泳ぐ者

本書『泳ぐ者』は、新刊書で248頁の長編のミステリー時代小説です。

さすが青山文平の小説です。『半席』の続編であり、主人公片岡の“なぜ”を追い求める姿が心に染みわたるホワイダニット小説になっています。

 

泳ぐ者』の簡単なあらすじ

 

離縁された妻はなぜ三年半も経って、病床の前夫を刺したのか。徒目付の片岡直人は「真相」を確信するが、最悪の事態に。折も折、耳に入る奇妙な噂。毎日決まった時刻に、冷たい大川を不恰好に泳ぐ男がいる。何のために? 事件の予兆、男の謎めいた笑み、仕掛けられた罠。「なぜ」の奥に、直人は人の心の「鬼」を見た――。時代本格ミステリー。引用元:青山文平 『泳ぐ者』 | 新潮社

 

片岡直人は、上役である内藤雅之の行きつけの居酒屋「七五屋」で、四月もの御用の旅に出ていた内藤から海防についての話を聞いていた。

“なぜ”を追う見抜く者についての話の中で内藤は、内藤がいない間に犯した片岡のしくじりについて、他にやりようがあったと思ってさえいれば、いずれ分かるようになると言う。

その言葉を聞き、片岡はしくじった御用である、離縁された妻が病の床にある夫を刺し殺した事件についてなぜなのかを思い返していた。

そんなときに、毎日決まった時刻に溺れるような姿で大川を泳いで渡る者がいるとの話を聞いて見に行ってみるのだった。

 

泳ぐ者』の感想

 

本書『泳ぐ者』は、徒目付の片岡直人を主人公とする短編集『半席』の続編です。

仕置きの決まった事件ではあるが、“なぜ”そのような事件を起こしたのかを知りたい人物のために裏御用としてその“なぜ”を探り、人間の心に潜む闇をあぶりだす片岡直人の物語です。

この“なぜ”は、罪科を定め、刑罰を執行するための“なぜ”ではありません。肉親を事件で失った者が知りたいのは命を落とさねばならなかった理由としての“なぜ”であり、そのための頼まれ御用だったのです。

その御用のためには人の気持ちの奥底へ染み入るために己をできる限り薄くする必要があり、それができる「人を見抜く者」が要求され、片岡はそのために最適だというのです。

ちなみに、片岡は「見抜く者」について、「科人の裡に棲む鬼を追い遣って罪ある己を悟らせ、残された家族に科人と自らへの赦しの機会を供してこそ見抜く者だ。」と言っています。

 

御目見え以上の役職に就くことを望む片岡を、徒目付という今の役職に引きずり込んだのは片岡の今の上司である内藤雅之という人物でした。

こうした事情が『半席』で、そして本書でも語られています。

 

 

その話に続いて、片岡のしくじった御用の、離縁された妻が三年半も経った後に病床の前夫を刺し殺した事件の様子が語られます。

その後、大川を溺れるような泳ぎで渡る男の話が語られるのです。

片岡の失態の話。そして、大川を泳いで渡る男の話。それに内藤との海防の話。

前の二つは片岡の“なぜ”の御用に関する話であり、などを解き明かす物語であってここで語られる理由はよく分かります。

では、なぜに海防の話を長々と続けるのか、そこが分かりませんでした。

 

いま改めて考えると、ひとつには文化魯寇フェートン号事件に絡んで採られた幕府や掛りの藩のとった態度に隠された真の意味などを片岡に推測させるということがあると思われます。

また次に、多分片岡の失態によると思われる“なぜ”を追う気持ちの喪失という片岡の現状の救済、という意味があったのかもしれません。

文化魯寇(文化露寇)とは、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国の外交使節だったニコライ・レザノフが日本の択捉の幕府の会所が攻撃され、叩きのめされた事件をいいます。( ウィキペディア : 参照 )を参照してください。

 

それにしても、本書の作者青山文平という作家の文章は見事です。地の文で為されている情景の描写の素晴らしさもさることながら、会話文でさえも心惹かれます。

それは、例えば菊枝の姉・佳津の住まいの描写の場面でも必要な言葉で必要なことを語り、佳津の住まい自体や庭の佇まいなどの見事さを描き、そのままに佳津という人物の美しさまで表現しています。

こうした打てば響くような硬質で透明感のある文章の美しさは、最初に読んだ『白樫の樹の下で』を読んだ時から感じていたことでもあります。

それが年を経て一段と磨かれているように感じるのです。

 

 

さらにいえば、歴史的な事実を考える片岡と内藤との会話は、その思考方法が江戸時代の価値観をも踏まえた上での会話と聞こえます。

たしかに、会話のところどころで現代的に思える箇所がないとは言いませんが、基本的に現代の人間では考えないであろう思考過程が見えるのです。

また、「語って美しいものは照々と考える者だ」という言葉を内藤に言わせていますが、この「照々と」という言葉を私は知りませんでした。ネットで調べても分かりません。

続けて、「人には見えないものに光を当てて見通す目の明るさが様子に出るのだろう」と書いてありますので意味は分かりますが、このような言葉の使い方は一般的なのでしょうか。

