雫峠

雫峠』とは

 

本書『雫峠』は『神山藩シリーズ』の第四弾で、2025年1月に講談社から224頁のハードカバーで刊行された、短編時代小説集です。

いつものとおりに情感豊かに語られるこの人の作品は、ゆっくりと心の奥に沁みわたってきます。

 

雫峠』の簡単なあらすじ

 

神山藩が舞台の『高瀬庄左衛門御留書』『黛家の兄弟』『霜月記』に連なる最新作。

国を棄てるかもしれぬ。
だが俺が知らぬ顔したら、義妹は死ぬ。

武士の理にあらがった二人の逃避行を描く表題作を含む、
四季薫る神山の原風景と、そこに生きる人々の気品が漂う作品集。

山本周五郎賞作家が織りなす、色とりどりの神山のすがた。
「半夏生」
国の堤を支える父と弟。彼らの背中は清く大きかった。
「江戸紫」
藩主の病が招く騒擾を防ぐ妙案はいかに。
「華の面」
能を通じて思い知る、同い年の藩主の覚悟。
「白い檻」
神山の厳冬。流刑先での斬り合いに漂う哀愁。
「柳しぐれ」
町を駆ける盗人の、一世一代の大仕事。
「雫峠」
神山を出ると決めた、二人の間に芽生えた思い。

~「神山藩シリーズ」とは~
架空の藩「神山藩」を舞台とした砂原浩太朗の時代小説シリーズ。それぞれ主人公も年代も違うので続き物ではないが、統一された世界観で物語が紡がれる。(内容紹介(出版社より))

目次
半夏生 | 江戸紫 | 華の面 | 白い檻 | 柳しぐれ | 雫峠

 

雫峠』の感想

 

本書『雫峠』は『神山藩シリーズ』の第四弾の全六編の短編からなる時代小説集です。

派手な展開というよりも、落ち着いた情感豊かな筆致で進められ語られるこの人の作品は、ゆっくりと心の奥に沁みわたってきます。

 

本書を読み始めると、その一行目から遠くまで広がる田圃のなかにある小高い丘が見えてきて、その丘にある階段を一人の女性がゆっくりとのぼっていく姿が見えてきます。

その姿がとても心地よく、そしてその絵に続いて階段の上にある林の中にたたずむお寺の手水所で冷たい水に人心地をついている様子が如実に浮かんできました。

本書の第一話「半夏生」はこのような情景から始まります。

この砂原浩太朗という作家の文章は何故ただ読んでいるだけでこんなにも心を安らかにしてくれるのでしょうか。ただ普通に読み進めているだけなのに、心根が穏やかに、静かになるのです。

 

そうした作品としては、何度も書いてきたことですが藤沢周平の作品があります。

例えば代表作の一つである『蝉しぐれ』でも自然描写が巧みであり、物語の季節感や情景を表しながら場面ごとの舞台背景になったり、登場人物の心象を表現したりしています。

同じことが本書の著者砂原浩太朗の作品にも言え、自然の丁寧な描写はその描写だけで読者の心持を落ち着かせてくれるのです。

 

また、野口卓も似たような印象を持った作家として挙げることができます。

ただ、この人の場合、作品が限られ、『軍鶏侍シリーズ』に限っての話です。

このシリーズは、徳島藩を思わせるやはり架空の藩である園瀬藩を舞台にした物語であり、主人公の岩倉源太夫という剣術家の開いた道場が物語の舞台になった作品です。

 

近年の時代小説作家としては青山文平という作家も好きで、例えば『白樫の樹の下で』のような初期の作品では硬質でありながらも高い品格を保った文章を書かれていて、その情景描写もゆったりとしたものを感じていたように思います。

しかし、最新の『下垣内教授の江戸』でもそうですが文章が理詰めになってきており、その論理的な進行をもって物語の展開まで図られているのです。


 

話を本書に戻すと、登場人物たちはそうした情景描写を背景として与えられた自分の環境の中で必死に生き、そして理不尽な決まりごとの中で呻吟し、自らの仕事を成し遂げ、また自分の思いを遂げようと足掻いています。

そのさまが、情景描写に費やされると同様の筆の力で読者の前にもたらされます。

 

本書『雫峠』の六編は「柳しぐれ」を除いた五編が侍を主人公にした物語です。

江戸時代は士農工商という身分制度をもってその封建社会を維持していました。

侍同士の社会の中でもまた身分制度は厳格であって、本書のそれぞれの物語はいずれも登場人物が置かれた身分ゆえにもたらされる理不尽な仕打ちに抗う物語です。

残る一編である「柳しぐれ」は一人の盗人が抱いた女性への想いの末にもたらされる結末が心を打ちます。

ほかの五編の中の二篇「半夏生」「雫峠」は、主役の侍が女性に思いを寄せる作品です。

 

残りの三篇のうちの「江戸紫」は女性への想いがテーマではないものの、スパイスとなっていて、「華の面」は神山藩の藩主となった人物の決心を、「白い檻」は三年前の<桜ヶ淵の変>で負けた側にいたため僻村に押し込められた侍の戦の物語です。

雫峠』の殆どの作品は大きな展開があるわけではないのですが、そうきたか、という細かな仕掛けが生きていて、やはり物語の進め方もうまい作家さんだとあらためて感じ入ったものでした。

やはりこの作家は私の好みに合致します。早速にこの作者の紡ぐ新たな物語を読みたいと心から思います。

冬と瓦礫

冬と瓦礫』とは

 

