二枚の絵 柳橋の桜(三)

二枚の絵 柳橋の桜(三)』とは

 

本書『二枚の絵 柳橋の桜(三)』は、2023年8月に文藝春秋社から336頁の文庫として刊行された長編の痛快時代小説です。

本書での桜子は大河内小龍太と共に江戸を離れることになり、長崎の地でしばらくの間を過ごすことになりますが、佐伯泰英の作品としては普通との印象の作品でした。

 

二枚の絵 柳橋の桜(三)』の簡単なあらすじ

 

柳橋で評判をとった娘船頭の桜子。父・広吉の身を襲った恐ろしい魔の手から逃れるため、大河内道場の棒術の師匠・小龍太とともに江戸から姿を消した。異国船で出会ったカピタン、その娘の杏奈と接し、初めての食べ物や地球儀に柳橋を遠く感じる二人は、磨きぬいた棒術で心身を整える。そんな中、プロイセン人の医師に招かれた長崎の出島で、二枚の絵を見た桜子はあまりの衝撃に涙を止められないーオランダ人の絵描きコウレルと柳橋の桜子。その不思議な縁とは?(「BOOK」データベースより)

 

二枚の絵 柳橋の桜(三)』の感想

 

本書『二枚の絵 柳橋の桜(三)』では、主人公の桜子やその恋人でもある大河内小龍太たちは江戸の町を離れることになります。

二人は、その理由については何も知らされないままに船宿さがみの親方夫婦に挨拶をするひまもなく、その足で長崎の地へと赴くのです。

そこには桜子の後ろ盾と言ってもいい魚河岸の江の浦屋五代目彦左衛門の世話がありました。

 

ということで、本書では長崎までの船旅の様子が描かれ、桜子と小龍太の船上での修行の様子や、襲い来る海賊を退ける様子などが描かれていきます。

その際利用することとなった船のカピタンと呼ばれる船長(ふなおさ)のリュウジロや、その娘杏奈たちが本書での新たな登場人物として現れます。

ちなみに、この杏奈の伯父は長崎会所の総町年寄の高島東左衛門であり、二人の長崎での生活に重要な役割を果たします。

 

こうして舞台は江戸を離れ、長崎への船旅と長崎での暮らしの様子が描かれることになります。

そういう意味では佐伯節満載の物語ということはできるのですが、どうにも話はすっきりとしません。

というのも、今回桜子たちが江戸を離れざるを得ない理由や、桜子たちに敵対する相手の正体は全く示されることなく、ただ、幕閣の上部での出来事らしいということが示されるだけだからです。

 

ただ、本書『二枚の絵 柳橋の桜(三)』では前巻で少しだけ示された二枚の絵の意味が少しだけ明かされていくので、その点が若干満たされるということはできるでしょうか。

本書で一番の要点は、長崎会所のプロイセン人のアントン・ケンプエル医師から示されたこの二枚の絵の物語だと言えるのでしょう。

 

とはいえ、私にとっては本シリーズの主人公桜子という娘自体にそれほどの魅力を感じていないためか、二枚の画の秘密に関してもあまり気にかかることでもありません。

こうしてみると、この二枚の絵に関しては、本シリーズの冒頭からもっとこの物語に絡め、物語を貫く謎として設定されていればもう少し感情移入して読めたのではないかという思いがぬぐえません。

最終巻を読まずに書くのも不謹慎かもしれませんが、本書『二枚の絵 柳橋の桜(三)』に至るまでの三巻の内容が、結局は焦点がぼけたままで終わってしまい、つまりは最終巻『夢よ、夢 柳橋の桜(四)』だけで事足りたのではないかという思いが残ってしまいそうです。

ともあれ、すべては最終巻『夢よ、夢 柳橋の桜(四)』を読んでみてからのことにしたいと思います。

あだ討ち 柳橋の桜(二)

あだ討ち 柳橋の桜(二)』とは

 

本書『あだ討ち 柳橋の桜(二)』は『柳橋の桜シリーズ』の第二弾で、2023年7月に文庫本書き下ろしで文春文庫から刊行された長編の痛快時代小説です。

本書では現実に父が世話になっている船宿の船頭となる主人公の姿が描かれていて、前巻とは異なり、痛快時代小説としての面白さを持った作品でした。

 

あだ討ち 柳橋の桜(二)』の簡単なあらすじ

 

猪牙舟の船頭を襲う強盗が江戸の街を騒がせていた。父のような船頭を目指す桜子だが、その影響もあってか、親方から女船頭の許しがおりない。強盗は、金銭強奪だけでなく、殺人を犯すこともあったのだ。そして舟には謎の千社札が…。仕事を続ける父親の身を案じる桜子へ、香取流棒術の師匠である大河内小龍太が、ある提案をする。船頭ばかりを狙う強盗の正体と、その本当の狙いとは?物語が急展開をするシリーズ第二弾!(「BOOK」データベースより)

 

あだ討ち 柳橋の桜(二)』の感想

 

本書『あだ討ち 柳橋の桜(二)』は『柳橋の桜シリーズ』の第二弾となる作品で、主人公の娘の成長を描く長編の痛快時代小説です。

棒術の達人という設定の主人公桜子の活躍は本書でも十分にみられるのは勿論で、前巻よりは面白く読むことができます。

しかしながら、主人公の桜子にそれほどの魅力を感じることができないため今一つ、という印象はぬぐえず、のめり込んで読むとまではいきませんでした。

 