このように、こうした言葉は単に単語を知っているだけでは語れない言葉だと思えます。そうした言葉を言えるだけの素養が必要であり、青山文平という人はその素養を備えているということになります。

 

話を本書『泳ぐ者』に戻すと、内藤雅之という人物は食道楽でうまいものを食べることを至上とする人物で、片岡の“なぜ”を明らかにする能力を高く買っているのでした。

この内藤を始め沢田源内、片岡がしくじった御用の話に登場する菊枝やその姉の佳津、それに大川を泳いで渡っていた蓑吉、蓑吉に斬りかかった川島辰三など、登場人物が皆生き生きとしています。

一個の人間としてこの本の中で皆生きているのです。

 

本書『泳ぐ者』は、ミステリーとしての面白さが評判になり、文芸評論家・書評家の杉江松恋氏の「bookaholic認定2016年度国内ミステリー5位」に選ばれています。

 

話は変わりますが、この内藤雅之という人物は前巻の『半席』で最初のうちは“内藤康平”と表記されていました。ところが本書『泳ぐ者』のなかでは“内藤雅之”という名前に変わっています。

本書を読むにあたり確認した本サイト内の『半席』の項での名前と違います。

ネットで確認するどのサイトでも上司の名前は“内藤雅之”となっています。ただ「江戸の事件にのぞく、平成ニッポン」というサイトだけは“内藤康平”という名前が改名されているとありました。

半席』の中でもいつの版からか名前が変更されているようです。

江戸染まぬ

青山文平著の『江戸染まぬ』は、新刊書で222頁という長さの短編時代小説集です。

本書は七編の物語からなっていて、各短編の悠然とした文章は読む者の心を穏やかにし、琴線に触れてきます。

 

粋がる旗本次男坊が、女で祖父に負けた時―俺は江戸者だ。意気地と張りだ。江戸に生きる人々が織りなす鮮やかな人生。青山流時代小説の真骨頂!珠玉の短編集。(「BOOK」データベースより)

 

『江戸染まぬ』の簡単なあらすじ 

 


 

「つぎつぎ小袖」
大雑把と言われる私だったが、こと長女のことに関してはそうは言えなかった。そんな私が、親戚につぎつぎ小袖を頼むのだが、いつも一番快く引き受けてくれる一軒に今年は未だ頼めないでいた。

「町になかったもの」
紙問屋の晋平は、町年寄りの成瀬庄三郎に呼ばれていく途中、一介の村から在郷町に成り上がったこの町にも飛脚問屋の嶋屋が店を開いたことで、「この町に無いものはない」という感慨を抱いていた。

「剣士」
甥の柿谷哲郎の厄介叔父として肩身の狭い思いをしていた柿谷耕造は、昼間は川へと行き、餌をつけていない鉤のついた釣竿を垂らしていた。その場所には昔の道場仲間である益子慶之助も同じ立場の者として来ていた。

「いたずら書き」
御小姓頭取を仰せつかっている「私」は、御藩主から内容は知る必要はないと言われた書状を、評定所前箱に入れるようにと預かった。しかし、御藩主を守るという私の職務からして、中身を見ずに入れることはできないのだ。

「江戸染まぬ」
一年限りの武家奉公人の「俺」は、殿様の子を産み相模国に戻される“芳”という女のお供をすることになった。その女に何とか十両の金を渡してやりたいと思う俺だったが、それには「中番屋」に屋敷の話を売りに行くしかないのだった。

「日和山」
跡継ぎの兄は父親と共に重追放となり、私も中追放で家屋敷の没収ということになった。そこで、腰の物を売り、中間として生きていたが、やはり本差しが落ち着くことに気付き、刀を買い戻し、伊豆で用心棒をすることとなった。

「台」
口やかましい兄が我家の下女奉公をしてきた清を女として見ていた。それを見た自分は何故か清を落とすために、遊びをやめ学問吟味と称して実家に戻った。そんな清が孕んだ。相手は隠居の祖父だというのだ。

 

『江戸染まぬ』の感想

 

青山文平の作品は、『励み場』に見られるように、特に長編ではミステリー仕立てで最後に謎解きらしきものがあって落ち着く形態の作品が多いように思えます。

また、短編集においても『半席』のように、ある人物の真意を明らかにするミステリーそのものと言ってもいい作品もあります。

それらの作品では当然のことながら謎解きという結末がきちんとつけられ、物語の落としどころがはっきりとしています。

 

 

ところが本書『江戸染まぬ』の場合、短編の落としどころがよく分かりません。「だからどうなんだ」と言いたくなるのです。

作品のタイトルは今ではもう覚えていませんが、同じことを 藤沢周平の作品を読んだ時にも思ったことがあります。

分かりやすく、明確な結末を示してもらわなければ理解できなかったのでしょう。

私も当時は若く、物語自体の持つ雰囲気や時代、登場人物の考え方や生き方そのものをじっくりと読み込むということができていなかったと思えるのです。

 

