霜月記

霜月記』とは

 

本書『霜月記』は、2023年7月に講談社から284頁のハードカバーで刊行された長編の時代小説です。

「神山藩シリーズ」の三作目であって、親子三代にわたって町奉行職を継ぐ親子の物語ですが、砂原浩太朗のこれまでの作品の中ではストーリーの面白さには欠ける部分があるかと思います。

 

霜月記』の簡単なあらすじ

 

18歳の草壁総次郎は、何の前触れもなく致仕して失踪した父・藤右衛門に代わり、町奉行となる。名判官と謳われた祖父・左太夫は、毎日暇を持て余す隠居後の屈託を抱えつつ、若さにあふれた総次郎を眩しく思って過ごしている。ある日、遊里・柳町で殺人が起こる。総次郎は遺体のそばに、父のものと似た根付が落ちているのを見つけ、また、遺体の傷跡の太刀筋が草壁家が代々通う道場の流派のものではないかと疑いを持つ。さまざまな曲折を経て、総次郎と左太夫はともにこの殺人を追うことになるが、果たして事件の真相と藤右衛門失踪の理由とは。(「BOOK」データベースより)

 

霜月記』の感想

 

本書『霜月記』は、『高瀬庄左衛門御留書』『黛家の兄弟』に続く、砂原浩太朗の「神山藩シリーズ」の第三弾目となる作品です。

あいかわらずにこの人の文章はとても読みやすく、心に迫るものがあります。

場面ごとの背景描写が非常に落ち着いた筆の運びと結びついて物語の印象を優しいものとし、人物の心象を表現するための情景描写ともあいまって落ち着いた読書ができるのです。

そうした静謐な文章は、藤沢周平や近年で言えばを葉室麟などの文章を思い出させるものでもあるのですが、何よりも自分を律し生きていくことを常とする侍の生き方そのものに結びついているような気がします。

そのような文章が、時おり挟まれる箴言めいた言葉と相まって心に残るものとなっているのでしょう。

 

本書『霜月記』は神山藩にあって代々家職の家老職を継いできた草壁家の物語であり、なかでも十年ほど前まで長きに渡って町奉行をつとめた佐太夫とその孫の総次郎を中心とした物語になっています。

具体的には、項が変わるごとに佐太夫と総次郎との二人の視点が変化していくなかで、総次郎の父草壁藤右衛門が、周りが知らないうちに隠居届を出し失踪した事実が明らかになっていきます。

何もわからないなかで町奉行職を継いだ総次郎は、名奉行と謳われた祖父佐太夫もあまり相談相手にならないままに慣れない奉行職を継いでいくのです。

そんななか起きた一件の殺人事件が失踪した父藤右衛門への疑惑を呼び、さらに父の失踪の理由などの謎が提示されます。

こうして、総次郎と佐太夫という現職と元職の町奉行が互いに力を合わせて父の、そして息子の失踪の謎と、神山藩の派閥の争いに巻き込まれていくのです。

 

ただ、本書は親子三代にわたって町奉行職を継ぐ親子の物語であり、「神山藩シリーズ」の三作目となる作品ですが、砂原浩太朗のこれまでの作品の中では書き込みが少し足りなく感じられ、またストーリーがこじんまりとした印象です。

例えば、主人公の総次郎は若干十八歳にして町奉行職を継ぐことになりますが、その町奉行という職務に就いた総次郎の戸惑いが今一つ伝わってきません。

いや、唐突に裁きの場で判断を下さなければならない総次郎の様子を描写してはあります。しかしながら、その苦労が今一つ分かりにくく感じたのです。

 

同じことは、総次郎の幼馴染の日野武四郎についても言え、よく分からない性格のまま、総次郎を随所で助け、総次郎の力になります。

この物語の中で結構重要な位置を占めているにもかかわらず、結局はあまりその人となりが分からないままに終わった感じです。

 

これらの登場人物の曖昧なあり方のまま、物語は冒頭に起きた殺人事件の影に隠された真実を探るための総次郎や佐太夫の姿が描かれていきます。

ただ、どうしてもこれまでの他の二作に比べ、その謎が小ぶりです。

作者砂原浩太朗の紡ぎ出す物語として、大きなテーマであるあるべき親子の姿を描く作者の文章の美しさ、巧みさ、情景描写のうまさなど、長所はいくらでもあげることはできます。

