不伝流の俊才剣士・片桐敬助は、藩中随一とうたわれる剣の遣い手・弓削新次郎と、奇しき宿命の糸にむすばれ対峙する。男の闘いの一部始終を緊密な構成、乾いた抒情で鮮烈に描き出す表題秀作の他、円熟期をむかえたこの作家の名品を三篇。時代小説の芳醇・多彩な味わいはこれに尽きる、と評された話題の本。(「BOOK」データベースより)
侍の生きざまを描いた四編の短編小説が収められた時代小説集です。
「麦屋町昼下がり」 片桐敬助は抜き身の刀を持って追いかけていた男を斬り、追われていた女を助けた。しかし、その女は変人と名高い弓削新八郎の妻女であり、斬った男は新八郎の父親だというのだった。
「三ノ丸広場下城どき」 無外流の遣い手であった粒来重兵衛は守屋市之進から頼まれた密使の護衛の仕事をしくじった。ただ、調べてみると守屋市之進は次席家老の臼井内蔵助とつながっていたのだった。
「山姥橋夜五ツ」 塚本半之丞が腹を切った。遺書には先代藩主の死は謀殺によると書いてあった。一方柘植孫四郎の俊吾が道場で無用の争いをすると聞かされた。原因は孫四郎が妻の瑞江を離縁したことにありそうだった。
「榎屋敷宵の春月」 夫である寺井織之助の執政入りを願う田鶴だったが、金銭に余裕のない寺井家は一歩遅れを取っていた。その帰り、家の前で斬り合いが行われていた。
本書は、藤沢作品の中でも評価の高い『三屋清左衛門残日録』と同じく1989年に出版された作品であり、先に本ブログでアップした1991年出版の『玄鳥』などと同様に円熟期の藤沢周平作品です。
また本書は藤沢周平の武家ものの舞台として高名な「海坂藩」を舞台とした作品だとされています。明記はされていないものの、登場する町の名前などからそう推測されているようです。
全部で四編という収録作品の数でもよくわかるように、短編というには少々長いともいえる作品群ですが、まったくその長さを感じさせないだけの魅力を持った作品集でもあります。
いくつかのブログには本書の構成の仕掛けを明かしてありました。
それは本書の「場所」と「時刻」というタイトルにあり、それも「昼下がり(正午)・下城どき(午後四時)・夜五ツ(午後八時)・宵(午後十時)」と進
んでいるというものです。
言われてみればそうであって、丁寧に読み込んでいる人には当たり前のことかもしれませんが、私のように気付いていない人が多いのではないでしょうか。
「麦屋町昼下がり」は、剣の遣い手の片桐敬助が、更なる遣い手で奇人として通っている男との立ち合いのために研鑽を積み戦いに臨む、というまさにエンターテイメントの世界が展開されます。
それを藤沢周平の筆が描き出すのですから、面白くないわけがありません。
「三ノ丸広場下城どき」は、かつて剣名を馳せていたものの、自堕落な生活のために命じられた仕事を失敗した男が再起を図る話です。この話もまたエンタメ性に富んでいます。
この男、粒来重兵衛と、男やもめの重兵衛の家の手伝いに来ている重兵衛の遠縁の女の茂登との行く末もまた読者の関心をひきつけます。
「山姥橋夜五ツ」は、先代藩主の事件に絡んだ新たな出来事が起き、それが主人公柘植孫四郎の過去の不始末、妻の離縁などへと連なり、一気に解決する大団円の話になっています。
この物語でもまた塚本半之丞の自裁というメインの話の傍らで語られる、孫四郎と不義のうわさのために離縁された孫四郎の妻瑞江とのサブストーリーがこの物語に妙味を加えています。
「榎屋敷宵の春月」は、田鶴という女性が主人公です。
俗物である夫とは違い、田鶴は藩内の不正を見ないふりもできず、ましてや紛争に巻き込まれて落命した家人のためにも黙っていることもできません。
そのため、小太刀の腕を振るう田鶴は見事ですが、その後の夫との生活はどうなるのだろうか、と妙にそちらの方が気になりました。
どの作品も軽いユーモアを含んでおり、初期の藤沢周平の作品からは考えられない変化だと言えます。
しかしながら、情感あふれる自然描写は相変わらずに、いえ以前以上に魅せる描写になっています。
剣戟の場面に至っては、立ち合いの一挙手一投足が丁寧に描写され、剣の軌跡が簡単に思い受け部ることができるほどです。
どの作品もエンターテイメント作品としての面白さを十分に備えています。
先述したように、さすがに藤沢周平の円熟期に書かれた作品群であり、文章も、もちろんストーリーも読みごたえ十分の一冊でした。