恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)

恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)』とは

 

本書『恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)』は『新・酔いどれ小籐次シリーズ』の第26弾で、2024年1月に文庫書き下ろしで出版された長編の痛快時代小説です。

一旦は終了したはずの『新・酔いどれ小籐次シリーズ』が、赤目駿太郎の剣術家としての成長と淡い恋を書きたいとの思いから再開した、と作者自身のあとがきにありましたが、ハードルが上がっただけに若干期待とは違った印象でした。

 

恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)』の簡単なあらすじ

 

江戸・三十間堀の小さな町道場が、怪しい証文を盾にした男たちから狙われている。道場主と孫娘の愛を救うため、十八歳の駿太郎は名を秘して入門する。親分や読売屋と協力して活躍する息子を見守るおりょう、隠居を考える小籐次。しかし親子への挑戦状がー伊勢まいりが大流行する中、あの鼠小僧も登場!?恋と勝負と涙の感動作。(「BOOK」データベースより)

序章

第一章 細やかな町道場
湯屋にいる小籐次駿太郎のもとに、難波橋の秀次親分がある道場の難題を相談に来た。その道場の加古李兵衛正高とその孫娘ののもとに、愛が幼い頃に出奔した父親の署名がある借用書を持って夢想谷三兄弟が道場の沽券を渡せとやってきたというのだった。

第二章 もうひとりの娘
加古道場で稽古をするようになった駿太郎が、加古正行と愛の二人を望外山荘へと連れてきた。すると、愛は駿太郎の新しい姉となり、またおりょうの娘となり、新しく望外山荘に住むこととなった薫子を姉と呼ぶようになるのだった。

第三章 お手当一両二分
師走のある日、小籐次親子が研ぎの仕事を終え帰る途中、竹屋の渡しの近くで浪人者からある姫君と奉公の女中の娘を助けた。また大晦日の大雪のため二人が川向うを見廻りに行くと、ある奇妙な一団が久慈屋に押し入ろうとするところに出会った。

第四章 新春初仕事
年の瀬から降り始めた雪のため稽古ができなくなった駿太郎は、望外山荘に近にある越後長岡藩の抱屋敷にある道場で稽古を願うことを思いつく。その後正月六日になり、望外山荘きた桃井春蔵が、十一日の桃井道場での具足開きに来てくれと言ってきた。

第五章 愛の活躍
小籐次親子が久慈屋店先での研ぎ仕事をしていると、夢想谷三兄弟が加古道場に訪れるとの空蔵からの伝言があった。日時は明記してなかったらしく、正月半ばを過ぎても、空蔵がいろいろと仕掛けでも一向に姿を見せないのだった。

あとがき

 

恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)』の感想

 

本書『恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)』は、一旦は終わりを迎えた『酔いどれ小籐次留書シリーズ』でしたが、作者の希望により再開されることになったシリーズ二十六巻目の作品です。

かなりの期待をもってさっそく読んでみたのですが、期待が高すぎてハードルが上がったためか、今一つという印象に終わってしまいました。

 

駿太郎の淡い恋を描きたいとの作者の意向があっての再会だそうですが、本書では新しく二人の娘が登場します。

一人は加古李兵衛道場の孫娘の愛であり、もう一人は望外山荘近くに住む片桐家の十四歳の娘の麗衣子です。

一人目の愛については、駿太郎がすぐに姉と呼び始めたので不思議に思っていると、今度は麗衣子という娘が突然に登場します。

それも前後の脈絡もなく何の背景の説明もない浪人者に攫われそうになっている娘を助けたことが知り合うきっかけです。

 

この出会いは物語のストーリーとは何の脈絡もなく突然の登場であるため、どうにもあまりに突然すぎて単なるご都合主義としか思えず、違和感しかありません。

とはいえ、この頃の佐伯泰英 作品はそうしたストーリーの進行とは無関係な登場人物がしばしば登場することがあり、そういう意味ではあまり驚きはないとも言えそうです。

ただストーリー展開とは関係のない人物の登場が多いとは言っても、それは単なる賑やかし的な浪人者やチンピラなどが主であり、今回のようなストーリー上重要な位置を占める人物については無かったことと思います。

 

また、愛の実家である加古李兵衛道場に押しかけてきた夢想谷三兄弟にしても、愛の父親である加古卜全正行の直筆と思われる二百九十両の借用証を持参しての押しかけですから、そのままに道場の土地と敷地の沽券状を取得できたと思われるのです。

それをわざわざ自分たちと加古道場の沽券状をかけて尋常の勝負を願ってくるのですから妙な話です。

このような展開は物語のリアリティを欠く展開としか言えず、読者の作品に対する感情移入を妨げるだけだと思います。というよりも私にとってはそうなのです。

せっかく一旦はシリーズ終了宣言したものを撤回するのですから、もう少しこうした点の物語の運びを考えて欲しいと思ってしまいました。

蘇れ、吉原 吉原裏同心(40)

