伊藤 計劃

1974年10月生まれ。武蔵野美術大学卒。2007年、『虐殺器官』で作家デビュー。同書は「ベストSF2007」「ゼロ年代SFベスト」第1位に輝いた。2008年、人気ゲームのノベライズ『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』に続き、オリジナル長篇第2作となる『ハーモニー』を刊行。第30回日本SF大賞のほか、「ベストSF2009」第1位、第40回星雲賞日本長編部門を受賞。2009年3月没。享年34。2011年、英訳版『ハーモニー』で、フィリップ・K・ディック賞特別賞を受賞した。allcinema

虐殺器官 [ 新版 ]

9・11以降の、“テロとの戦い”は転機を迎えていた。先進諸国は徹底的な管理体制に移行してテロを一掃したが、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。米軍大尉クラヴィス・シェパードは、その混乱の陰に常に存在が囁かれる謎の男、ジョン・ポールを追ってチェコへと向かう…彼の目的とはいったいなにか?大量殺戮を引き起こす“虐殺の器官”とは?現代の罪と罰を描破する、ゼロ年代最高のフィクション。(「BOOK」データベースより)

 

本書は、「テクニカルかつ繊細なタッチで未来の戦争と世界の現実を語る衝撃的な長編」として、2000年代のベストSF小説と言われる長編のSF小説です。

 

近時、日本のSF小説を語るときに伊藤計劃という作家の名前が登場しないことはありませんでした。しばらくSF小説から遠ざかっていた私にとっては全く聞き覚えの無い作家でもありました。

そうして、あまり知らない、しかしいつかは読まなければならない作家として心の隅にあったのですが、それが今回の入院を機にやっとこの作家のデビュー作である本書『虐殺器官』を読むことができました。

読み終えた直後の率直な感想は、本書の全体が思弁的に過ぎ、物語にそうしたことを求めない私にとっては少々冗長とも感じてしまう、というものでした。

 

二十一世紀のアメリカ軍で暗殺を請け負う唯一の部隊である情報軍の特殊検索群i分遣隊所属のクラヴィス・シェパードという男が主人公であり、この男の一人称で物語は進みます。

主人公は世界で頻発している大虐殺の裏にいるジョン・ポールという男を追いかけることをその任務としていますが、残虐性を帯びた任務のためか、内省的であり、ある意味繊細でもあります。

そのうちジョン・ポールに接触した主人公は、脳があらかじめ持っていた遺伝子に刻まれた、言語を生み出す器官である「虐殺器官」という言葉を聞かされるのです。

 

再度書きますと、本書は私のような人間にとってはひとことで言えば「難しい」小説でした。

戦闘員が乗り込むポッドの姿勢制御には筋肉素材が使われている、などの設定自体はSF小説では特別ではなく、そのこと自体は別に難しいことでも何でもありません。

私が難しいと感じるのは、例えば主人公がルツィア・シュクロウプという女性と交わす、語学・ことばについての会話などのことです。

「言語が人間の現実を形成する」、「ホッブス的な混沌」などと言われても、ピンとくるものではないのです。ここで交わされる会話の意味を掴もうとすると、一語一語の意味を正確にとらえていかないと理解できず、物語に置いていかれます。

 

更に言えば、本書はアフォリズムと言っていいものか、格言風に主人公の心象を表現してある文章が多用されている点でも感情移入を阻む作品でもありました。

例えば「見つめられることの安堵は、息苦しさの表側に過ぎない。」などという文章があると、その文章の意味を理解しようと頭が働き、感覚的に主人公の言葉に乗っていけません。

そうでなくても主人公の思考過程で、「ことばによって現実が規定されていて」などという文章が出てくるだけでその意味に惑わされてしまうのですから、物語に感情移入するどころの話ではないのです。

 

本書ではそういう箇所が多々あり、ひとつのクライマックスでもあるジョン・ポールとの会話の場面もまたそうでした。

そこは、この場面ではタイトルの「虐殺器官」の意味もまた明らかにされていく大事な場面であり、物語に置いていかれるわけにはいかず、理解するのに必死だったのです。

 

ちなみに、「ホッブス的な混沌」とは、ホッブスが人間の自然状態だと言った「決定的な能力差の無い個人同士が互いに自然権を行使し合った結果としての万人の万人に対する闘争」( ウィキペディア : 参照 )の状態だと解していいのでしょうか。

 

