つまをめとらば

女が映し出す男の無様、そして、真価―。太平の世に行き場を失い、人生に惑う武家の男たち。身ひとつで生きる女ならば、答えを知っていようか―。時代小説の新旗手が贈る傑作武家小説集。男の心に巣食う弱さを包み込む、滋味あふれる物語、六篇を収録。選考会時に圧倒的支持で直木賞受賞。(「BOOK」データベースより)

 

本書は、六編の物語からなる短編の時代小説集であり、第154回直木賞を受賞した作品です。

 

「ひともうらやむ」
女ならば誰しも惚れると思われる長倉家本家の総領で眉目秀麗のうえに目録の腕前を持つ秀才の長倉克巳が、皆のあこがれの的であった、医師浅沼一斎の娘世津を娶ることになったのだが・・・。

「つゆかせぎ」
妻の朋が急な病で逝ってからしばらくして、地本問屋の手代が、竹亭化月の筆名で戯作を書いていたという朋を訪ねてきた。朋は木挽町の芝居小屋の娘であったため、意外でもなかったのだが・・・。

「乳付」
神尾信明に嫁いだ民恵は長男新次郎を産んだ。しかし、産後の肥立ちが悪く乳をやることもできないでいたため、瀬紀という遠縁の妻女に乳付をしてもらうことになった。瀬紀は民恵と同じ年かっこうであったが、同じ女でも魅入られてしまうほどに輝いていた。

「ひと夏」
石山道場奥山念流目録の腕前を持つ部屋済みの身分の高林啓吾は、誰が赴任しても二年ともたないという勤めを命じられる。現地では、藩の役人をあからさまに見下す百姓たちだったが、それに対し何もできない事情があった。

「逢対」
無益の者が出仕を求めて日参する「逢対」に、幼馴染の北島義人と共に同行した竹内泰郎だったが、自分だけ呼び出されることになった。

「つまをめとらば」
妻の不義で離縁し独り身の深堀省吾は、幼馴染の山脇貞次郎に家作を貸すこととなった。省吾にとり、幼馴染との暮らしは心地よいものだったが、貞次郎には思いを寄せている言い出せずにいる娘がいるというのだった。

 

著者は「女は本質的に、人間の存在の地肌で生きてい」て、そして「男は女を通じてはじめて、人間の存在の地肌に触れることができる。」と言っています。人間として、男は女を通してしか実現できないと言っているようです。

「男がしでかす諸々の問題も、さかのぼれば、その多くは、根源的なよるべなさに行き着くのではないでしょうか。」ということになるのです。

 

本書はそうした男どもの存在をあからさまに描き出してあります。

ただ、これまでのこの作家の物語と、少しですが趣が異なります。女性をモチーフにしているからでしょうか、全体的にどことなくユーモアに包まれているのです。

また、これまでの作品では“侍”を前面に押し出し、その生き方を直截的に描くことが多かったと思います。

勿論これまでもユーモラスな物語が皆無だというわけではありません。しかし、それらの作品も結局は“侍の生き方”に結びつくものでした。

本書の場合、「乳付」を除いてはやはり主人公は男で、さまざまな女性の形を描くことで男である主人公の内面を描き出してはいるのですが、特に「ひと夏」や「つまをめとらば」は侍というよりは一個の人間を描いてある、と言えるのではないでしょうか。

 

現在の、あまたおられる時代小説作家の中で一番私の好みに合致するのがこの青山文平という作家さんです。侍のあり方を問う物語の組み立て、硬質ではあるものの格調高く、品格を保っているその文章は心揺さぶられるものがあるのです。

鬼はもとより

本書『鬼はもとより』は、侍の生き方を追いかける青山文平が経済の側面から武士社会を描いた長編の時代小説です。

侍の世界を新たな視点で描き出す、魅力満点の小説です。

 

どの藩の経済も傾いてきた宝暦八年、奥脇抄一郎は江戸で表向きは万年青売りの浪人、実は藩札の万指南である。戦のないこの時代、最大の敵は貧しさ。飢饉になると人が死ぬ。各藩の問題解決に手を貸し、経験を積み重ねるうちに、藩札で藩経済そのものを立て直す仕法を摸索し始めた。その矢先、ある最貧小藩から依頼が舞い込む。剣が役に立たない時代、武家はどういきるべきか!?(「BOOK」データベースより)

 

剣に倦み女遊びも尽くした奥脇抄一郎は「藩札掛」を命じられる。世話役の佐島兵右衛門(さじまへいえもん)の急死により抄一郎が責任者となるが、飢饉に際しての藩札の刷り増しの命に逆らい、藩札の原版を持って脱藩してしまう。