蘇れ、吉原 吉原裏同心(40)』とは

 

本書『蘇れ、吉原 吉原裏同心(40)』は『吉原裏同心シリーズ』の第40弾で、2023年10月に光文社から320頁で文庫化された、長編の痛快時代小説です。

巻を重ねるにつれて特に会話文に対する違和感が増していくだけで、どうにも拒否感が強くなっていくように思えます。

 

蘇れ、吉原 吉原裏同心(40)』の簡単なあらすじ

 

寛政五年十月、江戸を見舞った大火事のあと、吉原に大勢の客が押し寄せる。その正体を巡り、会所八代目頭取四郎兵衛と一人二役の裏同心神守幹次郎は苦悩する。さらに困窮する切見世女郎らを救うため、幹次郎の密命を帯びた澄乃を、これまでにない危機が襲う!新たな敵が触手を伸ばす中、吉原を苦境から救い出そうとする廓の人々、それぞれの祈りが交差するー。(「BOOK」データベースより)

 

蘇れ、吉原 吉原裏同心(40)』の感想

 

本書『蘇れ、吉原 吉原裏同心(40)』は、江戸の町を襲った大火の影響で遊びに来る客の数も減った吉原の現状に立ち向かおうとする神守幹次郎らの姿が描かれています。

しかしながら、物語としては台詞回しが一段と芝居調に感じられ、さらに違和感を感じるようになってきました。

この頃の佐伯泰英作品の殆どがそうであるように、登場人物の会話が芝居の台詞のようで大時代的であり、感情移入しにくい文章になってきているのです。

本『吉原裏同心シリーズ』の場合それが顕著であって、特に神守幹次郎と会所八代目頭取四郎兵衛の一人二役が始まってから如実に感じるようになり、会話の中で幹次郎が四郎兵衛に伝えておくと言い切るなど、違和感ばかりです。

さらにいえば、女裏同心の澄乃が幹次郎の命で行った先で、澄乃に教える立場の娘や老人が歳を経た師匠と呼ばれる人が教え諭すような口調で話すなど、違和感しかありませんでした。

 

本書では、吉原は江戸の町を襲った大火災の直接の被害こそありませんでしたが、客である町人、商人が被災したため客が減り、大籬の女郎たちを除けば、三度の食事も苦労するようになりそうな苦境に陥ります。

そこに、大勢の客が押し寄せることになり、吉原は一息をつくことができますが、また吉原にとって新たな敵を産むことにもつながることになります。

また、その客たちはあくまで一時しのぎであり、下層の女郎たちが困窮に陥るであろうことは明白であり、そこで、幹次郎は女裏同心の澄乃をある場所へと送り出すのでした。

 

本書『蘇れ、吉原 吉原裏同心(40)』のストーリー自体が十全の面白さを持っているかと言えば、全面的に賛成とは言えません。マンネリ感がないとは言えないのです。

それに加えて、台詞回しの違和感までもあると、もういいかと思ってしまいそうになります。

でも、ここまで読んできたということ、また全面的に否定してしまうほどに拒否感を持っているわけでもないので続巻が出れば読むでしょう。

しかし、以前のように続巻が出るのを待ちかねるということはありません。それが非常に残念です。

なんとか、持ち直してくれることを期待したいと思います。

奔れ、空也 空也十番勝負(十)

奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』とは

 

本書『奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』は『空也十番勝負シリーズ』の第十弾で、文春文庫から2023年5月に文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

このシリーズ最終巻となる本書ですが、この作者の近時の他の作品と同様に、何となくの物足りなさを感じた作品でした。

 

奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』の簡単なあらすじ

 

京の袋物問屋の隠居・又兵衛と知り合った空也は、大和国室生寺に向かう一行と同道することになった。途中、柳生新陰流正木坂道場で稽古に加わるのだが、次第にその有り様に違和感を抱く。一方、空也との真剣勝負を望む佐伯彦次郎が密かに動向を探っていた。空也の帰還を待ちわびる人々の想いは通じるか、そして勝負の行方は!?(「BOOK」データベースより)

 

奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』の感想

 

本書『奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』は『空也十番勝負シリーズ』の第十弾で、いよいよこの物語も終わりを迎えることになります。

つまり、『居眠り磐音シリーズ』全五十一巻に続いて、本『空也十番勝負シリーズ』も完結することになるのです。

ところが、本書の著者自身の「あとがき」で、八十一歳を超えた佐伯泰英氏自身が『磐根残日録』を書きたいとの思いがあると書いておられます。

本シリーズのファンとしては大いに喜ばしいことで、『居眠り磐音シリーズ』も未だ終わることなく続行すると思ってよさそうです。

 

