳に刺されながらも芳に対する愛情を貫く男の姿を描いた作品であって、全編を主人公の「俺」の一人称で描かれています。

 

本書『底惚れ』の惹句には「江戸ハードボイルド長編」という文言があります。

それは、本書全編が「俺」という一人称で語られていて、「俺」の内心を詳細に描写してあるからだと思われます。

主人公の内面が丹念に描き出されているという点では確かに「ハードボイルド」と言えなくもないのでしょうが、簡潔な描写や主人公の主観面の描き方などの細かな点で「ハードボイルド」というには疑問もあります。

本書に暴力の匂いが全くしないことなどは一番の否定要因ではないでしょうか。

ただ逆に、そうした点を捉えても、だからこそ「ハードボイルド」と言えるのではないか、という気持ちがあるのも事実です。

 

でも、こうした分類は本書の評価には関係のないことで、本書の面白さだけを考えれば、青山文平の作品群の中で異色をはなっていることは間違いないにしても、青山文平らしい、主人公の心象を深く追及したユニークな作品であるということは言えるでしょう。

登場人物としては、主人公の「」と芳と同じ奉公先にいた下女の、それに深川入江町の岡場所の路地番の銀次がいます。

他には名前だけだったり、一場面だけ登場する人物も数人いますが、物語はこの三人だけで進みます。

 

とにかく短めの文で「俺」の心象をくっきりと浮かび上がらせる本書『底惚れ』の様は見事の一言に尽きます。

そして、クライマックスは何となく筋道が見えなくもないのですが、青山文平の筆の力はそうしたことをはねのけて盛り上がり、おさまるべきところにおさまるのです。

やはり、青山文平の作品は読みごたえがある、そう思わせられる作品でした。

泳ぐ者

本書『泳ぐ者』は、新刊書で248頁の長編のミステリー時代小説です。

さすが青山文平の小説です。『半席』の続編であり、主人公片岡の“なぜ”を追い求める姿が心に染みわたるホワイダニット小説になっています。

 

泳ぐ者』の簡単なあらすじ

 

離縁された妻はなぜ三年半も経って、病床の前夫を刺したのか。徒目付の片岡直人は「真相」を確信するが、最悪の事態に。折も折、耳に入る奇妙な噂。毎日決まった時刻に、冷たい大川を不恰好に泳ぐ男がいる。何のために? 事件の予兆、男の謎めいた笑み、仕掛けられた罠。「なぜ」の奥に、直人は人の心の「鬼」を見た――。時代本格ミステリー。引用元:青山文平 『泳ぐ者』 | 新潮社

 

片岡直人は、上役である内藤雅之の行きつけの居酒屋「七五屋」で、四月もの御用の旅に出ていた内藤から海防についての話を聞いていた。

“なぜ”を追う見抜く者についての話の中で内藤は、内藤がいない間に犯した片岡のしくじりについて、他にやりようがあったと思ってさえいれば、いずれ分かるようになると言う。

その言葉を聞き、片岡はしくじった御用である、離縁された妻が病の床にある夫を刺し殺した事件についてなぜなのかを思い返していた。

そんなときに、毎日決まった時刻に溺れるような姿で大川を泳いで渡る者がいるとの話を聞いて見に行ってみるのだった。

 

泳ぐ者』の感想

 

本書『泳ぐ者』は、徒目付の片岡直人を主人公とする短編集『半席』の続編です。

仕置きの決まった事件ではあるが、“なぜ”そのような事件を起こしたのかを知りたい人物のために裏御用としてその“なぜ”を探り、人間の心に潜む闇をあぶりだす片岡直人の物語です。

この“なぜ”は、罪科を定め、刑罰を執行するための“なぜ”ではありません。肉親を事件で失った者が知りたいのは命を落とさねばならなかった理由としての“なぜ”であり、そのための頼まれ御用だったのです。

その御用のためには人の気持ちの奥底へ染み入るために己をできる限り薄くする必要があり、それができる「人を見抜く者」が要求され、片岡はそのために最適だというのです。

ちなみに、片岡は「見抜く者」について、「科人の裡に棲む鬼を追い遣って罪ある己を悟らせ、残された家族に科人と自らへの赦しの機会を供してこそ見抜く者だ。」と言っています。

 

御目見え以上の役職に就くことを望む片岡を、徒目付という今の役職に引きずり込んだのは片岡の今の上司である内藤雅之という人物でした。

こうした事情が『半席』で、そして本書でも語られています。

 