では、今はそうした読み方ができるのかと言えば、やはりそうではなかったようです。本書『江戸染まぬ』の第一話「つぎつぎ小袖」など特にそうです。

最初は、主人公の「私」が夫を愛し、「大雑把」と言われようとひたすらに夫を愛し、子に対しては「大雑把」な私が別人のように神経質になって生きてきたその姿を、結局何なのだ、と思っていました。

ただ、文章の見事さに見とれ、「私」が他人とのしがらみなどの状況に立ち向かう姿の強さに惹かれたのです。

特に、最後に「私」があらためて娘を抱き、「いろんなものがぐつぐつと入り交じったこの世とやらについっと分け入って、このこと生きていくのだ。」と再確認する文章と描かれた姿に接し、なんと美しい姿かと感じ入りました。

そして、その文章に対して感じた「私」の強さ、そうした感じ方でいいのではないか、と思うようになったのです。しかし、本当にそうでいいものか自信はありません。

 

ただ、六話目の「日和山」になると未だによく分かりません。侍の暮らしから離れながらも再び二本差しへと戻った主人公は、何故日和山であのような行動に走ったのかよく分かりません。

結局のところ、この物語で作者は何を言いたかったのは何なのか、よく分からないのです。

 

落としどころが分からないということの他に、五話目の表題作でもある「江戸染まぬ」に関しては、何となく浅田次郎の文章を思い出してしまいました。

あらためてよく読み直すまでもなく、その頁を眺めればまったく異なる文章であるのはすぐにわかるのですが、主人公の主観的目線で、畳みかけるように書いてあるところからそう思ったのかもしれません。

 

七作目の「台」は、主人公が江戸っ子であるためか、物語の運び方と文章が他とは少し異なります。

知識ではなく考える力について、「意味で覚えると、言葉に腕ができる」として、ものの見え方が違ってくるという一文は印象的でした。

また、タイトルの「台」が、ゆるぎない自分の軸を持つことに繋がってくるという、その物の味方にも驚きでした。

そして、物語の締めである「オレは江戸者だ」から始まる最後の五行が実に小気味いい文章です。

文章が見事であるのは勿論ですが、主人公の江戸っ子としての心意気を端的に表現している作者の心意気まで伝わってくるようなのです。

 

やはり、私の読解力はまだまだと自覚させられた作品でもありました。

それでもなお、青山文平の作品はすばらしく、やはり今一番の時代小説作家だと思っています。

跳ぶ男

土地も金も水も米もない、ないない尽くしの藤戸藩に、道具役(能役者)の長男として生まれた屋島剛は、幼くして母を亡くし、嫡子としての居場処も失った。以来、三つ齢上の友・岩船保の手を借りながら独修で能に励んできたが、保が切腹を命じられた。さらに、藩主が急死し、剛が身代わりとして立てられることに。そこには、保の言葉と、藩のある事情があった―。(「BOOK」データベースより)

 

道具役(能役者)の家に生まれた一人の若者の生き様を描いた長編の時代小説です。

 

本書についてはその感想を書くことが非常に難しい作品です。言えるのは、本書は一種の芸道小説であるということだけでしょう。

そして簡単なあらすじとしては、上記の「データベース」に書かれているくらいしか書けないと思います。あらすじを示すこと自体がネタバレになると思われるからです。

その意味でも、これまでこの作者が書いてこられた作品群とは少々その趣を異にしています。つまり、江戸時代の武家の素養としての「能」に焦点をあて、そのほかの侍ならではの事柄は切り捨てて侍の世界を描いてあるのです。

 

そして「能」に特化されていて、「能」自体のことや、武家同士のつながりに「能」が果たしている役割などの「能」が重用される理由については詳しく描かれていますが、能関連の専門的な言葉の説明などはあまりありません。そのために、読者としてはついていくのにかなり苦労すると思われます。私は苦労しました。

そういう意味では、読者は置いていかれがちになる小説でもあります。

同様に、野宮」や「定家」、「関寺小町」などの「能」の曲についても書かれてはいるのですが、もともと能の素養のない身としては、曲についての説明もついていくことが難しくも感じます。

さらには、例えば「登城は戦場」だという言葉であったり、知行地の主となった藩士の、名主などの村役人を招いて行う慰労会のことを指す「椀飯行事」という催しなど、これまでの時代小説では聞いたこともない事柄が数多く記されています。

また、文章そのものも「場処」や「居る処」など、常とは異なる文字使い、言葉遣いが随所で為されていて、能という特別な世界についての書であることを意識せざるを得ない書き方をしてあるのです。

 

これまで松井今朝子が『道絶えずば、また』という作品などの『風姿花伝三部作』では歌舞伎の世界を舞台にしたミステリーを書き、第137回直木賞を受賞した『吉原手引草』という作品では吉原を舞台とするというように、特別な世界を描写した作品はありました。しかしながら、本書のように「能」に特化した作品は初めてです。

 

 

特別という点では、これまで書いてきた「能」についての作品だという印象が一転する最後の処理がまた見事です。このことを書くこともネタバレになるかもしれず、とにかくこれ以上のことは私の力量では書くことはできないと思われます。