このような難解さは第24回日本SF大賞を受賞した 冲方丁の『マルドゥック・スクランブル』というサイバーパンクの匂いが強いSF長編小説でも感じたものでした。

この作品は、ギャンブラーのシェルに殺されかけているところをネズミ型万能兵器のウフコックとドクター・イースターに助けられた少女娼婦ルーン=バロットが、逆に彼らの力を借りシェルを追いつめるという物語です。

本書『虐殺器官』同様に登場人物の会話が難しく感じた作品でもありました。しかし、本書よりもアクション性が強いものの、本書のような思弁的な構造は持っていなかったようにも思いますが、ちょっと自信はありません。

 

 

とはいえ、読み終えてからあらためて本書に書かれていることを思い返してみると、本書『虐殺器官』はどこかのレビューにあった、ハウダニット・ホワイダニットとしてのミステリーとしての面白さも確かに持っていました。

それは、明らかにされた「虐殺器官」という言葉の意味が、さらにジョン・ポールによってささやかれるときのその本質的な理由に連なるものです。

そうしたことを含めて、読後の感想は単に「難しい」ということを超えて、驚きと納得とないまぜになった面白さがあったと言わざるを得ません。

 

本書はまた、共に私は未見ですがコミック化、さらにアニメ化もされています。

 

帰去来

警視庁捜査一課の“お荷物”志麻由子は、連続殺人犯の捜査中に、何者かに首を絞められ気を失う。目覚めたのは異次元の「光和26年のアジア連邦・日本本共和国・東京市」だった。もう一人の自分は異例の出世をした“東京市警のエリート警視”。闇組織からは命を狙われ、警察内部でも汚職警官の摘発など、非情な捜査方法が非難を浴び、孤立無援であることを知る。戸惑いながらも彼女は、“エリート警視・志麻由子”となって捜査を継続するしか方法がなかった…。(「BOOK」データベースより)

 

迷い込んだ異世界の自分は異例の出世を遂げた凄腕の女性警視だった。

たった一人、この世界の自分の秘書官だけを味方に見知らぬ世界を生き抜こうとする一人の女性警察官の活躍を描く異例の警察小説です。

 

本書は異世界に迷い込んだ主人公の活躍が描かれるのですから、SF小説の中でもパラレルワールドものという分類にあたるといえます。

ユニークなのは、そのパラレルワールドと自分の所属する本来の世界とを利用した警察小説になっていることです。

 

SFと警察小説とのコラボ作品というと、人類社会と異星人とが共存する世界での、人間とロボットの刑事が組んで事件を解決する A・アシモフの古典的な名作『鋼鉄都市』があります。

また、警察小説に限らず推理小説とSF小説としてみると、人類の起源の謎に迫る J・P・ホーガンの名作『星を継ぐもの』があります。

共にSFとしても推理小説としてもかなり話題を呼んだ作品であり、特に『星を継ぐもの』はSFファンならずとも必読の一冊であるといえます。

 

 

本書はそれよりもSF色は薄いものの、まるで戦後の新宿の闇市のような舞台設定を設けることで独特な雰囲気を出すことに成功しています。

主人公が目覚めてすぐに聞いた「光和」や「承天」という年号や、「東京市警本部、暴力犯罪捜査局、捜査第一部、特別捜査課、課長、志麻由子警視」という自分の身分など、これまでいた世界とは異なる言葉の羅列は印象的です。

このような世界を舞台に、巡査部長だった主人公志麻由子が、秘書官の木ノ内里貴の助けを借り、警視として特別捜査課を率いて活躍する姿は大沢在昌らしい物語です。

ここでの二大組織の対立という舞台設定は、黒沢映画の「用心棒」の原案となったことでも有名な、D・ハメットの『血の収穫』という作品を思い出してしまいました。対立する二大暴力団の存在という設定は物語を描きやすいのだと思われます。

 

 

それはともかく、本書は、異世界で起きた事件そのものの謎解きについての関心があるとともに、主人公の志麻由子はもとの世界に戻れるのか、またそもそもなぜにこの世界への転移とい現象が起きたのか、と通常の推理小説の醍醐味に加えSFとしての興味も加味されているのですからたまりません。

さすがは大沢在昌であり、エンタテイメント小説の第一人者だけのことはあると言わざるを得ません。

 

ただ、良いことばかりでもなく、読み終えてからの印象がなんとも薄いという欠点も感じました。読後に心に残るものがないのです。

この作者の『新宿鮫シリーズ』を読んだ時のような主人公に対する強烈な愛着や、『狩人シリーズ』を読んだ時に感じたそれぞれの巻に登場してくる男たちへの憧憬のような印象がないのです。

 

 

 

