半席

半席』とは

 

本書『半席』は、2016年5月に新潮社から刊行され、2018年9月に新潮文庫から320頁の文庫として出版された、短編の時代小説集です。

上司から命じられて事件に隠された真実を明らかにしていく過程が描かれる、ミステリー仕立ての読みごたえのある作品集です。

半席』の簡単なあらすじ

御家人から旗本に出世すべく、仕事に励む若き徒目付の片岡直人。だが上役から振られたのは、不可解な事件にひそむ「真の動機」を探り当てる御用だった。職務に精勤してきた老侍が、なぜ刃傷沙汰を起こしたのか。歴とした家筋の侍が堪えきれなかった思いとは。人生を支えていた名前とは。意外な真相が浮上するとき、人知れずもがきながら生きる男たちの姿が照らし出される。珠玉の武家小説。(「BOOK」データベースより)

目次
半席 | 真桑瓜 | 六代目中村庄蔵 | 蓼を喰う | 見抜く者 | 役替え

半席』の感想

本書『半席』は、徒目付の片岡直人が上司から命じられた腑に落ちない事件の「真の動機」を解明していく短編の時代小説集です。

隠された人間の真実を明らかにするとき、そこにはそれまでは見えていなかったある生き方が見えてきます。青山文平らしい読みごたえのある作品集でした。

 

青山文平の短編作品集の一つに『春山入り』という作品集があります。

以前は『約定』と題されていたその本の中に、筏(いかだ)の上を走り堀に飛び込み死亡した侍について書かれた「半席」という短編がありました。本書第一作目の「半席」がそれです。

 

本書『半席』は、作者がこの「半席」という短編を気にいったためか、この短編に登場する片岡直人を主人公に、新たに物語を紡ぎ出し、一冊の作品集として仕上げたものです。

この片岡直人の徒目付、つまりは監察役という職種を生かし、既に処分は決まっているもののはっきりとした理由が分かっていない事件の真実を聞き出すという職務を遂行させるのです。

それは罪を負うべき事柄の理由を明らかにしない当事者の、責めを負うに至った本当の理由を明らかにしようとするのであり、推理小説で言うホワイダニット(Why done it)ものということもできます。

つまりは、本書はただ処分を待つだけの老人たちから話を聞き、その本質を見つけるミステリーとしての面白さを持った作品なのです。

そして、片岡が彼ら老人の人間としての真実に触れることでこれまで見えていなかったものが見えてくる、その人間模様の奥深さをもあわせ持った作品集ということができます。

片岡の上司の内藤雅之によれば、片岡直人の青臭さこそが犯人も本音を言う気になるだろう、ということです。この内藤雅之という男がまた面白く、この物語の魅力の一つになっています。

 

それぞれの話を簡単にみると、

「半席」では、筏(いかだ)の上を走り、堀に飛び込み死亡した侍。
「真桑瓜」では、共に八十歳以上の侍同士の刃傷沙汰。
「六代目中村庄蔵」は、一季奉公の侍の主殺し。
「蓼を喰う」は、辻番所組合の仲間内を手に掛けた御庭番。
「見抜く者」は、徒歩目付の仕事の中でも特に人の恨みを買いやすい人物調べの絡んだ話。
「役替」は、同じ町内の、共に召し挙げられた仲間の父親との思いもかけない邂逅がもたらした行く末。

の真相を聞き出す、という話です。

 

本書『半席』は、私にとっても他人ごとではない、「老い」の末に自らの人生を思い起こすときにもたらされる悲痛な感情を描き出した好編ばかりです。

また、片岡直人という青年が内藤雅之という上司に見守られながら成長していく物語でもあります。

 

「役目柄『なぜ』だけではなく、事態を『いかに』収めるか、ということが問われる話もある。」と書いておられたのは文芸評論家の杉江松恋氏です。

青山文平という一押しの作家のお勧めの作品がまた増えました。

 

ちなみに、本書『半席』には2021年3月に続編として『泳ぐ者』という作品が出版されました。

短編集であった本書と異なり、『泳ぐ者』は長編小説であり、片岡の活躍がたっぷりと読むことができます。

ところが、本書で登場する内藤雅之という人物は当初は“内藤康平”と表記されていたのですが、この『泳ぐ者』のなかでは“内藤雅之”という名前に変わっていたのです。

 