ただ、青山文平という作家のすごさを改めて思い知らされる作品だったことだけははっきりと書くことができます。

遠縁の女

『機織る武家』血の繋がらない三人が身を寄せ合う、二十俵二人扶持の武家一家。生活のため、後妻の縫は機織りを再開する。『沼尻新田』新田開発を持ちかけられ当惑する三十二歳当主。実地検分に訪れた現地のクロマツ林で、美しい女に出会う。『遠縁の女』寛政の世、浮世離れした剣の修行に出た武家。五年ぶりに帰国した彼を待っていたのは、女の仕掛ける謎―。直木賞受賞作「つまをめとらば」に続く清冽な世界。傑作武家小説集。

青山文平著の『遠縁の女』は、三篇の中編小説からなる時代小説集です。貨幣経済が発達し、武士が刀だけでは生きていけなくなって久しい、江戸中後期を生きる小禄の武家とその家族たちを描いてきた青山文平ですが、本書もその例にもれません。

「機織る武家」
縫は、入り婿である武井由人という郡役所の下僚の後添えとして嫁いできた。夫は無能であり、更なる家禄の差し替えに際し、縫は賃機で武井家の生活を支えることになるが、この機織りが縫らの生活を変えることになるのたった。

姑と入り婿とその後添えという血のつながらない三人の暮らし。姑は体面を気にし、夫は職務に関してはろくでなしという他なく、「美濃紙一枚ほどの広さの居場所」を後生大事に抱える夫のその片隅に自分の居場所を見つけるしかない縫でした。

その縫が自分の腕一本で三人の生活を支えることになったとき、嫌なことを嫌とはっきりという姑が変わり、夫も普通の人へと変化していくとき、縫自身の思いも変化していきます。

最早、夫の居場所の片隅に自分の居場所を見つける縫ではなく、縫の居場所に夫も、そして姑もいついているのです。姑や夫に対する縫の心情の変化は何と言えばいいのか、言葉がありません。

世の片隅で生きることを望むという縫の抱える屈託が明らかにされるこの物語の終盤は、少し話がずれたかと思うこともありますが、縫の全面的な開放という意味ではそれなりの落ち着き先だったのかもしれません。

「沼尻新田」
柴山和巳は父親から持ちかけられた新田開拓の話をあまり喜ばしいものとは思ってはいなかった。しかし、沼尻新田と呼ばれるその土地を調査した折の一人の野方の女との出会いがすべてを変えてしまう。

当時の武家の給料には、家禄を米俵で受取る蔵米取りと、自らが有する領地から上がる年貢が給料となる知行取りとがありました。本来は領地を持ち国を治めるという姿こそが武家の本来の姿であったということです。

そうした知行取りであることに誇りを持っている柴山の家にもたらされた新田開発の話。その現地を調査した柴山和巳は、一人の野方の女と出会うのです。

誰もが上手くいかないと思っていた沼尻新田開発でしたが、その開発には柴山家中興の祖と言われた柴山和巳の隠された意図がありました。ある種のファンタジーとも言えそうな、一人の侍の一途な想いを語る好編です。

「遠縁の女」
好きな剣術が頭打ちになっていた片倉隆明は、父からもたらされた五年を目途とした武者修行の旅に出ることとなる。五年を過ぎ、急な知らせで帰郷すると、幼なじみの女が待っているのだった。

剣術修行の末に行きついた強い百姓らの稽古する野の稽古場という道場で、片倉は百姓らの剣の強さとの違いに気づきます。それは武士は「死を呑んでいる」ということでした。百姓らの剣は生きるためであり、武士の剣は死ぬためのものである、ということです。

ここでの展開が非常に面白かったのですが、本題はここではありません。この物語の後半にありました。

急な知らせで郷里に帰った主人公の片倉隆明ですが、読者にとっても思いがけない展開となります。

信江という娘がその「遠縁の女」だったのですが、この女の行動に次第に絡め取られていく片倉の描写は、前半の修行は何だったのか、という印象を覚えます。

妖艶な女の恐ろしさがぐっと迫ってきて、ここにおいて、父親が言った片倉の五年の修行の本当の意味が明らかになるのでした。

励み場

青山文平著の本書『励み場』は、一人の最下級の農民である男が武家への身上がりを望み、励む姿を描いた、文庫本で270頁弱の長編時代小説です。

そしてまた、妻智恵の夫への想い、智恵の家族の智恵に対する思い、さらに智恵に対する夫信郎の想いをも見事に描き出した秀作でもあります。

 

智恵は、勘定所で普請役を務める夫・信郎と、下谷稲荷裏でつましくも幸せに暮らしていた。信郎は若くして石澤郡の山花陣屋元締め手代まで登りつめたが、真の武家になるため、三年前に夫婦で江戸に出てきたのだ。そんなある日、三度目の離縁をし、十行半の女になった姉の多喜が江戸上がりしてきた。一方、その頃、信郎は旗本の勘定から直々に命を受け、上本条付にひとり出向いていたが…。己の「励み場」とは何か?家族とは何か?―直木賞作家が描き切った渾身の長篇小説。(「BOOK」データベースより)

 