しかしながら、どうしても作品全体の印象が小ぶりに感じてしまったのですが、本書に対する多くの感想は賛辞であり、私のような印象はあまりないようです。

私も本書を読むことを勧めることはあっても否定するものではありません。十分な面白さを持っている作品であることに反対するものではないのです。

それどころか、是非読んでみることをお勧めします。

藩邸差配役日日控

藩邸差配役日日控 』とは

 

本書『藩邸差配役日日控』は、2023年4月に250頁のハードカバーで刊行された連作の時代小説集です。

いかにも砂原浩太朗の作品らしく、情感豊かに描き出される差配役としての一人の武士の日々の奔走ぶりが深く心に染み入る作品でした。

 

藩邸差配役日日控 』の簡単なあらすじ

 

里村五郎兵衛は、神宮寺藩江戸藩邸差配役を務めている。陰で“なんでも屋”と揶揄される差配役には、藩邸内の揉め事が大小問わず持ち込まれ、里村は対応に追われる毎日。そんななか、桜見物に行った若君が行方知れずになった、という報せが。すぐさま探索に向かおうとする里村だったが、江戸家老に「むりに見つけずともよい」と謎めいた言葉を投げかけられ…。最注目の時代小説家が描く、静謐にして痛快な物語。(「BOOK」データベースより)

 

目次

拐し | 黒い札 | 滝夜叉 | 猫不知 | 秋江賦

 

藩邸差配役日日控 』の感想

 

本書『藩邸差配役日日控 』は、神宮寺藩江戸藩邸の差配役である里村五郎兵衛という男を主人公とした情感豊かな時代小説です。

ここで「差配役」とは歴史上も存在した役職だと思っていたのですが、「江戸時代における総務部総務課として想定した架空の役目」だそうです( 本の話 : 参照 )。

差配役」を具体的に言えば、「陰で何でも屋と言われている、藩邸の管理を中心に殿の身辺から襖障子の貼り替え、厨のことまで目をくばる要のお役」だという説明がありました。

 

本書『藩邸差配役日日控 』が見事に面白い作品として仕上がっているのは、こうした架空の役目を設け、そこに主人公を据えたのが最大の要因だと思われます。

本書を読みながら思い出していたのが、藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』です。

この作品の主人公三屋清左衛門は、現役時代は用人として先代藩主に仕えていた人物で、現在は隠居をし国元で暮らしています。その人物が、持ち込まれる様々な出来事や事件の相談に乗る様子が語られます。

 

 

この両作品はまったく立場が異なる人物を主人公としていますが、本書の主人公五郎兵衛は何でも屋として、三屋清左衛門は隠居の身として、共に何らかのトラブルが持ち込まれる身であることが共通しているところから連想したものでしょう。

また、本書の著者の砂原浩太朗は、時代小説の大御所である藤沢周平と文章のタッチが似ています。

個人的には時代小説の中でも一番好きな作者の一人が藤沢周平なのですが、この人の文章は情景描写が抜きんで素晴らしく、登場人物の心象をも表現しているところに惹かれます。

一方、未だ新人に近い砂原浩太朗もその文章の運びがゆったりとしていて、場面の背景描写がこれまた丁寧で見事なのです。

特に、第四話「猫不知」での親子の場面など、映画の名場面のように視覚的であり美しく心に残るものでした。

 

付け加えれば、各話の運び方にしても軽く日常的な謎を設け、その謎を解明するために主人公らが動くというミステリータッチの運びが心地よいのです。

そしてその心地よい文章に乗せて運ばれるストーリーがよく練られています。

この点は書評家の杉江松恋が「優れた時代小説に必要な三つの要素」としてうまくまとめておられます。

第一は、登場人物たちの動きが、その時代ならではの価値観、倫理観に基づいていることであり、第二に死が身近であるがゆえの生の儚さが描かれること、第三は現代の世相を照射するような部分が物語にあること、だそうです。

そして、四番目として、五感のどこかに沁みるような、味わい深い文章があることを挙げておられます。

実にうまくまとめておられますが、その通りだと思うのです。そして、私が特に大事だと思うのが、第四番目の味わい深い文章だと思うのですが、砂原浩太朗という作者はまさにピタリとあてはまるのです。

 

「続編があるなら、宇江佐真理さんの『髪結い伊三次捕物余話』のようなファミリー・ヒストリーとして描いていきたいですね」( 本の話 : 参照 )という著者ですが、可能であるならばその言葉を現実のものにして欲しいと思います