その後、江戸に出た抄一郎は旗本の深井藤兵衛(ふかいとうべえ)の知己を得るなかで、藩札板行指南を業とするようになるのだった。

 

本書『鬼はもとより』は、武士の世界に経済の側面から光を当てています。

主人公抄一郎は「国を大元から立て直す仕法」の背骨を掴み取り、その仕法を別の藩で試すのですが、その流れが実にダイナミックに描写されています。

藩札の板行には正貨の裏付けが必要だが、刷る額面のおよそ三割は正貨の準備が必要、などの藩札の仕組みから説き起こしていく場面は、経済音痴の私などには実に興味深いものがあるのです。

 

とはいえ、青山文平という作者の根本は常に「侍」存在そのものの在り方を問うています。

「武家とは、いつでも死ぬことができる者であ」って、「武家のあらゆる振る舞いの根は、そこにある」との抄一郎の独白はそのことを正面から答えています。

抄一郎が見つけた仕法の肝(きも)や、佐島兵右衛門の姿から抄一郎が感じる覚悟も、「命を賭す腹」が大事ということでした。本書の少なくない個所で、侍の「死の覚悟」への言及があります。

 

青山文平の作品の中に『かけおちる』という作品があります。この作品も藩の財政の立て直しのために殖産事業に命をかける侍が描かれていますが、本書はその藩札版といったところでしょうか。

青山文平は、単に侍を描く舞台設定としてだけではなく、侍の世を経済という新たな視点から見詰め直すという試みをしているのかもしれません。

 

 

本書『鬼はもとより』では、一点、良く分からないところもありました。それは、抄一郎が女遊びにのめり込んだ時期がある、という設定の持つ意味です。

確かに、女に対して「鬼畜」と呼ばれた抄一郎に対し、その親友で獣(けだもの)と呼ばれた長坂甚八(ながさかじんぱち)が抄一郎の人生の奥底にずっと漂っています。

その点では女遊びの描写も意味を持つのかもしれないのですが、その甚八の存在そのもののこの物語における意味が、今一つ良く分かりません。作者の意図は何なのでしょう。

更には藩の立て直しの仕法を実行する東北の小藩の執政に絡んでも女が語られます。この点もよく分からない。そして、本書の最後の一行も女のことで締められるのです。

こうしてみると、女という存在が抄一郎の芯に何か影響を与えているのかもれません。

 

蛇足ですが、歴史学者の磯田道史氏が東京・神田の古書店で発見した『金沢藩猪山家文書』をもとに著した『武士の家計簿』という本があります。

この本は金沢藩の経理係であった加賀藩御算用者(おさんようもの)の猪山直之という武士の「家計簿」らしいのです。侍の「心構え」や「あるべき姿」などの観念的な側面で捉えられがちな幕末の武士の姿が、実生活という経済面、実体面から捉えているそうで、一度は読んでみたい本です。

 

 

この『武士の家計簿』は2010年には映画化もされました。テレビで放映されたものを見たのですが、そろばんを通して描かれた侍の姿が絶妙に表現されていたと思います。

 

 

春山入り

本書『春山入り』は、全部で六編の短編が収められた著者初の短編の時代小説集です。

侍という存在を青山文平らしいミステリーの手法で描き出した、読みごたえのある作品集でした。

 

藩命により友を斬るための刀を探す武士の胸中を描く「春山入り」。小さな道場を開く浪人が、ふとしたことで介抱した行き倒れの痩せ侍。その侍が申し出た刀の交換と、劇的な結末を描く「三筋界隈」。城内の苛めで病んだ若侍が初めて人を斬る「夏の日」。他に、「半席」「約定」「乳房」等、踏み止まるしかないその場処でもがき続ける者たちの姿と人生の岐路を刻む本格時代小説の名品。

 


 

どの物語も、主人公の身近な人物が侍としての矜持を貫くその姿から、主人公自らの姿勢を正す様が描かれています。

例えば表題作の「約定」では、望月清志郎(もちづきせいしろう)という侍が果たし合いの約定の場所に来ない相手をいぶかりながら、腹を切ります。その後、その果たし合いの場所に来なかった相手が、何故に望月はその日その場所で腹を切ったのか、その理由を推し量る様が描かれています。

その考察の前提には自分も望月も侍である、ということがあり、だからこそ腹を切る理由が分からない。次第に、漠然とした理由は浮かんでくるのですが、断定はできないのです。

読者には、望月清志郎が腹を切る前に何故に相手が来ないのか自問する場面が示されていて、そのことが果たし合いの相手方の推量を一段と考えさせるものにしています。

 