 

その話に続いて、片岡のしくじった御用の、離縁された妻が三年半も経った後に病床の前夫を刺し殺した事件の様子が語られます。

その後、大川を溺れるような泳ぎで渡る男の話が語られるのです。

片岡の失態の話。そして、大川を泳いで渡る男の話。それに内藤との海防の話。

前の二つは片岡の“なぜ”の御用に関する話であり、などを解き明かす物語であってここで語られる理由はよく分かります。

では、なぜに海防の話を長々と続けるのか、そこが分かりませんでした。

 

いま改めて考えると、ひとつには文化魯寇フェートン号事件に絡んで採られた幕府や掛りの藩のとった態度に隠された真の意味などを片岡に推測させるということがあると思われます。

また次に、多分片岡の失態によると思われる“なぜ”を追う気持ちの喪失という片岡の現状の救済、という意味があったのかもしれません。

文化魯寇(文化露寇)とは、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国の外交使節だったニコライ・レザノフが日本の択捉の幕府の会所が攻撃され、叩きのめされた事件をいいます。( ウィキペディア : 参照 )を参照してください。

 

それにしても、本書の作者青山文平という作家の文章は見事です。地の文で為されている情景の描写の素晴らしさもさることながら、会話文でさえも心惹かれます。

それは、例えば菊枝の姉・佳津の住まいの描写の場面でも必要な言葉で必要なことを語り、佳津の住まい自体や庭の佇まいなどの見事さを描き、そのままに佳津という人物の美しさまで表現しています。

こうした打てば響くような硬質で透明感のある文章の美しさは、最初に読んだ『白樫の樹の下で』を読んだ時から感じていたことでもあります。

それが年を経て一段と磨かれているように感じるのです。

 

 

さらにいえば、歴史的な事実を考える片岡と内藤との会話は、その思考方法が江戸時代の価値観をも踏まえた上での会話と聞こえます。

たしかに、会話のところどころで現代的に思える箇所がないとは言いませんが、基本的に現代の人間では考えないであろう思考過程が見えるのです。

また、「語って美しいものは照々と考える者だ」という言葉を内藤に言わせていますが、この「照々と」という言葉を私は知りませんでした。ネットで調べても分かりません。

続けて、「人には見えないものに光を当てて見通す目の明るさが様子に出るのだろう」と書いてありますので意味は分かりますが、このような言葉の使い方は一般的なのでしょうか。

このように、こうした言葉は単に単語を知っているだけでは語れない言葉だと思えます。そうした言葉を言えるだけの素養が必要であり、青山文平という人はその素養を備えているということになります。

 

話を本書『泳ぐ者』に戻すと、内藤雅之という人物は食道楽でうまいものを食べることを至上とする人物で、片岡の“なぜ”を明らかにする能力を高く買っているのでした。

この内藤を始め沢田源内、片岡がしくじった御用の話に登場する菊枝やその姉の佳津、それに大川を泳いで渡っていた蓑吉、蓑吉に斬りかかった川島辰三など、登場人物が皆生き生きとしています。

一個の人間としてこの本の中で皆生きているのです。

 

本書『泳ぐ者』は、ミステリーとしての面白さが評判になり、文芸評論家・書評家の杉江松恋氏の「bookaholic認定2016年度国内ミステリー5位」に選ばれています。

 

話は変わりますが、この内藤雅之という人物は前巻の『半席』で最初のうちは“内藤康平”と表記されていました。ところが本書『泳ぐ者』のなかでは“内藤雅之”という名前に変わっています。

本書を読むにあたり確認した本サイト内の『半席』の項での名前と違います。

ネットで確認するどのサイトでも上司の名前は“内藤雅之”となっています。ただ「江戸の事件にのぞく、平成ニッポン」というサイトだけは“内藤康平”という名前が改名されているとありました。

半席』の中でもいつの版からか名前が変更されているようです。

江戸染まぬ

青山文平著の『江戸染まぬ』は、新刊書で222頁という長さの短編時代小説集です。

本書は七編の物語からなっていて、各短編の悠然とした文章は読む者の心を穏やかにし、琴線に触れてきます。

 

粋がる旗本次男坊が、女で祖父に負けた時―俺は江戸者だ。意気地と張りだ。江戸に生きる人々が織りなす鮮やかな人生。青山流時代小説の真骨頂!珠玉の短編集。(「BOOK」データベースより)