本書『冬と瓦礫』は、2024年12月に集英社から176頁のハードカバーで刊行された長編の現代小説です。

阪神神戸大震災をテーマに著者が初めて書いた現代小説で、量的にはそう時間をかかりませんが、内容がそのようには読ましてくれませんでした。

 

冬と瓦礫』の簡単なあらすじ

 

1995年1月17日未明、阪神・淡路大震災が発生した。
神戸市内の高校から都内の大学に進学し、東京で働いていた青年は、早朝の電話に愕然とする。
かけてきたのは高校時代の友人で、故郷が巨大地震に見舞われたという。
慌ててテレビをつけると、画面には信じられない光景が映し出されていた。
被災地となった地元には、高齢の祖父母を含む家族や友人が住んでいる。
彼は、故郷・神戸に向かうことを決意した。
鉄道は途中までしか通じておらず、最後は水や食料を背負って十数キロを歩くことになる。
山本周五郎賞を受賞した作家が自らの体験をもとに、震災から30年を経て発表する初の現代小説。(内容紹介(出版社より))

 

冬と瓦礫』の感想

 

本書『冬と瓦礫』は、時代小説作家としてその名が確立されている著者砂原浩太朗の初めての現代小説だそうです。

阪神神戸大震災に関しての著者の実体験が軸になっていて、私小説的な一面もありつつ、なお記録文学的な側面も持つ作品と言えるでしょうか。

この著者の文章読みやすく、また量的にも短めですが、内容が内容だけに軽く読めるものではありません。

しかし、それでもこの作者の新たな側面を見た気がしました。

 

砂原浩太朗という著者名だけで本書を借りてきてすぐに読み始めたのはいいのですが、私の思惑とは異なり、この作者では初めての現代小説でした。

それも阪神神戸大震災をテーマにした作品であり、当初は頭がついていけませんでした。

この著者の文章読みやすく、また量的にも短めですが、内容が内容だけに軽く読めるものではありません。

しかし、それでもこの作者の新たな側面を見た気がしました。

 

作者の「あとがき」によれば、本書は「一九九五年の阪神・淡路大震災をテーマにした作品」であって、本書の「原型となるものを執筆したのは作家デビュー以前、震災後十五年を目前にした二〇〇八年から九年にかけて」のことだと書いてありました。

そして、「こうした作品を書いたのは」自分自身が「神戸市の出身だから」だとも書いてあったのです。

また、「大筋は私じしんの体験にもとづいている」とのことで、細かなエピソードは創作であるにしても、基本的な枠組みは作者自身の体験に基づいていることになります。

その上で、作中の主人公川村圭介同様に作者自身は被災しておらず、「親族で死者はなく、家もどうにか残った」そうです。

そのために作家として震災を語ることにためらいがあるが、しかしやはり故郷が被災した身として何らかの痛みはあり、それは小説と言う形でしか表せない、と書いておられました。

 

私自身、2016年4月14日と2016年4月16日に熊本市に近い西原村や益城町で震度7という大地震に遭遇しています。

ただ、私の住む熊本市中央区はそれぞれに震度5強と6強であり、益城町での建物倒壊の写真とは比べものにならないくらい軽いものでした。

それでも、我が家を含めた隣近所では屋根瓦は落ち、壁にはひびが入り、しばらくの間はあちこちの家の屋根がブルーシートに覆われていたものです。それでもそのままに住み続けることはできたのです。

そういう点では本書『冬と瓦礫』の主人公に似たところがあると言えるかもしれません。

家屋倒壊のような大きな被害はなかったものの、数日間の停電、一週間ほどの断水生活やガスも止まった状態が続きました。

ですが、西原村や益城町の被害に比べれば軽くて済んだことを喜びつつも、亡くなられた方まで出たよりひどい被災者の方たちを思うと、何となく素直には喜べない気持ちになったものです。

 

この文章を記している今日が令和7年1月17日です。そして平成7年1月17日に阪神淡路大震災が起きています。

朝のニュースを見て30年前の今日の早朝、阪神淡路大震災が発生したことを知りました。

数日前に本書を読了していたのですが、なかなかに文章にまとめることができずにいたため、慌てて書いています。

阪神淡路大震災や東日本大震災と比べると熊本地震はまだましな方だという人もいます。しかし、被災者にとっては自分が遭遇した災害が一番です。

熊本地震も殆ど9年前の出来事になりましたが、それでも軽いながらも被災した記憶は明確に残っています。

身内や知人を亡くされた方々にとってはなおさらのことであることは想像に難くありません。

 

本書『冬と瓦礫』の作者砂原浩太朗の思いをかみしめながらも、去年1月1日に発生した能登半島地震や南海トラフ地震の可能性など、わが日本の地震の多さに辟易しています。

南海トラフ地震の可能性も取りざたされるこの頃です。あらためて水や食料、簡易トイレなどの備えをもう少し充実させねばと思っています。

浅草寺子屋よろず暦

浅草寺子屋よろず暦』とは

 

本書『浅草寺子屋よろず暦』は、2024年9月に232頁のハードカバーで角川春樹事務所より刊行された連作短編の時代小説集です。

これまでの浪人者を主人公とした時代小説とはニュアンスが少し異なる、何ともつかみどころのない、しかし面白く読んだ作品でした。

 

浅草寺子屋よろず暦』の簡単なあらすじ

 

大滝信吾は、さる身の上を秘して、浅草寺の一角で寺子屋を開いている。源吉や三太、おさよなど多くは町人の子だ。そんな穏やかな春の日、子どもたちと縁側で握り飯をほおばっていたとき、源吉の姉が助けを求めて駆け込んできたー大切な人々を守るため、信吾は江戸の闇と真っ向から闘うことに。浅草の四季を舞台に、家族や友人、下町の人情に支えられながら、果たして信吾は天命を見つけられるのか。(「BOOK」データベースより)