ただ、著者佐伯泰英の近年の著作に関しては全般的に芝居がかってきた印象が強く、往年のキレが亡くなってきたように感じてなりません。

そんな印象を抱えたまま、本書『奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』を読むことになったのです。

 

いよいよ大和へと赴くことになる坂崎空也ですが、途中で知り合った京の袋物問屋の隠居の又兵衛に連れられて柳生道場へと向かうことになります。

そこで、旧態依然とした柳生剣法に違和感を抱き、ついに皆が待つ姥捨の山へと向かいますが、やはり途中で修行のために山にこもります。

その後、襲い来る薩摩の刺客を退け、最後の対決相手として用意されていた佐伯彦次郎との勝負に臨む空也でした。

 

こうして、前述したように痛快時代小説である『居眠り磐音シリーズ』の続編的な立場のシリーズ作品として始まった本『空也十番勝負シリーズ』も最終巻を迎えることになりました。

でありながら、先に述べたように物足りなさを感じてしまいました。

それは多分、空也の強さが予想以上のものになってしまったことにもあるのではないかと考えています。

その生活態度も含めて常人の域を超えたところで生きている空也は、もう普通の人間ではなく超人と化しているのです。

そしてその超人はいかなる問題が起こっても単身で剣一振りを抱えただけで敵役を倒して問題解決してしまい、他の人達の問題解決の努力も意味がないものとしてしまいます。

一般的な痛快時代小説ではスーパーマンすぎる人物はいらず、頭をそして肉体を使い共に苦労して涙しながら問題解決の方途を探ることこそが求められていると思います。

つまり、皆で力を合わせて努力し、そのひと隅に主人公の剣の力がある、という設定がいるのではないでしょうか。

 

他の剣豪小説でも、主人公は常人以上の努力をして名人と言われる域に達しているはずなのですが、本シリーズでの空也の場合、そうした名人たちの努力をも楽に超えているような印象を持ってしまったように思えます。

加えて、芝居がかった印象まで持っているのですから物語をそのままに楽しめないのも当然なのでしょう。

そうした印象を持ったのは私だけかもしれませんが、非常に残念です。

とはいえ、全く面白くなくなったのかといえばそうではなく、痛快時代小説としての面白さをそれなりに持っているので悩ましいのです。

今はただ、続巻を楽しみに待ちたいと思います。

夢よ、夢 柳橋の桜(四)

夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』とは

 

本書『夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』は『柳橋の桜シリーズ』の第四弾で、2023年9月に春秋から文庫本書き下ろしで刊行され、長編の痛快時代小説です。

本巻をもってこのシリーズは完結することになりますが、どうにも焦点の定まらない物語という印象に終わってしまいました。

 

夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』の簡単なあらすじ

 

波乱万丈の旅を経て新しい生き方を探す桜子と小龍太。魚河岸の老舗が仕掛ける異国交易の仕事に惹かれる小龍太との祝言を前に、船頭にもどるべきか悩む桜子。そんな中、オランダ人画家の「二枚の絵」が辿った運命の感動は、人々を変えてゆく。早朝の神木三本桜に願うのは、大きな儲けか、夢の実現か。事件の謎の解明と、未来への希望が詰まった最終巻。4ヶ月連続刊行、これにて完結!「BOOK」データベースより)

 

夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』の感想

 

本書『夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』は『柳橋の桜シリーズ』の第四弾となる作品で、このシリーズの最終巻となる物語です。

何とも感情の入れどころがよく分からない、どうにも中途半端な印象しかない作品でした。

 

本書が、幕閣のどこか上の方の問題のため桜子小龍太が江戸を抜け出し逃亡しなければならなかった事情などは些末なことであり、結局は長崎で手に入れることになった二枚の絵のその後が描かれるだけの話です。

物語の展開が二枚の絵を中心とした話になっていること自体がおかしいというのではなく、物語の主題を二枚の絵に集約させるだけの説得力がこのシリーズにあったか、ということです。

 

また、桜子という娘の成長譚というには桜子の描写は簡単に過ぎ、小龍太との二人と物語というには二人の描き方もそれほどのものではありません。

さらに、二人が困難を乗り越える話というには、二人に襲いかかった難題が何なのか、結局は物語の終わりに少しだけ語られるだけで、つまりは物語のストーリーにとっては些細なことでしかありません。

 

作者としては、オランダ(?)で見た絵に触発されてこの物語を書いたということなので、本書『夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』で語られた二枚の絵の消息こそが書きたかったことなのでしょう( 文芸春秋特設サイト「『柳橋の桜』によせて」:参照 )。

しかし、読者としては結局二枚の絵のモデルが、現実に二枚の絵に出会うその奇跡を語られても感情移入するほどのものではありませんでした。

前巻で書いたように、結局は焦点が暈けたままだったという結論になると言うしかないのです。

 

佐伯泰英という作者の作品で女性を主人公としている作品に『照降町四季シリーズ』という話があります。

しかし、この作品は新鮮味を欠いた作品であり、本書『夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』同様に焦点が暈けた印象の物語でした。

