承継のとき 新・軍鶏侍

承継のとき』とは

 

本書『承継のとき 新・軍鶏侍』は『新・軍鶏侍シリーズ』の第五弾で、2020年10月に329頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

三太夫の岩倉道場の跡継ぎとしての自覚も定まり、異母兄の佐一郎や、次席家老の嫡男鶴松などと共に素直に成長していく姿がまぶしい、多分シリーズの最終巻となるだろう一冊です。

 

承継のとき』の簡単なあらすじ

 

父岩倉源太夫、母みつから名を譲り受け、実子の幸司は三太夫となった。その元服を祝う剣友らとともに、三太夫は将来について語らい、胸を膨らませる。だがその裏で、三太夫が剣術を指南する次席家老九頭目一亀の嫡男鶴松には悩みがあった。それは、本心を打ち明けられる友がいないこと…(『真の友』)。齢十四の三太夫が迷い、悩みながらも大人への階梯を上る、青雲の第五巻。(「BOOK」データベースより)

 

目次
真(まこと)の友/新たな船出/承継のとき/春を待つ

 

真(まこと)の友」 元服して三太夫となった源太夫の子幸司は鶴松のもとに剣友として通っていたが、その仲間よりも一足先に元服をしたことで皆から祝いの言葉と共に元服の儀式の実際を問われていた。ただ、その中でも鶴松はひとり真の友のいないことを思い悩んでいた。

新たな船出」 下男の亀吉と女中のサトが、みつのところへやってきて夫婦になりたいと言ってきた。しかし、亀吉には兄の丑松という手強い親代わりがおり、出戻りのサトとの祝言を許してくれるかが問題だった。そこで、みつは三太夫を連れて亀吉の実家へと向かうのだった。

承継のとき」 佐一郎が三太夫に稽古を挑んできたが、三太夫の五勝で佐一郎は一本も取ることができなかった。三太夫は、口惜しさに黙り込む佐一郎に上達の秘訣として鮠釣りを教えるのだった。

春を待つ」 源太夫のもとを佐倉次郎左が訪れ、三太夫に娘を貰ってくれと言ってきたが、三太夫には既に言い交わした娘がいるとしてこれを断った。だが、問題は三太夫の気持ちが分からないことだった。

 

承継のとき』の感想

 

本書『承継のとき』は『新・軍鶏侍シリーズ』の第五弾です。

この『新・軍鶏侍シリーズ』は、これまでも何度か書いてきたことではありますが、岩倉源太夫自身というよりもその子らの成長ぶりが描かれる方に重点が置かれています。

特に、幸司こと元服後の三太夫を中心に描かれていて、なかでも三太夫が剣術を教えに行っている鶴松との仲、また佐一郎との仲が描かれています。

そして、本書では岩倉道場の下男の亀吉と女中のサトの祝言を挟みながら、三太夫の剣士としての成長、そして将来の嫁取りの話と、岩倉道場の跡継ぎとしての三太夫の自覚が描かれています。

 

ここにおいて、『軍鶏侍シリーズ』そして『新・軍鶏侍シリーズ』と全部で十一巻の長きにわたり展開されてきたこのシリーズも、本書をもって、多分ですが完結するのでしょう。

というのも、シリーズ完結、という情報はどこにも出てはいないものの、本書の終わりにこれまではなかった(完)という文字が書かれていること、さらには本書以降2022年11月の現時点まで続編が刊行されていないことからしても本シリーズの完結は間違いのないことと思われるのです。

私の好きな時代小説シリーズとして一、二位を争うシリーズだっただけに、非常に残念なことではあります。

しかしながら、新旧の『軍鶏侍シリーズ』の主人公である源太夫も、子らの成長を楽しく見守る姿が描かれるようになり、自身の剣士としての姿よりも、弟子たちや自身の子の成長を楽しみにしている姿が中心になってきた以上はそれもやむをえないことでしょう。

 

できることであれば、もう一回、今度は三太夫を主人公とした新しいシリーズを刊行してくれないかと願いたいのですが、どうもその気配はないようです。

この作者の他のシリーズもそれなりに面白くはあるのですが、野口卓が描く町人が主人公のシリーズ作品は、情報量は多くても物語に起伏が少なく、何となく手に取る気持ちが失せてきています。

本『新・軍鶏侍シリーズ』にしても、若干その傾向は見えており、ここ数巻は軍鶏や釣りの蘊蓄にかなりの紙数を費やしてあるのが気にはなっているところでした。

とはいえ、三太夫らの成長の様子を見るのは楽しみでもあり、続巻が出るのをを心待ちにしていたものです。

近年、青山文平砂原浩太朗のような情感豊かな作風の時代小説作家も出てきてはいますが、できれば野口卓も武家ものを書き続けてほしいと願っています。

できれば本シリーズが続けばいいのですが、でなければ新しい侍を主人公にしたシリーズ作品を期待したいものです。

木鶏 新・軍鶏侍シリーズ

木鶏 新・軍鶏侍』とは

 

本書『木鶏 新・軍鶏侍』は『新・軍鶏侍シリーズ』の第四弾で、2020年3月に298頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