 

『江戸染まぬ』の簡単なあらすじ 

 


 

「つぎつぎ小袖」
大雑把と言われる私だったが、こと長女のことに関してはそうは言えなかった。そんな私が、親戚につぎつぎ小袖を頼むのだが、いつも一番快く引き受けてくれる一軒に今年は未だ頼めないでいた。

「町になかったもの」
紙問屋の晋平は、町年寄りの成瀬庄三郎に呼ばれていく途中、一介の村から在郷町に成り上がったこの町にも飛脚問屋の嶋屋が店を開いたことで、「この町に無いものはない」という感慨を抱いていた。

「剣士」
甥の柿谷哲郎の厄介叔父として肩身の狭い思いをしていた柿谷耕造は、昼間は川へと行き、餌をつけていない鉤のついた釣竿を垂らしていた。その場所には昔の道場仲間である益子慶之助も同じ立場の者として来ていた。

「いたずら書き」
御小姓頭取を仰せつかっている「私」は、御藩主から内容は知る必要はないと言われた書状を、評定所前箱に入れるようにと預かった。しかし、御藩主を守るという私の職務からして、中身を見ずに入れることはできないのだ。

「江戸染まぬ」
一年限りの武家奉公人の「俺」は、殿様の子を産み相模国に戻される“芳”という女のお供をすることになった。その女に何とか十両の金を渡してやりたいと思う俺だったが、それには「中番屋」に屋敷の話を売りに行くしかないのだった。

「日和山」
跡継ぎの兄は父親と共に重追放となり、私も中追放で家屋敷の没収ということになった。そこで、腰の物を売り、中間として生きていたが、やはり本差しが落ち着くことに気付き、刀を買い戻し、伊豆で用心棒をすることとなった。

「台」
口やかましい兄が我家の下女奉公をしてきた清を女として見ていた。それを見た自分は何故か清を落とすために、遊びをやめ学問吟味と称して実家に戻った。そんな清が孕んだ。相手は隠居の祖父だというのだ。

 

『江戸染まぬ』の感想

 

青山文平の作品は、『励み場』に見られるように、特に長編ではミステリー仕立てで最後に謎解きらしきものがあって落ち着く形態の作品が多いように思えます。

また、短編集においても『半席』のように、ある人物の真意を明らかにするミステリーそのものと言ってもいい作品もあります。

それらの作品では当然のことながら謎解きという結末がきちんとつけられ、物語の落としどころがはっきりとしています。

 

 

ところが本書『江戸染まぬ』の場合、短編の落としどころがよく分かりません。「だからどうなんだ」と言いたくなるのです。

作品のタイトルは今ではもう覚えていませんが、同じことを 藤沢周平の作品を読んだ時にも思ったことがあります。

分かりやすく、明確な結末を示してもらわなければ理解できなかったのでしょう。

私も当時は若く、物語自体の持つ雰囲気や時代、登場人物の考え方や生き方そのものをじっくりと読み込むということができていなかったと思えるのです。

 

では、今はそうした読み方ができるのかと言えば、やはりそうではなかったようです。本書『江戸染まぬ』の第一話「つぎつぎ小袖」など特にそうです。

最初は、主人公の「私」が夫を愛し、「大雑把」と言われようとひたすらに夫を愛し、子に対しては「大雑把」な私が別人のように神経質になって生きてきたその姿を、結局何なのだ、と思っていました。

ただ、文章の見事さに見とれ、「私」が他人とのしがらみなどの状況に立ち向かう姿の強さに惹かれたのです。

特に、最後に「私」があらためて娘を抱き、「いろんなものがぐつぐつと入り交じったこの世とやらについっと分け入って、このこと生きていくのだ。」と再確認する文章と描かれた姿に接し、なんと美しい姿かと感じ入りました。

そして、その文章に対して感じた「私」の強さ、そうした感じ方でいいのではないか、と思うようになったのです。しかし、本当にそうでいいものか自信はありません。

 

ただ、六話目の「日和山」になると未だによく分かりません。侍の暮らしから離れながらも再び二本差しへと戻った主人公は、何故日和山であのような行動に走ったのかよく分かりません。

結局のところ、この物語で作者は何を言いたかったのは何なのか、よく分からないのです。

 