本書は父親のような船頭になることを夢見る娘の物語ですが、主役の桜子はついに一人前の猪牙舟の船頭としてデビューすることが許されます。

それも、北町奉行の小田切土佐守自らが少しでも世間を明るくしてほしいとの願いから、北町奉行直筆の木札を許されたというのでした。

しかしながら、近頃猪牙舟の船頭を狙う猪牙強盗(ぶったくり)が頻発していて、死人まで出ているため、素性が判明している贔屓筋の客だけを乗せることを条件に親方の許しも出たのでした。

そんななか、薬研堀にある香取流棒術大河内道場の道場主の孫の大河内小龍太は、桜子の身の安全を心配し、桜子の身を守ると行動を共にするのです。

 

猪牙強盗(ぶったくり)という明確な敵役が登場する本書であり、桜子とその師匠筋の小龍太との活躍が十分に描かれた物語で、痛快時代小説として軽く読める作品でしたが、やはり敵役の軽さは否めません。

桜子が一人前の船頭として認められたというのはいいのですが、それ以上の物語の展開がどうにも素直に受け入れられないのは、読み手の私の第一巻を読んだ際の大時代的な台詞回しへの不満などの先入観のためでしょうか。

でもそれだけが原因ではなく、先に述べたように主人公の桜子に感情移入するだけの魅力に欠け、またシリーズとしての意図が明確ではないということが本シリーズに対する印象の根底にあるのではないかと思っています。

 

とはいえ、佐伯泰英作品らしく物語の展開そのものの面白さは持っているので、単にストーリー、物語の展開だけを軽く読む、という点では普通だと言えると思います。

佐伯作品には『酔いどれ小籐次シリーズ』に出てくるクロスケのような犬が登場しますが、本書でも薬研堀にその名の由来を持つヤゲンという犬が登場し、物語にゆとりが与えられていたりします。

佐伯作品らしい物語世界の広がりをゆったりと感じさせる工夫などは施されていて、ストーリー展開を楽しむことができる作品ではあります。

 

 

最後にもう一点。

本書では、物語の前後にオランダのロッテルダムの情景が描かれ、一枚のフェルメール風の絵画についての語りが載っています。

これは、作者が現地で感じたことをそのまま取り込んだと書いてありましたが、本書だけを見るととってつけたような印象であまり意味が分かりませんでした。

ただ、次巻のタイトルを見ると『二枚の絵』であることを見るともっと具体的に何らかの絡みがあるのでしょう。

このことは、そもそもが作者の頭の中に浮かんできた一枚の絵の印象が本シリーズのモチーフになっているということなので、間違いのないことでしょう( 佐伯泰英 特設サイト :参照 )。

そうしたことも含めて次巻を期待したいと思います。

柳橋の桜シリーズ

柳橋の桜シリーズ』とは

 

『柳橋の桜シリーズ』は、父親のような船宿さがみの猪牙舟の船頭となって大川を行き来することを夢見る一人の娘を主人公とする痛快時代小説です。

初期の佐伯作品が好きな私としては特別取り上げて語るべき作品とまでは思えない近頃の佐伯作品であり、普通に軽く読める作品であって、それ以上のものではありませんでした。

 

柳橋の桜シリーズ』の作品

 

柳橋の桜シリーズ(2023年11月07日現在)

  1. 猪牙の娘
  2. あだ討ち
  1. 二枚の絵
  2. 夢よ、夢

 

柳橋の桜シリーズ』について

 

本『柳橋の桜シリーズ』の舞台は、両国橋の少し北の神田川と大川が合流するあたりに存在する「柳橋」と呼ばれている土地から始まります。

柳橋」とは一体の土地の名称でもあり、そこにかかる橋の名称でもあります。

ちなみに、「柳橋」のかかる神田川が合流する大川とは今の隅田川のことであり、詳しくは下記を参照してください。

呼び名は時代や場所により種々変化します。古くは千住大橋付近から下流が隅田川と呼ばれ、 上流が荒川や宮戸川と呼ばれていましたが、江戸時代に入ると更に吾妻橋から下流を大川とか浅草川と呼ぶようになりました。川のはなし – 東京都建設局

 

そしてこの物語の主人公はこの土地の「船宿さがみ」で働く船頭の広吉の一人娘の桜子で、幼いころから父親の姿を見て育った桜子は父親のような船頭になることを夢見ています。

また、この桜子は八歳の頃から薬研堀にある香取流棒術大河内道場に通っており、道場の跡取りである大河内小龍太を除いて敵う者はいないほどの腕前となっていたのです。

 

この桜子が、はれて猪牙舟の船頭となり、成長していく姿が描かれています。

しかし、その成長の過程では親しい者を亡くしたり、思いもかけない土地へ旅することになったりと、波乱万丈の未来が待っているのです。

 

ただ、各巻である絵に関する話題や異国人の会話などが少しずつ記してあるのですが、当初は何ともその意図が判りません。

そのうちに一枚の絵がある程度明確に物語に絡んでくるのですが、シリーズの前半ではそのことがあまり分からず、なんともシリーズ全体の印象が明確ではありません。

この点に関しては、作者自身がこのシリーズのモチーフとしてイメージしていたのが「一枚の異人画家の絵」だと言い、その絵が作者をオランダへと招いたというのです( 佐伯泰英 特設サイト :参照 )。

しかしながら、それが分かったからと言って本シリーズの焦点が明確ではないという印象が解消されることでもないのは残念でした。

 