ただ主人公である源太夫や息子の幸司の日常が描かれるだけの作品ですが、そのゆっくりとした時の流れが心地よい物語です。

 

木鶏』の簡単なあらすじ

 

次席家老の子息の剣術指南に抜擢され、岩倉道場を継ぐ決心を固めた幸司。ところが父源太夫は中老に「御前さまに任された道場は世襲ではない」と釘を刺される。幸司の兄龍彦は遊学中で将来を嘱望される身、これで岩倉家は安泰よと、藩内から羨む声も聞こえ…(『笹濁り』)。軍鶏侍を父に持つゆえの重圧に堪え、前髪立ちの少年が剣友とともに、剣の道を駆け上がる。(「BOOK」データベースより)

 

目次
笹濁り/孟宗の雨/木鶏/若軍鶏/お礼肥

 

笹濁り」 源太夫は、鮠(はや)を釣りながらいまさらながらに亡き権助の博識ぶりを思い出していた。そんな源太夫に中老の芦原讃岐は、源太夫の岩倉道場は世襲ではないということを念押ししてきた。

孟宗の雨」 ある日、道場で稽古を見ている源太夫のもとに弟子の大久保逸実が、祖父で源太夫の相弟子である無逸斎の様子がおかしいので一度会って貰えないかと言ってきた。

木鶏」 岩倉道場に見学に来ていた次席家老九頭目一亀の継嗣である鶴松は、道場の壁面に掲げられた道場訓に見入っていた。その後、年少組の投避稽古をみた鶴松は、自分たちもやると言い出すのだった。

若軍鶏」 源太夫が行っている鶏合わせ(闘鶏)の会を見た鶴松とその学友たちは、闘鶏の奥深さに打たれ自分たちも軍鶏を買うと言い出していた。一方、岩倉道場では、女中のサトの元夫がサトを追い出した姑が死んだので戻ってほしいと言ってきた。

お礼肥」 源太夫と幸司が母屋に戻ると、藩校「千秋館」の教授方の池田秀介、それに花の友人のすみれと布美とが遊びにきていた。そこに酢橘を持ってきた亀吉は、源太夫の屋敷の酢橘の美味さの源である権助の栽培方法について話し始めるのだった。

 

木鶏』の感想

 

本書『木鶏』は『新・軍鶏侍シリーズ』の第四弾ですが、前巻の『羽化』あたりから岩倉源太夫の子ら、特に幸司を中心にこの物語が動くようになっていた流れをそのままに受け継いでいます。

本書ではほかの痛快時代小説とは異なり、悪徳商人やお代官様は登場せず、藩内の争いに巻き込まれる主人公もいなければ、胸のすく剣戟の場面もありません。ただ主人公である源太夫や息子の幸司の日常が描かれるだけです。

その日常も主人公家族が暮らす園瀬藩の美しい自然の中での釣りや、軍鶏の闘いなどが主に描かれ、流れる時間がとてもゆっくりとしています。

そのゆっくりとした情景描写が私にはたまらないのです。

 

幸司の日常と言えば、鶴松とのことが挙げられると思います。

鶴松は次席家老九頭目一亀の継嗣ですが、学友たちの誘いに乗ってしまい藩の道場にも通わなくなってしまったことを心配した一亀により、鶴松に権を教えてくれるように頼まれたものでした。

次席家老の息子であるからということで手を抜かない幸司との稽古により、大きく成長を遂げていく鶴松やその学友たちの姿が描かれています。

同時に、幸司自身も道場主である源太夫の跡継ぎとしての自覚を持ちつつある姿がほほ笑ましく、またすこしの痛みをもって描かれている点も好ましいのです。

 

さらに、本書『木鶏』では前巻で亡くなった下男の権助についての描写が多いことも特徴として得げることができるでしょう。

もともと、この『軍鶏侍シリーズ』ではシリーズ第一巻の『軍鶏侍』から権助の存在がかなりの位置を占めていました。

源太夫が軍鶏を飼い始めたときはもちろん、釣りをする時も権助の助言で助けられており、源太夫に権助とは「何者か」と言わせるほどの存在感を持っていたのです。

権助は源太夫の知恵袋であると同時に、門弟たちの良き相談相手でもありました。第一巻『軍鶏侍』での大村圭二郎や、第四巻『水を出る』での市蔵のことなど、シリーズの中でもいくつかのエピソードが取り上げてあります。

 

こうして、普通の痛快時代小説とは異なる雰囲気を持ったこの『軍鶏侍シリーズ』は、シリーズも新しくなりさらに源太夫自身やその子供たちの成長まで含めた人間味のあふれた成長小説としての一面を強く見せているようです。

その意味では、この作者の他のシリーズである、『ご隠居さんシリーズ』や『めおと相談屋奮闘記シリーズ』のような作者の多方面にわたる知識を展開する物語に近くなっているように思えます。

ただ、そちらの作品は個人的には好みとは異なった空気感を醸し出しているのですが、本シリーズは若干の説教臭さが漂ってはいるものの、なお私の好みに合致するのです。

源太夫とその家族の暮らし、そして各々の生き方は、読者にとっても一読の価値があると思います。

なんて嫁だ めおと相談屋奮闘記

本書『次から次へと めおと相談屋奮闘記』は、『めおと相談屋奮闘記シリーズ』第一弾の、解説まで入れて271頁の長編人情時代小説です。

 