落としどころが分からないということの他に、五話目の表題作でもある「江戸染まぬ」に関しては、何となく浅田次郎の文章を思い出してしまいました。

あらためてよく読み直すまでもなく、その頁を眺めればまったく異なる文章であるのはすぐにわかるのですが、主人公の主観的目線で、畳みかけるように書いてあるところからそう思ったのかもしれません。

 

七作目の「台」は、主人公が江戸っ子であるためか、物語の運び方と文章が他とは少し異なります。

知識ではなく考える力について、「意味で覚えると、言葉に腕ができる」として、ものの見え方が違ってくるという一文は印象的でした。

また、タイトルの「台」が、ゆるぎない自分の軸を持つことに繋がってくるという、その物の味方にも驚きでした。

そして、物語の締めである「オレは江戸者だ」から始まる最後の五行が実に小気味いい文章です。

文章が見事であるのは勿論ですが、主人公の江戸っ子としての心意気を端的に表現している作者の心意気まで伝わってくるようなのです。

 

やはり、私の読解力はまだまだと自覚させられた作品でもありました。

それでもなお、青山文平の作品はすばらしく、やはり今一番の時代小説作家だと思っています。

跳ぶ男

跳ぶ男』とは

 

本書『跳ぶ男』は、文庫本で384頁の、道具役(能役者)の家に生まれた一人の若者の生き様を描いた長編の時代小説です。

本書は一種の芸道小説であって、深く考えさせらる割には青山文平の作品らしく読者を飽きさせずに面白く読めた作品です。

 

跳ぶ男』の簡単なあらすじ

 

切り立った岩の上で独り稽古を積む、藤戸藩お抱えの道具役(能役者)の長男、屋島剛。藩主の身代わりとして江戸城に入り、貧しい藩の命運を握る「能」を使った秘策を授けられる。巨大な存在にその身ひとつで挑む15歳の剛は「想いも寄らぬことをやる」決意をした。謎と謀、美と畏れー唯一無二、感動の武家小説。(「BOOK」データベースより)

 

そして簡単なあらすじとしては、上記の「データベース」に書かれているくらいしか書けないと思います。あらすじを示すこと自体がネタバレになると思われるからです。

 

跳ぶ男』の感想

 

本書『跳ぶ男』についてはその感想を書くことが非常に難しい作品です。言えるのは、先に書いたように本書は一種の芸道小説であるということだけでしょう。

その意味でも、これまでこの作者が書いてこられた作品群とは少々その趣を異にしています。つまり、江戸時代の武家の素養としての「能」に焦点をあて、そのほかの侍ならではの事柄は切り捨てて侍の世界を描いてあるのです。

 

そして「能」に特化されていて、「能」自体のことや、武家同士のつながりに「能」が果たしている役割などの「能」が重用される理由については詳しく描かれていますが、能関連の専門的な言葉の説明などはあまりありません。

そのために、読者としてはついていくのにかなり苦労すると思われます。私は苦労しました。

そういう意味では、読者は置いていかれがちになる小説でもあります。

同様に、「野宮」や「定家」、「関寺小町」などの「能」の曲についても書かれてはいるのですが、もともと能の素養のない身としては、曲についての説明もついていくことが難しくも感じます。

さらには、例えば「登城は戦場」だという言葉であったり、知行地の主となった藩士の、名主などの村役人を招いて行う慰労会のことを指す「椀飯行事」という催しなど、これまでの時代小説では聞いたこともない事柄が数多く記されています。

また、文章そのものも「場処」や「居る処」など、常とは異なる文字使い、言葉遣いが随所で為されていて、能という特別な世界についての書であることを意識せざるを得ない書き方をしてあるのです。

 

これまで松井今朝子が『道絶えずば、また』という作品などの『風姿花伝三部作』では歌舞伎の世界を舞台にしたミステリーを書き、第137回直木賞を受賞した『吉原手引草』という作品では吉原を舞台とするというように、特別な世界を描写した作品はありました。

しかしながら、本書のように「能」に特化した作品は初めてです。

 

 

特別という点では、これまで書いてきた「能」についての作品だという印象が一転する最後の処理がまた見事です。

このことを書くこともネタバレになるかもしれず、とにかくこれ以上のことは私の力量では書くことはできないと思われます。

ただ、青山文平という作家のすごさを改めて思い知らされる作品だったことだけははっきりと書くことができます。

遠縁の女

遠縁の女』とは

 