慌てて本稿を見直したところ“内藤康平”と表記していました。

ネットで調べると『半席』を紹介しているサイトでは皆“内藤雅之”となっているなか、「江戸の事件にのぞく、平成ニッポン」というサイトだけ上司内藤の改名について触れてありました。

ということで、そのことに気付かなかった私の不注意であり、本サイトでも“内藤康平”という表記を“内藤雅之”へと改めています。

ご了承ください。

つまをめとらば

つまをめとらば』とは

 

本書『つまをめとらば』は、2015年7月に文藝春秋から刊行され、2018年6月に文春文庫から274頁の文庫として出版された、長編の時代小説です。

本書は、六編の物語からなる短編の時代小説集であり、第154回直木賞を受賞した作品です。

 

つまをめとらば』の簡単なあらすじ

 

女が映し出す男の無様、そして、真価ー。太平の世に行き場を失い、人生に惑う武家の男たち。身ひとつで生きる女ならば、答えを知っていようかー。時代小説の新旗手が贈る傑作武家小説集。男の心に巣食う弱さを包み込む、滋味あふれる物語、六篇を収録。選考会時に圧倒的支持で直木賞受賞。(「BOOK」データベースより)

目次
ひともうらやむ | つゆかせぎ | 乳付 | ひと夏 | 逢対 | つまをめとらば

 

つまをめとらば』の感想

 

本書『つまをめとらば』は、六編の物語からなる短編の時代小説集であり、第154回直木賞を受賞した作品です。

 

「ひともうらやむ」
女ならば誰しも惚れると思われる長倉家本家の総領で眉目秀麗のうえに目録の腕前を持つ秀才の長倉克巳が、皆のあこがれの的であった、医師浅沼一斎の娘世津を娶ることになったのだが・・・。

「つゆかせぎ」
妻の朋が急な病で逝ってからしばらくして、地本問屋の手代が、竹亭化月の筆名で戯作を書いていたという朋を訪ねてきた。朋は木挽町の芝居小屋の娘であったため、意外でもなかったのだが・・・。

「乳付」
神尾信明に嫁いだ民恵は長男新次郎を産んだ。しかし、産後の肥立ちが悪く乳をやることもできないでいたため、瀬紀という遠縁の妻女に乳付をしてもらうことになった。瀬紀は民恵と同じ年かっこうであったが、同じ女でも魅入られてしまうほどに輝いていた。

「ひと夏」
石山道場奥山念流目録の腕前を持つ部屋済みの身分の高林啓吾は、誰が赴任しても二年ともたないという勤めを命じられる。現地では、藩の役人をあからさまに見下す百姓たちだったが、それに対し何もできない事情があった。

「逢対」
無益の者が出仕を求めて日参する「逢対」に、幼馴染の北島義人と共に同行した竹内泰郎だったが、自分だけ呼び出されることになった。

「つまをめとらば」
妻の不義で離縁し独り身の深堀省吾は、幼馴染の山脇貞次郎に家作を貸すこととなった。省吾にとり、幼馴染との暮らしは心地よいものだったが、貞次郎には思いを寄せている言い出せずにいる娘がいるというのだった。

 

著者青山文平は「女は本質的に、人間の存在の地肌で生きてい」て、そして「男は女を通じてはじめて、人間の存在の地肌に触れることができる。」と言っています。

人間として、男は女を通してしか実現できないと言っているようです。

「男がしでかす諸々の問題も、さかのぼれば、その多くは、根源的なよるべなさに行き着くのではないでしょうか。」ということになるのです。

 

本書はそうした男どもの存在をあからさまに描き出してあります。

ただ、これまでのこの作家の物語と、少しですが趣が異なります。女性をモチーフにしているからでしょうか、全体的にどことなくユーモアに包まれているのです。

これまでの作品では“侍”を前面に押し出し、その生き方を直截的に描くことが多かったと思います。

 

勿論これまでもユーモラスな物語が皆無だというわけではありません。しかし、それらの作品も結局は“侍の生き方”に結びつくものでした。

本書の場合、「乳付」を除いてはやはり主人公は男で、さまざまな女性の形を描くことで男である主人公の内面を描き出してはいるのですが、特に「ひと夏」「つまをめとらば」は侍というよりは一個の人間を描いてある、と言えるのではないでしょうか。