次から次へと めおと相談屋奮闘記』の簡単なあらすじ

 

よろず相談屋の信吾が結婚したって!?ああ、間違いない。十九歳で老舗料理屋の跡取りを弟に譲り独立。将棋会所と相談屋を開業した変わり者。武芸も達者で、刃物を持った相手を撃退し瓦版にも載った。そんな男の嫁になるのはどんな女だ?それが信吾に負けず劣らずの変わり者らしい。そりゃ目が離せねぇな!読み味は軽快、話は痛快、読み終えて爽快!青春時代小説、第二幕はじまり、はじまり~。(「BOOK」データベースより)

 

竹輪の友
「キューちゃん、おめでとう」という言葉と共に信吾の幼馴染である完太と寿三郎、それに鶴吉たちがやってきた。自分たち「竹輪の友」に黙って嫁さんをもらうとはひどいというのだった。そんな信吾に母と息子と思われる二人からの相談の依頼があった。

操り人
仮祝言の翌朝、信吾は波乃に、じつは自分は動物と話ができると言い出した。あまり驚かない波乃にもう一つ、息子が新之助ということしかわかっていない母子の相談を受けたが相談料を貰っていないと明かすのだった。そこに新之助の弟と思しき、仲蔵という男が現れた。

そろいの箸
住まいにお客だとの知らせの二度の鈴が鳴ったが、帰ると誰もいない。波乃は黒猫が信吾と話したそうにしていたというのだ。その猫は大変世話になった黒介という猫だろうと言う信吾だった。そこに波乃が朝に三人の子供のお客があったと言い出した。

新しい看板
お客だとの呼び出しで帰ると、界隈を縄張りとしている岡っ引きの権六が来ていた。信吾の嫁を見に来たといい、こんなへんちくりんな夫婦は見たことがねえ、という権六だった。しかし、波乃の世話を兼ねて手伝いに来ているモトは権六を見ると「権ちゃん」と呼びかけるのだった。

 

次から次へと めおと相談屋奮闘記』の感想

 

本『なんて嫁だ めおと相談屋奮闘記1』は『めおと相談屋奮闘記シリーズ』の項にも書いたように、『よろず相談屋奮闘記シリーズ』の続編です。

老舗料理屋「宮戸屋」の跡取り息子だった信吾ですが、跡目を弟に譲り、自分は将棋会所と相談所を開業したのでした。

そこに阿部川町の楽器商「春秋堂」の次女である波乃という女が押しかけ女房となり、シリーズも『よろず相談屋奮闘記シリーズ』から『めおと相談屋奮闘記シリーズ』へと変わったのです。

 

ある商家の母親とその息子の兄弟の相談事も順調にこなすことができた信吾でしたが、そのすきに妻の波乃にもまた思いもかけない相談事が持ち込まれました。

その依頼者が三人の子供のお客だったのですが、その相談事を乗り越えた波乃でした

このように、夫婦二人で始めることになった「めおと相談屋」ですが、何とか順調な滑り出しを見せているようです。

このシリーズが相談屋を舞台としている以上仕方がないことではあるでしょうが、相談事の依頼者との相談、それに対する応答と言ったやり取りを少なくない頁数を使って描写してあります。

そのやり取りの様子に関心がある人はそうはいないのではないでしょうか。

たしかに、信吾の回答はそれなりに胸を打つ内容ののものもあったりはしますが、それほどに感動的とは言えないし、関心を引く新たな何かがあるわけでもありません。

どちらかと言えば冗長に感じる場合の方が多い気がします。

 

また、本書での相談の様子を読んでいると、どうにも素直に読めない場面が多々あります。

たとえば、波乃が初めて相談事を受けた折りの対応など、首をひねることばかりです。

相手が子供たちだったということもあるでしょうが、波乃は相談に来ている子供たちの相談ごとの内容を必死で考えようとします。

子供たち自身の口から語らせるには可哀相すぎることだろうという判断が先行したのかもしれませんが、直接に尋ねては差しさわりがあるとはどうしても思えません。

それを一生懸命考えている波乃の姿を見ると、疑問しか湧いてこないのです。

 

こうした点が少なからずあるので、本シリーズに対してはおなじ野口卓の『軍鶏侍シリーズ』のようにはのめり込むことができません。

私にとっては。普通の時代小説よりはすこし関心を持って読めるか、というほどだと言えます。

ですから、このシリーズを最後まで読むだろうとは思いますが続巻が出るのを心待ちにするとまではいかないのです。

とはいえ、とりあえず続巻を待ちましょう。

めおと相談屋奮闘記シリーズ

本『めおと相談屋奮闘記シリーズ』は、『よろず相談屋奮闘記シリーズ』の主人公信吾が波乃と夫婦になり、シリーズ名も『めおと相談屋奮闘記シリーズ』へと変わったものです。

野口卓の豊富な知識量を示してくれ、そして若干のファンタジックな側面を持つ、しかし個人的には物語としては少しの関心しか持つことができないシリーズです。

 