本書『励み場』は読了後は上質なミステリーを読んだようでもあります。それでいながら、青山文平のいつものテーマである「侍」の姿、そしてその妻が自らに正直生きる姿が示されているのです。

本書においては「名子」という存在が大きな位置を占めています。

本文において「江戸幕府開闢(かいびゃく)時に、武家の身分より領地をとって農民になった名主の、昔の家臣が『名子』」であるとの説明があるのですが、こうした存在は今まで全く知りませんでした。

 

そしてまた、徳川の代になって新たに開かれた田畑に入植してできた村か否かで新田村と本田村とに分かれるなどの説明があります。

このような村社会の成り立ち自体が本書では重要な意味を持っており、書名の『励み場』もこの社会構造に深くかかわってきます。

その上で「勘定所は、幕府の御役所の中で数少ない励み場である。」との一文が意味を持ってくるのです。

 

本書『励み場』の主人公としては、豪農の娘智恵とその夫笹森信郎ということになります。

また、智恵の姉である多喜も重要な位置を占めており、中心人物の一人として挙げることができるでしょう。

この姉多喜の妹知恵に対する呼びかけ方の変遷なども伏線としてあるところです。

笹森信郎が自分の人生をかけるに足る「励み場」を求めて呻吟する様は、読み手の心に深く刺さります。

 

それはつまり武士になることであり、そのために勘定奉行所の下役という今の仕事に励む信郎ですが、とある名主のもとに調査に出かけた折の会話など、人生そのものに深くかかわるものであり、信郎の生きかた自体に迫るものでもあります。

そして、その信郎を必死で支えようとする智恵は智恵で、ただひたすらに夫のことを考え続け、ある一歩を踏み出そうとし、その描写の緊張感はたまりません。

また、夫笹森信郎とその妻智恵、そして智恵の姉多喜と家族らの智恵に対する思いなど、夫婦同士の、そして家族の間のひたむきな思いやりは、読む者の心に少しの感動をもたらしてくれます。

 

これまでは青山文平の小説では『白樫の樹の下で』こそが一番の作品だと思ってきたのですが、本書『励み場』を読むに至りその考えも変わらざるを得ないようです。

研ぎ澄まされた雰囲気や文章の持つ美しさなどは、なお『白樫の樹の下で』のほうが勝っている、とは思うのですが、物語自体の奥行き、重みは『励み場』が勝ると思うのです。

 

 

他に侍を描き、心に残る作品としては少なくない数の作品があるのですが、中でも印象的だった作品としては、第146回直木賞を受賞した葉室麟の『蜩の記』があります。

数年後の切腹を控えていながら、静謐に生きる戸田秋谷とその家族の姿を描いたこの作品は、その硬質でありながら情感豊かな文章も含めて衝撃的でした。

 

 

また、既に古典とも言える作品として、山本周五郎の『樅ノ木は残った』があります。

これは、仙台藩伊達家でのお家騒動、いわゆる伊達騒動を描いた作品で、それまで悪人として描かれることの多かった原田甲斐を新たな視点で描きなおした作品です。

平幹次郎主演で、1970年のNHK大河ドラマになったことでも知られています。新潮文庫では全三巻として出版されています。

 

本書『励み場』は、これらの作品にも勝るとも劣らない作品だと思っています。

私は、青山文平という作家は現在の時代小説では一番好きな作家さんの一人だと思っているのですが、本書をよんでさらにその思いは強くなりました。

今後の作品をさらに期待したいものです。

半席

本書『半席』は、徒目付の片岡直人が上司から命じられた腑に落ちない事件の「真の動機」を解明していく短編の時代小説集です。

隠された人間の真実を明らかにするとき、そこにはそれまでは見えていなかったある生き方が見えてきます。青山文平らしい読みごたえのある作品集でした。

 

御家人から旗本に出世すべく、仕事に励む若き徒目付の片岡直人。だが上役から振られたのは、不可解な事件にひそむ「真の動機」を探り当てる御用だった。職務に精勤してきた老侍が、なぜ刃傷沙汰を起こしたのか。歴とした家筋の侍が堪えきれなかった思いとは。人生を支えていた名前とは。意外な真相が浮上するとき、人知れずもがきながら生きる男たちの姿が照らし出される。珠玉の武家小説。(「BOOK」データベースより)

 

青山文平の短編作品集の一つに『春山入り』という作品集があります。

以前は『約定』と題されていたその本の中に、筏(いかだ)の上を走り堀に飛び込み死亡した侍について書かれた「半席」という短編がありました。本書第一作目の「半席」がそれです。

 

 

本書『半席』は、作者がこの「半席」という短編を気にいったためか、この短編に登場する片岡直人を主人公に、新たに物語を紡ぎ出し、一冊の作品集として仕上げたものです。

この片岡直人の徒目付、つまりは監察役という職種を生かし、既に処分は決まっているもののはっきりとした理由が分かっていない事件の真実を聞き出すという職務を遂行させるのです。

それは罪を負うべき事柄の理由を明らかにしない当事者の、責めを負うに至った本当の理由を明らかにしようとするのであり、推理小説で言うホワイダニット(Why done it)ものということもできます。