とすれば佐伯泰英という作家は、女性を主人公とする物語は決してうまいとは言えない、と言うしかないのかもしれません。

とにかく、私にとって本シリーズは期待外れに終わったというしかありませんでした。

二枚の絵 柳橋の桜(三)

二枚の絵 柳橋の桜(三)』とは

 

本書『二枚の絵 柳橋の桜(三)』は、2023年8月に文藝春秋社から336頁の文庫として刊行された長編の痛快時代小説です。

本書での桜子は大河内小龍太と共に江戸を離れることになり、長崎の地でしばらくの間を過ごすことになりますが、佐伯泰英の作品としては普通との印象の作品でした。

 

二枚の絵 柳橋の桜(三)』の簡単なあらすじ

 

柳橋で評判をとった娘船頭の桜子。父・広吉の身を襲った恐ろしい魔の手から逃れるため、大河内道場の棒術の師匠・小龍太とともに江戸から姿を消した。異国船で出会ったカピタン、その娘の杏奈と接し、初めての食べ物や地球儀に柳橋を遠く感じる二人は、磨きぬいた棒術で心身を整える。そんな中、プロイセン人の医師に招かれた長崎の出島で、二枚の絵を見た桜子はあまりの衝撃に涙を止められないーオランダ人の絵描きコウレルと柳橋の桜子。その不思議な縁とは?(「BOOK」データベースより)

 

二枚の絵 柳橋の桜(三)』の感想

 

本書『二枚の絵 柳橋の桜(三)』では、主人公の桜子やその恋人でもある大河内小龍太たちは江戸の町を離れることになります。

二人は、その理由については何も知らされないままに船宿さがみの親方夫婦に挨拶をするひまもなく、その足で長崎の地へと赴くのです。

そこには桜子の後ろ盾と言ってもいい魚河岸の江の浦屋五代目彦左衛門の世話がありました。

 

ということで、本書では長崎までの船旅の様子が描かれ、桜子と小龍太の船上での修行の様子や、襲い来る海賊を退ける様子などが描かれていきます。

その際利用することとなった船のカピタンと呼ばれる船長(ふなおさ)のリュウジロや、その娘杏奈たちが本書での新たな登場人物として現れます。

ちなみに、この杏奈の伯父は長崎会所の総町年寄の高島東左衛門であり、二人の長崎での生活に重要な役割を果たします。

 

こうして舞台は江戸を離れ、長崎への船旅と長崎での暮らしの様子が描かれることになります。

そういう意味では佐伯節満載の物語ということはできるのですが、どうにも話はすっきりとしません。

というのも、今回桜子たちが江戸を離れざるを得ない理由や、桜子たちに敵対する相手の正体は全く示されることなく、ただ、幕閣の上部での出来事らしいということが示されるだけだからです。

 

ただ、本書『二枚の絵 柳橋の桜(三)』では前巻で少しだけ示された二枚の絵の意味が少しだけ明かされていくので、その点が若干満たされるということはできるでしょうか。

本書で一番の要点は、長崎会所のプロイセン人のアントン・ケンプエル医師から示されたこの二枚の絵の物語だと言えるのでしょう。

 

とはいえ、私にとっては本シリーズの主人公桜子という娘自体にそれほどの魅力を感じていないためか、二枚の画の秘密に関してもあまり気にかかることでもありません。

こうしてみると、この二枚の絵に関しては、本シリーズの冒頭からもっとこの物語に絡め、物語を貫く謎として設定されていればもう少し感情移入して読めたのではないかという思いがぬぐえません。

最終巻を読まずに書くのも不謹慎かもしれませんが、本書『二枚の絵 柳橋の桜(三)』に至るまでの三巻の内容が、結局は焦点がぼけたままで終わってしまい、つまりは最終巻『夢よ、夢 柳橋の桜(四)』だけで事足りたのではないかという思いが残ってしまいそうです。

ともあれ、すべては最終巻『夢よ、夢 柳橋の桜(四)』を読んでみてからのことにしたいと思います。

あだ討ち 柳橋の桜(二)

あだ討ち 柳橋の桜(二)』とは

 

本書『あだ討ち 柳橋の桜(二)』は『柳橋の桜シリーズ』の第二弾で、2023年7月に文庫本書き下ろしで文春文庫から刊行された長編の痛快時代小説です。

本書では現実に父が世話になっている船宿の船頭となる主人公の姿が描かれていて、前巻とは異なり、痛快時代小説としての面白さを持った作品でした。

 

あだ討ち 柳橋の桜(二)』の簡単なあらすじ

 