このほか「三筋界隈」は生き倒れの浪人、「半席」では矢野作佐衛門の死に様、「春山入り」では幼馴染の島崎鉄平の行動というように、主人公に身近な人の行いを見て主人公が思料する、という形をとっています。

身近な人の心情は明示してはありません。読者は主人公の推量を示されるだけで、主人公の判断が正しいのか否かは読者の判断にゆだねられています。

勿論、主人公がそのように考えるだけの根拠は提示されていて、その推量の根底には侍としての振舞いのあるべき姿があるのです。

 

ほかの短編も侍の姿を追求する好短編ばかりです。

凛としたその文章といい、侍の生き方を追求するその筋立てといい、やはりこの作家の作品は私の好みにぴたりとはまります。

藤沢周平や山本周五郎の作品とは異なり硬質ではありますが、同じ様に情感豊かで心に染み入ってくるのです。

蛇足ですが、本書は以前「約定」というタイトルで出版されていました。多分ですが、今回の文庫化に当たり改題されたものと思われます。

 

 

また、本書の中の一編「半席」は、主人公の片岡直人を主人公として新たに『半席』という短編集が出版されています。

 

伊賀の残光 - 「流水浮木―最後の太刀―」改題

その誇りに、囚われるな―。鉄砲百人組の老武士、山岡晋平。伊賀衆ながら伊賀を知らず、門番の御役目とサツキ栽培で活計を立てていた。だがある日、伊賀同心の友が殺される。大金を得たばかりという友の死の謎を探る中、晋平は裏の隠密御用、伊賀衆再興の企て、そして大火の気配を嗅ぎ取った。老いてこそ怯まず、一刀流の俊傑が江戸に澱む闇を斬る。

 

大久保組伊賀同心の山岡晋平には川井佐吉、小林勘兵衛、横尾太一、それに今は亡き中森源三という幼馴染がいました。彼らは門番として忠勤に励んでおり、ひと月に四、五回程の番以外の日は三十俵二人扶持の生計を補うためにサツキの苗の栽培に勤しむ身だったのです。

そうしたある日、川井佐吉が殺されてしまいます。佐吉が殺された理由を探るうちに、本来であれば忍びとして隠密御用を勤める身である伊賀衆が、今では門番という身分に甘んじているという事実に屈託を抱えている者の存在が浮かんでくるのです。

 

還暦を過ぎた幼馴染らが自分らの存在意義を確認する、その行為に同じ還暦過ぎの身である私はどうしても感情移入してしまいます。これは同世代の人たちには共通する思いではないでしょうか。

また、幼馴染らが自分確認のために動き回るその様は老骨達の青春記とでも言えると思います。

 

青山文平という人は侍が侍として在るそのことをこれまでの作品で書いておられます。

本書の背景とする時代は「安永」年間という設定です。

この時代は、「武家の存在じたいの矛盾が浮かび上がる」時代であり、「武家はそれぞれに自己のアリバイを模索せざるをえ」ない時代であって、ドラマが生まれ易い時代だと言います。

本書も三十俵二人扶持という軽輩の身とはいえ、自分という存在自体を見つめる武士の物語なのです。

決して派手な物語が展開するわけではありません。あくまで還暦過ぎの初老の男達の自分自身の確認の物語なのです。

蛇足ですが、本書は以前『流水浮木―最後の太刀―』というタイトルで出版されていました。多分ですが、今回の文庫化に当たり改題されたものと思われます。

 

かけおちる

妻はなぜ逃げたのか。直木賞受賞作家が贈る傑作時代長編

藩の執政として秘策を練る重秀はかつて、男と逃げた妻を斬った。二十年後に明らかになる女心の真相とは。松本清張賞作家の傑作。

二十二年前、妻と姦夫を成敗した過去を持つ地方藩の執政・阿部重秀。残された娘を育てながら信じる道を進み、窮乏する藩財政を救う秘策をついに編み出した今、“ある事情”ゆえに藩政を退こうとするが―。重秀を襲ういくつもの裏切りと絶望の果て、明らかになる人々の“想い”が胸に響く、感涙の時代長編。

疲弊した藩財政の建て直しのため、ある秘策を実地した藩執政の阿部重秀。男と駆け落ちした妻を切り捨てた過去があるが、順調に出世していた。二十年の時が経ち、今また娘が同じ過ちを犯した時、愕然とする重秀のとった行動は、そして、妻はなぜ逃げたのか――伝わり良く、奥行きのある独自の文章表現、江戸の風俗や生活・経済のあり様が丁寧に描き込まれ、瑞々しい心情描写で絶賛された松本清張賞作家の受賞第二作。 いま最も次作を期待される直木賞候補作家、二冊目の文庫(「BOOK」データベースより)