 

浅草寺子屋よろず暦』の感想

 

本書『浅草寺子屋よろず暦』は、剣の腕が立つ浪人者を主人公とするこれまでの痛快時代小説とは異なった雰囲気を持つ、何ともつかみどころのない、しかし面白く読んだ作品でした。

 

これまでの時代小説、それも浪人者が活躍する痛快時代小説と言えば時代小説の大家である池波正太郎の『剣客商売 』でも、現代のベストセラー作家である佐伯泰英の『居眠り磐音シリーズ』でも、基本的には主人公がその剣の腕を存分に生かして独力で問題を解決していくものでした。




しかしながら本書『浅草寺子屋よろず暦』の主人公の場合、彼自身の力ではなく、彼の知り合いの力を借りて困りごとを解決していきます。

本書の主人公もそれなりに剣の腕は立つのですが、剣戟の場面はそれほどにはありません。それよりも、いろいろと情報を集めて問題解決のために有効な人材を利用するのです。

 

その主人公は大滝信吾という寺子屋を営む浪人者です。本書ではその浪人者が自分の寺子屋に通う子供たちの親などの困りごとを解決すべく、奔走する姿が描かれています。

この主人公のもとには御膳奉行をしている兄の大滝左衛門尉から米が届けられ、また兄がつけてくれたという名の下女もいるなど、ここでもこれまでの時代小説の主人公の浪人者とは毛色が異なります。

その兄の左衛門尉には杉乃という妻がおり、ひとり娘の真由は信吾になついています。

そして、基本的には本書で主人公が奔走する事件の裏にいるのが、江戸の町の裏社会の一角を牛耳る狸穴の閑右衛門という男です。

 

ところで、主人公が寺子屋を開いているのは、浅草寺の雷門からの参道の両側にある子院の一つである正顕院というお寺です。

この寺子屋の設定に関しては、本書の最終ページに「協力 金龍山 浅草寺」とクレジットしてあるのですが、その訳がネットに書いてありました。

なんと、浅草寺の偉いさんから改修前の浅草寺の写真や、「浅草寺さんのなかに寺子屋がある設定」のお許しをいただいた、ということでした( Book Bang : 参照 )。

そしてこの正顕院の住職の光勝もまた左衛門尉の知人であり、信吾は兄の世話で正顕院に寺子屋を構えることになります。

こうした従来の痛快時代小説の設定とは異なる、それでいて江戸の町の庶民の生活を描きながら主人公の活躍を描く新たなタッチの連作時代小説集として本書があるのです。

 

本書『浅草寺子屋よろず暦』の作者砂原浩太朗の文章は、舞台背景などの情景描写が実にうまいのです。この情景描写のうまさはやはり時代小説の大家である藤沢周平を思い出すとこれまでも書いてきました。

それほどに情景描写にすぐれているのですが、この点に関しては、作者砂原浩太朗本人の言葉がありました。

それは、「今作はストーリーの進展につれて季節がめぐっていくので、風景描写でそれを実感してもらおうと思いましたが、他の作品でも意識的に自然描写を取り入れています。」というものです( Book Bang : 参照 )。

 

これまで浪人を主人公とする痛快時代小説は数多くの作品が書かれてきました。

しかし、主人公が寺子屋を営む作品は思い出すことができず、ただ主要登場人物の一人である浪人者が寺子屋を営む作品として金子成人の『ごんげん長屋つれづれ帖シリーズ』の沢木栄五郎を思い出すくらいです。

しかしながら、浪人を主人公とする時代小説としては『てらこや浪人源八先生』という作品があるそうです。私は未読なので一度読んでみようと思います。

 

蛇足かもしれませんがひとこと付け加えると、本書のクライマックスでの長屋の一行も含めて物語の関係者が一堂に会する場面は少々無理があると感じました。

さらに言えば、思いがけない人物が持ってきた意外な事実はちょっと受け入れがたい展開ではありました。

しかし、そうした難点を越えて、やはり作者砂原浩太朗が紡ぐ物語は面白いし、本書『浅草寺子屋よろず暦』もまたその例にもれずとても楽しく読み終えることができました。

夜露がたり

夜露がたり』とは

 

本書『夜露がたり』は、2024年2月に256頁のハードカバーで新潮社から刊行された短編時代小説集です。

“著者初の「江戸市井もの」 過酷にして哀切、いっそ潔く、清々しい”という惹句のとおりの物語集でした。

 

夜露がたり』の簡単なあらすじ

 

夜は溟くて重く、救いはわずかしかなかった。市井ものの正統にして新潮流。「どいつもこいつも、こけにしやがって」「難儀だね、身内って奴から逃れられないものさ」、追い詰められ女と男は危うい橋を渡ろうとする。「あの場所の生まれでなければ」と呪い、「死んどくれよ」と言葉の礫をぶつけながら、その願いが叶いそうになると惑う。ここに江戸八景の本物がある。「傑作」と呼ぶしかない短篇集。(内容紹介(出版社より))

目次(「BOOK」データベースより)

帰ってきた | 向こうがわ | 死んでくれ | さざなみ | 錆び刀 | 幼なじみ | 半分 | 妾の子

 

夜露がたり』の感想

 