 

現在の、あまたおられる時代小説作家の中で一番私の好みに合致するのがこの青山文平という作家さんです。

侍のあり方を問う物語の組み立て、硬質ではあるものの格調高く、品格を保っているその文章は心揺さぶられるものがあるのです。

鬼はもとより

鬼はもとより』とは

 

本書『鬼はもとより』は、2014年9月に徳間書店から刊行され、2017年10月に徳間時代小説文庫から380頁の文庫として出版された、長編の時代小説です。

侍の生き方を追いかける青山文平が経済の側面から武士社会を描いて、侍の世界を新たな視点で描き出す魅力満点の小説です。

 

鬼はもとより』の簡単なあらすじ

 

どの藩の経済も傾いてきた宝暦八年、奥脇抄一郎は江戸で表向きは万年青売りの浪人、実は藩札の万指南である。戦のないこの時代、最大の敵は貧しさ。飢饉になると人が死ぬ。各藩の問題解決に手を貸し、経験を積み重ねるうちに、藩札で藩経済そのものを立て直す仕法を摸索し始めた。その矢先、ある最貧小藩から依頼が舞い込む。剣が役に立たない時代、武家はどういきるべきか!?(「BOOK」データベースより)

 

鬼はもとより』の感想

 

本書『鬼はもとより』は、侍の生きる姿描いてきた青山文平が、経済という新たな視点で武士社会を描いた長編の時代小説です。

 

剣に倦み女遊びも尽くした奥脇抄一郎は「藩札掛」を命じられる。世話役の佐島兵右衛門(さじまへいえもん)の急死により抄一郎が責任者となるが、飢饉に際しての藩札の刷り増しの命に逆らい、藩札の原版を持って脱藩してしまう。

その後、江戸に出た抄一郎は旗本の深井藤兵衛(ふかいとうべえ)の知己を得るなかで、藩札板行指南を業とするようになるのだった。

 

本書『鬼はもとより』は、武士の世界に経済の側面から光を当てています。

主人公抄一郎は「国を大元から立て直す仕法」の背骨を掴み取り、その仕法を別の藩で試すのですが、その流れが実にダイナミックに描写されています。

藩札の板行には正貨の裏付けが必要だが、刷る額面のおよそ三割は正貨の準備が必要、などの藩札の仕組みから説き起こしていく場面は、経済音痴の私などには実に興味深いものがあります。

 

とはいえ、青山文平という作者の根本は常に「侍」存在そのものの在り方を問うています。

「武家とは、いつでも死ぬことができる者であ」って、「武家のあらゆる振る舞いの根は、そこにある」との抄一郎の独白はそのことを正面から答えています。

抄一郎が見つけた仕法の肝(きも)や、佐島兵右衛門の姿から抄一郎が感じる覚悟も、「命を賭す腹」が大事ということでした。本書の少なくない個所で、侍の「死の覚悟」への言及があります。

 

青山文平の作品の中に『かけおちる』という作品があります。

この作品も藩の財政の立て直しのために殖産事業に命をかける侍が描かれていますが、本書はその藩札版といったところでしょうか。

青山文平は、単に侍を描く舞台設定としてだけではなく、侍の世を経済という新たな視点から見詰め直すという試みをしているのかもしれません。

 

侍の世界を経済の視点で見直すという試みは、辻堂魁の『風の市兵衛シリーズ』でもなされています。

ただ、こちらは痛快時代小説であり、主人公の浪人が「渡り用人」として武士の台所に入り算盤を片手に依頼人の問題を解決していくのです。

本書とは異なり、あくまでも舞台背景として侍の経済面を示しているのであり、本書のように経済の側面から侍の世を見直すということとは異なります。

 

本書『鬼はもとより』では、一点、良く分からないところもありました。それは、抄一郎が女遊びにのめり込んだ時期がある、という設定の持つ意味です。

確かに、女に対して「鬼畜」と呼ばれた抄一郎に対し、その親友で獣(けだもの)と呼ばれた長坂甚八(ながさかじんぱち)が抄一郎の人生の奥底にずっと漂っています。

その点では女遊びの描写も意味を持つのかもしれないのですが、その甚八の存在そのもののこの物語における意味が、今一つ良く分かりません。作者の意図は何なのでしょう。

更には藩の立て直しの仕法を実行する東北の小藩の執政に絡んでも女が語られます。この点もよく分からない。そして、本書の最後の一行も女のことで締められるのです。

こうしてみると、女という存在が抄一郎の芯に何か影響を与えているのかもれません。

 

