『ラブカは静かに弓を持つ』とは
本書『ラブカは静かに弓を持つ』は、2022年5月に312頁のソフトカバーで刊行された長編の音楽小説です。
第25回大藪春彦賞を受賞し、2023年本屋大賞で第2位になるなどの高い評価を受けた作品で、心に沁みる感動作でした。
『ラブカは静かに弓を持つ』の簡単なあらすじ
少年時代、チェロ教室の帰りにある事件に遭遇。以来、深海の悪夢に苦しみながら生きてきた橘樹は勤務先の全日本音楽著作権連盟の上司・塩坪から呼び出され、音楽教室への潜入調査を命じられる。目的は著作権法の演奏権を侵害している証拠を掴むこと。身分を偽り、チェロ講師・浅葉桜太郎のもとに通い始めるが…少年時代のトラウマを抱える潜入調査員の孤独な闘いが今、始まる。『金木犀とメテオラ』で注目の新鋭が想像を超えた感動へと読者を誘う、心震える“スパイ×音楽”小説!(「BOOK」データベースより)
『ラブカは静かに弓を持つ』の感想
本書『ラブカは静かに弓を持つ』は、かつてチェロに親しんだサラリーマンが仕事で音楽教室へ通い、チェロを学び直す姿が描かれた長編小説です。
ただこのサラリーマンは、音楽教室を運営する会社の著作権侵害を調査するために送り込まれていた人物だったことから、その職務とチェロ演奏や講師との人間関係などで苦悩することになるのです。
この話は現実にあった訴訟事案をもとにしており、そこらの経緯は日経クロステックのサイトに詳しく解説してありますので、感心のある方は下記サイトをご覧ください。
主人公のサラリーマンはその名を橘樹といい、上司から楽器や音響機器の製造販売を行っているミカサ株式会社が経営する音楽教室へ通い、潜入調査をするようにと命じられます。
つまり、ミカサ株式会社が中心となっている「音楽教室の会」が全日本音楽著作権連盟の著作権料徴収の方針に反対し、音楽教室での演奏には著作権が及ばないとして訴えを起こすため、それに備え管理楽曲の不正利用の現場を押さえたいというのでした。
たしかに橘は幼いころチェロを学んでいた時期もありましたが、とある事件がトラウマとなり、以来チェロに触ることはなくなっていたのです。
ミカサ音楽教室へと通い始めた橘にはハンガリー国立リスト・フェレンツ音楽院を卒業した浅葉桜太郎が講師としてつくことになり、橘のスパイとしての生活が始まるのでした。
本書『ラブカは静かに弓を持つ』の広告には「スパイ×音楽」小説というキャッチフレーズがつけられています。
しかし、「スパイ」という文句があてはまるほどのサスペンス感が本書にあるわけではありません。
「音楽」小説であることは全くその通りですが、「スパイ」が直接にインテリジェンス小説を意味するとまでは思わないにしても、本書の場合は「潜入捜査」という言葉でさえも大袈裟に思えます。
というのも、主人公の使命は何かを探り出すということではなく、単に自分が与えられた練習曲が版権対象曲かどうかを確認するにすぎないからです。
「スパイ」行為を取り上げるよりも、主人公の橘とその講師である浅葉との心の交流こそが主眼であるというべきではないでしょうか。
また、例えば恩田陸の本屋大賞、直木賞両賞同時受賞作品である『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎文庫 全三巻)などのように正面から音楽を描く作品でもありません。
チェロという楽器を通して音楽を表現し、主人公の心象を表現することはあります。しかし、音楽そのものがテーマではなく、主人公の心のあり方の変化こそが作者の意図でしょう。
本書『ラブカは静かに弓を持つ』では、もともと人付き合いが下手なうえに過去にトラウマを抱えている橘の、職務上とはいえチェロという楽器を再度手に取ることによる心の安寧を取り戻すまでの過程が丁寧に描かれています。
そこで役立ったのが講師の浅葉桜太郎であり、彼の存在が大きな意味を持っています。
橘の職務が本質的に抱える裏切り、不義理という相反する心の在りようは、一旦は落ち着いた橘の不眠を悪化させることにもなってきますが、担当講師をも含めたこの音楽教室という存在が橘に救済を与え、心のゆとりをもたらしてくれるのです。
こうした心の動きや橘と浅葉との交流は実に読みごたえがありました。
ただ、例えば主人公の職場の上司の塩坪や、同僚の湊良平などが今一つその姿が響いてこない印象はありました。
でも、彼らは全日本音楽著作権連盟という職場での関係者であり、深く書き込むだけの対象でもないので、そう感じる読み手のほうが変という気もします。
ともあれ、本書『ラブカは静かに弓を持つ』は大藪春彦賞や本屋大賞でも高い評価を受けているだけの作品として、個人的にも主人公の存在に心惹かれました。
ちなみに、「ラブカ」とは、沼津港深海水族館のサイトによれば、「シーラカンスと同じく、生きた化石と呼ばれる深海のサメ」だということです( 沼津港深海水族館 : 参照 )