『雫峠』とは
本書『雫峠』は『神山藩シリーズ』の第四弾で、2025年1月に講談社から224頁のハードカバーで刊行された、短編時代小説集です。
いつものとおりに情感豊かに語られるこの人の作品は、ゆっくりと心の奥に沁みわたってきます。
『雫峠』の簡単なあらすじ
神山藩が舞台の『高瀬庄左衛門御留書』『黛家の兄弟』『霜月記』に連なる最新作。
国を棄てるかもしれぬ。
だが俺が知らぬ顔したら、義妹は死ぬ。武士の理にあらがった二人の逃避行を描く表題作を含む、
四季薫る神山の原風景と、そこに生きる人々の気品が漂う作品集。山本周五郎賞作家が織りなす、色とりどりの神山のすがた。
「半夏生」
国の堤を支える父と弟。彼らの背中は清く大きかった。
「江戸紫」
藩主の病が招く騒擾を防ぐ妙案はいかに。
「華の面」
能を通じて思い知る、同い年の藩主の覚悟。
「白い檻」
神山の厳冬。流刑先での斬り合いに漂う哀愁。
「柳しぐれ」
町を駆ける盗人の、一世一代の大仕事。
「雫峠」
神山を出ると決めた、二人の間に芽生えた思い。~「神山藩シリーズ」とは~
架空の藩「神山藩」を舞台とした砂原浩太朗の時代小説シリーズ。それぞれ主人公も年代も違うので続き物ではないが、統一された世界観で物語が紡がれる。(内容紹介(出版社より))
『雫峠』の感想
本書『雫峠』は『神山藩シリーズ』の第四弾の全六編の短編からなる時代小説集です。
派手な展開というよりも、落ち着いた情感豊かな筆致で進められ語られるこの人の作品は、ゆっくりと心の奥に沁みわたってきます。
本書を読み始めると、その一行目から遠くまで広がる田圃のなかにある小高い丘が見えてきて、その丘にある階段を一人の女性がゆっくりとのぼっていく姿が見えてきます。
その姿がとても心地よく、そしてその絵に続いて階段の上にある林の中にたたずむお寺の手水所で冷たい水に人心地をついている様子が如実に浮かんできました。
本書の第一話「半夏生」はこのような情景から始まります。
この砂原浩太朗という作家の文章は何故ただ読んでいるだけでこんなにも心を安らかにしてくれるのでしょうか。ただ普通に読み進めているだけなのに、心根が穏やかに、静かになるのです。
そうした作品としては、何度も書いてきたことですが藤沢周平の作品があります。
例えば代表作の一つである『蝉しぐれ』でも自然描写が巧みであり、物語の季節感や情景を表しながら場面ごとの舞台背景になったり、登場人物の心象を表現したりしています。
同じことが本書の著者砂原浩太朗の作品にも言え、自然の丁寧な描写はその描写だけで読者の心持を落ち着かせてくれるのです。
また、野口卓も似たような印象を持った作家として挙げることができます。
ただ、この人の場合、作品が限られ、『軍鶏侍シリーズ』に限っての話です。
このシリーズは、徳島藩を思わせるやはり架空の藩である園瀬藩を舞台にした物語であり、主人公の岩倉源太夫という剣術家の開いた道場が物語の舞台になった作品です。
近年の時代小説作家としては青山文平という作家も好きで、例えば『白樫の樹の下で』のような初期の作品では硬質でありながらも高い品格を保った文章を書かれていて、その情景描写もゆったりとしたものを感じていたように思います。
しかし、最新の『下垣内教授の江戸』でもそうですが文章が理詰めになってきており、その論理的な進行をもって物語の展開まで図られているのです。
話を本書に戻すと、登場人物たちはそうした情景描写を背景として与えられた自分の環境の中で必死に生き、そして理不尽な決まりごとの中で呻吟し、自らの仕事を成し遂げ、また自分の思いを遂げようと足掻いています。
そのさまが、情景描写に費やされると同様の筆の力で読者の前にもたらされます。
本書『雫峠』の六編は「柳しぐれ」を除いた五編が侍を主人公にした物語です。
江戸時代は士農工商という身分制度をもってその封建社会を維持していました。
侍同士の社会の中でもまた身分制度は厳格であって、本書のそれぞれの物語はいずれも登場人物が置かれた身分ゆえにもたらされる理不尽な仕打ちに抗う物語です。
残る一編である「柳しぐれ」は一人の盗人が抱いた女性への想いの末にもたらされる結末が心を打ちます。
ほかの五編の中の二篇「半夏生」「雫峠」は、主役の侍が女性に思いを寄せる作品です。
残りの三篇のうちの「江戸紫」は女性への想いがテーマではないものの、スパイスとなっていて、「華の面」は神山藩の藩主となった人物の決心を、「白い檻」は三年前の<桜ヶ淵の変>で負けた側にいたため僻村に押し込められた侍の戦の物語です。
『雫峠』の殆どの作品は大きな展開があるわけではないのですが、そうきたか、という細かな仕掛けが生きていて、やはり物語の進め方もうまい作家さんだとあらためて感じ入ったものでした。
やはりこの作家は私の好みに合致します。早速にこの作者の紡ぐ新たな物語を読みたいと心から思います。