「めおと相談屋奮闘記」シリーズ(2021年05月16日現在)

  1. なんて嫁だ めおと相談屋奮闘記1
  2. 次から次へと めおと相談屋奮闘記2
  1. 友の友は友だ めおと相談屋奮闘記3

 

めおと相談屋奮闘記シリーズ』について

 

『よろず相談屋奮闘記シリーズ』の主人公信吾が、阿部川町の楽器商「春秋堂」の次女・波乃と一緒になり、夫婦で相談にあたることとなって、シリーズ名も『よろず相談屋奮闘記シリーズ』から『めおと相談屋奮闘記シリーズ』へと変わったものです。

 

この『めおと相談屋奮闘記シリーズ』の登場人物は先にも述べたように、主人公が信吾という若者で、老舗料理屋「宮戸屋」の跡取り息子でしたが、幼い時にかかった大病のためにときに記憶が抜け落ちるようになります。

代わりに生き物の言葉が分かるようになった信吾は、これは天命かもしれないと思い、世のため人のために生きようと決心し、そのためにも護身用に武術を習い腕をあげます。

世のため人のために「よろず相談屋」を始めることにした信吾は、自分は独立して「宮戸屋」の跡取りを弟に譲り、食べるための将棋会所「駒形」と、世のための「よろず相談屋」を開業することにするのでした。

 

このような点は『よろず相談屋奮闘記シリーズ』では詳しく書いてあるところだと思います。

動物との会話の場面など、相談屋を開設するきっかけにもなっていそうであり、ファンタジーとまでは言えないまでもファンタジーの匂いを持つシリーズだということはできるかもしれません。

 

信吾の活躍は瓦版にも取り上げられ話題になります。

その瓦版を読んで、こんな男のところに押しかけ女房になりたいとやってきたのが阿部川町の楽器商「春秋堂」の次女である波乃という女です。

それに、波乃の世話係であり教育係でもあり母親のヨネがつけて寄越したモトという女中がいます。

他に、将棋会所で信吾の手伝いをしている常吉と豊島屋の隠居で将棋会所「駒形」の家主の甚兵衛、それに界隈を縄張りとする岡っ引きのマムシこと権六がたびたび顔を出します。

 

こうして、夫婦二人が共同して相談事に乗りこれを解決していく、痛快小説とは言いにくく、かといって人情ものとも言えないだろう、青春時代小説というしかない本書『めおと相談屋奮闘記シリーズ』です。

『よろず相談屋奮闘記シリーズ』をまだ読んでいないので詳しいことは分かりません。図書館にあったのが『次から次へと めおと相談屋奮闘記』からですので仕方ないのです。

自分で買うべきなのでしょうが、今のところ図書館に頼りきりです。

『めおと相談屋奮闘記シリーズ』は決して私の個人的な好みのシリーズだとは言えませんが、野口卓の物語自体は好きな部類に入るのでシリーズは最後まで読むと思います。

明暗 手蹟指南所「薫風堂」

本書『明暗 手蹟指南所「薫風堂」』は、『手蹟指南所「薫風堂」』シリーズ第四巻の文庫本で268頁の長編の人情時代小説です。

シリーズとして、物足りないと言う人が多く出るのではないかと危惧される作品です。

 

明暗 手蹟指南所「薫風堂」』の簡単なあらすじ

 

手習所「薫風堂」で師匠を務める雁野直春の許に、遠く本郷から新たな手習子がやってきた。河出屋の番頭・半次の息子、善次は、どうやら前の手習所でいじめに遭っていたようだ。直春は、面倒見のいい儀助を一緒に通わせて、早く皆と馴染めるよう気遣いを見せるが…。一方、心身ともに患う美雪との関係は、進展のないまま時が過ぎていた。だが、直春は突如訪ねてきた美雪の幼馴染・菜実から、衝撃の言葉を告げられる―。(「BOOK」データベースより)

 

雁野直春が手習所を譲り受けて丸二年が経とうとしていたある日、以前の手習所でいじめにあっていたらしい善治という九つの男の子が入ってきます。

また、新入りの手習子たちのまとめ役である太一を、望みに従い日本橋にある書肆の捻書堂北斗屋庄兵衛の店へ連れていき、気に入られたこともうれしく感じていました。

ところが、やっと慣れてきた善治を連れて父親の半次が店の金に手を付けて夜逃げをしたという報せが舞い込んできたのです。

そんな出来事が起きつつも、直春は北斗屋庄兵衛との約束の手習所とその師匠に関する本の出版について悩んでいましたが、手習子が一番という忠兵衛の言葉に深く納得していました。

そうするうちに、美雪との仲は変化のないままに菜実の訪問を受けることになります。

 

明暗 手蹟指南所「薫風堂」』の感想

 

薫風堂ももうすぐ丸二年が経とうとしていましたが、直春は手習子の奉公先を決めるという難しい仕事を忠兵衛の助けを受けながらなんとかこなそうとしていました。

手習所の師匠として知識を授けるだけでなく、子供たちの一生を決めることにもなるのだからと、子供たち一人ずつに沿った奉公先を選定する様子なども描かれていきます。

その過程で、書肆であれば一冊の本ができるまでの過程を紹介したり、櫛職人であれば櫛造りの様子を紹介したりと、細かなところまで作者の目が行き届いているのです。

そうした点が、単なる痛快小説ではない、主人公の成長を見せる物語であるとともに、江戸の町の生活の様子までも紹介している物語となっています。

 