さらに言えば、佐伯泰英の作品に共通する大時代的な、舞台演劇のような印象は変わりません。

そうあればこその佐伯作品とも言え一概に否定すべきものでもないのでしょうが、個人的には今では『居眠り磐音シリーズ』と名称を変えた、初期の『居眠り磐音江戸双紙シリーズ』といった佐伯作品のような、もう少し気楽な作品の方が好みではあります。

ただ、まだシリーズ途中の印象ですので、最終巻の『夢よ、夢』まで読み終えたときに新ためての印象を書きたいと思っています。

猪牙の娘 柳橋の桜

猪牙の娘 柳橋の桜』とは

 

本書『猪牙の娘 柳橋の桜』は『柳橋の桜シリーズ』の第一弾で、2023年6月に文春文庫から刊行された長編の痛快時代小説です。

佐伯泰英の最近の作品にある女性が主人公となった全四編というミニシリーズですが、個人的には今一つ感情移入できない作品でした。

 

猪牙の娘 柳橋の桜』の簡単なあらすじ

 

吉原や向島などへ行き交う舟が集まる柳橋。神田川と大川が合流する一角に架けられていたその橋の両側には船宿が並び、働く人、遊びに行く人で賑わっていた。柳橋の船宿さがみで働く船頭の広吉には一人娘がいた。名前は桜子。三歳で母親が出奔するが、父親から愛情を受けて育ち、母譲りの器量よしと、八歳から始めた棒術の腕前で、街で人気の娘となる。夢は父親のような船頭になること。そんな桜子に目を付けた、船宿の亭主による「大晦日の趣向」が、思わぬ騒動を巻き起こしー。(「BOOK」データベースより)

 

猪牙の娘 柳橋の桜』の感想

 

本書『猪牙の娘 柳橋の桜』は、船頭になることを夢見ている一人の娘の奮闘記です。

ここで市井の人情ものの時代小説ではよくその名を聞く「柳橋」とは、神田川が大川へと流れ込む土地の名前であり、神田川に設けられた橋の名前でもあります。

近くに両国広小路が控えていることもあり、船宿が増え、花街として繁栄したそうで、本書の主人公の父親も柳橋の船宿「さがみ」で船頭として働いています。

 

柳橋」という地名からは、個人的にはすぐに山本周五郎の『柳橋物語』を思い出していました。

『柳橋物語』は山本周五郎の市井ものに分類される、ただ自分の心を信じて不器用に生き抜いていくおせんという娘の話です。

 

本書『猪牙の娘 柳橋の桜』の主人公桜子は、柳橋の「船宿さがみ」で船頭を務める広吉の娘です。

桜子が三歳の時に母親は男と共に出ていき、父親の乗る猪牙舟と共に育ちました。

母親の美しさを受け継いだ桜子は、父親の愛情のもと、寺子屋を営む横山向兵衛の娘で背は低いけれども才女のお琴こと横山琴女を友として、人気の娘として明るく育っていました。

十二歳となった桜子はそこらの大人と比べても背が高くなっており、娘の将来を心配する広吉に対し、自分の夢は父親のような船頭になることだといいます。

また、桜子が八歳のことから通っていた薬研堀にある棒術道場の道場主の孫である大河内小龍太もまた桜子の支援者の一人となっています。

この棒術は、いざ桜子が船頭として船を操るときも桜子の船頭の腕の上達に役立っていたのでした。

そんな桜子が船頭として、お琴とお琴の従妹で刀の砥師で鑑定家の相良謙左衛門泰道の息子の相良文吉、それに小龍太との都合四人を乗せての舟遊びの帰り、ちょっとした事件に巻き込まれてしまうのです。

 

新しいシリーズが始まるのは佐伯泰英ファンとして実に喜ばしいことですが、本シリーズのようなミニシリーズは微妙なところがあります。

本書の場合でいうと、確かに主要なキャラクターはそれなりに立っていて面白さを感じますが、どうにも『居眠り磐音シリーズ』のようなシリーズと比べると今一つ乗り切れません。

でも、『居眠り磐音シリーズ』は佐伯泰英の作品の中でも一番の人気シリーズなので、そういうシリーズと比べること自体がおかしいのでしょう。

ただ、桜子たちが舟遊びの途中で遭遇する火事騒ぎなど、全四巻という短いシリーズの第一巻である本書で桜子たちを紹介するエピソードとしても、とってつけたとの印象があり、何となくシリーズとしての弱さを感じたのだと思います。

 

そういえば、佐伯泰英が娘を主人公にしたミニシリーズとして『照降町四季シリーズ』(文春文庫全四巻)がありました。

そしてこのシリーズでは「期待が高すぎた」との心象を書いています。もしかしたら本シリーズでも同様のことが言え、当方の期待が高すぎたと言えるのかもしれません。

 

 

ついでに、もう一点不満点を書いておきますと、佐伯泰英の作品に共通して感じる台詞の大時代的な言いまわしがやはり気になります。

如何に侍の子とは言え、老成した印象緒のそのしゃべり方はどうにも素直には受け入れることができないのです。

とはいえ、やはり読み物としての面白さはありますので、続巻を楽しみに待つことになる作品でした。

晩節遍路 吉原裏同心(39)

晩節遍路』とは

 

本書『晩節遍路 吉原裏同心(39)』は『吉原裏同心シリーズ』の第三十九弾で、2023年3月に新潮社から344頁の文庫本書き下ろしで刊行された長編の痛快時代小説です。

