虚空の旅人

虚空の旅人』とは

 

本書『虚空の旅人』は『守り人シリーズ』の第四弾で、2001年08月に偕成社からハードカバーで刊行され、2008年7月に新潮文庫から著者のあとがきと小谷真理氏の解説まで入れて392頁の文庫として出版された、長編のファンタジー小説です。

『夢の守り人』に続く『守り人シリーズ』の第四弾である本書は、新たにチャグムを主人公とした作品である「旅人シリーズ」の開始作品でもある、新たな展開が面白い作品でした。

 

虚空の旅人』の簡単なあらすじ

 

隣国サンガルの新王即位儀礼に招かれた新ヨゴ皇国皇太子チャグムと星読博士シュガは、“ナユーグル・ライタの目”と呼ばれる不思議な少女と出会った。海底の民に魂を奪われ、生贄になる運命のその少女の背後には、とてつもない陰謀がー。海の王国を舞台に、漂海民や国政を操る女たちが織り成す壮大なドラマ。シリーズを大河物語へと導くきっかけとなった第4弾、ついに文庫化。(「BOOK」データベースより)

 

虚空の旅人』の感想

 

本書『虚空の旅人』は、主人公がチャグムへと変わり、物語もサンガル王国を舞台に冒険活劇が展開されます。

 

これまではバルサを中心として、バルサの働きを描く冒険活劇の側面が大きい作品でしたが、本書ではそうした流れから一変し、主人公は新ヨゴ皇国の皇子であるチャグムとなります。

そのことは当然のことですが物語の流れも異なってきます。

つまり、これまでは短槍使いのバルサ個人の冒険活劇小説としての色合いが濃い物語だったのですが、本書からは国同士の思惑が絡み合うダイナミックな物語へと変貌し、個人の物語から国同士の戦いの話へと変化していくのです。

もちろん、これまでのシリーズの一巻から三巻までの物語が重要な意味を持ってくることになるし、それらのエピソードの上に新しい視点の物語が展開されていくことになります。

 

父王から疎まれているチャグムは、新ヨゴ皇国の南に位置する海洋王国であるサンガル王国の「新王即位ノ儀」に出席を命じられます。

サンガル王国の王家の出自は海賊であり、海をその生活の場とする海洋国家でした。

星読博士のシュガと共に、サンガル王国へと向かったチャグムは、新王となるカルナン王子やその弟のタルサン王子らに拝謁します。

そこに「ナユーグル・ライタの目」となったという娘のエーシャナが連れてこられます。サンガル国の言い伝えでは海の底の異世界ナユーグルに住むというナユーグル・ライタの民が地上の民の子を通して地上の様子を探るというのです。

この「ナユーグル・ライタの目」は、最終的にはホスロー岬から海へ落とす「魂帰し」という儀式が行われることになっていました。

一方、そんなはるか南の大陸のタルシュ帝国は、サンガル王国へ侵略手掛かりを作っていました。

カルシュ島の「島守り」であり、サンガル王の長女であるカリーナ姫を妻に迎えているアドルや、ノーラム諸島の島守りで次女のロクサーナを妻に迎えているガイルらを支配下に収め、サンガル王国を裏切りらせる段取りを整えていました。

そんな時、タルシュ帝国はサンガル王国の南端の島の近海まで軍船を進めていたのです。

 

作者上橋菜穂子によると、これまではシリーズ化など夢にも思わずに書き綴ってきたものの、本書を書き終えたときは単なる一話完結の物語では済みそうももない「予感」があったそうです。

あくまで「予感」ですから、守り人シリーズの主人公はバルサである以上本書は外伝的な位置づけになるだろうと思い、タイトルも「旅人」としたのだといいます。

結果として、「守り人」と「旅人」は、やがて『天と地の守り人』で交わり、一つの流れとなって完結を向かることになります。

作者は、「多くの異なる民族、異なる立場にある人々が、それぞれの世界観や価値観をもって暮らす世界」を具現化したいと思っていたそうです(以上 文庫版あとがき「全十巻への舵を切った物語」: 参照)。