そんな、江戸の庶民の生活をいち浪人の目を通して描き出す物語、という点では本『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』は面白い小説だろうとは思います。

しかしながら、ストーリー展開を楽しめる小説だと言えるかと問われれば、その点では今一つと言うしかないでしょう。

本書『明暗 手蹟指南所「薫風堂」』で第四弾になりますが、結局心躍る展開は殆どありません。

普通の手習所の日常と、作者野口卓の博識に支えられた江戸の町の日常風景を織り込んだ物語ということになります。

この点は本シリーズを通して繰り返し言ってきたことですが、それは本書でも変わりません。

ただ、主人公の直春の子供たちへの教育についての考えを、それはつまりは作者野口卓の考えでもあるのでしょうが、子供たち第一という視点を貫くという基本は貫かれています。

 

一方で、直春の出生にまつわる秘密に絡んだ父親との確執や、美雪という女性との成り行きなども描いてはありますが、あまり力点があるようには思えません。

はっきりした人情小説や痛快小説を読みたい人にはやはり物足りない物語だと言うしかないようです。

三人娘 手蹟指南所「薫風堂」

本書『三人娘 手蹟指南所「薫風堂」』は、『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』の第二巻で、文庫本で275頁の長編の時代小説です。

二巻目となった本書では薫風堂の内外の三人娘に翻弄される直春の姿が描かれていて、また作者野口卓の博識ぶりが健在な、爽やかな青春小説です。

 

三人娘 手蹟指南所「薫風堂」』の簡単なあらすじ

 

初午の時期を迎え、「薫風堂」に新しい手習子がやってきた。四カ所の寺子屋に断られたほどの悪童を、師匠の雁野直春は、引き受ける決心をする。一方、端午の節句が過ぎてほどなく、二人の武家娘が直春を訪ねてきた。ノブと菜実は、幼馴染の美雪が想いを寄せる直春を、ひと目見ようとやってきたのだ。だが菜実は、誠実な直春に只ならぬ関心を寄せるのだった―。静かな感動が心に広がる、著者の新たな代表シリーズ第二弾。(「BOOK」データベースより)

 

思いがけないことから直春が手習所を引き受けて一年が経ち、年が明けて初午ともなると手習所「薫風堂」でも新しい手習子たちが入ってきました。

乱暴やいたずらのために他で四度も断られたことのある儀助という子供もそうですが、今のところなんとかやっているようです。

そんな直春の元を、美雪の親友だという共に旗本の娘だというノブと菜実という二人が訪ねてきますが、そのうちの菜実という十六歳の娘が女を武器に初心な直春を翻弄してきます。

そうしたその菜実の振る舞いを知った美雪はふさぎ込んでしまい、食事ものどを通らない状態になってしまうのです。

そんな美雪を見て侍女の久が直春に相談して一応の落ち着きを見せますが、その後さらなる行動に出る奈美に皆振り回されてしまいます。

一方、薫風堂にもいる三人娘、つまりひふみ、美代子、文代の三人は、直春を訪ねてくる三人のお姫様は何者なのかを問い詰めてくるのでした。

 

三人娘 手蹟指南所「薫風堂」』の感想

 

薫風堂の内外の、とくに外の三人娘に翻弄される直春の姿が描かれています。

女という存在を全く知らない、若干二十歳の本シリーズの主人公雁野直春という男が初めて知り合ったと言える石川美雪という女性でしたが、彼女には二人の女友達がいました。

それが菜実とノブという娘でしたが、このうちの菜実が直春に惹かれてしまったらしく、一人で直春の元に来るようになって、美雪をそして直春を振り回すことになります。

ここらの経緯は、全くの青春物語であり、それも今どきの青春小説ではあり得ないような設定です。

もちろん、本書は時代小説であり、青春小説と言っても手習所師匠としての雁野直春が主人公ですから、現代の青春小説と比べること自体が意味がないことです。

しかしながら、江戸時代という時代背景を思うとこのような青春ものもありかと思ってしまいます。

同時に、後に語られる忠兵衛夫婦による直春らへのいわゆるおせっかいの話では、その中で忠兵衛と梅の馴れ初めが語られていて読ませます。

この馴れ初めの部分は少々ご都合主義的かと思わないこともありませんが、本書のような娯楽エンターテイメント小説では改めて苦情を言うことでもないでしょう。

 

そうしたことよりも、本書では様々な豆知識の方が関心がありました。

例えば、本書では手習所に通い始めることを「初登山」と表現していますが、何故「登山」と山に例えるているのか疑問でした。

それは、上野のお山のお寺のことを正式には東叡山寛永寺というような、山号と寺号と関係する事柄です。

またそれに関連してかつては「寺子屋」と呼ばれた由来や、それが手習所とか手蹟指南書とか呼ばれるようになった理由なども記してあります。

また、本の行事として七月に入ると大店では大瓜形の白張提灯を吊るして本を迎える話や、七夕の短冊に書くと習字の腕前が上がるといい、それを励みに手習所の師匠たちは子供たちに習わせていたなどの表現もありました。