神守幹次郎の台詞などが芝居調であることは前巻と同じであり、やはり敵役も結末も含めて今一つの一冊でした。

 

晩節遍路』の簡単なあらすじ

 

吉原会所の裏同心神守幹次郎にして八代目頭取四郎兵衛は、九代目長吏頭に就任した十五歳の浅草弾左衛門に面会した。そして吉原乗っ取りを目論む西郷三郎次忠継が弾左衛門屋敷にも触手を伸ばしていることを知る。一方、切見世で起きた虚無僧殺しの背後に、吉原をともに支えてきた重要人物がいることに気づく幹次郎。覚悟を持ち、非情なる始末に突き進んでいく。(「BOOK」データベースより)

 

晩節遍路』の感想

 

本書『晩節遍路 吉原裏同心(39)』は、新しく吉原会所の八代目頭取四郎兵衛となった神守幹次郎の苦悩する姿が描かれています。

非人頭の車善七に将軍家斉の御台所総用人の西郷三郎次忠継という男が吉原に触手を伸ばしていることを告げた幹次郎は、九代目長吏頭の浅草弾左衛門なる人物に会うようにと示唆されます。

そこで弾左衛門の後見人である佐七と名乗る男と、思いがけなくもさわやかさを漂わせた九代目浅草弾左衛門を継いだ十五歳の若者と面会することになるのでした。

後日幹次郎は、山口巴屋で灯心問屋彦左衛門の名で予約の入っていた佐七と会い、西郷三郎次忠継の本名が市田常一郎であり、家斉正室近衛寔子の実母の家系市田家の縁戚であることなどを教えてもらいます。

また、九代目弾左衛門就任に至るまでの間の西郷一派との確執や、次に西郷一派が狙ったのが色里吉原であることなどの話を聞き、さらには神守幹次郎一人が西郷三郎次忠継を始末することを暗黙の裡に受け止めるのでした。

 

一方、澄乃の心配事は吉原を、特に三浦屋を見張る謎の視線でした。

幹次郎が当代の三浦屋四郎兵衛に糺すと、根岸村に隠居した先代の四郎兵衛の名が浮かんできたのです。

ここに幹次郎は、西郷一派との争いと、先代四郎兵衛との問題を抱えることになるのでした。

 

本書『晩節遍路 吉原裏同心(39)』でも神守幹次郎の吉原裏同心と吉原会所四郎兵衛との掛け持ちは、まるで舞台劇だという前巻『一人二役』で感じた印象がそのままあてはまります。

百歩譲って、例えば神守幹次郎自身の、幹次郎本人が見知った事実を四郎兵衛に伝えるなどの言いまわしを受け入れるとしても、そのことは第三者が裏同心としての神守幹次郎と八代目四郎兵衛としての神守幹次郎とで態度を変えるなどの使い分けをすることまで認めるということにはなりません。

その点への著者佐伯泰英のこだわりはまさに舞台脚本であり、痛快時代小説としてはなかなかに受け入れがたいとしか感じられないのです。

 

前巻から批判的な文章ばかり続きますが、シリーズとしての面白さはまだ持っているという所に佐伯泰英という作者の不思議さがあります。

痛快時代小説としての面白さまで否定することはできず、やはり本シリーズを読み続けるのです。

荒ぶるや 空也十番勝負(九)

荒ぶるや 空也十番勝負(九)』とは

 

本書『荒ぶるや 空也十番勝負(九) 』は『空也十番勝負』の第九弾で、2023年1月に334頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

いよいよ本シリーズも終わりに近くなっていますが、なかなか最終の目的地へと辿りつかない空也の姿が描かれる、なんとも評しようのない作品でした。

 

荒ぶるや 空也十番勝負(九)』の簡単なあらすじ

 

祇園での予期せぬ出会い。
そして、薩摩最後の刺客!

京の都。
祇園感神院の西ノ御門前で空也は、
往来の華やかさに圧倒されていた。
法被を着た白髪髷の古老が空也の長身に目をつけ、
ある提案を持ちかける。

姥捨の郷では眉月や霧子たちが空也の到着を待ちわび、
遠く江戸の神保小路で母おこんや父磐音がその動向を案じる中、
空也の武者修行は思わぬ展開を迎えることになる。

そこへ、薩摩に縁がある武芸者の影が忍び寄り……。(内容紹介(出版社より))

 

荒ぶるや 空也十番勝負(九)』の感想

 

本書『荒ぶるや』は『空也十番勝負シリーズ』の第九弾で、前巻『名乗らじ 空也十番勝負(八)』に書いたような「あり得ない強さを持つ主人公の坂崎空也の物語」が続きます。

空也の滝で修行を終えた坂崎空也は、霧子の待つ高野山の麓にある姥捨の郷へはいつでも向かえるのに、何故か足踏みをしています。

ここで、足踏みをする理由はよく分かりません。剣の修行者としての空也にはまだ修行を続けるべきだという勘のようなものが働いたというしかないようです。

 

それどころか、単にその大きい体格が弁慶役にうってつけだというだけで、京の祇園感神院の西ノ御門前において、桜子という名の舞妓の演じる牛若丸の相手である武蔵坊弁慶の役を演じることとなります。

一介の剣の修行者が舞妓の相手をして弁慶役を舞うというそのこと自体、あり得ない筋の運びであり、他の痛快時代小説にはない本シリーズの魅力だというべきなのでしょう。

そうした特異なストーリーをもって読者を引っ張るのですから作者である佐伯泰英の物語を紡ぐ力が素晴らしいというしかありませんし、個人的には何とも評しようがないということでもあります。