蛇足ですが、歴史学者の磯田道史氏が東京・神田の古書店で発見した『金沢藩猪山家文書』をもとに著した『武士の家計簿』という本があります。

この本は金沢藩の経理係であった加賀藩御算用者(おさんようもの)の猪山直之という武士の「家計簿」らしいのです。侍の「心構え」や「あるべき姿」などの観念的な側面で捉えられがちな幕末の武士の姿が、実生活という経済面、実体面から捉えているそうで、一度は読んでみたい本です。

 

この『武士の家計簿』は2010年には映画化もされました。テレビで放映されたものを見たのですが、そろばんを通して描かれた侍の姿が絶妙に表現されていたと思います。

春山入り

春山入り』とは

 

本書『春山入り』は、2014年8月に『約定』というタイトルで新潮社から刊行され、2017年4月に新潮文庫から『春山入り』と改題されて288頁の文庫として出版された長編の時代小説です。

全部で六編の短編が収められた著者初の短編集で、侍という存在を青山文平らしいミステリーの手法で描き出した、読みごたえのある作品集でした。

春山入り』の簡単なあらすじ

 

藩命により友を斬るための刀を探す武士の胸中を描く「春山入り」。小さな道場を開く浪人が、ふとしたことで介抱した行き倒れの痩せ侍。その侍が申し出た刀の交換と、劇的な結末を描く「三筋界隈」。城内の苛めで病んだ若侍が初めて人を斬る「夏の日」。他に、「半席」「約定」「乳房」等、踏み止まるしかないその場処でもがき続ける者たちの姿と人生の岐路を刻む本格時代小説の名品。(「BOOK」データベースより)

目次
三筋界隈 | 半席 | 春山入り | 乳房 | 約定 | 夏の日

 

春山入り』の感想

 

本書『春山入り』は、当初は『約定』というタイトルで刊行されましたが、新潮文庫から文庫化されるに際し『春山入り』と改題された短編の時代小説集です。

著者初の短編小説集であって、侍の生きざまをミステリーの手法で描き出してあります。

 

どの物語も、主人公の身近な人物が侍としての矜持を貫くその姿から、主人公自らの姿勢を正す様が描かれています。

例えば表題作の「約定」では、望月清志郎(もちづきせいしろう)という侍が果たし合いの約定の場所に来ない相手をいぶかりながら腹を切ります。

その後、その果たし合いの場所に来なかった相手が、何故に望月はその日その場所で腹を切ったのか、その理由を推し量る様が描かれています。

その考察の前提には自分も望月も侍である、ということがあり、だからこそ腹を切る理由が分からない。次第に、漠然とした理由は浮かんでくるのですが、断定はできないのです。

読者には、望月清志郎が腹を切る前に何故に相手が来ないのか自問する場面が示されていて、そのことが果たし合いの相手方の推量を一段と考えさせるものにしています。

 

このほか「三筋界隈」は生き倒れの浪人、「半席」では矢野作佐衛門の死に様、「春山入り」では幼馴染の島崎鉄平の行動というように、主人公に身近な人の行いを見て主人公が思料する、という形をとっています。

身近な人の心情は明示してはありません。読者は主人公の推量を示されるだけで、主人公の判断が正しいのか否かは読者の判断にゆだねられています。

勿論、主人公がそのように考えるだけの根拠は提示されていて、その推量の根底には侍としての振舞いのあるべき姿があるのです。

 

ほかの短編も侍の姿を追求する好短編ばかりです。

凛としたその文章といい、侍の生き方を追求するその筋立てといい、やはりこの作家の作品は私の好みにぴたりとはまります。

藤沢周平山本周五郎の作品とは異なり硬質ではありますが、同じ様に情感豊かで心に染み入ってくるのです。

前述のように、本書は以前『約定』というタイトルで出版されていましたが、今回の文庫化に当たり改題されたものです。

 

また、本書の中の短編「半席」に、主人公の片岡直人の新たな五編の物語を加えた全六編の短編集として『半席』という新しい短編集が出版されています。

伊賀の残光

伊賀の残光』とは

 