こうした江戸の豆知識が随所に書かれているのです。

 

一方、薫風堂の手習子のことでは、四か所もの手習所から追い出された新しい手習子の儀助を受け入れることとします。

さらに、太一が顔を見せなくなります。稼ぎ手だった祖父が倒れ、束脩は払えず、奉公に出すという話です。

そこで、暮しに困った手習子の太一のために、新入りの手習子の世話をさせ、代わりに賃金は払えないものの小遣い程度のものを払ったりと便宜を図るのです。

 

正直なところ、のめり込んで読み進むというほどの物語ではありませんが、江戸の町での暮らしのありようや、子供たちとの掛け合いなどはかなり面白く読んでいます。

ただ、美雪という娘とのやり取りに関しては個人的には好みではないと言わざるを得ません。

しかし、続編は期待したいものです。

手蹟指南所「薫風堂」

本書『手蹟指南所「薫風堂」』は、『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』の第一巻で、文庫本で293頁の長編の時代小説です。

「薫風堂」という名の手習所を舞台とするこの作者らしい、学問の大切さを大きく掲げた、しかし読みやすく心地よい青春記でした。

 

手蹟指南所「薫風堂」』の簡単なあらすじ

 

月夜の中、辻斬りから老人を助けた浪人・雁野直春。彼は幼くして両親を亡くすも養父母の愛情に育まれ、まっすぐな好男子に成長していた。救った老人―忠兵衛は手習所を営んでおり、直春の人柄を見込んで後を継いでくれないかと依頼してきた。逡巡も束の間、忠兵衛の子どもの育て方に共鳴した直春は依頼を快諾し、「薫風堂」の看板を掲げた。だが直春は、人には言えぬ複雑な家庭事情を抱えていた…。(「BOOK」データベースより)

 

二十歳の雁野直春は団子坂で辻斬りに襲われていた忠兵衛という名の老人を助けたことから、ちょうど手習指南所の跡継ぎを探していたという忠兵衛に頼まれて手習指南所を継ぐことになります。

しかし直春は手習所の師範としては何も知らないことばかりであり、手習所を譲ってくれた忠兵衛に教えを請いながらの船出になります。

そこに、親代わりに育ててくれた清蔵夫婦から自分の本当の父親の話を聞かされます。

直春の父親である春田仁左衛門は、焼餅焼きの奥方が亡くなったことから、直春を自分の養子として石川家に婿入りさせようとします。

しかし、自分の母親に対する仁左衛門の仕打ちを許せない直春は、「薫風堂」を継いだばかりでもあり自分のことしか考えない仁左衛門の話を断り続けるのでした。

ただ。仁左衛門の婿の話は石川家の美雪という娘との出会いを生み、二人は一緒になることを誓いますが、仁左衛門への養子の話を受け入れない直春の言動が軋轢を生んでいくのでした。

 

手蹟指南所「薫風堂」』の感想

 

『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』の項でも書いたように、本シリーズは『軍鶏侍シリーズ』のような痛快小説ではなく、また『ご隠居さんシリーズ』ほどにトリビア三昧というわけでもありません。

とはいえ、江戸の町の風景を随所にちりばめ、江戸時代の庶民の暮らしをよく描写してあります。

その意味では、野口卓の面目躍如といったところではあるのですが、やはり主人公直春の手習所師範としての顔の描写が読みごたえがあります。

新米の師範である直春が、十二、三歳くらいの、この手習所の一番の年かさでお山の大将らしい定吉という腕白坊主に、オキクムシについて聞かせ、さらには孵化の様子まで見せ、一気に手習子たちの心を掴む様子など、博識の野口卓ならではの描写でしょう。

ちなみに、オキクムシとはアゲハ蝶の蛹であり、番長皿屋敷の後ろ手に縛られているお菊に似ているところから呼ばれたらしいと本書の中に書いてありました。

これ以外に、「薫風堂」の前の師範である忠兵衛という師匠との学問についての会話など、なかなかに読みごたえがあります。

 

ただ、どうしても『軍鶏侍シリーズ』と比べてしまいます。それほどに『軍鶏侍シリーズ』は私の好みと合致した作品でした。

 

 

それに比べると本作『手蹟指南所「薫風堂」』は知識面での面白さはあるものの、情景描写やストーリー展開などでは追いつくものではないのです。

特に、私の好みが情緒面が豊かなストーリーにあるようで、その点は物足りなく感じたものです。

手蹟指南所「薫風堂」シリーズ

『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』は、手蹟指南所の師匠をしている若干二十歳の浪人を主人公とする長編の時代小説です。

手蹟指南所「薫風堂」シリーズ(2021年03月31日現在 完結)

  1. 手蹟指南所「薫風堂」
  2. 三人娘
  3. 波紋
  1. 明暗
  2. 廻り道

 

本『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』の主人公は雁野直春というまだ二十歳という年齢ながら剣の腕もたち、通っていた塾では塾頭を務めていたほどの人物です。