猪牙舟の船頭を襲う強盗が江戸の街を騒がせていた。父のような船頭を目指す桜子だが、その影響もあってか、親方から女船頭の許しがおりない。強盗は、金銭強奪だけでなく、殺人を犯すこともあったのだ。そして舟には謎の千社札が…。仕事を続ける父親の身を案じる桜子へ、香取流棒術の師匠である大河内小龍太が、ある提案をする。船頭ばかりを狙う強盗の正体と、その本当の狙いとは?物語が急展開をするシリーズ第二弾!(「BOOK」データベースより)

 

あだ討ち 柳橋の桜(二)』の感想

 

本書『あだ討ち 柳橋の桜(二)』は『柳橋の桜シリーズ』の第二弾となる作品で、主人公の娘の成長を描く長編の痛快時代小説です。

棒術の達人という設定の主人公桜子の活躍は本書でも十分にみられるのは勿論で、前巻よりは面白く読むことができます。

しかしながら、主人公の桜子にそれほどの魅力を感じることができないため今一つ、という印象はぬぐえず、のめり込んで読むとまではいきませんでした。

 

本書は父親のような船頭になることを夢見る娘の物語ですが、主役の桜子はついに一人前の猪牙舟の船頭としてデビューすることが許されます。

それも、北町奉行の小田切土佐守自らが少しでも世間を明るくしてほしいとの願いから、北町奉行直筆の木札を許されたというのでした。

しかしながら、近頃猪牙舟の船頭を狙う猪牙強盗(ぶったくり)が頻発していて、死人まで出ているため、素性が判明している贔屓筋の客だけを乗せることを条件に親方の許しも出たのでした。

そんななか、薬研堀にある香取流棒術大河内道場の道場主の孫の大河内小龍太は、桜子の身の安全を心配し、桜子の身を守ると行動を共にするのです。

 

猪牙強盗(ぶったくり)という明確な敵役が登場する本書であり、桜子とその師匠筋の小龍太との活躍が十分に描かれた物語で、痛快時代小説として軽く読める作品でしたが、やはり敵役の軽さは否めません。

桜子が一人前の船頭として認められたというのはいいのですが、それ以上の物語の展開がどうにも素直に受け入れられないのは、読み手の私の第一巻を読んだ際の大時代的な台詞回しへの不満などの先入観のためでしょうか。

でもそれだけが原因ではなく、先に述べたように主人公の桜子に感情移入するだけの魅力に欠け、またシリーズとしての意図が明確ではないということが本シリーズに対する印象の根底にあるのではないかと思っています。

 

とはいえ、佐伯泰英作品らしく物語の展開そのものの面白さは持っているので、単にストーリー、物語の展開だけを軽く読む、という点では普通だと言えると思います。

佐伯作品には『酔いどれ小籐次シリーズ』に出てくるクロスケのような犬が登場しますが、本書でも薬研堀にその名の由来を持つヤゲンという犬が登場し、物語にゆとりが与えられていたりします。

佐伯作品らしい物語世界の広がりをゆったりと感じさせる工夫などは施されていて、ストーリー展開を楽しむことができる作品ではあります。

 

 

最後にもう一点。

本書では、物語の前後にオランダのロッテルダムの情景が描かれ、一枚のフェルメール風の絵画についての語りが載っています。

これは、作者が現地で感じたことをそのまま取り込んだと書いてありましたが、本書だけを見るととってつけたような印象であまり意味が分かりませんでした。

ただ、次巻のタイトルを見ると『二枚の絵』であることを見るともっと具体的に何らかの絡みがあるのでしょう。

このことは、そもそもが作者の頭の中に浮かんできた一枚の絵の印象が本シリーズのモチーフになっているということなので、間違いのないことでしょう( 佐伯泰英 特設サイト :参照 )。

そうしたことも含めて次巻を期待したいと思います。

柳橋の桜シリーズ

柳橋の桜シリーズ』とは

 

『柳橋の桜シリーズ』は、父親のような船宿さがみの猪牙舟の船頭となって大川を行き来することを夢見る一人の娘を主人公とする痛快時代小説です。

初期の佐伯作品が好きな私としては特別取り上げて語るべき作品とまでは思えない近頃の佐伯作品であり、普通に軽く読める作品であって、それ以上のものではありませんでした。

 

柳橋の桜シリーズ』の作品

 

柳橋の桜シリーズ(2023年12月20日現在)

  1. 猪牙の娘
  2. あだ討ち
  1. 二枚の絵
  2. 夢よ、夢

 

柳橋の桜シリーズ』について

 

本『柳橋の桜シリーズ』の舞台は、両国橋の少し北の神田川と大川が合流するあたりに存在する「柳橋」と呼ばれている土地から始まります。

柳橋」とは一体の土地の名称でもあり、そこにかかる橋の名称でもあります。

ちなみに、「柳橋」のかかる神田川が合流する大川とは今の隅田川のことであり、詳しくは下記を参照してください。

呼び名は時代や場所により種々変化します。古くは千住大橋付近から下流が隅田川と呼ばれ、 上流が荒川や宮戸川と呼ばれていましたが、江戸時代に入ると更に吾妻橋から下流を大川とか浅草川と呼ぶようになりました。川のはなし – 東京都建設局

