なぜ、私なの?―賭博師シェルの奸計により、少女娼婦バロットの叫びは爆炎のなかに消えた。瀕死の彼女を救ったのは、委任事件担当官にしてネズミ型万能兵器のウフコックだった。高度な電子干渉能力を得て蘇生したバロットはシェルの犯罪を追うが、その眼前に敵方の担当官ボイルドが立ち塞がる。それは、かつてウフコックを濫用し、殺戮のかぎりを尽くした男だった…弾丸のごとき激情が炸裂するシリーズ全3巻発動。(「BOOK」データベースより)
第24回日本SF大賞を受賞した、サイバーパンクの匂いが強いSF長編小説です。私は2010年9月に出版された640頁の改訂新版と銘打たれた上記書籍イメージの合本版を読んだのですが、これとは別に同じ年の10月に完全版として文庫本で全三巻、全部で1000頁弱のものも出版されています。
本書は一口で言えば難解な物語でした。もともとこの作者の「言葉」に対する感覚は。この作者の作品の一つである『光圀伝』を見てもわかるのですが通常人とは少々異なるものを持つ人だとの印象があります。冲方丁という人の場合、単に頭が良いという以上の、詩人が独特の感性で言葉を駆使するような感性を持つのではないかと思うのです。
そした感性を持ちながらも、緻密な論理を駆使する文章も書かれます。それは、この作者の『十二人の死にたい子どもたち』を読んでも分かるように、私にはついていけないロジックの展開です。
本書の中盤、カジノを舞台とした場面がありますが、そこで主人公ルーン=バロットらはルーレットやブラックジャックといったゲームを勝ち抜くために、一種のコンピューターであるウフコックを利用しています。そこでの描写は、ゲームを論理で支配し、論理的に心理戦を勝ち抜いていきます。本書の三分の一以上を占めるこのカジノの場面は圧巻です。
論理を駆使した面白い物語を書く作家としては、『インシテミル』や『折れた竜骨』といった物語としての面白さを有しながらも複雑な論理を構築し、正統派の推理小説を書いている 米澤穂信 という人もいます。この人も、論理を駆使する本格派の推理小説でありながらも、物語としても面白いものを書かれる作家さんです。
また本書『マルドゥック・スクランブル』では、電脳空間のイメージを強調するためでしょうが、片仮名のルビが特異で、「電子攪拌」「操作」共にスナークと振ってあり、「空中」はエアー、「階級」もクラスなどと随所で振ってあります。論理の積み重ねによる物語の構築の上に、そうした仕掛けでも独特な雰囲気を作り出すことに成功しています。
本書の見どころとしては、先ほどのカジノの場面に加え、終盤で展開される、ウフコックらとシェルに雇われている委任事件担当捜査官であるディムズデイル・ボイルドとの闘いはまた、カジノの場面から一転して、アクション小説としても読み応えのある展開となっています。
こうした論理的世界、アクション満載の場面を抱える本書ですが、その前提としてこの物語の世界観の設定がユニークです。
そもそもバロットは、本書の舞台であるマルドゥック市が定める人命保護のための緊急法令の一つである「マルドゥック・スクランブル-09」という法令によって科学技術の粋を集めて蘇生されたものです。
それは、強大な権限を有する法務局が、委任事件担当捜査官であるドクターたちにバロットの事件に関するすべての権限を委任することから始まっています。委任事件担当捜査官とは、法的代理人であって、すべての権限を持つのですから、言ってみれば用心棒としての枠割も兼ね備えているようです。
その点では、シェルの代理人であるボイルドも同じ立場であると言えます。つまり彼等は傍若無人な行いをしているかのように見えて、実は法令の範囲内で行動しているという建前になっているのです。
そうした前提のもと、少女娼婦ルーン=バロットは、ギャンブラーのシェル・セプティノスにより車もろともに殺されそうになっていたところを、ネズミ型万能兵器のウフコックとドクター・イースターという男に助けられます。
その、ドクター・イースターの力により金属繊維の人工皮膚を得て蘇生したバロットが、ウフコックやドクターの力を借りて、自分の存在を確かめるためにもシェルを追いつめる、その様子、過程を描いているのです。
先にも書いたように、本書の登場人物の台詞なども含め、文章は実に難解です。
また、本書の筋を一言で言えば上述のようになりますが、本書は七百頁弱にもなる分量の物語であり、そう単純ではありません。その上、文章は改行が少なく、文章の量からすると頁数多さ以上のものがあると思われます。
しかしそうした物語の長さ、言葉の難解さという壁にも関わらず、物語は非常に面白く、作者の設けた世界観に引きこまれてしまいました。
なお、本書には講談社から全七巻のコミックスも出ていますし、劇場版のアニメもDVD化されています。