 

舞を舞ったその夜は桜子のいる祇園の置屋花木綿に泊ることになった空也ですが、そこでは一力茶屋からのとある座敷の頼みを断れずに京都所司代の牧野備前守忠精の座敷へと招かれることになります。

こうして、空也はまた時の権力者の一人へと知己を広げていき、父親の坂崎磐根の人脈に加え、自分でもその人脈を広げていきます。

こうした設定は、まさに痛快時代小説の醍醐味の一つに連なる展開であり、シリーズの終わり近くにこのような展開になるということは、このシリーズの後のさらなる展開への期待を持たせてくれることにもつながります。

 

本来であれば、空也の滝で修行を終え、姥捨の郷へ向かうはずの空也でしたが、祇園社の氏子惣領である五郎兵衛老から鞍馬山での修行を勧められ、それに従うことになります。

それどころか、五郎蔵老には鞍馬での修行のあとには鯖街道を若狭の海まで行くことをすすめられていて、それに従うことになるのです。

その後の空也は、五郎兵衛老の口利状のおかげで僧兵や法師らの修行の拠点である鞍馬寺の鎮守社由岐神社の宿坊に厄介になって修行を行い、鯖街道へと進むことになります。

 

本書『荒ぶるや 空也十番勝負(九)』では江戸の坂崎家の様子や、多分空也十番勝負の最後の相手になるだろう佐伯彦次郎という武者修行中の若侍についてもほんの少しだけ触れるにとどめてあります。

それだけ、十番勝負が描かれる次巻への期待と、この『空也十番勝負シリーズ』が終了した後の展開への興味とが増すことにもつながるようです。

今は、すでに発売されている『奔れ、空也 空也十番勝負(十)』を早く読みたいと思うばかりです。

名乗らじ 空也十番勝負(八)

名乗らじ 空也十番勝負(八)』とは

 

本書『名乗らじ 空也十番勝負(八)』は『空也十番勝負シリーズ』の第八弾で、2022年9月に336頁の文庫本書き下ろしで出版された長編の痛快時代小説です。

シリーズも終盤近くなり、空也の存在も一段と剣豪らしくなっていて、まさに王道の痛快時代小説としてファンタジックな小気味のいい一冊となっています。

 

名乗らじ 空也十番勝負(八)』の簡単なあらすじ

 

安芸広島城下で空也は、自らを狙う武者修行者、佐伯彦次郎の存在を知る。武者修行の最後の地を高野山の麓、内八葉外八葉の姥捨の郷と定め、彦次郎との無用な戦いを避けながら旅を続ける空也。京都愛宕山の修験道で修行の日々を送る中、彦次郎は空也を追い、修行の最後を見届けるため霧子、眉月が江戸から姥捨の郷に入った。(「BOOK」データベースより)

 

名乗らじ 空也十番勝負(八)』の感想

 

本書『名乗らじ 空也十番勝負(八)』は『空也十番勝負シリーズ』の第八弾で、あり得ない強さを持つ主人公の坂崎空也の物語です。

異変ありや』では上海でのヒーロー空也の姿があり、『風に訊け』では痛快時代小説の定番ともいえるお家騒動ものがあって、それぞれに異なった顔を見せていました。

そして本書『名乗らじ 空也十番勝負(八)』では武者修行中の若武者の大活躍が描かれた痛快時代小説と、これまた王道のエンターテイメント時代小説です。

 

本『空也十番勝負シリーズ』の主人公坂崎空也は、単に無類の強さを誇るだけではなく、毎日一万回を超える素振りを欠かさないというその人格態度も含めて完璧な人間です。

空也は現実にはあり得ない強さを持つ痛快小説の主人公として、スーパーマン的存在といえるのです。

大衆小説としての痛快時代小説の主人公は皆無類の強さをもつものですが、本書の空也はまさに非の打ち所がありません。

父磐根の親友を斬ったという悲惨な過去も持たず、また斗酒なお辞さない酒飲みである小籐次のような嗜好もありません。

その点では、空也のような若者などいない、と遠ざける人もいそうな気さえするほどであり、そういう意味も込めて冒頭にはファンタジックな物語と書いたのです。

 

本書『名乗らじ 空也十番勝負(八)』での坂崎空也は、武者修行中の身ではあるものの、江戸の高名な道場の跡取りであることまでも知られている若侍です。

空也自身の人間性はもちろん、そうしたある種有名人ということもあって、安芸広島城下の間宮一刀流道場で暖かく迎え入れてもらえます。

この間宮道場は、前巻の『風に訊け 空也十番勝負(七)』でほんの少しだけ登場していた佐伯彦次郎という武者修行中の若侍がいた道場でした。

金十両という金を賭けて立ち合い、その金をもって修行の旅費とする佐伯彦次郎の生き方は空也には真似のできないものであり、また佐伯彦次郎の故里でも、剣を学んだ道場でも受け入れてはもらえない修行の方法だったのです。