その続巻を心待ちにしたいと思います。

黛家の兄弟

黛家の兄弟』とは

 

本書『黛家の兄弟』は『神山藩シリーズ』の第二弾作品で、2022年1月に刊行された410頁の長編の時代小説です。

青山文平以来、近年の時代小説作家で私の好みに合致した時代小説作家の一人である砂原浩太朗の作品で、藤沢周平作品にも似た感動的な一編でした。

 

黛家の兄弟』の簡単なあらすじ

 

「-未熟は悪でござる」兄弟の誇りを守るため、少年は権力者になった。神山藩で代々筆頭家老の黛家。三男の新三郎は、兄たちとは付かず離れず、道場仲間の圭蔵と穏やかな青春の日々を過ごしていた。しかし人生の転機を迎え、大目付を務める黒沢家に婿入りし、政務を学び始める。そんな中、黛家の未来を揺るがす大事件が起こる。その理不尽な顛末に、三兄弟は翻弄されていく。時代小説の新潮流「神山藩シリーズ」第二弾!(「BOOK」データベースより)

第165回直木賞、第34回山本周五郎賞候補『高瀬庄左衛門御留書』の砂原浩太朗が描く、陥穽あり、乱刃あり、青春ありの躍動感溢れる時代小説。

道は違えど、思いはひとつ。
政争の嵐の中、三兄弟の絆が試される。

『高瀬庄左衛門御留書』の泰然たる感動から一転、今度は17歳の武士が主人公。
神山藩で代々筆頭家老の黛家。三男の新三郎は、兄たちとは付かず離れず、道場仲間の圭蔵と穏やかな青春の日々を過ごしている。しかし人生の転機を迎え、大目付を務める黒沢家に婿入りし、政務を学び始めていた。そんな中、黛家の未来を揺るがす大事件が起こる。その理不尽な顛末に、三兄弟は翻弄されていく。

令和の時代小説の新潮流「神山藩シリーズ」第二弾!

~「神山藩シリーズ」とは~
架空の藩「神山藩」を舞台とした砂原浩太朗の時代小説シリーズ。それぞれ主人公も年代も違うので続き物ではないが、統一された世界観で物語が紡がれる。(内容紹介(出版社より))

 

黛家の兄弟』の感想

 

本書『黛家の兄弟』は、『高瀬庄左衛門御留書』に続く『神山藩シリーズ』の第二弾の作品です。

こうした架空の藩を前提とした作品と言えばまずは藤沢周平の海坂藩を思い出します。他にもいくつかの作品を思い出しますが、何と言っても「海坂藩」に尽きるのではないでしょうか。

 

 

だからというわけでもないのですが、本書の作者砂原浩太朗の印象を大家と言われる時代小説作家の中で見ると、山本周五郎というよりは藤沢周平の雰囲気を醸し出していると思います。

そうした作家と言えば近年では青山文平であり、葉室麟をあげることができるのではないでしょうか。

特に青山文平はその特徴の一つとしてミステリータッチな描写が特徴的なのですが、本書の著者の砂原浩太郎も伏線の貼り方が見事で、その点でも共通していると思います。

 

本書『黛家の兄弟』の著者砂原浩太朗の前著『高瀬庄左衛門御留書』でもそうでしたが、けっして大時代的な台詞回しではなく、どちらかと言えば抑えた語り口で静かに語る中で登場人物の人となりや性格までも語り聞かせています。

そうするうちにストーリーまでもさらりと語られており、読者は物語世界にいつの間にか引きずり込まれているのです。

そうした丁寧さがこの作者の一番の魅力であり、そのことは本書でも十分に魅せられています。

 

 

黛家の兄弟』の物語は黛三兄弟が藩内の争いに巻き込まれていく様子が描かれているのですが、読み進む中で細かな意外性、遊びが随所に仕掛けられていて、この点でも惹き込まれてしまいます。

前半の青春小説としての側面もさることながら、後半の重厚感を伴った展開もまた違った顔を見せてくれる楽しみがあり、そうした異なった顔もまた本書の魅力として挙げることができるでしょう。