そして、そうした作者の思いは十分に反映されている物語としてこの物語がここに完成しているのです。

 

本シリーズの魅力として緻密に構築された世界を舞台としているという点が挙げられますが、本書でもサンガル王国という海洋王国の設定が詳細に為されています。

サンガル王国という島々からなる王国は、その島々に王家ゆかりの女性を嫁がせて「島守り」として海の守りを固めていて、この女性らが連携して島々の王家に対する忠誠を守っているという仕組みを持っています。

さらには、船に住まい、海をその生活の場とする自由の民もいて王家とは良好な関係を保っていたのです。

また、新たに異世界としてナユーグルがあり、そこのナユーグル・ライタという民は「ナユーグル・ライタの目」という存在を通して地上を知るという言い伝えを設けています。

こうした新たな国を舞台としてチャグムの冒険が始まるのです。

 

これまでのバルサの冒険とはまた異なりますが、より対極的な視点を持つこの物語もまた心躍る物語でした。

夢の守り人

夢の守り人』とは

 

本書『夢の守り人』は『守り人シリーズ』の第三弾で、2000年5月に偕成社からハードカバーで刊行され、2007年12月に著者のあとがきと養老孟司氏の解説まで入れて348頁の文庫として新潮文庫から出版された長編のファンタジー小説です。

トロガイやタンダ、チャグムなどの『精霊の守り人』に登場してきた人物たちが再び顔を揃える作品となっている、期待に違わない作品した。

 

夢の守り人』の簡単なあらすじ

 

人の夢を糧とする異界の“花”に囚われ、人鬼と化したタンダ。女用心棒バルサは幼な馴染を救うため、命を賭ける。心の絆は“花”の魔力に打ち克てるのか?開花の時を迎えた“花”は、その力を増していく。不可思議な歌で人の心をとろけさせる放浪の歌い手ユグノの正体は?そして、今明かされる大呪術師トロガイの秘められた過去とは?いよいよ緊迫度を増すシリーズ第3弾。(「BOOK」データベースより)

 

夢の守り人』の感想

 

本書『夢の守り人』は、カンバル王国が舞台だったシリーズ第二巻『『闇の守り人』』を経て再び第一巻『精霊の守り人』と同じ新ヨゴ皇国が舞台になっています。

ただ、シリーズ第一巻の『精霊の守り人』で描かれていた異世界であるナユグの描かれ方がより詳しくなっています。

というのも、本書は『精霊の守り人』に登場してきたチャグムらがふたたび顔を揃え、夢の世界即ち異世界へと連れていかれた人たちを助け出そうとする姿が描かれている物語だからです。

そういう意味では、本書の舞台は新ヨゴ皇国ではありますが、物語の本当の舞台はナユグだということもできるかもしれません。

 

 

著者 上橋菜穂子自身のあとがきによれば、本書は「夜の力」と「昼の力」の両方を知り、その狭間に立つことを選んだ人たちの物語、だそうです。

つまりは、現実(昼の力)しか知らない多くの人達と、現実を生きてはいるものの夢(夜の力)の世界へと行くこともできる呪術師であるトロガイタンダら少数の人達との物語なのです。

 

バルサは、サンガル人の狩人の手から助けたユグノという歌い手を隠すためにタンダのもとへと連れていこうとしていました。

しかし、そのタンダは眠ったまま目を覚まさないタンダの姪のカヤの魂を連れ戻すために<魂呼ばい>を試し、何者かにその身体を乗っ取られていたところでした。

また、チャグムもトロガイと会っているという星読み博士のシュガの話を聞き、バルサたちとの暮らしを思い出して夢の世界へ入ったまま目覚めることができなくなっていたのです。

そこに、バルサが助けたユグノは異世界へと繋がる特別な歌い手のリー・トゥ・ルエン〈木霊の想い人〉と呼ばれる人物だったことが分かり、バルサは再び異世界に捕らえられたチャグムらを助ける冒険が始まるのです。

 