本書『夜露がたり』は、著者砂原浩太朗が初めて出した市井ものということです。八編の短編が収められています。

江戸の町人の暮らしを描き出した短編と言えば、すぐに山本周五郎を思い出す人が多いでしょう。

山本周五郎に最初に接した本は新潮文庫の『深川安楽亭』でしたが、この作品は市井ものではなくいわゆる一場面物に分類される作品集ですが、そこに流れる哀愁は同様のものがあると感じています。


 

本書の読後感は藤沢周平を最初に読んだ時の感想と似たものがありました。

それは、それまで読んでいた時代小説とは異なって、ストーリー展開に山場もなく平板なもののまま終わってしまった作品だったというものです。

登場人物たちの先行きの希望などを示すこともなく、単に江戸の町民の生活の一場面を切り取り提示してあるだけのものだったのです。

ただ、それからしばらく間をおいて別な藤沢周平作品を手に取ると全くの別作品を読んだようで、今度は図書館で全作品を読み終えるほどになりました。

藤沢作品の情景描写の素晴らしさ、心象風景の描き方のうまさに惹かれ、描かれている登場人物たちの人生に引き込まれてしまったのす。

 

その再読したときの藤沢作品と似た印象を本書『夜露がたり』にも感じたのです。

そこに示されているものは思い通りにならない人生の悲哀であり、慟哭です。中にはかすかな光明を示している作品もあります。

文章のタッチは藤沢作品とは異なりますが、市井に暮らす人々の明るい側面ではなく、思い通りに行かない人生の断面を切り取った悲哀に満ちた作品集です。

 

作者の砂原浩太朗は、これまで封建制度に縛られた武家社会に生きる侍の姿を、厳しい中にも優しい目線で描いてこられました

しかし、本作では市井に生きる一般庶民の姿を描き出すというまた違った作風を読ませてくれたのです。

もちろん山本周五郎藤沢周平とはその作風をかなり異にしますが、それでもなお武家社会を描き出した作品は勿論のこと、市井に生きる人々の哀しみをも描き得ることを示したと感じました。

 

これからもまた新たな砂原浩太朗作品を期待できると思います。楽しみです。

霜月記

霜月記』とは

 

本書『霜月記』は、2023年7月に講談社から284頁のハードカバーで刊行された長編の時代小説です。

「神山藩シリーズ」の三作目であって、親子三代にわたって町奉行職を継ぐ親子の物語ですが、砂原浩太朗のこれまでの作品の中ではストーリーの面白さには欠ける部分があるかと思います。

 

霜月記』の簡単なあらすじ

 

18歳の草壁総次郎は、何の前触れもなく致仕して失踪した父・藤右衛門に代わり、町奉行となる。名判官と謳われた祖父・左太夫は、毎日暇を持て余す隠居後の屈託を抱えつつ、若さにあふれた総次郎を眩しく思って過ごしている。ある日、遊里・柳町で殺人が起こる。総次郎は遺体のそばに、父のものと似た根付が落ちているのを見つけ、また、遺体の傷跡の太刀筋が草壁家が代々通う道場の流派のものではないかと疑いを持つ。さまざまな曲折を経て、総次郎と左太夫はともにこの殺人を追うことになるが、果たして事件の真相と藤右衛門失踪の理由とは。(「BOOK」データベースより)

 

霜月記』の感想

 

本書『霜月記』は、『高瀬庄左衛門御留書』『黛家の兄弟』に続く、砂原浩太朗の「神山藩シリーズ」の第三弾目となる作品です。

あいかわらずにこの人の文章はとても読みやすく、心に迫るものがあります。

場面ごとの背景描写が非常に落ち着いた筆の運びと結びついて物語の印象を優しいものとし、人物の心象を表現するための情景描写ともあいまって落ち着いた読書ができるのです。

そうした静謐な文章は、藤沢周平や近年で言えばを葉室麟などの文章を思い出させるものでもあるのですが、何よりも自分を律し生きていくことを常とする侍の生き方そのものに結びついているような気がします。

そのような文章が、時おり挟まれる箴言めいた言葉と相まって心に残るものとなっているのでしょう。

 

本書『霜月記』は神山藩にあって代々家職の家老職を継いできた草壁家の物語であり、なかでも十年ほど前まで長きに渡って町奉行をつとめた佐太夫とその孫の総次郎を中心とした物語になっています。

具体的には、項が変わるごとに佐太夫と総次郎との二人の視点が変化していくなかで、総次郎の父草壁藤右衛門が、周りが知らないうちに隠居届を出し失踪した事実が明らかになっていきます。

何もわからないなかで町奉行職を継いだ総次郎は、名奉行と謳われた祖父佐太夫もあまり相談相手にならないままに慣れない奉行職を継いでいくのです。

そんななか起きた一件の殺人事件が失踪した父藤右衛門への疑惑を呼び、さらに父の失踪の理由などの謎が提示されます。

こうして、総次郎と佐太夫という現職と元職の町奉行が互いに力を合わせて父の、そして息子の失踪の謎と、神山藩の派閥の争いに巻き込まれていくのです。

 

ただ、本書は親子三代にわたって町奉行職を継ぐ親子の物語であり、「神山藩シリーズ」の三作目となる作品ですが、砂原浩太朗のこれまでの作品の中では書き込みが少し足りなく感じられ、またストーリーがこじんまりとした印象です。

例えば、主人公の総次郎は若干十八歳にして町奉行職を継ぐことになりますが、その町奉行という職務に就いた総次郎の戸惑いが今一つ伝わってきません。

いや、唐突に裁きの場で判断を下さなければならない総次郎の様子を描写してはあります。しかしながら、その苦労が今一つ分かりにくく感じたのです。

 