 

そしてこの物語の主人公はこの土地の「船宿さがみ」で働く船頭の広吉の一人娘の桜子で、幼いころから父親の姿を見て育った桜子は父親のような船頭になることを夢見ています。

また、この桜子は八歳の頃から薬研堀にある香取流棒術大河内道場に通っており、道場の跡取りである大河内小龍太を除いて敵う者はいないほどの腕前となっていたのです。

 

この桜子が、はれて猪牙舟の船頭となり、成長していく姿が描かれています。

しかし、その成長の過程では親しい者を亡くしたり、思いもかけない土地へ旅することになったりと、波乱万丈の未来が待っているのです。

 

ただ、各巻である絵に関する話題や異国人の会話などが少しずつ記してあるのですが、当初は何ともその意図が判りません。

そのうちに一枚の絵がある程度明確に物語に絡んでくるのですが、シリーズの前半ではそのことがあまり分からず、なんともシリーズ全体の印象が明確ではありません。

この点に関しては、作者自身がこのシリーズのモチーフとしてイメージしていたのが「一枚の異人画家の絵」だと言い、その絵が作者をオランダへと招いたというのです( 佐伯泰英 特設サイト :参照 )。

しかしながら、それが分かったからと言って本シリーズの焦点が明確ではないという印象が解消されることでもないのは残念でした。

 

さらに言えば、佐伯泰英の作品に共通する大時代的な、舞台演劇のような印象は変わりません。

そうあればこその佐伯作品とも言え一概に否定すべきものでもないのでしょうが、個人的には今では『居眠り磐音シリーズ』と名称を変えた、初期の『居眠り磐音江戸双紙シリーズ』といった佐伯作品のような、もう少し気楽な作品の方が好みではあります。

ただ、まだシリーズ途中の印象ですので、最終巻の『夢よ、夢』まで読み終えたときに新ためての印象を書きたいと思っています。

追記:最終巻『夢よ、夢』を読み終えたところで、結局は上記の印象を変えることはできませんでした。

残念ながら焦点が発揮りしない作品だと言うしかありませんでした。残念です。

猪牙の娘 柳橋の桜

猪牙の娘 柳橋の桜』とは

 

本書『猪牙の娘 柳橋の桜』は『柳橋の桜シリーズ』の第一弾で、2023年6月に文春文庫から刊行された長編の痛快時代小説です。

佐伯泰英の最近の作品にある女性が主人公となった全四編というミニシリーズですが、個人的には今一つ感情移入できない作品でした。

 

猪牙の娘 柳橋の桜』の簡単なあらすじ

 

吉原や向島などへ行き交う舟が集まる柳橋。神田川と大川が合流する一角に架けられていたその橋の両側には船宿が並び、働く人、遊びに行く人で賑わっていた。柳橋の船宿さがみで働く船頭の広吉には一人娘がいた。名前は桜子。三歳で母親が出奔するが、父親から愛情を受けて育ち、母譲りの器量よしと、八歳から始めた棒術の腕前で、街で人気の娘となる。夢は父親のような船頭になること。そんな桜子に目を付けた、船宿の亭主による「大晦日の趣向」が、思わぬ騒動を巻き起こしー。(「BOOK」データベースより)

 

猪牙の娘 柳橋の桜』の感想

 

本書『猪牙の娘 柳橋の桜』は、船頭になることを夢見ている一人の娘の奮闘記です。

ここで市井の人情ものの時代小説ではよくその名を聞く「柳橋」とは、神田川が大川へと流れ込む土地の名前であり、神田川に設けられた橋の名前でもあります。

近くに両国広小路が控えていることもあり、船宿が増え、花街として繁栄したそうで、本書の主人公の父親も柳橋の船宿「さがみ」で船頭として働いています。

 

柳橋」という地名からは、個人的にはすぐに山本周五郎の『柳橋物語』を思い出していました。

『柳橋物語』は山本周五郎の市井ものに分類される、ただ自分の心を信じて不器用に生き抜いていくおせんという娘の話です。

 

本書『猪牙の娘 柳橋の桜』の主人公桜子は、柳橋の「船宿さがみ」で船頭を務める広吉の娘です。

桜子が三歳の時に母親は男と共に出ていき、父親の乗る猪牙舟と共に育ちました。

母親の美しさを受け継いだ桜子は、父親の愛情のもと、寺子屋を営む横山向兵衛の娘で背は低いけれども才女のお琴こと横山琴女を友として、人気の娘として明るく育っていました。