本書『夢の守り人』では、呪術師であるトロガイとトロガイの師匠ノルガイとの出会い、そしてトロガイは何故に呪術師へとなったのかが明らかにされます。

そこではやはり「夢」の世界が関係してくるのですが、前巻同様にシリーズを通して語られるサグ呼ばれるこの世とナユグと呼ばれる異世界との関連は未だ明らかにはされていません。

前述のとおり本書はまだシリーズ第三弾であり、作者も本シリーズが最終的に全十巻を越える大河作品になるとは思っていなかった頃の作品です。

従って、物語は単巻で終わっていて、この後のシリーズ作品が他国をも巻き込んだダイナミックな物語展開になるとは予想できないでしょう。

 

とはいえ、本書での単巻で完結する物語の面白さは後の変化に満ちた物語に劣らない面白さを持っています。

というよりも、次巻からの面白さとは質が異なるというべきかもしれません。

今後新たな展開となっていくにしても、これまでの三巻の内容が次巻『虚空の旅人』からの物語展開の基礎となっていて、これまでの物語があってこそその後の物語が深みを持ってくる構成となっています。

本書は本書として十分な面白さを持っていて、さらに今後の展開の下敷きとなっているという点でも重要な展開なのであり、作者の力量が十二分に示された作品だと思います。

闇の守り人

闇の守り人』とは

 

本書『闇の守り人』は『守り人シリーズ』の第二弾で、1999年1月に偕成社からハードカバーで刊行され、2007年6月に新潮文庫から著者のあとがきと神山健治氏の解説まで入れて387頁の文庫として出版された、長編のファンタジー小説です。

『精霊の守り人』に続く『守り人シリーズ』の第二弾である本書は、バルサの生まれ故郷カンバル国へと向かい、バルサの過去が語られます。

 

闇の守り人』の簡単なあらすじ

 

女用心棒バルサは、25年ぶりに生まれ故郷に戻ってきた。おのれの人生のすべてを捨てて自分を守り育ててくれた、養父ジグロの汚名を晴らすために。短槍に刻まれた模様を頼りに、雪の峰々の底に広がる洞窟を抜けていく彼女を出迎えたのは―。バルサの帰郷は、山国の底に潜んでいた闇を目覚めさせる。壮大なスケールで語られる魂の物語。読む者の心を深く揺さぶるシリーズ第2弾。(「BOOK」データベースより)

 

闇の守り人』の感想

 

シリーズ第一巻『精霊の守り人』では、「新ヨゴ皇国」がバルサとチャグムが活躍する舞台でした。

それに対し本書『闇の守り人』ではバルサの故郷であるカンバル王国が舞台となっています。バルサの短槍の師であるジグロの身内に会い、あらためて過去の自分と向き合うために戻ったのでした。

バルサの過去は『精霊の守り人』でも少しだけ語られていましたが、本書でその成り行きが詳しく語られることになります。

 

 

バルサは、本来であればカンバル王国へ戻るために通るべきはずの正式な門ではなく、<山の王>が支配するという迷路めいた洞窟を抜ける道を選んでいました。

そこで、ヒョウル<闇の守り人>に襲われていたカッサジナ兄妹を助けたことからカンバルのある企みにまつわる騒ぎにまきこまれてしまいます。

この洞窟が本書の眼目であるカンバルの地の伝説と深くかかわる洞窟であり、カンバルという国の存続にもかかわる場所だったのです。

 

このカンバル王国の秘密にまつわる話が本書『闇の守り人』の魅力の第一点です。

まず、王国の秘密とはカンバルに伝わる儀式や伝承などにかかわるものであり、文化人類学者である著者上橋菜穂子の本領を発揮する分野です。

前巻の『精霊の守り人』のクライマックスでも同様に伝承が生きる場面がありましたが、日々の暮らしに溶け込んでいる言い伝えなどが持つ本来の意味を教えてくれ、それは私たちの現実の生活でも当てはまるものです。

精霊の守り人』ではこの世(サグ)とは異なるナユグという異世界がこの世と隣り合わせにあるという物語世界の成り立ちが説明がありました。

本書では、それに加え山の王という存在が語られ、同時に、バルサが通ってきた洞窟には<闇の守り人>がいてカンバル王国を守っているという伝説の真の意味も明確にされていきます。