同じことは、総次郎の幼馴染の日野武四郎についても言え、よく分からない性格のまま、総次郎を随所で助け、総次郎の力になります。

この物語の中で結構重要な位置を占めているにもかかわらず、結局はあまりその人となりが分からないままに終わった感じです。

 

これらの登場人物の曖昧なあり方のまま、物語は冒頭に起きた殺人事件の影に隠された真実を探るための総次郎や佐太夫の姿が描かれていきます。

ただ、どうしてもこれまでの他の二作に比べ、その謎が小ぶりです。

作者砂原浩太朗の紡ぎ出す物語として、大きなテーマであるあるべき親子の姿を描く作者の文章の美しさ、巧みさ、情景描写のうまさなど、長所はいくらでもあげることはできます。

しかしながら、どうしても作品全体の印象が小ぶりに感じてしまったのですが、本書に対する多くの感想は賛辞であり、私のような印象はあまりないようです。

私も本書を読むことを勧めることはあっても否定するものではありません。十分な面白さを持っている作品であることに反対するものではないのです。

それどころか、是非読んでみることをお勧めします。

藩邸差配役日日控

藩邸差配役日日控 』とは

 

本書『藩邸差配役日日控』は、2023年4月に文藝春秋から250頁のハードカバーで刊行された連作の時代小説集です。

いかにも砂原浩太朗の作品らしく、情感豊かに描き出される差配役としての一人の武士の日々の奔走ぶりが深く心に染み入る作品でした。

藩邸差配役日日控 』の簡単なあらすじ

 

里村五郎兵衛は、神宮寺藩江戸藩邸差配役を務めている。陰で“なんでも屋”と揶揄される差配役には、藩邸内の揉め事が大小問わず持ち込まれ、里村は対応に追われる毎日。そんななか、桜見物に行った若君が行方知れずになった、という報せが。すぐさま探索に向かおうとする里村だったが、江戸家老に「むりに見つけずともよい」と謎めいた言葉を投げかけられ…。最注目の時代小説家が描く、静謐にして痛快な物語。(「BOOK」データベースより)

 

目次
拐し | 黒い札 | 滝夜叉 | 猫不知 | 秋江賦

 

藩邸差配役日日控 』の感想

 

本書『藩邸差配役日日控 』は、神宮寺藩江戸藩邸の差配役である里村五郎兵衛という男を主人公とした情感豊かな時代小説です。

ここで「差配役」とは歴史上も存在した役職だと思っていたのですが、「江戸時代における総務部総務課として想定した架空の役目」だそうです( 本の話 : 参照 )。

差配役」を具体的に言えば、「陰で何でも屋と言われている、藩邸の管理を中心に殿の身辺から襖障子の貼り替え、厨のことまで目をくばる要のお役」だという説明がありました。

 

本書『藩邸差配役日日控 』が見事に面白い作品として仕上がっているのは、こうした架空の役目を設け、そこに主人公を据えたのが最大の要因だと思われます。

本書を読みながら思い出していたのが、藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』です。

この作品の主人公三屋清左衛門は、現役時代は用人として先代藩主に仕えていた人物で、現在は隠居をし国元で暮らしています。その人物が、持ち込まれる様々な出来事や事件の相談に乗る様子が語られます。

 

この両作品はまったく立場が異なる人物を主人公としていますが、本書の主人公五郎兵衛は何でも屋として、三屋清左衛門は隠居の身として、共に何らかのトラブルが持ち込まれる身であることが共通しているところから連想したものでしょう。

また、本書の著者の砂原浩太朗は、時代小説の大御所である藤沢周平と文章のタッチが似ています。

個人的には時代小説の中でも一番好きな作者の一人が藤沢周平なのですが、この人の文章は情景描写が抜きんで素晴らしく、登場人物の心象をも表現しているところに惹かれます。

一方、未だ新人に近い砂原浩太朗もその文章の運びがゆったりとしていて、場面の背景描写がこれまた丁寧で見事なのです。

特に、第四話「猫不知」での親子の場面など、映画の名場面のように視覚的であり美しく心に残るものでした。

 

付け加えれば、各話の運び方にしても軽く日常的な謎を設け、その謎を解明するために主人公らが動くというミステリータッチの運びが心地よいのです。

そしてその心地よい文章に乗せて運ばれるストーリーがよく練られています。

この点は書評家の杉江松恋氏が「優れた時代小説に必要な三つの要素」としてうまくまとめておられます。

第一は、登場人物たちの動きが、その時代ならではの価値観、倫理観に基づいていることであり、第二に死が身近であるがゆえの生の儚さが描かれること、第三は現代の世相を照射するような部分が物語にあること、だそうです。

そして、四番目として、五感のどこかに沁みるような、味わい深い文章があることを挙げておられます。

実にうまくまとめておられますが、その通りだと思うのです。そして、私が特に大事だと思うのが、第四番目の味わい深い文章だと思うのですが、砂原浩太朗という作者はまさにピタリとあてはまるのです。

 

「続編があるなら、宇江佐真理さんの『髪結い伊三次捕物余話シリーズ』のようなファミリー・ヒストリーとして描いていきたいですね」( 本の話 : 参照 )という著者ですが、可能であるならばその言葉を現実のものにして欲しいと思います

その続巻を心待ちにしたいと思います。

黛家の兄弟

黛家の兄弟』とは

 

本書『黛家の兄弟』は『神山藩シリーズ』の第二弾作品で、2023年1月に講談社からハードカバーで刊行され、2023年12月に講談社文庫から464頁の文庫として出版された、長編の時代小説です。