その直春が辻斬りから一人の老人を救ったことからこの物語は始まります。

その老人は名を忠兵衛といい、手蹟指南書を開いていたのですが、直春を見込んでその手蹟指南書を直春に任せることになったのです。

 

本『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』には二つの流れがあり、ひとつは当然のことながら「薫風堂」と名付けられた手蹟指南所の物語です。

いろいろな子供たちを導き、卒業していく手習子たちの奉公先までも選定し、その後も彼らの人生にかかわっていき、直春自らも成長していきます。

そしてもう一つの流れが、主人公の雁野直春の個人的な事柄です。

直春は父親である春田仁左衛門との間に複雑な事情があり、そのことが直春の恋模様とにも影を落とし、その顛末もまた本シリーズの一つの流れとして展開するのです。

 

『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』の作者である野口卓という作家さんには、私が今の時代小説の中でベストと思う作品の一つである『軍鶏侍シリーズ』があります。

この『軍鶏侍シリーズ』は、西国にある園瀬藩で道場を構えている岩倉源太夫という人物を主人公とする痛快人情小説です。

この源太夫は「蹴殺し」という秘剣を使う剣士であり、幾多の挑戦者を退けてきた人物ですが、物語の主眼はその戦いよりも園瀬の里における源太夫の生き方を主軸に描かれています。

その際の描写が園瀬の里の四季折々の風景を取り混ぜながら情感豊かに描き出してあり、藤沢周平を彷彿とさせる作家だと言われる所以でもあります。

 

一方、この作者には『ご隠居さんシリーズ』という作品もあります。

このシリーズは『軍鶏侍シリーズ』とは異なり、主人公が博識なおじいさんであって活劇の場面はありません。

代わりにご隠居さんの豊富な知識をもとにした様々なトリビアを開陳し、ご隠居さんのもとに持ち込まれるさまざまな相談や難題を解決していくのです。

 

 

本『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』はそのちょうど中間にあるような物語です。

つまり『軍鶏侍シリーズ』のような活劇の場面は殆どなく、また『ご隠居さんシリーズ』ほどに作者の豊富な知識を披露する場面があるわけでもありません。

しかしながら、江戸の町の庶民の姿も描きながら、いろいろな職業や習俗などに関する細かな知識も散りばめてあります。

そういう点ではシリーズを通してのストーリー性は保っていると言え、直春の父親春田仁左衛門との確執と、美雪という女性との恋模様を絡めながら話は進みます。

ただ、本シリーズは全五巻で完結しているのが残念です。

 

本『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』をひとことで言うと、雁野直春という主人公の、子供たちに対する学問を始めとする人間形成に対する熱い情熱を描き出した作品だ言えると思います。

主人公の雁野直春は、人は幼い時期、つまりは手習所の段階できちんと道をつけねばならないと思っていました。

そこに、忠兵衛と出会って「子供は神の世から人の世のものとなる七つ、八つのころが最も大事だ」という忠兵衛の考えに共感し、手習所を引き受けることになります。

自分が学んだ私塾で学んだ多くが旗本の子弟であり、人はどうあるべきかという、一番重要なことを学ばずに大きくなってしまった者が多いと感じていたのです。

 

そうした直春の思いを軸にした手蹟指南所「薫風堂」の様子とともに、父親の春田仁左衛門や許嫁の美雪との恋模様などが描かれることになります。

全五巻で完結したこのシリーズは、野口卓の物語としては『軍鶏侍シリーズ』ほどの面白さは持っていないものの、江戸時代の庶民の子の学問の様子を記した作品としてはそれなりだと言えるかもしれません。

羽化 新・軍鶏侍

兄龍彦が長崎に留学し、甥の佐一郎や新弟子の伸吉らが頭角を現す岩倉道場で、源太夫の実子幸司は二代目を継ぐ決意をする。しかし、幸司には悩みがあった。それは、偉大な剣客である父の秘剣「蹴殺し」を未だその目で見ていないこと。悩める幸司は父の一番弟子を訪ねるが…(『羽化』)。園瀬の里に移ろう時と、受け継がれる教え。それぞれの成長を描く豊穣の四編。(「BOOK」データベースより)

 


 

新・軍鶏侍シリーズの三作目です。

 

羽化」 幸司は源太夫の岩倉道場の二代目あるじを自分が継ぐことの自覚を持ち始めた。しかし、佐一郎と幸司兄弟は、兄弟子たちは見知っている源太夫の秘太刀「蹴殺し」を自分たちだけが知らないことに焦りを感じていた。

兄妹」 幸司は、かつて才二郎と名乗っていた今の東野弥一兵衛のもとを訪れ、何かを感じたらしい。今では佐一郎との立ち合いでも三本に一本はとるようになっていた。また、戸崎伸吉の姉のすみれに対する恋心も見える幸司だった。

異界」 ある日突然、岩倉道場を訪れてきた「影奉行」と呼ばれた九頭目一亀は、幸司と佐一郎とを相手に稽古を願ってきた。一亀の子鶴松の学友、それも心の友となるべき人材を探しているというのだった。

ひこばえ」 ある朝突然、下男の亀吉が飛び込んできて権助が亡くなったと言ってきた。権助は源太夫の飲み友達でもあり、恵山と名を改めた大村圭二郎のいる正願寺へ埋葬することとした。権助を偲んでいる居る処に戻ってきたのはサトだった。