この山の王の話とナユグとの関連は未だ明確ではありませんが、今後明らかにされるのでしょう。

 

そしてもう一つ、本書『闇の守り人』ではバルサの師匠であるジグロの壮絶な生き方に隠された、バルサの父カルナの死の謎やカンバル王国の王の槍と呼ばれる武人たちの存在など、バルサの短槍使いとしての生き方の意味も明らかになります。

ジグロも、カルナを脅し当時の王ナグルを毒殺した王弟ログサムもすでにいないカンバルの地で久しぶりに会った叔母ユーカに話を聞くと、ジグロの弟のユグロが裏切り者とされていたジグロを討ち果たして国宝の金の輪を持ち帰った英雄として称えられていたのです。

バルサの人生はカンバル王国の秘密の上に積み上げられたものであり、今回の帰省によって父カルナや師匠ジグロなどの汚名を晴らすことにもなるのです。

 

こうして、バルサは故郷カンバル王国の危難に立ち合い、これを救うことになります。

一級のファンタジーであり冒険小説である本書『闇の守り人』は、さらに今後の展開をも期待させる物語の序章でもありました。

精霊の守り人

精霊の守り人』とは

 

本書『精霊の守り人』は『守り人シリーズ』の第一弾で、1996年7月に偕成社からハードカバーで刊行され、2007年3月に新潮文庫から恩田陸氏と神宮輝夫氏の解説まで入れて360頁の文庫として出版された、長編のファンタジー小説です。

日本人が書いた日本にルーツを持ったファンタジーとして評価された作品の中の一つであり、大人気シリーズの第一巻目となる作品です。

 

精霊の守り人』の簡単なあらすじ

 

老練な女用心棒バルサは、新ヨゴ皇国の二ノ妃から皇子チャグムを託される。精霊の卵を宿した息子を疎み、父帝が差し向けてくる刺客や、異界の魔物から幼いチャグムを守るため、バルサは身体を張って戦い続ける。建国神話の秘密、先住民の伝承など文化人類学者らしい緻密な世界構築が評判を呼び、数多くの受賞歴を誇るロングセラーがついに文庫化。痛快で新しい冒険シリーズが今始まる。(「BOOK」データベースより)

 

精霊の守り人』の感想

 

本書『精霊の守り人』は、短槍使いのバルサという女性を主人公とした長編のファンタジー小説です。

著者の上橋菜穂子が抱いていた「異界が、人の生きる世界に近々と重なって存在している世界」( 偕成社「守り人」シリーズ 公式サイト : 参照 )というイメージをもとに構築された世界で主人公たちが生き生きと動き回る、十分な面白さを持った物語です。

三十歳の女性の槍使いという設定も独特なものですが、「<精霊>や<神>に思える存在がうごめく異界」が自分たちの生きる世界の隣に存在している世界、という物語世界もまた魅力的です。

 

ただ、『鹿の王』や『香君』などの近時の上橋菜穂子作品を読み終えている今の私には、本書の文章は若干もの足りない印象でもありました。

それは物語世界の造り込みが足りない、ということもあるでしょうし、それ以前の文章そのものの物足りなさもあると思います。

というよりは、作家としての上橋菜穂子の成長の結果の作品が『鹿の王』( 角川文庫全五巻 )や『香君』( 文藝春秋上下二巻 )だと言えるでしょうから、それは読者にとっても幸せなことだというべきなのでしょう。

そうしたことを前提に上橋菜穂子の初期の作品である本シリーズの第一作である本書『精霊の守り人』を見ると、主人公バルサというキャラクターもとても魅力的で、一気に読み終えてしまったのも当然だと思えます。

 

 

まず、何の説明もないままに主人公の女性がとある事件に巻き込まれる場面からこの物語は始まります。

この場面だけで主人公の女性は異国生まれの三十歳のバルサという名の手強い短槍使いであり、この場所は青弓川にかかる鳥影橋の上であって、上流の山影橋からこの国の第二皇子が川に落ちた皇子が何か奇妙な現象に巻き込まれていることが分かります。