つまりは、本書『半席』は、ただ処分を待つだけの老人たちから話を聞き、その本質を見つけるミステリーとしての面白さを持った作品なのです。

そして、片岡が彼ら老人の人間としての真実に触れることでこれまで見えていなかったものが見えてくる、その人間模様の奥深さをもあわせ持った作品集ということができます。

片岡の上司の内藤雅之によれば、片岡直人の青臭さこそが犯人も本音を言う気になるだろう、ということです。この内藤雅之という男がまた面白く、この物語の魅力の一つになっています。

 

それぞれの話を簡単にみると、

「半席」では、筏(いかだ)の上を走り、堀に飛び込み死亡した侍。
「真桑瓜」では、共に八十歳以上の侍同士の刃傷沙汰。
「六代目中村庄蔵」は、一季奉公の侍の主殺し。
「蓼を喰う」は、辻番所組合の仲間内を手に掛けた御庭番。
「見抜く者」は、徒歩目付の仕事の中でも特に人の恨みを買いやすい人物調べの絡んだ話。
「役替」は、同じ町内の、共に召し挙げられた仲間の父親との思いもかけない邂逅がもたらした行く末。

の真相を聞き出す、という話です。

 

本書『半席』は、私にとっても他人ごとではない、「老い」の末に自らの人生を思い起こすときにもたらされる悲痛な感情を描き出した好編ばかりです。

また、片岡直人という青年が内藤雅之という上司に見守られながら成長していく物語でもあります。

 

「役目柄『なぜ』だけではなく、事態を『いかに』収めるか、ということが問われる話もある。」と書いておられたのは文芸評論家の杉江松恋氏です。

青山文平という一押しの作家のお勧めの作品がまた増えました。

 

ちなみに、本書『半席』には2021年3月に続編として『泳ぐ者』という作品が出版されました。

短編集であった本書と異なり、『泳ぐ者』は長編小説であり、片岡の活躍がたっぷりと読むことができます。

ところが、本書で登場する内藤雅之という人物は当初は“内藤康平”を表記されていのですが、この『泳ぐ者』のなかでは“内藤雅之”という名前に変わっていたのです。

 

 

慌てて本稿を見直したところ“内藤康平”と表記しています。

ネットで調べると『半席』を紹介しているサイトでは皆“内藤雅之”となっているなか、「江戸の事件にのぞく、平成ニッポン」というサイトだけ上司内藤の改名について触れてありました。

ということで、そのことに気付かなかった私の不注意であり、本サイトでも“内藤康平”という表記を“内藤雅之”へと改めています。

ご了承ください。

つまをめとらば

女が映し出す男の無様、そして、真価―。太平の世に行き場を失い、人生に惑う武家の男たち。身ひとつで生きる女ならば、答えを知っていようか―。時代小説の新旗手が贈る傑作武家小説集。男の心に巣食う弱さを包み込む、滋味あふれる物語、六篇を収録。選考会時に圧倒的支持で直木賞受賞。(「BOOK」データベースより)

 

本書は、六編の物語からなる短編の時代小説集であり、第154回直木賞を受賞した作品です。

 

「ひともうらやむ」
女ならば誰しも惚れると思われる長倉家本家の総領で眉目秀麗のうえに目録の腕前を持つ秀才の長倉克巳が、皆のあこがれの的であった、医師浅沼一斎の娘世津を娶ることになったのだが・・・。

「つゆかせぎ」
妻の朋が急な病で逝ってからしばらくして、地本問屋の手代が、竹亭化月の筆名で戯作を書いていたという朋を訪ねてきた。朋は木挽町の芝居小屋の娘であったため、意外でもなかったのだが・・・。

「乳付」
神尾信明に嫁いだ民恵は長男新次郎を産んだ。しかし、産後の肥立ちが悪く乳をやることもできないでいたため、瀬紀という遠縁の妻女に乳付をしてもらうことになった。瀬紀は民恵と同じ年かっこうであったが、同じ女でも魅入られてしまうほどに輝いていた。

「ひと夏」
石山道場奥山念流目録の腕前を持つ部屋済みの身分の高林啓吾は、誰が赴任しても二年ともたないという勤めを命じられる。現地では、藩の役人をあからさまに見下す百姓たちだったが、それに対し何もできない事情があった。

「逢対」
無益の者が出仕を求めて日参する「逢対」に、幼馴染の北島義人と共に同行した竹内泰郎だったが、自分だけ呼び出されることになった。

「つまをめとらば」
妻の不義で離縁し独り身の深堀省吾は、幼馴染の山脇貞次郎に家作を貸すこととなった。省吾にとり、幼馴染との暮らしは心地よいものだったが、貞次郎には思いを寄せている言い出せずにいる娘がいるというのだった。

 

著者は「女は本質的に、人間の存在の地肌で生きてい」て、そして「男は女を通じてはじめて、人間の存在の地肌に触れることができる。」と言っています。人間として、男は女を通してしか実現できないと言っているようです。