その間宮道場で快く受け入れてもらえ、修行に励む空也でしたが、自分との対決を望んでいるらしい佐伯彦次郎との争いを避け、山陽路を東へと旅立ちます。

播磨姫路城下へと辿り着いた空也は、無外流の道場から追い出された撞木玄太左衛門という男が破れ寺の庭先で町人らを相手に教えている道場で修行をすることになります。

その撞木玄太左衛門という人物もまた高潔な男であり、空也は辻無外流道場の追手から彼を助けながらも江戸の坂崎道場へと誘うのです。

一方、江戸では尚武館へ豊後杵築藩出身の真心影流の兵頭留助という男が何も知らないままに道場破りとして現れていました。

この男と、尚武館に入門したての鵜飼武五郎という若侍とが新たに登場しています。

そこに空也からの紹介という撞木玄太左衛門も現れ、より多彩な人物が揃う道場となっているのです。

 

十六歳で武者修行へと旅立った空也も今では二十歳となり、高野山の麓にある空也が生まれた地である姥捨の郷で武者修行を終える旨の文を霧子宛に出しています。

そして、十番勝負の終わりも近い空也の今後がどのような展開になるものなのか、このシリーズの終了後の展開が気になるだけです。

もしかしたら、『空也十番勝負シリーズ』をも含めた『居眠り磐音シリーズ』自体が完結することも考えられます。

作者の「夏には、また新しい物語を届けられるよう、鋭意準備中です。」とも文言が見られるだけです。

出来れば、坂崎磐根、空也親子の物語をまだ読み続けたいと思うのですが、どうなりますか。

ただ、新たな作品を待つばかりです。

一人二役 吉原裏同心(38)

一人二役 吉原裏同心(38)』とは

 

本書『一人二役 吉原裏同心(38)』は『吉原裏同心シリーズ』の第三十八弾で、2022年10月に341頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

どうにも神守幹次郎の振る舞いや台詞回しが芝居がかっており、かなり興をそがれる一冊でした。

 

一人二役 吉原裏同心(38)』の簡単なあらすじ

 

長く廓の用心棒であった神守幹次郎が吉原を率いる八代目頭取四郎兵衛に就任、御免色里の大改革が始まった。会所を救う驚くべき「金策」に始まり、大胆な改革を行う新頭取への嫌がらせや邪魔が続く中、切見世を何軒も手中に収めた主夫妻が無残にも殺される。背後に控える悪党の狙いとは。新体制で一人二役を務める大忙しの幹次郎は、荒波を乗り越えられるか?(「BOOK」データベースより)

 

 

一人二役 吉原裏同心(38)』の感想

 

本書『一人二役』では、吉原の七代目頭取の四郎兵衛が惨殺された修行の一年間のあとの、八代目頭取四郎兵衛に就任した後の幹次郎が描かれています。

就任したのはいいのですが、いざとなると会所にはほとんど金がなく、その対処に苦慮する幹次郎です。

ただ、こうした点は大きな出来事ではなく、物語の進行上はこれまでのような吉原にとっての大きな障害というのはあまりありません。

いや、まったく無いということではなく、細かな嫌がらせ的な出来事は起こりますがそれは大きな障害ではないと言った方がいいのでしょう。

 

それよりも幹次郎のある構想のほうが大きな出来事です。

本シリーズの流れとしてこの幹次郎の構想がどのような意味を持ってくるのか、今後の物語の展開がどのように変化してくるのか、非常に楽しみなのです。

 

ただ、読者として私が気になったのは、本書のタイトルの『一人二役』ということであり、神守幹次郎が吉原裏同心としての顔と八代目頭取四郎兵衛としての顔を持つことです。

というよりも、問題は二つの貌を持つ幹次郎のその描き方です。

 

本書では実際剣を振るう立場の裏同心と、吉原を率いる立場の会所頭取としての立場はかなり異なるということで、言葉遣いから変えて対処しようとする神守幹次郎の姿があります。

しかしながら、小説の中で幹次郎が四郎兵衛様に伝える、とか裏同心として応える、など、その顔を使い分ける姿がいかにも芝居かかっており、時代小説としての違和感はかなりのものがあります。

物語としてストーリー上の違和感を感じるという点もそうですが、小説の表現としても拒否感があるのです。

ただ単純に裏同心と、吉原会所頭取としての顔を使いわけるというわけには行かなかったのでしょうか。

タイトルからしても、この点こそが本書の主眼だったのでしょうが、どうにも違和感を越えた拒否感を持ってしまうほどであり、残念な描き方でした。

 

幹次郎の新たな構想は今後の本シリーズの展開を期待させるものだけに、余計なことに煩わせられた一冊、という印象の強いものになってしまった印象です。

残念でした。

御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)

御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)』とは

 

本書『御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)』は『新・酔いどれ小籐次シリーズ』の第二十五弾で、2022年8月に文庫書き下ろしで刊行された、編集者による巻末付録まで入れて365頁の長編の痛快時代小説です。

新・旧の『酔いどれ小籐次シリーズ』全四十五巻が本書をもって終了します。

 

御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)』の簡単なあらすじ

 

玖珠山中に暮らす刀研ぎの名人「滝の親方」は、小籐次にそっくりだという。もしや赤目一族と繋がりが?森藩の事情を憂う小籐次のもとに藩主・久留島通嘉からの命が届く。「明朝、角牟礼城本丸にて待つ」-山の秘密を知った小籐次は。『御鑓拝借』から始まった物語が見事ここに完結!記念ルポ「森藩・参勤ルートを行く」収録。(「BOOK」データベースより)

 

第一章 山路踊り
森陣屋でしばらく放っておかれた小籐次だったが、連れていかれた陣屋の中庭では、都踊りかとも見紛う山路踊りなる宴が催されているのに驚くばかりだった。翌朝、一人稽古を済ませた駿太郎はなんでも屋のいせ屋正八方を訪ねた。