本書では主人公の志麻由子の警官としてのアクションを含む行動もさることながら、木ノ内里貴に対する恋心や、父親との関係など、見るべきところが少なからずあります。

しかし、そのどれもが読後に改めて振り返らせるような、読者である私の心に響くものがなかったように思えます。そのどれもにインパクトが足らなかったと思わるのです。

 

たしかに、本書はベストセラー作家の大沢在昌が書いた作品として水準を満たした面白さを持った作品だとは思います。大沢在昌という人の作品はそれだけで面白いのです。

ただ、今一つ心に刺さるものが無いように感じたということです。

ダーク・タワー [ DVD ]

ニューヨーク。
少年ジェイクは毎夜同じ夢にうなされていた。
“巨大なタワー”“拳銃使いの戦士”そして“魔術を操る黒衣の男”…ある日、ジェイクは現実世界と夢で見た≪中間世界≫と呼ばれる異界が時空を超えて繋がっている場所を発見する。
中間世界に導かれたジェイクは、そこで拳銃使い<ガンスリンガー>に出会う。
彼は2つの世界のバランスを保つ塔=ダークタワーを守る最後の戦士であり、タワーの破壊を目論む<黒衣の男>を倒すため旅を続けていた。
一方、ジェイクが特殊な能力を秘めた存在であることに気づいた黒衣の男は、その強大なパワーを求め、ジェイクたちの前に立ちはだかる。
いま、ガンスリンガーと黒衣の男が相まみえる! !( Amazon 商品の説明 )

 

この作品の原作の『ダーク・タワー』の項で、原作の映画化について「この壮大な世界が壊れることが怖い気がします。」と書きましたが、残念ながらその心配は当たってしまいました。

原作の文庫本で全十六冊にもなる『ダーク・タワー』を九十五分という短い時間に収めるということが不可能なのでしょう。

出来上がった映画は全く別の作品でした。

 

ローランドが黒人が演じていること自体は別に何の問題もありません。

また、本映画版『ダーク・タワー』に出てくる「悪」を代表する“黒衣の男”を演じているマシュー・マコノヒーもそれなりに悪くないと思いました。

ただ、そもそもこの映画の脚本、もしくは演出上表現されている“黒衣の男”は、単にC級のSF映画に出てくる魔法使いでした。

また、その手下もチンピラであったり、造形の下手なクリーチャーに過ぎなかったりと、C級映画以下の出来としか思えませんでした。

原作の持つ、異世界における現実世界との差異、“黒衣の男”の不気味さなどは全くないのです。

 

残念ながら原作とは全く別物と考えるしかないと思います。

鹿の王 水底の橋

黒狼熱大流行の危機が去り、東乎瑠帝国では、次期皇帝争いが勃発。様々な思惑が密かに蠢きはじめているとは知らずオタワルの天才医術師ホッサルは、祭司医・真那の招きに応じて、恋人ミラルとともに清心教医術の発祥の地・安房那領へと向かう。ホッサルはそこで、清心教医術に秘められた驚くべき歴史を知るが、思いがけぬ成り行きで、次期皇帝争いに巻き込まれていき!?ふたつの医術の対立を軸に、人の命と医療の在り方を描いた傑作エンタテインメント!(「BOOK」データベースより)

 

2015年本屋大賞を受賞した『鹿の王』の続編となる長編のファンタジー小説です。

 

とはいっても、本書だけの独立した物語、といっても過言ではありません。前作を読んでいなくても本書だけで充分面白く読むことができます。

前作では主人公としては戦士のヴァンと孤児のユナがいて、そしてもう一人の主人公として東乎瑠(ツオル)帝国の医術師ホッサルがいました。

本書はその医術師ホッサルひとりが主人公であり、ヴァンらは全く出てきません。

 

そして、医師であるホッサルが主人公ということは、本書のテーマが医療、もしくは生命であることにも繋がります。

前作でも医療についての深い考察がなされ、それが日本医療小説大賞の受賞にも結び付きましたが、本書でも前作に劣らない設定が為されています。

 

東乎瑠帝国では皇帝の後継者問題で揺れていました。現皇帝那多瑠帝の娘婿である比羅宇候と、那多瑠帝の弟である由吏候とが次期皇帝候補として有力者として囁かれていたのです。

その争いはホッサルたちにも無関係ではありませんでした。というのも、皇帝になる人物次第で帝国内でオタワル医術や清心教医術に対する対応が異なっていたからです。

すなわち、比羅宇候は宮廷祭司医長の最有力候補である津雅那の後ろ盾であるし、由吏候はオタワル医術の庇護者だとみられていたのです。

そのため、東乎瑠(ツオル)帝国の後継者問題は清心教医師団とオタワル医師団にとっても死活問題であり、ホッサルらもそうした世の動きに巻き込まれ、いやでも政治との関係を考えないわけにはいかないのです。