 

北国にある柳原藩では、執政阿部重秀が藩の財政の立て直しのために行っていた「種川」という鮭の産卵場を人の手で整える作業が実を結びつつあった。

この作業は阿部家の入婿である阿部長英の進言によるものだったが、その長英は江戸詰のため未だ「種川」成功の事実を知らずにいた。

名うての剣士でもある長英は藩の殖産を図らねばならない立場にありながら、江戸中西派一刀流の取立免状を取得することにより自藩の名を高めるべく勤めるしかない自身に悩んでいた。

 

著者の言葉によれば、「かけおちる」とは「欠け落ち」であり「駆け落ち」ですが、本書の「最後の欠け落ち」こそ集団からの脱落を意味する本来の意味での「欠け落ち」だそうで、「カタルシスを醸成」できたそうなのです。

とするならば、この最後に言う「カタルシス醸成」こそ著者の書きたかったことなのでしょうか。

 

本書でも、戦いをこそ本来の姿とすべき侍が、殖産にその身を捧げなければならない矛盾を問うてあります。

その中で、殖産のために苦悩する男を描きながら、その陰に居る妻の描写はあまりありません。でも、母と娘とで併せて三度の「駆け落ち」をしており、それが殖産事業に苦しむ阿部重秀の苦悩を深くしています。

 

阿部重秀の殖産事業に苦しむ過程の描写は前作『白樫の樹の下で』に劣りません。地方にある藩に居る親と江戸詰の子の、興産にかける侍としての生き様が簡潔な文章で描いてあります。

そして、クライマックスへと向かうのですが、物語の終わりの方で娘の語る言葉こそ本書で著者が書きたかったことではないでしょうか。そして、最後に「カタルシスを醸成」が出来ているかどうかを是非直接読んで確かめて貰いたいものです。

 

松本清張賞受賞第一作である本書は前作『白樫の樹の下で』と同じようでいてまた異なるやはり素晴らしい一冊でした。

 

白樫の樹の下で

いまならば斬れる! 人を斬ったことのない貧乏御家人が刀を抜く時、なにかが起きる――。
幕府開闢から180年余りが過ぎた天明の時代。江戸では、賄賂まみれだった田沼意次の時代から、清廉潔白な松平定信の時代に移り始めた頃。二本差しが大手を振って歩けたのも今は昔。貧乏御家人の村上登は、小普請組の幼馴染とともに、竹刀剣法花盛りのご時勢柄に反し、いまだに木刀を使う古風な道場に通っている。他道場の助っ人で小金を稼いだり、道場仲間と希望のない鬱屈した無為の日々を過ごしていた。ある日、江戸市中で辻斬りが発生。江戸城内で田沼意知を切った一振りの名刀を手にしたことから、3人の運命は大きく動き始める。
著者は長らく経済関係の出版社に勤務した後、フリーライターを経て、2011年、本作で第18回松本清張賞を齢62歳で受賞。(「BOOK」データベースより)

 

時は江戸時代も中期、侍が侍たり得ることが困難の時代を生きた、なおも侍であろうとした三人の若者の物語です。

「白樫の樹の下で」というタイトルは佐和山道場が白樫の樹の下でにあるところからきています。

とにかく硬質な文章でありながら、濃密な空気感を持った文章です。葉室麟という直木賞作家の文章も簡潔で格調の高い文章だと思いましたが、この作家の文章の透明感は凄いです。

 

「人を斬る」というそのことについての懊悩が、叩けば音がするような文章で描写されています。

勿論読者は剣のことなど何も知りませんし、当然「斬る」という感覚も知らないのですが、あたかも若者の懊悩が感覚として理解できたかのような感じに打たれます。

 

また、村上登の前に横たわる想い人の描写は、そこに「白麻の帷子(かたびら)を着けた佳絵」という人が横たわる場面を切り取ったかのようで、その臨場感、村上登の心理描写には驚きました。

これまで作家と呼ばれる人たちの文章の凄さには何度か脱帽させられましたが、この青山文平という人の文章も見事としか言いようがありません。

 

更に驚かされたことは、青山文平という人は私と殆ど同世代ということもそうですが、二十年ほど前に第十八回の中央公論新人賞をとったことがあるけれども時代小説は本作品が初めてということです。

時代小説の新たな書き手として期待されているという言葉も当然のことだと感じました。

 

本作品の物語としての面白さは勿論のこと、「詩的」な文章とどなたか書いておられましたが、日本語の美しさ、表現力の豊かさを思い知らされた一冊でもありました。