第二章 二剣競演
久留島武道場で最上と稽古をした駿太郎は小籐次らと共にいせ屋正八を訪ね、鉄砲鍛冶の播磨守國寿師の鍛冶場を訪ねることとなった。その後、國寿の勧めに従い、次直の研ぎを頼むために十一丈滝の親方の求作に会いに向かうのだった。

第三章 血とは
久慈屋に届いた小籐次からの文が空蔵の手により読売へと仕上げられていた。一方小籐次親子は放っておかれ、何日も無視をされたままだったが、やっと森藩主久留島通嘉からの言伝が届いた。

第四章 山か城か
久留島通嘉は、長年の夢のために穴太積みの石垣を完成させていたのだが、しかし、その夢は森藩御取潰しになる夢でもあった。小籐次らが帰る途中、石動源八なる男が待っていた。

第五章 事の終わり
この夜、茶屋の栖鳳楼で嶋内主石らの酒盛りの席に小籐次が現れた。翌日、小籐次の働きを聞き八丁越に来た石動源八は、谷中弥之助、弥三郎兄弟の待ち受けを知るが、そこに小籐次親子が現れるのだった。

終章
文政十年(1827)七月五日、愛宕切通の曹洞宗万年山青松寺で、不在の間に亡くなった新兵衛の弔いが催され、小籐次親子がそれぞれに剣技を披露し、この物語も幕を閉じるのだった。

 

御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)』の感想

 

本書『御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)』は本シリーズの最終巻であり、小籐次親子が旧主久留島通嘉の参勤交代に同行してやっと森藩陣屋へとたどり着いた後の出来事が語られています。

森藩藩主久留島通嘉が小籐次を参勤交代に同行し、国表まで同行するように命じた理由も明らかにされます。

それは、小籐次の物語の最初である『酔いどれ小籐次シリーズ』第一巻『御鑓拝借』へと連なるものであり、最終巻をまとめるのにふさわしい理由付けだったとは思います。

また、その理由付けによって、前巻でも疑問であった藩主の参勤交代の旅での国家老一派の傍若無人な振舞いに対する「設定が甘い」という私の疑問も、それなりに、一応納得できる理由付けが為されたものでした。

そういう点では最終巻として納得できるものだったと言えます。

 

 

しかしながら、この小籐次親子の参勤交代への同行劇全体は、シリーズを通しての評価としては決して満足のいくものではありませんでした。

というのも、最終巻にしては小籐次の敵役としての国家老の存在が小者に過ぎ、今一つの緊張感が見られなかったからです。

この新旧の『”酔いどれ小籐次シリーズ”のシリーズ作品の中でも私が一番好きだった作品だったので、シリーズが終わること自体がまず残念でした。

そして、どうせ終わるのならば、シリーズ第一巻『御鑓拝借』での小籐次の大活躍のように、最終巻らしい活躍をさせてほしかった、という思いがあったのです。

ただ、こうした思いは藩主久留島通嘉が小籐次に同行を命じた理由そのものは納得できるものだったのですから、全く私の身勝手な好みで満足できなかったと言っているに過ぎないとも言えるでしょう。

 

ただ、それだけ市井に生きる小籐次の姿が好きだったのです。

ところが、いつの頃からか小籐次が神格化され、市井に生きる一浪人としての小籐次ではなくなってしまっていたのは残念でした。

このことは、『居眠り磐音シリーズ』でも同じことが言え、普通の腕が立つ浪人であった主人公の磐根が、そのうちに孤高の剣豪へと変っていったのと似ています。

それは、作者の佐伯泰英の変化に伴うものだったのかもしれず、長い間続くシリーズ物では仕方のないことなのでしょう。

それどころか、変化のないシリーズ物は逆に人気を維持できないのかもしれません。

 

 

ともあれ、本『酔いどれ小籐次シリーズ』は本書『御留山』をもって終了しました。

読者としては、作者の佐伯泰英氏にはお疲れ様でしたというほかありません。

ご苦労様でした。

あとは、『吉原裏同心シリーズ』などの他のシリーズ作品へ力を注いでいただけることを楽しみにするばかりです。

 

八丁越 新・酔いどれ小籐次(二十四)

八丁越 新・酔いどれ小籐次(二十四)』とは

 

本書『八丁越 新・酔いどれ小籐次(二十四)』は『新・酔いどれ小籐次シリーズ』の第六弾で、2022年7月に336頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

 

八丁越 新・酔いどれ小籐次(二十四)』の簡単なあらすじ

 

頭成の湊に着き、森藩の国家老・嶋内と商人・小坂屋の不穏な結びつきを知った小籐次は、ある過去の出来事を思い出した。一方、瀬戸内海の旅を経て新技「刹那の剣」を生み出した駿太郎は、剣術家としての生き方を問うべく大山積神社での勝負に臨むー。森城下を目指す参勤の一行を難所・八丁越で待ち受ける十二人の刺客とは!(「BOOK」データベースより)

 

大山積の石垣
文政十三年(1827)、小籐次たちはやっと速見郡辻間村頭成の湊へとたどり着いた。駿太郎は船問屋の塩屋で待つ間、塩屋の武道場で来島水軍流序の舞を奉納し、翌朝、塩屋の娘のお海から、お海の兄は小坂屋の新頭成組頭領の朝霞八郎兵衛に殺されたという話を聞かされた。