十二歳となった桜子はそこらの大人と比べても背が高くなっており、娘の将来を心配する広吉に対し、自分の夢は父親のような船頭になることだといいます。

また、桜子が八歳のことから通っていた薬研堀にある棒術道場の道場主の孫である大河内小龍太もまた桜子の支援者の一人となっています。

この棒術は、いざ桜子が船頭として船を操るときも桜子の船頭の腕の上達に役立っていたのでした。

そんな桜子が船頭として、お琴とお琴の従妹で刀の砥師で鑑定家の相良謙左衛門泰道の息子の相良文吉、それに小龍太との都合四人を乗せての舟遊びの帰り、ちょっとした事件に巻き込まれてしまうのです。

 

新しいシリーズが始まるのは佐伯泰英ファンとして実に喜ばしいことですが、本シリーズのようなミニシリーズは微妙なところがあります。

本書の場合でいうと、確かに主要なキャラクターはそれなりに立っていて面白さを感じますが、どうにも『居眠り磐音シリーズ』のようなシリーズと比べると今一つ乗り切れません。

でも、『居眠り磐音シリーズ』は佐伯泰英の作品の中でも一番の人気シリーズなので、そういうシリーズと比べること自体がおかしいのでしょう。

ただ、桜子たちが舟遊びの途中で遭遇する火事騒ぎなど、全四巻という短いシリーズの第一巻である本書で桜子たちを紹介するエピソードとしても、とってつけたとの印象があり、何となくシリーズとしての弱さを感じたのだと思います。

 

そういえば、佐伯泰英が娘を主人公にしたミニシリーズとして『照降町四季シリーズ』(文春文庫全四巻)がありました。

そしてこのシリーズでは「期待が高すぎた」との心象を書いています。もしかしたら本シリーズでも同様のことが言え、当方の期待が高すぎたと言えるのかもしれません。

 

 

ついでに、もう一点不満点を書いておきますと、佐伯泰英の作品に共通して感じる台詞の大時代的な言いまわしがやはり気になります。

如何に侍の子とは言え、老成した印象緒のそのしゃべり方はどうにも素直には受け入れることができないのです。

とはいえ、やはり読み物としての面白さはありますので、続巻を楽しみに待つことになる作品でした。

晩節遍路 吉原裏同心(39)

晩節遍路』とは

 

本書『晩節遍路 吉原裏同心(39)』は『吉原裏同心シリーズ』の第三十九弾で、2023年3月に新潮社から344頁の文庫本書き下ろしで刊行された長編の痛快時代小説です。

神守幹次郎の台詞などが芝居調であることは前巻と同じであり、やはり敵役も結末も含めて今一つの一冊でした。

 

晩節遍路』の簡単なあらすじ

 

吉原会所の裏同心神守幹次郎にして八代目頭取四郎兵衛は、九代目長吏頭に就任した十五歳の浅草弾左衛門に面会した。そして吉原乗っ取りを目論む西郷三郎次忠継が弾左衛門屋敷にも触手を伸ばしていることを知る。一方、切見世で起きた虚無僧殺しの背後に、吉原をともに支えてきた重要人物がいることに気づく幹次郎。覚悟を持ち、非情なる始末に突き進んでいく。(「BOOK」データベースより)

 

晩節遍路』の感想

 

本書『晩節遍路 吉原裏同心(39)』は、新しく吉原会所の八代目頭取四郎兵衛となった神守幹次郎の苦悩する姿が描かれています。

非人頭の車善七に将軍家斉の御台所総用人の西郷三郎次忠継という男が吉原に触手を伸ばしていることを告げた幹次郎は、九代目長吏頭の浅草弾左衛門なる人物に会うようにと示唆されます。

そこで弾左衛門の後見人である佐七と名乗る男と、思いがけなくもさわやかさを漂わせた九代目浅草弾左衛門を継いだ十五歳の若者と面会することになるのでした。

後日幹次郎は、山口巴屋で灯心問屋彦左衛門の名で予約の入っていた佐七と会い、西郷三郎次忠継の本名が市田常一郎であり、家斉正室近衛寔子の実母の家系市田家の縁戚であることなどを教えてもらいます。

また、九代目弾左衛門就任に至るまでの間の西郷一派との確執や、次に西郷一派が狙ったのが色里吉原であることなどの話を聞き、さらには神守幹次郎一人が西郷三郎次忠継を始末することを暗黙の裡に受け止めるのでした。

 

一方、澄乃の心配事は吉原を、特に三浦屋を見張る謎の視線でした。

幹次郎が当代の三浦屋四郎兵衛に糺すと、根岸村に隠居した先代の四郎兵衛の名が浮かんできたのです。

ここに幹次郎は、西郷一派との争いと、先代四郎兵衛との問題を抱えることになるのでした。

 

本書『晩節遍路 吉原裏同心(39)』でも神守幹次郎の吉原裏同心と吉原会所四郎兵衛との掛け持ちは、まるで舞台劇だという前巻『一人二役』で感じた印象がそのままあてはまります。