「男がしでかす諸々の問題も、さかのぼれば、その多くは、根源的なよるべなさに行き着くのではないでしょうか。」ということになるのです。

 

本書はそうした男どもの存在をあからさまに描き出してあります。

ただ、これまでのこの作家の物語と、少しですが趣が異なります。女性をモチーフにしているからでしょうか、全体的にどことなくユーモアに包まれているのです。

また、これまでの作品では“侍”を前面に押し出し、その生き方を直截的に描くことが多かったと思います。

勿論これまでもユーモラスな物語が皆無だというわけではありません。しかし、それらの作品も結局は“侍の生き方”に結びつくものでした。

本書の場合、「乳付」を除いてはやはり主人公は男で、さまざまな女性の形を描くことで男である主人公の内面を描き出してはいるのですが、特に「ひと夏」や「つまをめとらば」は侍というよりは一個の人間を描いてある、と言えるのではないでしょうか。

 

現在の、あまたおられる時代小説作家の中で一番私の好みに合致するのがこの青山文平という作家さんです。侍のあり方を問う物語の組み立て、硬質ではあるものの格調高く、品格を保っているその文章は心揺さぶられるものがあるのです。

鬼はもとより

本書『鬼はもとより』は、侍の生き方を追いかける青山文平が経済の側面から武士社会を描いた長編の時代小説です。

侍の世界を新たな視点で描き出す、魅力満点の小説です。

 

どの藩の経済も傾いてきた宝暦八年、奥脇抄一郎は江戸で表向きは万年青売りの浪人、実は藩札の万指南である。戦のないこの時代、最大の敵は貧しさ。飢饉になると人が死ぬ。各藩の問題解決に手を貸し、経験を積み重ねるうちに、藩札で藩経済そのものを立て直す仕法を摸索し始めた。その矢先、ある最貧小藩から依頼が舞い込む。剣が役に立たない時代、武家はどういきるべきか!?(「BOOK」データベースより)

 

剣に倦み女遊びも尽くした奥脇抄一郎は「藩札掛」を命じられる。世話役の佐島兵右衛門(さじまへいえもん)の急死により抄一郎が責任者となるが、飢饉に際しての藩札の刷り増しの命に逆らい、藩札の原版を持って脱藩してしまう。

その後、江戸に出た抄一郎は旗本の深井藤兵衛(ふかいとうべえ)の知己を得るなかで、藩札板行指南を業とするようになるのだった。

 

本書『鬼はもとより』は、武士の世界に経済の側面から光を当てています。

主人公抄一郎は「国を大元から立て直す仕法」の背骨を掴み取り、その仕法を別の藩で試すのですが、その流れが実にダイナミックに描写されています。

藩札の板行には正貨の裏付けが必要だが、刷る額面のおよそ三割は正貨の準備が必要、などの藩札の仕組みから説き起こしていく場面は、経済音痴の私などには実に興味深いものがあるのです。

 

とはいえ、青山文平という作者の根本は常に「侍」存在そのものの在り方を問うています。

「武家とは、いつでも死ぬことができる者であ」って、「武家のあらゆる振る舞いの根は、そこにある」との抄一郎の独白はそのことを正面から答えています。

抄一郎が見つけた仕法の肝(きも)や、佐島兵右衛門の姿から抄一郎が感じる覚悟も、「命を賭す腹」が大事ということでした。本書の少なくない個所で、侍の「死の覚悟」への言及があります。

 

青山文平の作品の中に『かけおちる』という作品があります。この作品も藩の財政の立て直しのために殖産事業に命をかける侍が描かれていますが、本書はその藩札版といったところでしょうか。

青山文平は、単に侍を描く舞台設定としてだけではなく、侍の世を経済という新たな視点から見詰め直すという試みをしているのかもしれません。

 

 

本書『鬼はもとより』では、一点、良く分からないところもありました。それは、抄一郎が女遊びにのめり込んだ時期がある、という設定の持つ意味です。

確かに、女に対して「鬼畜」と呼ばれた抄一郎に対し、その親友で獣(けだもの)と呼ばれた長坂甚八(ながさかじんぱち)が抄一郎の人生の奥底にずっと漂っています。

その点では女遊びの描写も意味を持つのかもしれないのですが、その甚八の存在そのもののこの物語における意味が、今一つ良く分かりません。作者の意図は何なのでしょう。

更には藩の立て直しの仕法を実行する東北の小藩の執政に絡んでも女が語られます。この点もよく分からない。そして、本書の最後の一行も女のことで締められるのです。

こうしてみると、女という存在が抄一郎の芯に何か影響を与えているのかもれません。

 

蛇足ですが、歴史学者の磯田道史氏が東京・神田の古書店で発見した『金沢藩猪山家文書』をもとに著した『武士の家計簿』という本があります。

この本は金沢藩の経理係であった加賀藩御算用者(おさんようもの)の猪山直之という武士の「家計簿」らしいのです。侍の「心構え」や「あるべき姿」などの観念的な側面で捉えられがちな幕末の武士の姿が、実生活という経済面、実体面から捉えているそうで、一度は読んでみたい本です。

 

 