青山文平著の『遠縁の女』は、文庫本で285頁の、三篇の中編小説からなる時代小説集です。

やはり青山文平の物語であり、ただひたすらに身を預けて読み進めるだけで至福のひとときが訪れる、そんな作品集でした。

 

遠縁の女』の簡単なあらすじ

 

寛政の世、浮世離れした武者修行から五年ぶりに帰国した男を待っていたのは、美貌の女が仕掛ける謎ー表題作ほか、二十俵二人扶持の貧しい武家一家で、後妻が生活のため機を織る「機織る武家」、新田開発を持ちかけられ当惑する三十二歳当主を描く「沼尻新田」。閉塞した武家社会を生きる人間の姿が鮮やかに立ち上る傑作三編!(「BOOK」データベースより)

 

遠縁の女』の感想

 

貨幣経済が発達し、武士が刀だけでは生きていけなくなって久しい江戸中後期を生きる小禄の武家とその家族たちを描いてきた青山文平ですが、本書もその例にもれません。

 

「機織る武家」
縫は、入り婿である武井由人という郡役所の下僚の後添えとして嫁いできた。夫は無能であり、更なる家禄の差し替えに際し、縫は賃機で武井家の生活を支えることになるが、この機織りが縫らの生活を変えることになるのたった。

第一話の「機織る武家」では、姑と入り婿とその後添えという血のつながらない三人の暮らしが描かれます。

姑は体面を気にし、夫は職務に関してはろくでなしという他なく、「美濃紙一枚ほどの広さの居場所」を後生大事に抱える夫のその片隅に自分の居場所を見つけるしかないでした。

その縫が自分の腕一本で三人の生活を支えることになったとき、嫌なことを嫌とはっきりという姑が変わり、夫も普通の人へと変化していき、縫自身の思いも変化していきます。

最早、夫の居場所の片隅に自分の居場所を見つける縫ではなく、縫の居場所に夫も、そして姑もいついているのです。姑や夫に対する縫の心情の変化は何と言えばいいのか、言葉がありません。

世の片隅で生きることを望むという縫の抱える屈託が明らかにされるこの物語の終盤は、少し話がずれたかと思うこともありますが、縫の全面的な開放という意味ではそれなりの落ち着き先だったのかもしれません。

 

「沼尻新田」
柴山和巳は父親から持ちかけられた新田開拓の話をあまり喜ばしいものとは思ってはいなかった。しかし、沼尻新田と呼ばれるその土地を調査した折の一人の野方の女との出会いがすべてを変えてしまう。

第二話の「機織る武家」は、武家の給料の仕組みを前提に、一人の女との出会いと想いを描く好編です。

当時の武家の給料には、家禄を米俵で受取る蔵米取りと、自らが有する領地から上がる年貢が給料となる知行取りとがありました。本来は領地を持ち国を治めるという姿こそが武家の本来の姿であったということです。

そうした知行取りであることに誇りを持っている柴山の家にもたらされた新田開発の話。その現地を調査した柴山和巳は、一人の野方の女と出会います。

誰もが上手くいかないと思っていた沼尻新田開発でしたが、その開発には柴山家中興の祖と言われた柴山和巳の隠された意図がありました。ある種のファンタジーとも言えそうな、一人の侍の一途な想いを語る好編です。

 

「遠縁の女」
好きな剣術が頭打ちになっていた片倉隆明は、父からもたらされた五年を目途とした武者修行の旅に出ることとなる。五年を過ぎ、急な知らせで帰郷すると、幼なじみの女が待っているのだった。

剣術修行の末に行きついた強い百姓らの稽古する野の稽古場という道場で、片倉は百姓らの剣の強さとの違いに気づきます。

それは武士は「死を呑んでいる」ということでした。百姓らの剣は生きるためであり、武士の剣は死ぬためのものである、ということです。

ここでの展開が非常に面白かったのですが、本題はここではありません。この物語の後半にありました。

急な知らせで郷里に帰った主人公の片倉隆明ですが、読者にとっても思いがけない展開となります。

信江という娘がその「遠縁の女」だったのですが、この女の行動に次第に絡め取られていく片倉の描写は、前半の修行は何だったのか、という印象を覚えます。

妖艶な女の恐ろしさがぐっと迫ってきて、ここにおいて、父親が言った片倉の五年の修行の本当の意味が明らかになるのでした。

励み場

青山文平著の本書『励み場』は、一人の最下級の農民である男が武家への身上がりを望み、励む姿を描いた、文庫本で270頁弱の長編時代小説です。

そしてまた、妻智恵の夫への想い、智恵の家族の智恵に対する思い、さらに智恵に対する夫信郎の想いをも見事に描き出した秀作でもあります。

 