登場人物は、まずは物語の中心となる筆頭家老の家柄である黛家の三兄弟として、長兄の栄之丞、次兄の壮十郎、三男の新三郎がいて、黛三兄弟の父親の黛清左衛門がいます。

また、新三郎の幼馴染である由利圭蔵や、さらに父清左衛門の友でもある藩祖につながる家柄の大目付黒沢織部正やその娘のりくが重要です。

そして、敵役として次席家老の漆原内記の存在感が素晴らしく、その息子として伊之助が登場し、内記の腰巾着的立場の尾木将監海老塚播磨らがいます。

他に、目付役筆頭の久保田や新三郎付きの女中のやえなどが重要な役割を果たしています。

 

本書『黛家の兄弟』は大きく二部に別れており、第一部は本書の主人公である三男の黛新三郎が次兄の壮十郎を差し置いて養子の口がかかり、目付として成長していく様子が描かれます。

第二部は第一部の十三年後が描かれていて、あの新三郎がどのように成長しているか、今後どのように生きていくかに焦点が当てられています。

 

第一部は、放蕩していた次兄の壮十郎がとある事件を起こし、新三郎がその事件の処理に奔走する姿があります。

いまだ、新人目付役としての新三郎が、慣れぬ仕事に振り回されつつも兄弟のつながりを保とうと足掻く姿は感動的です。

しかしながら、その事件は「未熟は悪」だということを思い知らされる結果となり、慟哭する新三郎の姿で終わります。

ここで、漆原内記からは「同じことなら、強い虫になられるがよい」と声をかけられますがその意味が今一つ億分りませんでした。

その直前に「黒沢はよい買い物をした」とも言われていることからすれば、新三郎のことをそれなりに評価してのことだとは思われるのですが。

 

第二部は家老職で善政を敷く長兄の栄之丞と、目付として藩内でも重きを置かれるようになってきている新三郎の姿があります。

さらには、身分のちがいを越えた道場仲間であった新三郎と由利圭蔵の関係も社会の仕組みの中で変質を遂げていくのです。

未熟な若者としての新三郎と、目付として経験を積んだ新三郎との差異も見どころの一つでしょう。

加えて、新三郎とやえやりくという女たちとの関係のあり方も読ませ所です。

でも、女性二人の描き方が個人的には薄いのではないか、という気がしてなりません。やえの消息は都合がよすぎるし、りくとの夫婦のありようの描き方ももう少し深めてもいいのではないかという印象です。

 

本書『黛家の兄弟』の場合、何といっても三兄弟の関係のあり方こそが本書の眼目であり、主題です。

特に新三郎の成長ぶりは目を見張るものがあり、兄たちとのつながりもまた見どころです。

個人的な好みに合致した、感動的な一冊でした。

いのちがけ 加賀百万石の礎

いのちがけ 加賀百万石の礎』とは

 

本書『いのちがけ 加賀百万石の礎』は、文庫本で464頁の長さの、長編の歴史小説です。

加賀の殿様となる前田利家に仕える村井長頼の目を通してみた戦国の世、そして前田家の盛衰を記した、実に読みやすく面白い作品でした。

 

いのちがけ 加賀百万石の礎』の簡単なあらすじ

 

加賀藩の祖・前田利家が流浪した若きころから大名になった後まで付き従った、股肱の臣・村井長頼。桶狭間、長篠、賎ヶ岳…名だたる戦場を駆け抜け、利家の危難を幾度も救う。主君の肩越しに見た、信長、秀吉、家康ら天下人の姿。命懸けで忠義を貫き通し、百万石の礎を築いた男を、端正な文体で魅せる傑作。(「BOOK」データベースより)

 

 

いのちがけ 加賀百万石の礎』の感想

 

本書『いのちがけ 加賀百万石の礎』の主人公は、その生涯を利家に捧げた前田家の重鎮である村井長頼という人物です。

この人物についてウィキペディアには、はじめは織田氏家臣の前田利久に仕えていましたが、利久の弟の前田利家が織田家から追放されていた時に長頼も従い、織田信長の命により弟の利家が前田家を継ぐと、それに従って利家の家臣となった、とありました。

ほかに、下記サイトでに簡単に紹介してあります。

 

 

ここで本書の構成をみると大きく三つに分けられていて、まず「壱之帖」では利家の織田家追放の間の出来事があり、美濃攻めでの利家の信長からの帰参の許しが出るまでが描かれています。

次いで「弐之帖」では利家が前田を継ぎ、長篠の戦をへて賤ヶ岳の闘いまでが、「参之帖」では時代は一気に飛んで秀吉の朝鮮出兵時の名護屋城で出来事から、秀吉晩年の醍醐の花見を経て家康が権力を握り、利家の妻まつが人質となり江戸へと下るまでが描かれます。