本書『伊賀の残光』は、2013年6月に『流水浮木―最後の太刀―』というタイトルで新潮社から刊行され、2015年9月に新潮文庫から『伊賀の残光』と改題されて336頁の文庫として出版された長編の時代小説です。

還暦を迎えた侍たちの自分確認のための奮闘記であり、自分を重ねつつ読み入ってしまいました。

 

伊賀の残光』の簡単なあらすじ

 

その誇りに、囚われるなー。鉄砲百人組の老武士、山岡晋平。伊賀衆ながら伊賀を知らず、門番の御役目とサツキ栽培で活計を立てていた。だがある日、伊賀同心の友が殺される。大金を得たばかりという友の死の謎を探る中、晋平は裏の隠密御用、伊賀衆再興の企て、そして大火の気配を嗅ぎ取った。老いてこそ怯まず、一刀流の俊傑が江戸に澱む闇を斬る。

 

伊賀の残光』の感想

 

本書『伊賀の残光』は、当初は『流水浮木―最後の太刀―』というタイトルで刊行されましたが、新潮文庫から文庫化されるに際し『伊賀の残光』と改題された長編の時代小説です

 

大久保組伊賀同心の山岡晋平には川井佐吉小林勘兵衛横尾太一、それに今は亡き中森源三という幼馴染がいました。

彼らは門番として忠勤に励んでいますが、ひと月に四、五回程の番以外の日は三十俵二人扶持の生計を補うためにサツキの苗の栽培に勤しむ身でした。

そうしたある日、川井佐吉が殺されてしまいます。佐吉が殺された理由を探るうちに、本来であれば忍びとして隠密御用を勤める身である伊賀衆が、今では門番という身分に甘んじているという事実に屈託を抱えている者の存在が浮かんでくるのです。

 

還暦を過ぎた幼馴染らが自分らの存在意義を確認する、その行為に同じ還暦過ぎの身である私はどうしても感情移入してしまいます。これは同世代の人たちには共通する思いではないでしょうか。

また、幼馴染らが自分確認のために動き回るその様は老骨達の青春記とでも言えると思います。

 

青山文平という人は、「侍が侍として在る」そのことをこれまでの作品で書いておられます。

本書『伊賀の残光』の背景とする時代は「安永」年間という設定です。

この時代は、「武家の存在じたいの矛盾が浮かび上がる」時代であり、「武家はそれぞれに自己のアリバイを模索せざるをえ」ない時代であって、ドラマが生まれ易い時代だと言います。

本書も三十俵二人扶持という軽輩の身とはいえ、自分という存在自体を見つめる武士の物語なのです。

決して派手な物語が展開するわけではありません。あくまで還暦過ぎの初老の男達の自分自身の確認の物語なのです。

 

蛇足ですが、前述のように本書『伊賀の残光』は以前『流水浮木―最後の太刀―』というタイトルで出版されていました。多分ですが、今回の文庫化に当たり改題されたものと思われます。

かけおちる

かけおちる』とは

 

本書『かけおちる』は、2012年6月に文藝春秋から刊行され、 2015年3月に文春文庫から278頁の文庫として出版された、長編の時代小説です。

前著『白樫の樹の下で』で描かれた侍の姿は、本書でもまた姿の異なる侍の在りかたとして同じように描かれていて、私の好みに合致した作品でした。

 

かけおちる』の簡単なあらすじ

 

二十二年前、妻と姦夫を成敗した過去を持つ地方藩の執政・阿部重秀。残された娘を育てながら信じる道を進み、窮乏する藩財政を救う秘策をついに編み出した今、“ある事情”ゆえに藩政を退こうとするがー。重秀を襲ういくつもの裏切りと絶望の果て、明らかになる人々の“想い”が胸に響く、感涙の時代長編。(「BOOK」データベースより)

 

かけおちる』の感想

 

本書『かけおちる』は、侍の生き方を描く青山文平作品の登場人物として、本書でもまた侍の在りかたとして前著同様に描かれていて、私の好みに合致した作品でした。

 