 

本書の帯にも書かれている、「なにより大切にせねばならぬ人の命。その命を守る治療ができぬよう政治という手が私を縛るのであれば、私は政治と戦わねばなりません。」というホッサルの言葉は、俗事に惑わされずに医療に専念したい気持ちを表しています。

こうして、本書ではオタワル医術と、東乎瑠(ツオル)帝国の医術である清心教の宮廷祭司医との対立を中心に、「医療」をテーマに物語が展開するのです。

誤解を恐れずに簡単にまとめると、オタワル医術は究極的には患者の命を救うためにはあらゆる手段を尽くすべきという立場であり、清心教の医師団は、病は人間の体の穢れを原因とするのであり、禁忌を犯して命を救ってもあの世での幸せな後生を得ることはできないとします。

 

ここで大事なのは、両者ともに患者のことを真摯に考え、患者のためにはどうすればいいのかを第一義に考えている点では同じだということです。

上橋菜穂子という作家の紡ぎだす物語の世界は、物語の社会が見事なまでに構築されています。

トールキンのファンタジーの名作『指輪物語』でも物語の舞台となる世界が、架空の言語まで作り上げられていて、比類なきファンタジーとして成立していたように、上橋菜穂子の紡ぎだす世界は細部まできちんと積み上げられていて、登場人物らの行動もその社会の中で必然として存在しています。

 

 

そうした舞台背景があってこその物語であり、それぞれの立場での主張がそれなりに正当性をもって繰り広げられる様は読んでいてとても心地よいものです。

どちらか一つの価値観だけを押し付けられるのではない、お互いの主張にそれなりの根拠づけがなされ、その上で相手を論破していく。

そうした過程を経て導かれる結論は読み手の心にこれ以上はないほどに迫ってきて、大きな感動をもたらしてくれるのです。

本音を言えば、前作の続編として、ヴァンやユナらのその後を読みたい気持ちももちろんあります。しかし、本書は本書として感動的な作品として見事に前作の流れを引き継いでいます。

更なる続編を読みたいというのは作者の苦労を知らない読者の勝手でしょうが、読みたいです。続編を期待します。

黄泉がえりagain

あの大地震から二年。熊本で、死者が次々生き返る“黄泉がえり”現象が再び発生した。亡くなった家族や恋人が帰還し、驚きつつ歓迎する人々。だが、彼らは何のために戻ってきたのだろう。元・記者の川田平太は、前回黄泉がえった男とその妻の間に生まれた、女子高生のいずみがその鍵を握ると知るのだが。大切な人を想う気持ちが起こした奇跡は、予想を遙かに超えたクライマックスへ―。(「BOOK」データベースより)

 

梶尾真治著の『黄泉がえりagain』は、かつて映画化もされたベストセラー『黄泉がえり』の続編の長編のSF小説です。

 

その『黄泉がえり』には、「益城町下を走る布田川活断層の熊本市寄りの地域」で「震度7の揺れ」が起きかけるという、まるで2016年に発生した熊本地震を予言したかのような設定があったそうです。私は全く忘れていました。

もちろん偶然ですが、この熊本地震をきっかけに本書『黄泉がえりagain』が書かれたそうで、小説は『熊本日日新聞』土曜夕刊に、1999年4月10日から2000年4月1日まで連載されました。

 

 

前回の「黄泉がえり」から十七年、熊本の街に再び黄泉がえり現象がおきます。

本書の中心人物の一人で『黄泉がえり』にも登場していて今はフリーランスのライターである川田平太は、二年前に死んだはずの母親が黄泉がえったことを知ります。

そこに肥之國日報時代の後輩の室底から連絡が入り、調べてみると熊本市電のB系統沿線で黄泉がえりが発生していること、今回の黄泉がえり現象の中心にいるのは一人の女子高校生であることに気が付きます。

また、意外な人物も黄泉がえり、前回の黄泉がえりとは少々その様相を異にしていることが次第に明らかになっていくのでした。

 

今回の黄泉がえりは前回ほどのロマン性はないと言っていいかもしれません。黄泉がえりという不可思議な現象自体は超生命体の存在という一応の解明がなされているので、今回は何故再び黄泉がえり現象が起きたのか、という点に焦点が当たっています。

途中、本書の現象の中心に位置する一人の女子高生をめぐる出来事が起きたりもしますが、そのこと自体はあまり意味を持ちません。その出来事自体は尻切れトンボと言ってもいいほどです。