続いて始まる第一章で、この国が王制が敷かれている新ヨゴ皇国という名前であり、バルサが助けた第二皇子の名はチャグムと言ってその身体に何か起きていること、そしてその異変のために父王からチャグムが殺されようとしていることなどを聞かされるのです。

そして、チャグムの母親である二ノ妃からチャグムの用心棒を頼まれることになります。

 

青霧山脈や青弓川などの名称から、まるでトールキンの『指輪物語』( 評論社文庫全六巻 )に出てきそうなファンタジー小説にありそうな名称の世界であり、主人公が槍使いの名手であることなどが第一章の始めまでに示されるのです。

 

 

本シリーズでは、主人公たちが日々の生活を送っているサグという世界と、ナユグという目に見えない精霊の世界とが重畳的に存在しているという、ユニークな世界観を有しています。

さらに登場するキャラクターも魅力的で、ファンタジー小説に対して拒否感を持つ人でない限りは誰もが本書のとりこになるだけの作品だと思います。

キャラクターと言えば、主人公バルサの他に、本書での救出当時は新ヨゴ皇国の第二皇子だったチャグムが本シリーズのもう一人の主人公ともいえる存在になるそうです。

また、バルサの幼馴染の呪術師タンダやその師匠のトロガイ、父の親友でバルサの槍の師匠だった短槍の達人ジグロといった魅力的に人物たちが登場します。

一方、新ヨゴ皇国の側にも現時点ではシリーズ内でどのような立場になるのかよく分からない、星読博士のシュガという人物も登場します。

 

こうして、著者自身による文庫本あとがきによれば、著者すらもこれほど長く書き綴るをは思ってもいなかったという物語が始まるのです。

日本初のファンタジーとして、非常に面白い物語で、是非読んでみることを勧めします。

香君

香君』とは

 

本書『香君』は、2022年3月に上・下二巻として刊行された、上下巻合わせて900頁弱の長編のファンタジー小説です。

『鹿の王』で本屋大賞を受賞した著者上橋菜穂子による新たな冒険への旅立ちの書であり、非常に興味深く読んだ作品です。

 

香君』の簡単なあらすじ

 

遥か昔、神郷からもたらされたという奇跡の稲、オアレ稲。ウマール人はこの稲をもちいて帝国を作り上げた。この奇跡の稲をもたらし、香りで万象を知るという活神“香君”の庇護のもと、帝国は発展を続けてきたが、あるとき、オアレ稲に虫害が発生してしまう。時を同じくして、ひとりの少女が帝都にやってきた。人並外れた嗅覚をもつ少女アイシャは、やがて、オアレ稲に秘められた謎と向き合っていくことになる。( 上巻 : 「BOOK」データベースより)

「飢えの雲、天を覆い、地は枯れ果て、人の口に入るものなし」-かつて皇祖が口にしたというその言葉が現実のものとなり、次々と災いの連鎖が起きていくなかで、アイシャは、仲間たちとともに、必死に飢餓を回避しようとするのだが…。オアレ稲の呼び声、それに応えて飛来するもの。異郷から風が吹くとき、アイシャたちの運命は大きく動きはじめる。( 下巻 : 「BOOK」データベースより)

ウマール帝国から帝国支配下の西カンタル藩王国に視察官として派遣されていたマシュウは、西カンタル藩王国のかつての国王だったケルアーンの孫娘であるアイシャとその弟のミルチャを捉えた。

現西カンタル藩王国ヂュークチの前に連れ出されたアイシャは殺される運命を受け入れていたものの、彼女が有する優れた嗅覚により目の前にいる国王が毒殺されようとしている事実を指摘するのだった。

またアイシャはその嗅覚によって自分たちに出された飲み物に毒が入っていることに気付いたものの、そのまま飲み物を飲み干し埋葬されてしまう。

しかし、アイシャ兄弟は毒薬入りの飲み物を飲んだにもかかわらず、マシュウ=カシュガによって助けられたのだった。

 

香君』の感想

 