剣術とは
その後、小籐次はかつて関わりがあった小坂屋に会いに行き、当時の詳細を語るのだった。一方、駿太郎のもとには立ち会う約束をしていた朝霞八郎兵衛から文が届いていたものの、小籐次はそれに対し何もしないままであり、駿太郎は一人立ち合いに向かうのだった。

野湯と親子岩
森城下へと向かうその朝、小坂屋金左衛門は小籐次に自分の勘違いだったと告げるが、小籐次は小坂屋の言葉はそのままには受け取れないというのだった。行列は明礬山の照湯に投宿したが、人足の留次の案内で野湯へと行く駿太郎のもとには、一人の剣術家が試合を挑んできた。

十二人の刺客
三河では薫子姫のもとに江戸の老中青山忠裕からの手紙が届いていた。一方、小籐次親子の姿が行列から消えていた。深い霧がかかるなか行列が八丁越に差し掛かると、参勤行列の一行に矢や鉄砲が仕掛けられるが、最上が現れて𠮟りつけ、これをしりぞけるのだった。

新兵衛の死
玖珠街道では八丁越の霧が晴れると石畳には小籐次が佇んでいて、林埼との立ち合いは一瞬で終わった。やっと行列が陣屋に到着した後、駿太郎はなんでも屋のいせ屋正八方を訪ね、小籐次は森藩久留島家の表向玄関の一角の控えの間に一刻以上も待たされていた。

 

八丁越 新・酔いどれ小籐次(二十四)』の感想

 

本書『八丁越 新・酔いどれ小籐次(二十四)』は、頭成の湊にたどり着いてから森藩陣屋に至るまでの出来事を記しただけの作品です。

本書では、玖珠街道今宿村辺りが舞台となっていますが、佐伯泰英の作品では、物語の流れに合わせて話の中に登場する土地土地の事情や、来歴などが詳しく描写してあります。

例えば『空也十番勝負シリーズ』の『声なき蝉』では、肥後国の人吉や薩摩藩などの描写があり、本書での描写以上に心が躍ったものです。

それが、今回は別府から湯布院へとの旅路が語られるのですから隣県に住む身としては、よく聞く地名が登場するとやはり心が騒ぎます。

ちなみに、序盤で出てきた「勧請」という言葉を知りませんでした。調べてみると、「神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること」を言うそうです( goo国語辞書 : 参照 )。

 

前巻『狂う潮』もそうでしたが、本書『八丁越』は、小籐次と駿太郎の森藩藩主久留島通嘉の参勤交代に同行しての旅の様子を描くだけの話の続編であり、小籐次の、また小籐次親子の物語として目新しいものでもありません。

さらに言えば、そもそも森藩藩主久留島通嘉の参勤交代の旅に反藩主派の国家老一派である御用人頭の水元忠義と船奉行の三崎義左衛門もに同行し、その水元の命により小籐次たちを亡き者にしようという一団が参勤交代の行列に襲い掛かってくるというのですから、どうにも設定が甘いという印象がぬぐえません。

それだけ反藩主派の力が強いと言えばそれまでですが、どうにもその状況をそのままに受け入れることが難しいのです。(この点は、後にそれなりに理由付けがなされるので、私の勘違いだったということが明らかになります。)

 

また、刺客の頭領の林埼郷右衛門も一応は武芸者として尋常の勝負として小籐次の前に立ちふさがるという設定そのものはいいのですが、そうであれば、刺客としてではなく、いち武芸者として立ち合いを願うこともできたのではないという気もします。

尋常の立ち会いを願うのであれば、刺客としての依頼を受けること自体が変、とも感じてしまうのです。

しかしながら、以前にも書いた気がしますが、痛快時代小説作品としては、この程度の物語の流れはある程度は認めるべきなのかもしれません。

 

とはいえ、本書では森藩の飛び地である頭成の湊での船問屋の塩屋という新たな商人との繋がりを得るなど、物語の展開に新たな要素が持ち込まれてもいて、全く面白くない作品だというわけではありません。

駿太郎が三島丸での船旅で得た自分なりの剣として「刹那の剣」を編み出し、剣客としてさらに成長を見せていることも楽しみの一つではあります。

 

ただ、なにより残念なのは、本シリーズも余すところあと一冊となっていることです。

本来であれば、武芸者として大きな成長を見せている駿太郎のあらたな活躍を中心に、その背後に小籐次が控える、という物語の展開もあってよさそうな気もします。

でも、作者が、中途半端に歳をとった小籐次をその年齢以上の活躍をさせるのもいかがなものか、という判断をされた結果なのでしょう。

不自然な小籐次の物語を読むよりはいいのかもしれません。

 

森藩藩主久留島通嘉の思惑も未だよく分かっていませんし、国家老嶋内主石との対決も最終巻へと持ち越されています。

そしてもう一点、三河にいる薫子姫と小籐次一家との関係も未だ確定しているわけではありません。

そうした諸々の未解決の事柄を残したまま最終巻へとなだれ込むことになります。

 

この『酔いどれ小籐次シリーズ』も旧シリーズ十九巻、新シリーズ二十五巻、それに別巻一冊を合わせて全四十五巻をもって完結することになります。

佐伯泰英という時代小説作家の作品の中で個人的には一番好きなシリーズでもありましたので、非常に残念な思いです。

もしかしたら、『居眠り磐音シリーズ』と同様に、駿太郎の物語として新たなものが語りが続いてくれないか、と願うばかりです。

とりあえず、残りあと一巻を待ちたいと思います。