歴史上の出来事をある特定の時期を濃密に描いて他の期間は飛ばしてしまうという手法がとられているのです。

 

でも、そうした手法よりも何よりも、本書がデビュー作であるにも関わらず、登場人物の個性や人物相互の関係性が明確に描かれているという、作者の筆の確かさに驚かされます。

そのことは本書冒頭の「壱之帖 いのちがけ」で、まだまだ年若く律儀で一本気な長頼と、若武者でありながら既に武人としての風格を備えている前田利家、そしてこの二人の関係性が語られる中ですぐに思い知らされます。

この力の入らない読みやすい文章、そして登場人物の個性の明確化、という点が砂原浩太朗という作家の一番の魅力ではないかと思います。

 

この頃の作家さんでいうと、葉室麟の硬質で斬りつけられるような文章、青山文平の清冽で無駄のない文章というよりは、語りかけるようなタッチであり、野口卓の文章に近いと言えると思います。

それぞれの作家ごとに違った魅力があるのですが、本書での砂原浩太朗という作家の文章はとくに戦国期の各武者の個性をうまく書き分け、新たな武者像をつくりあげているようです。

説明的でないこの人の文章は、文章のうまい作家は皆そうではあるのですが、その行動なり背景描写なりを描くことで間接的にその時の人物の心象を明らかにしています。

例えば、前田利家の妻のまつの懐妊の折のまつの言葉を言う利家の言動など、決して難しい言葉や表現ではなく、わかりやすい普通の言葉で表現してあるところが小気味よく、心地よいのです。

 

また、たまには「好かぬやつ」の項にあるように奥村助右衛門に対する長頼の思いなど、コミカルなタッチも取り入れてあり、そのさまはとても好感が持てるのです。

結局、この人の文章は激しく燃え上がることはなく、全編をたんたんと歩み続けそのうちに目的地に着いている、そんな優しい、しかしはっきりとした意思を持った文章だと言えます。

そして、そういう文章だからこそ私はこの人の文章が好きなのだと思うにいたりました。

 

この作家の作品としては現時点(2021年11月8日)では、本書の他に作品は第165回直木賞と第134回山本周五郎賞という両賞の候補作となった『高瀬庄左衛門御留書』しかないようです。

この『高瀬庄左衛門御留書』という作品がまた静かで落ち着いた雰囲気を持つ物語であり、私の最も好む文章と世界観を持った作品であって、こうした心に沁みる作品をもっと読みたいと強く思ったものです。

その思いは本書を読んでより強くなり、次なる作品が出版されるのを心待ちにしているのです。

 

高瀬庄左衛門御留書

高瀬庄左衛門御留書』とは

 

本書『高瀬庄左衛門御留書』は、新刊書で335頁の長編の時代小説で、第165回直木賞と第134回山本周五郎賞という両賞の候補作となった作品です。

近頃わたしが好みだと思った作家さんとして葉室麟、青山文平、野口卓といった人たちがいますが、本書の作者砂原浩太朗氏もまたその中に入りそうな作家さんでした。

 

高瀬庄左衛門御留書』の簡単なあらすじ

 

神山藩で、郡方を務める高瀬庄左衛門。五十を前にして妻を亡くし、息子をも事故で失い、ただ倹しく老いてゆく身。息子の嫁・志穂とともに、手慰みに絵を描きながら、寂寥と悔恨の中に生きていた。しかしゆっくりと確実に、藩の政争の嵐が庄左衛門に襲いくる。人生の苦渋と生きる喜びを丁寧に描く、武家もの時代小説の新星、ここに誕生!(「BOOK」データベースより)

 

 

高瀬庄左衛門御留書』の感想

 

本書『高瀬庄左衛門御留書』は、既に息子にあとを継がせて好きな絵を描いて暮らす隠居の身の高瀬庄左衛門という男の物語です。

家督を譲って隠居しているという人物を描くという点では藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』のようであり、その佇まいはまた身分、立場は異なるものの、野口卓の『軍鶏侍シリーズ』の主人公、岩倉源太夫のようでもあります。

 

 

心に沁みる時代小説と言えば、とくに藤沢周平という作家が取り上げられることが多いようです。

それは、藤沢周平という作家の紡ぎ出す文章や作品の世界が持つ清々しさが、古き良き日本へと連なる美しさを醸し出すなどのことがあると思われます。

そして、葉室麟青山文平など落ち着いた文章を持つ時代小説の新たな書き手が現れるたび、藤沢周平の名が取りざたされるのです。

本書『高瀬庄左衛門御留書』の作者砂原浩太朗もまたそうであり、新人でありながら落ち着いたたたずまいの作風を持つこの作者は私の琴線に触れる作家さんでした。

 