作者の砂原浩太朗は近年の時代小説作家のなかで、青山文平以来私の好みに合致した時代小説作家の一人であり、藤沢周平の作品にも似た感動的な一編でした。

黛家の兄弟』の簡単なあらすじ

 

神山藩の筆頭家老を代々つとめる黛家。三男の新三郎は道場仲間の由利圭蔵と剣術の腕を磨いていた。転機が訪れ、大目付を務める黒沢家に婿入りした新三郎は裁きを学ぶ。黛家の将来を翻弄する抜き差しならぬ事態が発生。藩内の権力争いに巻き込まれていく三兄弟が選んだそれぞれの道は。山本周五郎賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

黛家の兄弟』の感想

 

本書『黛家の兄弟』は、『高瀬庄左衛門御留書』に続く『神山藩シリーズ』の第二弾の作品です。

こうした架空の藩を前提とした作品と言えばまずは藤沢周平海坂藩を思い出します。他にもいくつかの作品を思い出しますが、何と言っても「海坂藩」に尽きるのではないでしょうか。


 

だからというわけでもないのですが、本書の作者砂原浩太朗の印象を大家と言われる時代小説作家の中で見ると、山本周五郎というよりは藤沢周平の雰囲気を醸し出していると思います。

同様の作家と言えば、近年では青山文平であり、葉室麟をあげることができるのではないでしょうか。

特に青山文平はその特徴の一つとしてミステリータッチな描写が特徴的なのですが、砂原浩太朗も伏線の貼り方が見事で、その点でも共通していると思います。

 

砂原浩太朗の前著『高瀬庄左衛門御留書』でもそうでしたが、けっして大時代的な台詞回しではなく、どちらかと言えば抑えた語り口で静かに語る中で登場人物の人となりや性格までも語り聞かせています。

そうするうちにストーリーまでもさらりと語られており、読者は物語世界にいつの間にか引きずり込まれているのです。

そうした丁寧さがこの作者の一番の魅力であり、そのことは本書でも十分に魅せられています。

 

黛家の兄弟』の物語は、藩内の争いに巻き込まれていく黛三兄弟の様子が描かれているのですが、読み進む中で細かな意外性、遊びが随所に仕掛けられていて、この点でも惹き込まれてしまいます。

前半の青春小説としての側面もさることながら、後半の重厚感を伴った展開もまた違った顔を見せてくれる楽しみがあり、そうした異なった顔もまた本書の魅力の一つです。

登場人物は、まずは物語の中心となる筆頭家老の家柄である黛家の三兄弟として、長兄の栄之丞、次兄の壮十郎、三男の新三郎がいて、黛三兄弟の父親の黛清左衛門がいます。

また、新三郎の幼馴染である由利圭蔵や、さらに父清左衛門の友でもある藩祖につながる家柄の大目付黒沢織部正やその娘のりくが重要です。

そして、敵役として次席家老の漆原内記の存在感が素晴らしく、その息子として伊之助が登場し、内記の腰巾着的立場の尾木将監海老塚播磨らがいます。

他に、目付役筆頭の久保田や新三郎付きの女中のやえなどが重要な役割を果たしています。

 

本書『黛家の兄弟』は大きく二部に別れており、第一部は本書の主人公である三男の黛新三郎が次兄の壮十郎を差し置いて養子の口がかかり、目付として成長していく様子が描かれます。

第二部は第一部の十三年後が描かれていて、あの新三郎がどのように成長しているか、今後どのように生きていくかに焦点が当てられています。

 

第一部は、放蕩していた次兄の壮十郎がとある事件を起こし、新三郎がその事件の処理に奔走する姿があります。

いまだ、新人目付役としての新三郎が、慣れぬ仕事に振り回されつつも兄弟のつながりを保とうと足掻く姿は感動的です。

しかしながら、その事件は「未熟は悪」だということを思い知らされる結果となり、慟哭する新三郎の姿で終わります。

ここで、漆原内記からは「同じことなら、強い虫になられるがよい」と声をかけられますがその意味が今一つ億分りませんでした。

その直前に「黒沢はよい買い物をした」とも言われていることからすれば、新三郎のことをそれなりに評価してのことだとは思われるのですが。

 

第二部は家老職で善政を敷く長兄の栄之丞と、目付として藩内でも重きを置かれるようになってきている新三郎の姿があります。

さらには、身分のちがいを越えた道場仲間であった新三郎と由利圭蔵の関係も社会の仕組みの中で変質を遂げていくのです。

未熟な若者としての新三郎と、目付として経験を積んだ新三郎との差異も見どころの一つでしょう。

加えて、新三郎とやえやりくという女たちとの関係のあり方も読ませ所です。

でも、女性二人の描き方が個人的には薄いのではないか、という気がしてなりません。やえの消息は都合がよすぎるし、りくとの夫婦のありようの描き方ももう少し深めてもいいのではないかという印象です。

 

本書『黛家の兄弟』の場合、何といっても三兄弟の関係のあり方こそが本書の眼目であり、主題です。

特に新三郎の成長ぶりは目を見張るものがあり、兄たちとのつながりもまた見どころです。

個人的な好みに合致した、感動的な一冊でした。

いのちがけ 加賀百万石の礎

いのちがけ 加賀百万石の礎』とは

 

本書『いのちがけ 加賀百万石の礎』は、講談社から2018年2月に刊行されて2021年5月に講談社文庫から464頁で文庫化された、長編の歴史小説です。

加賀の殿様となる前田利家に仕える村井長頼の目を通してみた戦国の世、そして前田家の盛衰を記した、実に読みやすく面白い作品でした。

 