すべてはクライマックスに向かって突き進みます。ただ、その過程の描き方がいかにも梶尾真治であり、熊本に、そして人間に対する優しさに満ち溢れているのです。

 

本書は「熊本」が舞台で、それも熊本地震がテーマであるため、実際熊本地震に遭遇した私にとっては一段と身近に感じられる小説でした。

事実、本書の冒頭で、ある女性の、「秘密のケンミンSHOW」を見ていた、という一文がありますが、まさに前震が来たとき、私も家族とともに「秘密のケンミンSHOW」を見ていました。そして、その翌日の深夜(16日)に本震が来たのでした。

さらに言えば、熊本城内にある「熊本城稲荷神社」についても書かれていますが、この神社の先代宮司は私の飲み友達でもありました。若い頃に、仲間とグループを作り飲み歩いた仲間でしたが、先年若くして逝ってしまったのは残念です。

そしてもう一点。本書には天草をかすめ宇土半島方向から上陸した1991年の19号台風、通称「りんご台風」についての記述があります。

私も熊本に被害をもたらした台風が1991年の19号台風だとずっと信じていたのですが、調べてみるとこの19号台風は長崎の佐世保付近に上陸していて、宇土半島付近には上陸していません。この点は作者の勘違いなのか、私のさらなる間違いなのか、定かではありません。

 

話題が本書から離れてしまいましたが、本書の「解説」の中で大矢博子氏は、本書の主人公は「熊本」だ、と書いておられますが、まさにその通りだと思います。

以上述べてきたように熊本という街が舞台になっていることもそうではあるのですが、梶尾真治という作家は、熊本県民の、「熊本」という地方の再生に対する“思い”そのものを描いていると思うからです。

そんな「思い」を実感したのが、地震に関する情報が整理されていく中で、熊本城の悲惨な状況を見て胸が苦しくなったのを感じたときでした。熊本のシンボルとは言っても、まさかこのような哀しみにとらわれるとは自分でも意外でした。

周りの人たちにしても、自分の家の復旧も大変なのに、熊本城の復旧に多額の費用を費やすことに異論を聞いたことがありません。それだけ、熊本城が市民、県民の心に息づいているものだと、あらためて思い知らされたものでした。

 

本書では、ネタバレにはならないと思うので書きますが、その熊本城の築城主である加藤清正が登場してきます。

熊本県民が清正公(せいしょこ)さんと親しみを込めて呼ぶ清正公は、思いのほかに熊本市民、熊本県民の心に根差しているのです。ただ、本書での加藤清正に対する登場人物たちの思い入れを、他の地方の読者にどれだけ分かってもらえるのだろうか、その点に若干の心配があります。

 

今回、再び黄泉がえりが始まったのは何故か。物語はクライマックスに向けてテンポよく進みます。

その結末そのものは納得がいくかどうかはさておいても、少々まとまりが良すぎる気もします。

とはいえ、素直に考えれば文句を言う方がおかしいのであり、そうした感想は一読者の身勝手な感想でしかないでしょう。

テュポーンの楽園

東京都阪納市安須。人口約900人のごく平凡な山間の街で、大規模な洗脳のような異変が発生した。政府は警視庁SIT(捜査一課特殊班)を送りこみ、それに女性陸上自衛官・織見奈々も同行する。だが、精鋭揃いの警察官たちは、何ものかの襲撃により、次々と姿を消していく。そこには想像を絶する怪物「テュポーン」が潜んでいた―!バイオホラー、ミリタリー、アクション、モンスター―あらゆる要素を備えた、圧倒的スケールのエンタテインメント巨編!(「BOOK」データベースより)

 

本書『テュポーンの楽園』は、いわゆるマッドサイエンティストものと言われる長編のノンストップホラー小説です。

 

東京都阪納市という街を舞台に、「テュポーン」と名付けられた異形の生物を相手に戦う警察、自衛隊の姿が描かれています。

「テュポーン」とは、大地の女神ガイアから生まれたといわれるギリシャ神話に登場する神で、怪物たちの王だそうで、それほどに強烈な怪物だということでしょう。

 

「異形の生物」相手の闘争といえば、まず思い浮かべるのは D・R・クーンツという作家です。『ファントム』という作品で描かれていたのは町の住民が居なくなってしまう状態であり、「太古からの敵」という正体不明の存在が描かれていました。

 

 

他に ロバート・R・マキャモンF.P・ウィルスンなども挙げることができ、彼らのエンターテイメント性が高く、スピーディーな展開を見せる作品群は、モダンホラーとも呼ばれていました。