智恵は、勘定所で普請役を務める夫・信郎と、下谷稲荷裏でつましくも幸せに暮らしていた。信郎は若くして石澤郡の山花陣屋元締め手代まで登りつめたが、真の武家になるため、三年前に夫婦で江戸に出てきたのだ。そんなある日、三度目の離縁をし、十行半の女になった姉の多喜が江戸上がりしてきた。一方、その頃、信郎は旗本の勘定から直々に命を受け、上本条付にひとり出向いていたが…。己の「励み場」とは何か?家族とは何か?―直木賞作家が描き切った渾身の長篇小説。(「BOOK」データベースより)

 

本書『励み場』は読了後は上質なミステリーを読んだようでもあります。それでいながら、青山文平のいつものテーマである「侍」の姿、そしてその妻が自らに正直生きる姿が示されているのです。

本書においては「名子」という存在が大きな位置を占めています。

本文において「江戸幕府開闢(かいびゃく)時に、武家の身分より領地をとって農民になった名主の、昔の家臣が『名子』」であるとの説明があるのですが、こうした存在は今まで全く知りませんでした。

 

そしてまた、徳川の代になって新たに開かれた田畑に入植してできた村か否かで新田村と本田村とに分かれるなどの説明があります。

このような村社会の成り立ち自体が本書では重要な意味を持っており、書名の『励み場』もこの社会構造に深くかかわってきます。

その上で「勘定所は、幕府の御役所の中で数少ない励み場である。」との一文が意味を持ってくるのです。

 

本書『励み場』の主人公としては、豪農の娘智恵とその夫笹森信郎ということになります。

また、智恵の姉である多喜も重要な位置を占めており、中心人物の一人として挙げることができるでしょう。

この姉多喜の妹知恵に対する呼びかけ方の変遷なども伏線としてあるところです。

笹森信郎が自分の人生をかけるに足る「励み場」を求めて呻吟する様は、読み手の心に深く刺さります。

 

それはつまり武士になることであり、そのために勘定奉行所の下役という今の仕事に励む信郎ですが、とある名主のもとに調査に出かけた折の会話など、人生そのものに深くかかわるものであり、信郎の生きかた自体に迫るものでもあります。

そして、その信郎を必死で支えようとする智恵は智恵で、ただひたすらに夫のことを考え続け、ある一歩を踏み出そうとし、その描写の緊張感はたまりません。

また、夫笹森信郎とその妻智恵、そして智恵の姉多喜と家族らの智恵に対する思いなど、夫婦同士の、そして家族の間のひたむきな思いやりは、読む者の心に少しの感動をもたらしてくれます。

 

これまでは青山文平の小説では『白樫の樹の下で』こそが一番の作品だと思ってきたのですが、本書『励み場』を読むに至りその考えも変わらざるを得ないようです。

研ぎ澄まされた雰囲気や文章の持つ美しさなどは、なお『白樫の樹の下で』のほうが勝っている、とは思うのですが、物語自体の奥行き、重みは『励み場』が勝ると思うのです。

 

 

他に侍を描き、心に残る作品としては少なくない数の作品があるのですが、中でも印象的だった作品としては、第146回直木賞を受賞した葉室麟の『蜩の記』があります。

数年後の切腹を控えていながら、静謐に生きる戸田秋谷とその家族の姿を描いたこの作品は、その硬質でありながら情感豊かな文章も含めて衝撃的でした。

 

 

また、既に古典とも言える作品として、山本周五郎の『樅ノ木は残った』があります。

これは、仙台藩伊達家でのお家騒動、いわゆる伊達騒動を描いた作品で、それまで悪人として描かれることの多かった原田甲斐を新たな視点で描きなおした作品です。

平幹次郎主演で、1970年のNHK大河ドラマになったことでも知られています。新潮文庫では全三巻として出版されています。

 