いのちがけ 加賀百万石の礎』の簡単なあらすじ

加賀藩の祖・前田利家が流浪した若きころから大名になった後まで付き従った、股肱の臣・村井長頼。桶狭間、長篠、賎ヶ岳…名だたる戦場を駆け抜け、利家の危難を幾度も救う。主君の肩越しに見た、信長、秀吉、家康ら天下人の姿。命懸けで忠義を貫き通し、百万石の礎を築いた男を、端正な文体で魅せる傑作。(「BOOK」データベースより)

いのちがけ 加賀百万石の礎』の感想

 

本書『いのちがけ 加賀百万石の礎』の主人公は、その生涯を利家に捧げた前田家の重鎮である村井長頼という人物です。

この人物についてウィキペディアには、はじめは織田氏家臣の前田利久に仕えていましたが、利久の弟の前田利家が織田家から追放されていた時に長頼も従い、織田信長の命により弟の利家が前田家を継ぐと、それに従って利家の家臣となった、とありました。

ほかに、下記サイトでに簡単に紹介してあります。

 

ここで本書の構成をみると大きく三つに分けられています。

まず「壱之帖」では利家の織田家追放の間の出来事があり、美濃攻めでの利家の信長からの帰参の許しが出るまでが描かれています。

次いで「弐之帖」では利家が前田を継ぎ、長篠の戦をへて賤ヶ岳の闘いまで。

そして「参之帖」では時代は一気に飛んで秀吉の朝鮮出兵時の名護屋城での出来事から、秀吉晩年の醍醐の花見を経て家康が権力を握り、利家の妻まつが人質となり江戸へと下るまでが描かれています。

歴史上の出来事をある特定の時期を濃密に描いて他の期間は飛ばしてしまうという手法がとられているのです。

 

でも、そうした手法より、何よりも本書がデビュー作であるにも関わらず、登場人物の個性や人物相互の関係性が明確に描かれているという、作者の筆の確かさに驚かされます。

そのことは本書冒頭の「壱之帖 いのちがけ」で、まだまだ年若く律儀で一本気な長頼と、若武者でありながら既に武人としての風格を備えている前田利家、そしてこの二人の関係性が語られる中ですぐに思い知らされます。

この力の入らない読みやすい文章、そして登場人物の個性の明確化、という点が砂原浩太朗という作家の一番の魅力ではないかと思います。

 

近時の作家さんでいうと、葉室麟の硬質で斬りつけられるような文章、青山文平の清冽で無駄のない文章というよりは、語りかけるようなタッチであり、野口卓の文章に近いと言えると思います。

それぞれの作家ごとに違った魅力があるのですが、本書での砂原浩太朗という作家の文章は、とくに戦国期の各武者の個性をうまく書き分け、新たな武者像をつくりあげているようです。

この人の文章は説明的でなく、文章のうまい作家は皆そうではあるのですが、その行動なり背景描写なりを描くことで間接的にその時の人物の心象を明らかにしています。

例えば、前田利家の妻のまつの懐妊の折のまつの言葉を言う利家の言動など、決して難しい言葉や表現ではなく、わかりやすい普通の言葉で表現してあるところが小気味よく、心地よいのです。

 

また、たまには「好かぬ奴」の項にあるよう、に奥村助右衛門に対する長頼の思いなどのコミカルなタッチも取り入れてあり、そのさまはとても好感が持てるのです。

結局、この人の文章は激しく燃え上がることはなく、全編をたんたんと歩み続けそのうちに目的地に着いている、そんな優しい、しかしはっきりとした意思を持った文章だと言えます。

そして、そういう文章だからこそ私はこの人の文章が好きなのだと思うにいたりました。

 

この作家の作品としては現時点(2021年11月8日)では、本書の他に作品は第165回直木賞と第134回山本周五郎賞という両賞の候補作となった『高瀬庄左衛門御留書』しかないようです。

この『高瀬庄左衛門御留書』という作品がまた静かで落ち着いた雰囲気を持つ物語であり、私の最も好む文章と世界観を持った作品であって、こうした心に沁みる作品をもっと読みたいと強く思ったものです。

その思いは本書を読んでより強くなり、次なる作品が出版されるのを心待ちにしているのです。

 

ちなみに、2024年11月末の現時点で砂原浩太朗の小説作品としては、未読の『冬と瓦礫』を加えて全八冊の作品が刊行されているようです。

高瀬庄左衛門御留書

高瀬庄左衛門御留書』とは

 

本書『高瀬庄左衛門御留書』は、新刊書で335頁の長編の時代小説で、第165回直木賞と第134回山本周五郎賞という両賞の候補作となった作品です。

本書『高瀬庄左衛門御留書』は、2021年1月に講談社からハードカバーで刊行され、2023年6月に講談社から464頁の文庫として出版された、長編の時代小説です。

近頃わたしが好みだと思った作家さんとして葉室麟、青山文平、野口卓といった人たちがいますが、本書の作者砂原浩太朗氏もまたその中に入りそうな作家さんです。

 

高瀬庄左衛門御留書』の簡単なあらすじ

 

神山藩で、郡方を務める高瀬庄左衛門。五十歳を前に妻に先立たれ、俊才の誉れ高く、郡方本役に就いた息子を事故で失ってしまう。残された嫁の志穂とともに、手慰みに絵を描きながら、寂寥と悔恨の中に生きていた。しかし藩の政争の嵐が、倹しく老いてゆく庄左衛門を襲う。文学各賞を受賞した珠玉の時代小説。第9回野村胡堂文学賞/第11回「本屋が選ぶ時代小説大賞」/第15回舟橋聖一文学賞/「本の雑誌」2021年上半期ベスト10第1位。(「BOOK」データベースより)