著者上橋菜穂子が、2015年度の本屋大賞と日本医療小説大賞をダブル受賞した『鹿の王』の次に出版されたファンタジー小説です。

 

 

本書『香君』は、「香り」に焦点を当て、特別な嗅覚をもつ者を主人公としたこれまでにない視点の物語です。

そうした独特な視点のこの物語世界には「香君」という活神の制度があり、帝国国王とは別に国民の信頼を集めています。

この「香君」という制度では、活神の身体が老いると<再来の年>にお告げの場所で十三歳になった新しい香君を見つけるといい、それはまるでチベットにおけるダライ・ラマの制度のようでもあります( 14世ダライ・ラマ法王発見の経緯と輪廻転生制度 : 参照 )。

 

本書『香君』のようないわゆるファンタジーと呼ばれる作品は、殆どの場合はその世界観がそれなりに構築されていて物語を違和感なく読むことができます。

しかし、本書の著者上橋菜穂子が描く作品のように物語世界丁寧に描かれている作品はそうはないと思います。

例えば三部作が映画化もされたファンタジーの名作中の名作である『指輪物語』は分かり易い例の一つでしょう。

 

 

他に日本の作品でいえば『図書館の魔女シリーズ』などの 高田大介の作品が挙げられると思います。

 

 

こうした作品は物語の世界がその世界としてきちんと作り上げられているからこそ、その世界のリアルさを表現していることができていると思うのです。

 

そうしたなかでも上橋菜穂子の描く作品は物語の世界が丁寧に構築してあり、この世界の政治体制や権力のありようが苦労することなく頭に入ってきます。

そのことは上記の『鹿の王』にしても、また本書『香君』においても当てはまり、ウマール帝国を中心とする政治体制とそこに存在する「藩王国」との関係、それに「香君」という特殊な制度の在りようが物語の前提として理解できるのです。

そうした前提は、この丁寧に構築された世界で「香君」が存在する理由も、主人公が冒頭から殺されそうになりつつも、その後の目まぐるしく身分が変転する理由を理解することが容易になります。

 

本書『香君』の魅力はその物語世界の正確性と同時に、上記の「香君」という存在の設定でしょう。

特別な「嗅覚」という能力を持つ者を主人公に据えるという他にはない発想で綴られたこの物語は、作者により丁寧に構築された物語世界のうまさと相まって、読む者に多くの期待を抱かせる作品です。

読んでいる途中では特殊能力を持つ主人公の設定が先にあって、その能力に合わせた世界を考えたのかと思っていたのですが違いました。

作者によるあとがきを読むと、優れた嗅覚を持つ者を主人公としたのではなく、植物や虫が発する香りについての知見が先にあり、その微細な香りをも嗅ぐことのできる能力を有する者という設定ができたのだそうです。

 

そうした設定の中に設けられた「オアレ稲」という物語の道具がまたよく考えられていて、本書の魅力の構築に役立っています。

適当な配合、そして量で作られた秘伝の肥料を与えることを前提に、暑さにも寒さにも、また害虫にも強いという性質をもつこの植物は、その性質のために帝国の存立基盤ともなっている植物なのです。

この「香君」と「オアレ稲」の存在とがこの物語の核であり、サスペンスフルな物語展開の骨子となっています。

つまり、オアレ稲は民を豊かにはしたものの、他の作物が育たなくなるという欠点を有しており、さらには特別な肥料が必要特性も有し、帝国の支配の道具としてうってつけの存在だったのです。

 

こうした作物は戦略的な意義を有していて、私達の現実世界を意識した寓意的な物語ではないかと考えてしまいます。

そんな生々しい現実世界の情勢を背景に垣間見ることのできる本書の物語は、それでもアイシャという少女と香君の存在により、未来を見据え、力強く生きていくことを示してくれています。

切れ者の大人たちの謀りごとを前に、ただ卓越した嗅覚を持つ少女がその能力をフルに生かして皆の幸せを祈り、そして行動していく話ですがその未来への展望が見事です。

 