モダンホラーといえば スティーブン・キングがいますが、彼の作品とはとは少々異なり、よりエンターテイメント性の高い作品群だと思います。

日本で言うと、 夢枕獏の『サイコダイバー・シリーズ』や 菊地秀行の『魔界行シリーズ』などのエンターテイメント性の高い、エロスとバイオレンスに彩られた作品群が発表されています。

 

 

なかでも本書『テュポーンの楽園』の作者である梅原克文という作家の『二重螺旋の悪魔』や『ソリトンの悪魔』は、本人はSFとは呼ばないそうですが、より客観的であり、SF的であったと思います。

 

 

 

このように、本書は梅原克文という作家が一番得意とする分野だと思うのですが、残念ながら本書はかなり冗長な作品だったといわざるを得ません。

とにかく書き込まれている情報量はものすごいものがあります。巻末に挙げられている参考資料も、警察や自衛隊関連の資料に加えて脳科学の資料など、合わせて四十冊を超える書名が挙げられています。

本書の描写は、そうした取材の過程で作者が気に入ったエピソードや知識のすべてを網羅しているのではないかと思うほどに詳細です。

例えば、自然界には微生物が寄生して宿主の行動を操る実例が多数あるとして、トキソプラズマや冬虫夏草、腸内細菌などについて三頁以上にわたって述べてあります。

こうした自然界の実例や、自衛隊の備品、装備などが登場するたびに詳しく説明してあるのですから、そちら方面に関心のあるマニアックな読者は別でしょうが、もう少し簡潔に書いてもらえればと思ったものです。

この緻密な描写が、決してうまいとは思えない武骨な文章で積み上げられ、原稿用紙1700枚、2段組645頁という分量になっているのです。

 

ただ、治安出動、防衛出動の場面においての、それぞれの法的根拠や責任の所在の問題など、普通一般人の思考の範囲外にある事柄も説明してあり、そうした場面は私も関心のあるところでしたので、引き込まれてしまいました。

 

自衛隊の出動という場面に限って言えば、 安生正の『ゼロの迎撃』などでも国内における戦闘行為の難しさを描いてありました。近年、「シン・ゴジラ」で描かれた政府内の描写がかなり高く評価されていましたが、あれが実情なのでしょう。

 

 

本書に盛り込まれている情報は、ガイア理論などあまり実用的とは思えない考え方も紹介してありますが、先に述べた治安出動時の問題点や、日本国内における電波帯域の制限の問題など実は大切な問題もかなり含まれていそうです。

 

物語としてみると、これまで述べた冗長性の他に、描かれている警察官や自衛官が少々感情的ではないかと思われる違和感はありました。

一般自衛官ではなく、それなりの訓練を受けた空挺部隊や警察官にしてもSITなどの専門家は指揮命令下の反応はかなり厳密だと聞いたことがあり、本書で描かれている様子は、私が聞いた実情とは少々異なると思えます。

特に、個々の隊員の撤退命令に対する反応や、何よりもクライマックス近くの師団長の言葉に対する幕僚らの反応などは軍人の態度ではないと思われるのです。

 

更に一点疑問点を述べるとすれば、これだけの大事件であるのに、行政などへの助言者として描かれている科学者が織見奈々の父親である黒田玄造しかいないことでしょうか。いくら何でもそれはないと思うのですが。

 

本書『テュポーンの楽園』を全体としてみると冗長という一点に尽きます。しかしながら、クライマックス近くになってくると物語のテンポが急激に上がり、リズムが良くなります。説明的な文章が無くなっているからでしょう。

梅原克文という作家は、個人的にはかなり押している作家さんですが、ここ数作の『心臓狩り』や『カムナビ』はあまり出来がいいとは思えませんでした。

 

 

本作はそれらの作品よりはいいとは思うのですが、それでも全力で面白いから読んでくださいとまでは言えないのです。

とはいえ、本書のような視点の作品は私の好みの分野でもありこれからも読み続けたい作家さんの一人です。

神坐す山の物語

奥多摩の御嶽山にある神官屋敷で物語られる、怪談めいた夜語り。著者が少年の頃、伯母から聞かされたのは、怖いけれど惹きこまれる話ばかりだった。切なさにほろりと涙が出る浅田版遠野物語ともいうべき御嶽山物語(「BOOK」データベースより)

 

柳田国男の『遠野物語』を思わせる、浅田次郎の描き出す怪異譚で構成される短編集です。本書のタイトルは「かみいますやまの・・・」と読むそうです。

 