 

高瀬庄左衛門御留書』の感想

 

本書『高瀬庄左衛門御留書』は、既に息子にあとを継がせて好きな絵を描いて暮らす隠居の身の高瀬庄左衛門という男の物語です。

家督を譲って隠居しているという人物を描くという点では藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』のようであり、その佇まいはまた身分、立場は異なるものの、野口卓の『軍鶏侍シリーズ』の主人公、岩倉源太夫のようでもあります。


 

心に沁みる時代小説と言えば、とくに藤沢周平という作家が取り上げられることが多いようです。

それは、藤沢周平が紡ぎ出す文章やその作品世界が持つ清々しさが、古き良き日本へと連なる美しさを醸し出すなどの理由があると思われます。

そして、葉室麟青山文平など落ち着いた文章を持つ時代小説の新たな書き手が現れるたび、藤沢周平の名が取りざたされるのです。

本書の作者砂原浩太朗もまた同様であり、新人でありながら落ち着いたたたずまいの作風を持つこの作者は私の琴線に触れる作家さんでした。

 

作者の砂原浩太朗の文章は、読み始めはとくに何ということはない文章のように感じていました。

近いと思える青山文平と比べても、硬質で張り詰めた緊張感を持つ青山文平の文章と異なり、特に特徴が無いように思えたのです。

また、同時期に読んだために比べてしまった同じ第165回直木賞の候補作であった澤田瞳子の『星落ちて、なお』と比べても、実にあっさりと感じる文章でした。

星落ちて、なお』は、河鍋暁斎の娘の女絵師・暁翠の明治大正という時代を生き抜いた姿を描いた第165回直木賞を受賞した作品で、情景が詳細に描写してあり、さらには人物なり時代なりの詳しい説明が為されています。

 

ところが本書『高瀬庄左衛門御留書』の場合、事前の背景描写がなされるだけで、人物の詳細な心象描写はあまりなく、描かれる場合もわずかであり、客観的な心象風景に委ねてあるのです。

でありながら、すぐにこの文章の静かで落ち着いた雰囲気になじみ、心に沁みるようになってきました。

どちらがいいとか悪いとかの話ではありません。単に自分の好みとして本書の文章の方が好みであるということだけです。

ただ、一言付け加えれば『星落ちて、なお』の方はそう遠くない過去に実在した人物を描いているのであり、史実を説明する必要があったということはあるかもしれません。

というのも、この作者の澤田瞳子の過去の作品の文体はもう少し説明的でなく、気楽に描かれていたように思うのです。

 

ともあれ、本書『高瀬庄左衛門御留書』は読み始めから惹き込まれました。そして、一気に読み終えてしまいました。

ストーリー自体は単純ではありません。というよりも複雑といった方がいいのかもしれません。

息子の死。実家へと帰った息子の嫁志穂の数日おきの来訪。息子に引き継いだ郡方の役務への復帰。一人の若侍の危難を救った主人公とその若侍の交流。藩内の抗争とその抗争に巻き込まれる主人公。

登場する人物も少なくはなく、人間関係を把握し覚えておくのも簡単ではありません。もう少し話を単純にし、登場人物の相関関係も簡略化できていればなどと思うこともありました。

しかし、それでもなお本書にひかれました。

 

その理由の一つとして、主人公高瀬庄左衛門の言葉に魅力が挙げられると思います。

本書終盤近くで、生前の息子と学業を争った青年に向かって言った言葉で、「人などと申すものは、しょせん生きているだけで誰かのさまたげとなるもの・・・均して平なら、それで上等」という文言があります。

この言葉など、そのままに私たちの普通の生活の中で意識し、救いとなる言葉でもあるでしょう。

 

また、本書『高瀬庄左衛門御留書』の中で、庄左衛門とかつて庄左衛門が思いを寄せたことのある芳乃という女性との会話の場面がありました。

庄左衛門が絵を描くようになった原因が、「じつはあの居室にこそ淵源があったのかもしれない。」などという庄左衛門の心の内と、その背景の自然の描き方がとても好ましく思えます。

こうした処理の仕方は藤沢周平青山文平といった作家にも通じる心地の良さを感じるのです。

この庄左衛門と芳乃の会話の場面では藤沢周平の『蝉しぐれ』の映画での、主人公牧文四郎役の市川染五郎とふく役の木村佳乃との年を経てからの会話の場面を思い出しました。

こうした印象は、著者砂原浩太朗自らが「藤沢教信者」といい、「自分にとって藤沢先生は特別な存在。藤沢作品は、小説のひとつの理想型ではないかと思っています」といわれているほどであり、あながちはずれでもないと思っています( 小説丸 : 参照 )。

 

だからといって本書『高瀬庄左衛門御留書』が手放しで面白い作品だったということでもありません。先に述べた単純ではないストーリーなどの他に、何となくの物語の浅さを感じるのです。

その理由もよく分からない、素人の私の単純な感想であり無責任という他ないのでしょうが、もう少し厚みを感じる物語を期待したいのです。

 

とはいえ、繰り返しますが冒頭から惹き込まれて作品であることは嘘ではなく、物語の世界に身を委ねる感覚になった作品は久しぶりでもありました。

まだデビュー二作目だという作者には過大な要求かもしれませんが、今後の作品が期待される作家さんです。