本書『励み場』は、これらの作品にも勝るとも劣らない作品だと思っています。

私は、青山文平という作家は現在の時代小説では一番好きな作家さんの一人だと思っているのですが、本書をよんでさらにその思いは強くなりました。

今後の作品をさらに期待したいものです。

半席

本書『半席』は、徒目付の片岡直人が上司から命じられた腑に落ちない事件の「真の動機」を解明していく短編の時代小説集です。

隠された人間の真実を明らかにするとき、そこにはそれまでは見えていなかったある生き方が見えてきます。青山文平らしい読みごたえのある作品集でした。

 

御家人から旗本に出世すべく、仕事に励む若き徒目付の片岡直人。だが上役から振られたのは、不可解な事件にひそむ「真の動機」を探り当てる御用だった。職務に精勤してきた老侍が、なぜ刃傷沙汰を起こしたのか。歴とした家筋の侍が堪えきれなかった思いとは。人生を支えていた名前とは。意外な真相が浮上するとき、人知れずもがきながら生きる男たちの姿が照らし出される。珠玉の武家小説。(「BOOK」データベースより)

 

青山文平の短編作品集の一つに『春山入り』という作品集があります。

以前は『約定』と題されていたその本の中に、筏(いかだ)の上を走り堀に飛び込み死亡した侍について書かれた「半席」という短編がありました。本書第一作目の「半席」がそれです。

 

 

本書『半席』は、作者がこの「半席」という短編を気にいったためか、この短編に登場する片岡直人を主人公に、新たに物語を紡ぎ出し、一冊の作品集として仕上げたものです。

この片岡直人の徒目付、つまりは監察役という職種を生かし、既に処分は決まっているもののはっきりとした理由が分かっていない事件の真実を聞き出すという職務を遂行させるのです。

それは罪を負うべき事柄の理由を明らかにしない当事者の、責めを負うに至った本当の理由を明らかにしようとするのであり、推理小説で言うホワイダニット(Why done it)ものということもできます。

つまりは、本書『半席』は、ただ処分を待つだけの老人たちから話を聞き、その本質を見つけるミステリーとしての面白さを持った作品なのです。

そして、片岡が彼ら老人の人間としての真実に触れることでこれまで見えていなかったものが見えてくる、その人間模様の奥深さをもあわせ持った作品集ということができます。

片岡の上司の内藤雅之によれば、片岡直人の青臭さこそが犯人も本音を言う気になるだろう、ということです。この内藤雅之という男がまた面白く、この物語の魅力の一つになっています。

 

それぞれの話を簡単にみると、

「半席」では、筏(いかだ)の上を走り、堀に飛び込み死亡した侍。
「真桑瓜」では、共に八十歳以上の侍同士の刃傷沙汰。
「六代目中村庄蔵」は、一季奉公の侍の主殺し。
「蓼を喰う」は、辻番所組合の仲間内を手に掛けた御庭番。
「見抜く者」は、徒歩目付の仕事の中でも特に人の恨みを買いやすい人物調べの絡んだ話。
「役替」は、同じ町内の、共に召し挙げられた仲間の父親との思いもかけない邂逅がもたらした行く末。

の真相を聞き出す、という話です。

 

本書『半席』は、私にとっても他人ごとではない、「老い」の末に自らの人生を思い起こすときにもたらされる悲痛な感情を描き出した好編ばかりです。

また、片岡直人という青年が内藤雅之という上司に見守られながら成長していく物語でもあります。

 

「役目柄『なぜ』だけではなく、事態を『いかに』収めるか、ということが問われる話もある。」と書いておられたのは文芸評論家の杉江松恋氏です。

青山文平という一押しの作家のお勧めの作品がまた増えました。

 

ちなみに、本書『半席』には2021年3月に続編として『泳ぐ者』という作品が出版されました。

短編集であった本書と異なり、『泳ぐ者』は長編小説であり、片岡の活躍がたっぷりと読むことができます。

ところが、本書で登場する内藤雅之という人物は当初は“内藤康平”を表記されていのですが、この『泳ぐ者』のなかでは“内藤雅之”という名前に変わっていたのです。

 

 

慌てて本稿を見直したところ“内藤康平”と表記しています。

ネットで調べると『半席』を紹介しているサイトでは皆“内藤雅之”となっているなか、「江戸の事件にのぞく、平成ニッポン」というサイトだけ上司内藤の改名について触れてありました。

ということで、そのことに気付かなかった私の不注意であり、本サイトでも“内藤康平”という表記を“内藤雅之”へと改めています。

ご了承ください。