 

神上がりましし伯父
作者と思われる語り手(主人公)自身の体験。普通の人には見えないものが見える霊力を持った自分が、自分に会いに来た伯父の姿を見て、伯父の死を知る。

兵隊宿
主人公の祖母イツの語る、雪の降る夜に行方不明者を探していた砲兵隊の物語。

天狗の嫁
主人公が語る、主人公の母親のすぐ上の姉である少女のように小柄なカムロ伯母の、嵐(伊勢湾台風)の夜などの思い出


主人公の母親とは親子ほどにも歳が離れていたちとせ伯母が寝物語に語る、夏の新月の晩にやってきた喜善坊と名乗る修験者の話。

見知らぬ少年
主人公自身が出会った、かしこと名乗る一人の少年とのひと夏の物語。

宵宮の客
ちとせ伯母が寝物語に語る、一夜の宿を求めてやってきた一人の男の物語。

天井裏の春子
ちとせ伯母が寝物語に語る、狐が憑いた、仮に春子と呼ばれたモダンガールの物語。

 

どの物語も、これまでに私が読んできた浅田次郎の作品とは毛色が異なった作品集でした。

 

先に『遠野物語』のようだとは書きましたが、私は遠野物語を読んだことはなく、本書「あとがき」などで記されている言葉をもとに分かりやすいかと思い書いたものです。つまりは、不思議物語集だということです。

 

 

本書の舞台は東京都の西部にある「御嶽山(みたけさん)」山頂の武蔵御嶽神社です。高名な木曽の「御嶽」との混同を避け、「ミタケ」と読ませたのだろう、と本文中にありました。

この神社が作者浅田次郎の母方の実家であったそうで、本書「あとがき」での作者の言葉によれば、浅田次郎の作品である『あやし うらめし あなかなし』に収録された「赤い絆」と「お狐様の話」のモチーフとなった出来事はすべてこの神社を舞台にした本当にあったこと、だといいます。

 

 

本書は、それらの物語と同列の短編ということになります。

聞き語りの形式で書かれている「あとがき」で、聞き手東雅夫氏の「ストーリーは、どの程度脚色されたのでしょうか」という質問に対し、著者は、「神上がりましし伯父」での白黒二頭のお狗様を目撃するエピソードは実体験だと言っていますし、他の話にしても、そうした話が事実として語り継がれていた、と述べられています。

 

この「あとがき」の最後で、作者が「余分なことは一行も書くまいと心に決めていました。」とあったのですが、この文言が読み手として気になりました。

つまりは、実際に読んでみて、いつも通りの浅田次郎のうまい文章だとの感想は持ったものの、「余分なこと」の有無などは何も感じられなかったのであり、読み手として作者のその姿勢は何も感じなかったのです。

 

また、「具体的には、どのようにすれば最小限の文章の中に、大きな物語を入れられるのかを常に考えていました」と言われているのですが、その点でも感じるところはありませんでした。

結局、読み手としての力量の無さを指摘されただけのような気がしたものです。

 

短い定型詩が文学の主流であり続けたのが日本文学の特徴だという作者は、日本を表現するにはそれと同じような気持ちで書かないといけないというのです。

そんな読み方のできていない私にはかなり耳の痛い「あとがき」でした。

 

本書の内容に関しては、内容がホラーであり、これまでの浅田作品にみられるユーモアに満ちた文章は影をひそめ、神域の厳かな雰囲気を醸し出す、落ち着いた文章で構成されています。

ただ、「ホラー」と言い切っていいものかは疑問もあります。怪異譚ではありますが、怖がらせるという話ではなく、神域で起きる通常ではありえない話ということに過ぎないからです。

また、各短編の話の主体が、主人公自身の経験であったり、伯母が聞いた話であったりと、若干混乱しそうになったりもしますが、丁寧に読みさえすれば何の問題もありません。

 

浅田次郎の母方の実家で実際に起きたという、話を集めたものともいえます。どこか自身の幼いころの話にも通じる懐かしさもある短編集でした。

芦沢 央

1984年東京都生まれ。2012年『罪の余白』で第3回野性時代フロンティア文学賞を受賞しデビュー。2017年『許されようとは思いません』が第38回吉川英治文学新人賞の、2018年「ただ、運が悪かっただけ」が第71回日本推理作家協会賞短編部門の候補になった。他の著書に『悪いものが、来ませんように』『今だけのあの子』『いつかの人質』『雨利終活写真館』『貘の耳たぶ』『バック・ステージ』がある。(芦沢央 | 著者プロフィール | 新潮社 : 参照 )