 

佐一郎と幸司は共に切磋琢磨し、道場の仲間からも一目置かれている存在になった異母兄弟です。特に弟の幸司は岩倉道場の跡継ぎとしての自覚が出てきています。

ただ、正確には幸司だけですが、自分ら兄弟だけが源太夫の秘剣を見ていない、知らないことに焦りを感じつつも、幸司は森正造の描いた絵や、東野弥一兵衛やその子勝五との話などから何かを感じ取っています。

そんな成長を見せる幸司は兄佐一郎とも剣を通しても強いつながりで結ばれているようです。

更には幸司の、戸崎伸吉の姉すみれへほのかな恋心を抱く場面や、また幸司の妹花とすみれ、加えて佐一郎の妹の布美との深いつながりを感じさせる場面などもあります。

そんな幸司は、九頭目一亀の嫡男の学友となることで、人間的にも成長を遂げようとしています。

 

このシリーズも時は移り、以上のように話の中心も源太夫からその子らへと移ってきています。

本編ではそのあたりが明確になってきています。特に本書では岩倉道場のあとを継ぐことを意識し始めた幸司の成長が著しく、その幸司の日々を中心として話が展開していきます。

また、園瀬藩の今後のことを考える九頭目一亀が登場することで、話は岩倉道場だけのことではなく、園瀬藩において生きる岩倉家の物語としての色合いが濃く出てきたように思えます。

ただ、シリーズの当初より源太夫を支えてきた人物との別れが待っているのには驚かされました。幸司の成長もさることながら、シリーズの中での時の移ろいを実感させる出来事でした。

大名絵師写楽

天才絵師「写楽」を売り出す―。それは知られざる“絵師”を中心にした空前のプロデュースだった。関わる者をわずかにとどめ、世間を欺く大仕掛け。正体不明の絵師は、噂が噂を呼んで大評判に。だが、気づいた者がいた…。思わぬ窮地に陥った仕掛人は、まさかの“禁じ手”を打つ。写楽は、なぜ謎のまま姿を消したのか。それが「写楽事件」を解く鍵だ―。傑作時代小説。(「BOOK」データベースより)

 

その実像が分かっていない江戸時代の謎の浮世絵師・東洲斎写楽の正体を明かす、長編の時代小説です。

物語としてみるとき、感情移入して惹き込まれるとまではいきませんでした。

 

松平定信の寛政の改革により、板元としての耕書堂は刊行本の発禁処分を受け、主の蔦屋重三郎は重過料を受けていた。

そこで蔦屋重三郎は、出羽国久保田藩佐竹家留守居役筆頭であり、筆名を朋誠堂喜三次という戯作者でもある狂歌仲間の平沢常富から渡された祭りで踊り狂う男の絵をみて、錦絵を書かせようと思い立つ。

その絵師は描くことができないという平沢の言葉はあったものの、重三郎は絵師の正体を突き止め、結局は東洲斎写楽という架空の人物を作り上げ、大首絵を描かせることになった。

 

写楽と言えば、北斎や広重と並ぶ浮世絵の大家ですが、その人物については何もわかっていません。

写楽の物語としては宇江佐真理の『寂しい写楽』という作品があります。

この作品は、現在の通説とも言える「斎藤十郎兵衛」説をもとに、板元である蔦屋重三郎を中心に、山東京伝や葛飾北斎、十返舎一九らを周りに据えて「写楽」を描き出した物語です。

本書『大名絵師写楽』でも、この阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛こそが写楽である、という説の存在を認めています。

その上で、写楽の正体がそのような推測になる理由を本書冒頭に持ってきており、だがしかし、と作者野口卓という作家のまでも物語の中で解消しています。

 
 

 

他に島田荘司が著した『写楽 閉じた国の幻』や泡坂妻夫の『写楽百面相』などもあるそうですが私は共に未読です。

 

 

先に、本書に感情移入できなかったと書きました。

それは、本書『大名絵師写楽』を一編の物語としてみた場合、物語として起伏のあるストーリが展開されているとは言い難く感情移入できなかったものと思われます。

確かに、本書は当時の資料をかなり読み込み書かれた作品であることは分かります。その上で野口卓という作家の腕があるのですから面白くないわけではありません。

しかしながら、野口卓という作家の知識人としての側面が勝った作品だと思うのです。

当時の時代背景、芝居小屋や錦絵に対する幕府の取り締まりなどについての説明がかなり詳しく述べられていて、そちらの方に重点が置かれている印象を受けてしまいました。

本書『大名絵師写楽』の野口卓は、『軍鶏侍シリーズ』の野口卓、ではなく、『ご隠居さんシリーズ』の野口卓なのです。

 

 

以上の次第で本書は読み終えるのにかなりの時間を費やしてしまいました。途中で他の面白そうな本があれば本書は後回しとなり、結局は半年以上が経ってしまっていました。

ストーリー展開ではなく、写楽の正体というミステリー色を帯びた時代小説という認識で読めば、そうした知識欲を満たすことが好きな方にはいいかもしれません。