北国にある柳原藩では、執政阿部重秀が藩の財政の立て直しのために行っていた「種川」という鮭の産卵場を人の手で整える作業が実を結びつつあった。

この作業は阿部家の入婿である阿部長英の進言によるものだったが、その長英は江戸詰のため未だ「種川」成功の事実を知らずにいた。

名うての剣士でもある長英は藩の殖産を図らねばならない立場にありながら、江戸中西派一刀流の取立免状を取得することにより自藩の名を高めるべく勤めるしかない自身に悩んでいた。

 

著者の言葉によれば、「かけおちる」とは「欠け落ち」であり「駆け落ち」ですが、本書の「最後の欠け落ち」こそ集団からの脱落を意味する本来の意味での「欠け落ち」だそうで、「カタルシスを醸成」できたそうなのです。

とするならば、この最後に言う「カタルシス醸成」こそ著者の書きたかったことなのでしょうか。

 

本書『かけおちる』でも、戦いをこそ本来の姿とすべき侍が、殖産にその身を捧げなければならない矛盾を問うてあります。

その中で、殖産のために苦悩する男を描きながら、その陰に居る妻の描写はあまりありません。でも、母と娘とで併せて三度の「駆け落ち」をしており、それが殖産事業に苦しむ阿部重秀の苦悩を深くしています。

 

阿部重秀の殖産事業に苦しむ過程の描写は前作『白樫の樹の下で』に劣りません。地方にある藩に居る親と江戸詰の子の、興産にかける侍としての生き様が簡潔な文章で描いてあります。

そして、クライマックスへと向かうのですが、物語の終わりの方で娘の語る言葉こそ本書で著者が書きたかったことではないでしょうか。

そして、最後に「カタルシスを醸成」が出来ているかどうかを是非直接読んで確かめて貰いたいものです。

 

松本清張賞受賞第一作である本書『かけおちる』は前作『白樫の樹の下で』と同じようでいてまた異なるやはり素晴らしい一冊でした。

白樫の樹の下で

白樫の樹の下で』とは

 

本書『白樫の樹の下で』は、2011年6月に文藝春秋から刊行され、2013年12月に文春文庫から269頁の文庫として出版された、長編の時代小説です。

文章は硬質で空気感は濃密でありながら、かなりの透明感をもって読み手に迫ってくると感じる非常に心に残った作品でした。

白樫の樹の下で』の簡単なあらすじ

 

賄賂まみれだった田沼意次の時代から、清廉潔白な松平定信の時代に移り始めた頃の江戸。幕府が開かれてから百八十年余りたった天明の時代に、貧乏御家人の村上登は、道場仲間と希望のない鬱屈した日々を過ごしていたが、ある時、一振りの名刀を手にしたことから物語が動きだします。第18回松本清張賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

 

白樫の樹の下で』の感想

 

本書『白樫の樹の下で』は、江戸時代も中期、侍が侍たり得ることが困難の時代を、なおも侍であろうとした三人の若者の物語です。

「白樫の樹の下で」というタイトルは佐和山道場が白樫の樹の下でにあるところからきています。

 

とにかく硬質でありながら、濃密な空気感をも持った文章です。

第146回直木賞を受賞した『蜩ノ記』を書いた葉室麟の文章も簡潔で格調の高い文章だと思いましたが、この作家の文章の透明感は凄いです。

「人を斬る」というそのことについての懊悩が、叩けば音がするような文章で描写されています。

もちろん、読者は剣のことなど何も知りませんし、当然「斬る」という感覚も知らないのですが、あたかも若者の懊悩が感覚として理解できたかのような感じに打たれます。

 

また、主人公の村上登の前に横たわる想い人の描写などは素晴らしく、そこに「白麻の帷子(かたびら)を着けた佳絵」という人が横たわる場面をそのままに切り取ったかのようで、その臨場感、村上登の心理描写には驚きました。

これまで作家と呼ばれる人たちの文章の凄さには何度か脱帽させられましたが、この青山文平という人の文章も見事としか言いようがありません。

 

更に驚かされたことは、青山文平という人は私と殆ど同世代ということです。

また、二十年ほど前に第十八回の中央公論新人賞をとったことがあるけれども時代小説は本作品が初めてということもそうです。

時代小説の新たな書き手として期待されているという言葉も当然のことだと感じました。

 

本作品『白樫の樹の下で』の物語としての面白さは勿論のこと、どなたか「詩的」な文章と書いておられましたが、日本語の美しさ、表現力の豊かさを思い知らされた一冊でもありました。