 

2019年の本屋大賞の候補として、芦沢央の『火のないところに煙は』が選ばれました( 2019年本屋大賞のノミネート作品が発表されました! : 参照 )。

 

 

残念ながら本屋大賞は瀬尾まいこ氏の 『そして、バトンは渡された』に決まり、本書は本屋大賞は逃しましたが、ネット上のレビューではかなり評判が高いものがありました( 2019年本屋大賞が決まりました! : 参照 )。

 

火のないところに煙は

「神楽坂を舞台に怪談を書きませんか」突然の依頼に、作家の「私」は、かつての凄惨な体験を振り返る。解けない謎、救えなかった友人、そこから逃げ出した自分。「私」は、事件を小説として発表することで情報を集めようとするが―。予測不可能な展開とどんでん返しの波状攻撃にあなたも必ず騙される。一気読み不可避、寝不足必至!!読み始めたら引き返せない、戦慄の暗黒ミステリ!(「BOOK」データベースより)

 

なかなかに読ませる全部で六編の短編からなるホラー小説集です。

と、思って読んでいくとこれが・・・。いろいろな、思いもよらない仕掛けのある作品でした。

 

 

第一話 染み
芦沢央自身が友人から依頼を受け、別れるならば死ぬという恋人の不思議な死のあとに訪れた奇妙な現象。

第二話 お祓いを頼む女
作者の知人が、ある女性から、自分は祟られているからお祓いをしてくれと一方的に言い寄られる話。

第三話 妄言
榊桔平から聞いた、新築の家を購入したものの、ある事無いことを言いつける困った隣人の話。

第四話 助けてって言ったのに
新潮社の編集者から聞いた、義理の母親とまったく同じ夢を見るある女性の話。

第五話 誰かの怪異
著者が聞いた、新しく借りたアパートで起きる怪奇現象の話を聞いた住人の知人が為した失敗した除霊の話。

最終話 禁忌
これまでの話に隠されたある秘密の話。

 

本書は、芦沢央、つまり本書の作者を語り手としており、映画などで言う“ドキュメンタリー風表現手法”を意味する「モキュメンタリー」の手法で書かれた作品です。

そのドキュメンタリー風にもっていく仕掛けが大掛かりになっていることに驚きました。勿論、本書を読んでいるときはそのようなことは知りません。

 

まずは読後すぐに、目の前にあった本書の裏表紙に描かれた染みに目がいき、第一話で言われていた「染み」を思い出しました。この点に関しての説明は本書を読んでもらうしかありません。

 

次いで、読後に本書について調べているときに「榊桔平」という人物が記したエッセイを見つけたことで新たな疑問が浮かびました。

それは、「榊桔平」という人物は本書にも探偵役として登場する重要人物ですが、その同姓同名の「榊桔平」という人物が現実にエッセイを書いているのはどういう意味かということです。

そこで、「榊桔平」という人物について調べてみると、新潮社のサイト「榊桔平 | 著者プロフィール | 新潮社」という頁に、榊桔平なる人物のプロフィールが掲載されていました。しかし、そのプロフィール内容は事実上何も書いて無く、その実在は疑わしいのです。

もしこの人物が架空の人物だとすれば、その仕掛けは出版会社まで取り込んだ大仕掛けということになります。

そしてまた、各話の構成がいかにもの書き方をしてあるのです。

そうした内容、仕掛けが奏功したのでしょう、「実話ですか? 呪われませんか?」という問い合わせが来たというほどのリアリティを持った小説として仕上がっています。

 

たしかに、読み進むにつれて何となくの不気味さが募ってくる小説でした。

個人的にはホラー小説はあまり好きな分野ではありません。しかしながら、本書はホラーとしての面白さに加え、怪奇現象の裏を探るミステリーとしての面白さが控えています。

そのミステリーとしての面白さゆえに次の話へと読み進めていくことになったのですが、最後に再度のミステリーとしての仕掛けが待ち構えていました。

 

本書の持つミステリーとしての面白さは、例えば 米澤穂信の『真実の10メートル手前』という作品の持つ、太刀洗万智という主人公の行う小気味いい推理に通じるものがあります。

 

 

また、 長岡弘樹の描く切れ味の鋭い心理的トリックが光る日本推理作家協会賞(短編部門)を受賞した作品である『傍聞き』という作品をもまた思い出していました。

 

 

先に述べたように、本書には幾重にも読者を待ち構えた仕掛けがあります。本屋大賞にノミネートされるのも納得の面白さがあり、この作者の他のミステリー作品も読んでみたいと思わせられる作品でした。