作者の砂原浩太朗の文章は、読み始めはとくに何ということはない文章のように感じていました。

近いと思える青山文平と比べても、硬質で張り詰めた緊張感を持つ青山文平の文章と異なり、特に特徴が無いように思えたのです。

また、同時期に読んだために比べてしまった同じ第165回直木賞の候補作であった澤田瞳子の『星落ちて、なお』と比べても、実にあっさりと感じる文章でした。

星落ちて、なお』は詳細に情景が描写してあり、さらには人物なり時代なりの詳しい説明が為されています。

 

 

ところが本書『高瀬庄左衛門御留書』の場合、事前の背景描写がなされるだけで、人物の詳細な心象描写はあまりなく、描かれる場合もわずかであり、客観的な心象風景に委ねてあります。

でありながら、すぐにこの文章の静かで落ち着いた雰囲気になじみ、心に沁みるようになってきました。

どちらがいいとか悪いとかの話ではありません。単に自分の好みとして本書の文章の方が好みであるということだけです。

ただ、一言付け加えれば『星落ちて、なお』の方はそう遠くない過去に実在した人物を描いているのであり、史実を説明する必要があったということはあるかもしれません。

というのも、この作者の澤田瞳子の過去の作品の文体はもう少し説明的でなく、気楽に描かれていたように思うのです。

 

ともあれ、本書『高瀬庄左衛門御留書』は読み始めから惹き込まれました。そして、一気に読み終えてしまいました。

ストーリー自体は単純ではありません。というよりも複雑といった方がいいのかもしれません。

息子の死。実家へと帰った息子の嫁志穂の数日おきの来訪。息子に引き継いだ郡方の役務への復帰。一人の若侍の危難を救った主人公とその若侍の交流。藩内の抗争とその抗争に巻き込まれる主人公。

登場する人物も少なくはなく、人間関係を把握し覚えておくのも簡単ではありません。もう少し話を単純にし、登場人物の相関関係も簡略化できていればなどと思うこともありました。

しかし、それでもなお本書にひかれました。

 

その理由の一つとして、主人公高瀬庄左衛門の言葉に魅力が挙げられると思います。

本書終盤近くで、生前の息子と学業を争った青年に向かって言った言葉で、「人などと申すものは、しょせん生きているだけで誰かのさまたげとなるもの・・・均して平なら、それで上等」という文言があります。

この言葉など、そのままに私たちの普通の生活の中で意識し、救いとなる言葉でもあるでしょう。

 

また、本書『高瀬庄左衛門御留書』の中で、庄左衛門とかつて庄左衛門が思いを寄せたことのある芳乃という女性との会話の場面がありました。

庄左衛門が絵を描くようになった原因が、「じつはあの居室にこそ淵源があったのかもしれない。」などという庄左衛門の心の内と、その背景の自然の描き方がとても好ましく思えます。

こうした処理の仕方は藤沢周平青山文平といった作家にも通じる心地の良さを感じるのです。

この庄左衛門と芳乃の会話の場面では藤沢周平の『蝉しぐれ』の映画での、主人公牧文四郎役の市川染五郎とふく役の木村佳乃との年を経てからの会話の場面を思い出しました。

こうした印象は、著者砂原浩太朗自らが「藤沢教信者」といい、「自分にとって藤沢先生は特別な存在。藤沢作品は、小説のひとつの理想型ではないかと思っています」といわれているほどであり、あながちはずれでもないと思っています( 小説丸 : 参照 )。

 

だからといって本書『高瀬庄左衛門御留書』が手放しで面白い作品だったということでもありません。先に述べた単純ではないストーリーなどの他に、何となくの物語の浅さを感じるのです。

その理由もよく分からない、素人の私の単純な感想であり無責任という他ないのでしょうが、もう少し厚みを感じる物語を期待したいのです。

 

とはいえ、繰り返しますが冒頭から惹き込まれて作品であることは嘘ではなく、物語の世界に身を委ねる感覚になった作品は久しぶりでもありました。

まだデビュー二作目だという作者には過大な要求かもしれませんが、今後の作品が期待される作家さんです。