この『武士の家計簿』は2010年には映画化もされました。テレビで放映されたものを見たのですが、そろばんを通して描かれた侍の姿が絶妙に表現されていたと思います。

 

 

春山入り

本書『春山入り』は、全部で六編の短編が収められた著者初の短編の時代小説集です。

侍という存在を青山文平らしいミステリーの手法で描き出した、読みごたえのある作品集でした。

 

藩命により友を斬るための刀を探す武士の胸中を描く「春山入り」。小さな道場を開く浪人が、ふとしたことで介抱した行き倒れの痩せ侍。その侍が申し出た刀の交換と、劇的な結末を描く「三筋界隈」。城内の苛めで病んだ若侍が初めて人を斬る「夏の日」。他に、「半席」「約定」「乳房」等、踏み止まるしかないその場処でもがき続ける者たちの姿と人生の岐路を刻む本格時代小説の名品。

 


 

どの物語も、主人公の身近な人物が侍としての矜持を貫くその姿から、主人公自らの姿勢を正す様が描かれています。

例えば表題作の「約定」では、望月清志郎(もちづきせいしろう)という侍が果たし合いの約定の場所に来ない相手をいぶかりながら、腹を切ります。その後、その果たし合いの場所に来なかった相手が、何故に望月はその日その場所で腹を切ったのか、その理由を推し量る様が描かれています。

その考察の前提には自分も望月も侍である、ということがあり、だからこそ腹を切る理由が分からない。次第に、漠然とした理由は浮かんでくるのですが、断定はできないのです。

読者には、望月清志郎が腹を切る前に何故に相手が来ないのか自問する場面が示されていて、そのことが果たし合いの相手方の推量を一段と考えさせるものにしています。

 

このほか「三筋界隈」は生き倒れの浪人、「半席」では矢野作佐衛門の死に様、「春山入り」では幼馴染の島崎鉄平の行動というように、主人公に身近な人の行いを見て主人公が思料する、という形をとっています。

身近な人の心情は明示してはありません。読者は主人公の推量を示されるだけで、主人公の判断が正しいのか否かは読者の判断にゆだねられています。

勿論、主人公がそのように考えるだけの根拠は提示されていて、その推量の根底には侍としての振舞いのあるべき姿があるのです。

 

ほかの短編も侍の姿を追求する好短編ばかりです。

凛としたその文章といい、侍の生き方を追求するその筋立てといい、やはりこの作家の作品は私の好みにぴたりとはまります。

藤沢周平や山本周五郎の作品とは異なり硬質ではありますが、同じ様に情感豊かで心に染み入ってくるのです。

蛇足ですが、本書は以前「約定」というタイトルで出版されていました。多分ですが、今回の文庫化に当たり改題されたものと思われます。

 

 

また、本書の中の一編「半席」は、主人公の片岡直人を主人公として新たに『半席』という短編集が出版されています。

 

伊賀の残光 - 「流水浮木―最後の太刀―」改題

その誇りに、囚われるな―。鉄砲百人組の老武士、山岡晋平。伊賀衆ながら伊賀を知らず、門番の御役目とサツキ栽培で活計を立てていた。だがある日、伊賀同心の友が殺される。大金を得たばかりという友の死の謎を探る中、晋平は裏の隠密御用、伊賀衆再興の企て、そして大火の気配を嗅ぎ取った。老いてこそ怯まず、一刀流の俊傑が江戸に澱む闇を斬る。

 

大久保組伊賀同心の山岡晋平には川井佐吉、小林勘兵衛、横尾太一、それに今は亡き中森源三という幼馴染がいました。彼らは門番として忠勤に励んでおり、ひと月に四、五回程の番以外の日は三十俵二人扶持の生計を補うためにサツキの苗の栽培に勤しむ身だったのです。

そうしたある日、川井佐吉が殺されてしまいます。佐吉が殺された理由を探るうちに、本来であれば忍びとして隠密御用を勤める身である伊賀衆が、今では門番という身分に甘んじているという事実に屈託を抱えている者の存在が浮かんでくるのです。

 

還暦を過ぎた幼馴染らが自分らの存在意義を確認する、その行為に同じ還暦過ぎの身である私はどうしても感情移入してしまいます。これは同世代の人たちには共通する思いではないでしょうか。

また、幼馴染らが自分確認のために動き回るその様は老骨達の青春記とでも言えると思います。

 

青山文平という人は侍が侍として在るそのことをこれまでの作品で書いておられます。

本書の背景とする時代は「安永」年間という設定です。

この時代は、「武家の存在じたいの矛盾が浮かび上がる」時代であり、「武家はそれぞれに自己のアリバイを模索せざるをえ」ない時代であって、ドラマが生まれ易い時代だと言います。

本書も三十俵二人扶持という軽輩の身とはいえ、自分という存在自体を見つめる武士の物語なのです。

決して派手な物語が展開するわけではありません。あくまで還暦過ぎの初老の男達の自分自身の確認の物語なのです。

蛇足ですが、本書は以前『流水浮木―最後の太刀―』というタイトルで出版されていました。多分ですが、今回の文庫化に当たり改題されたものと思われます。