百歩譲って、例えば神守幹次郎自身の、幹次郎本人が見知った事実を四郎兵衛に伝えるなどの言いまわしを受け入れるとしても、そのことは第三者が裏同心としての神守幹次郎と八代目四郎兵衛としての神守幹次郎とで態度を変えるなどの使い分けをすることまで認めるということにはなりません。

その点への著者佐伯泰英のこだわりはまさに舞台脚本であり、痛快時代小説としてはなかなかに受け入れがたいとしか感じられないのです。

 

前巻から批判的な文章ばかり続きますが、シリーズとしての面白さはまだ持っているという所に佐伯泰英という作者の不思議さがあります。

痛快時代小説としての面白さまで否定することはできず、やはり本シリーズを読み続けるのです。

荒ぶるや 空也十番勝負(九)

荒ぶるや 空也十番勝負(九)』とは

 

本書『荒ぶるや 空也十番勝負(九) 』は『空也十番勝負』の第九弾で、2023年1月に334頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

いよいよ本シリーズも終わりに近くなっていますが、なかなか最終の目的地へと辿りつかない空也の姿が描かれる、なんとも評しようのない作品でした。

 

荒ぶるや 空也十番勝負(九)』の簡単なあらすじ

 

祇園での予期せぬ出会い。
そして、薩摩最後の刺客!

京の都。
祇園感神院の西ノ御門前で空也は、
往来の華やかさに圧倒されていた。
法被を着た白髪髷の古老が空也の長身に目をつけ、
ある提案を持ちかける。

姥捨の郷では眉月や霧子たちが空也の到着を待ちわび、
遠く江戸の神保小路で母おこんや父磐音がその動向を案じる中、
空也の武者修行は思わぬ展開を迎えることになる。

そこへ、薩摩に縁がある武芸者の影が忍び寄り……。(内容紹介(出版社より))

 

荒ぶるや 空也十番勝負(九)』の感想

 

本書『荒ぶるや』は『空也十番勝負シリーズ』の第九弾で、前巻『名乗らじ 空也十番勝負(八)』に書いたような「あり得ない強さを持つ主人公の坂崎空也の物語」が続きます。

空也の滝で修行を終えた坂崎空也は、霧子の待つ高野山の麓にある姥捨の郷へはいつでも向かえるのに、何故か足踏みをしています。

ここで、足踏みをする理由はよく分かりません。剣の修行者としての空也にはまだ修行を続けるべきだという勘のようなものが働いたというしかないようです。

 

それどころか、単にその大きい体格が弁慶役にうってつけだというだけで、京の祇園感神院の西ノ御門前において、桜子という名の舞妓の演じる牛若丸の相手である武蔵坊弁慶の役を演じることとなります。

一介の剣の修行者が舞妓の相手をして弁慶役を舞うというそのこと自体、あり得ない筋の運びであり、他の痛快時代小説にはない本シリーズの魅力だというべきなのでしょう。

そうした特異なストーリーをもって読者を引っ張るのですから作者である佐伯泰英の物語を紡ぐ力が素晴らしいというしかありませんし、個人的には何とも評しようがないということでもあります。

 

舞を舞ったその夜は桜子のいる祇園の置屋花木綿に泊ることになった空也ですが、そこでは一力茶屋からのとある座敷の頼みを断れずに京都所司代の牧野備前守忠精の座敷へと招かれることになります。

こうして、空也はまた時の権力者の一人へと知己を広げていき、父親の坂崎磐根の人脈に加え、自分でもその人脈を広げていきます。

こうした設定は、まさに痛快時代小説の醍醐味の一つに連なる展開であり、シリーズの終わり近くにこのような展開になるということは、このシリーズの後のさらなる展開への期待を持たせてくれることにもつながります。

 

本来であれば、空也の滝で修行を終え、姥捨の郷へ向かうはずの空也でしたが、祇園社の氏子惣領である五郎兵衛老から鞍馬山での修行を勧められ、それに従うことになります。

それどころか、五郎蔵老には鞍馬での修行のあとには鯖街道を若狭の海まで行くことをすすめられていて、それに従うことになるのです。

その後の空也は、五郎兵衛老の口利状のおかげで僧兵や法師らの修行の拠点である鞍馬寺の鎮守社由岐神社の宿坊に厄介になって修行を行い、鯖街道へと進むことになります。

 

本書『荒ぶるや 空也十番勝負(九)』では江戸の坂崎家の様子や、多分空也十番勝負の最後の相手になるだろう佐伯彦次郎という武者修行中の若侍についてもほんの少しだけ触れるにとどめてあります。

それだけ、十番勝負が描かれる次巻への期待と、この『空也十番勝負シリーズ』が終了した後の展開への興味とが増すことにもつながるようです。

今は、すでに発売されている『奔れ、空也 空也十番勝負(十)』を早く読みたいと思うばかりです。