著者上橋菜穂子の作品では、心に残る言葉が記されていますが、本書においてもそれは変わりません。

自然の摂理は確かに無情だけれど、でも、けっこう公平なものだとか、人には知識や経験から推論を導き、考え、希望を見出す力がある、などというアリキ師の言葉などそうでしょう。

生き物は自分ではどのような存在に生まれるかは選べないが、どんな小さな者も己の役割を担って生きている、などという「香君」オリエの言葉などもそうです。

こうした言葉が本書のあちこちにちりばめられています、だからといって、本書が難しく高尚な言葉を語っているということではありません。

まさにファンタジーとして読みやすい物語のなかに必然的な言葉として散りばめられているのであって、普通に読んでいるままに頭に入ってきます。

 

ただ、本書『香君』は、著者上橋菜穂子の『鹿の王』のような元気のいいアクションの場面はありません。相手は言葉を持たず動くこともない植物であり、人間同士の戦いの場面もありません。

虫との戦いはありますが、彼らも単に本能に従って食べ物を探すだけです。

植物の発する「香り」が主人公のアイシャには、ときには嬉しく、ときには騒がしく「聞こえる」のです。

その植物の香りをもとに推測し、考え、行動するアイシャの姿はアクション場面こそないものの心動かされます。

この点の発想は、多分ですが、日本文化の一つとしてある、香りと出会い向き合う「香道」の「聞く」という言葉から発想されているのでしょう( 香りと出会い、向き合う。聞香・お香の楽しみ方 : 参照 )。

 

でも、そうしたことはどうでもよく、単純に本書『香君』という物語に身を委ね、物語を楽しめばいい、と心から思います。

それほどに面白く、よく考えられた物語です。

鹿の王 水底の橋

本書『鹿の王 水底の橋』は、文庫本で464頁の長編のファンタジー小説です。

2015年本屋大賞を受賞した『鹿の王』の続編となる物語ですが、戦士のヴァンと孤児のユナは登場せず、医術師ホッサルを中心とする物語です。

 

鹿の王 水底の橋』の簡単なあらすじ

 

伝説の病・黒狼熱大流行の危機が去った東乎瑠帝国では、次の皇帝の座を巡る争いが勃発。そんな中、オタワルの天才医術師ホッサルは、祭司医の真那に誘われて恋人のミラルと清心教医術発祥の地・安房那領を訪れていた。そこで清心教医術の驚くべき歴史を知るが、同じころ安房那領で皇帝候補のひとりの暗殺未遂事件が起こる。様々な思惑にからめとられ、ホッサルは次期皇帝争いに巻き込まれていく。『鹿の王』、その先の物語!(「BOOK」データベースより)

 

東乎瑠帝国では皇帝の後継者問題で揺れていた。現皇帝那多瑠帝の娘婿である比羅宇候と、那多瑠帝の弟である由吏候とが次期皇帝候補として有力者として囁かれていた。

皇帝になる人物次第で帝国内でオタワル医術や清心教医術に対する対応が異なっていたため、その争いはホッサルたちにも無関係でありえなかった。

比羅宇候は宮廷祭司医長の最有力候補である津雅那の後ろ盾であるし、由吏候はオタワル医術の庇護者だとみられていたのだ。

そのため、東乎瑠(ツオル)帝国の後継者問題は清心教医師団とオタワル医師団にとっても死活問題であり、ホッサルらもそうした世の動きに巻き込まれ、いやでも政治との関係を考えないわけにはいかないのだった。

 

鹿の王 水底の橋』の感想

 

本書『鹿の王 水底の橋』は、本書だけの独立した物語、といっても過言ではなく、前作を読んでいなくても本書だけで充分面白く読むことができます。

前作では主人公としては戦士のヴァンと孤児のユナがいて、そしてもう一人の主人公として東乎瑠(ツオル)帝国の医術師ホッサルがいました。

本書はその医術師ホッサルひとりが主人公であり、ヴァンらは全く出てきません。

 

そして、医師であるホッサルが主人公ということは、本書のテーマが医療、もしくは生命であることにも繋がります。

前作でも医療についての深い考察がなされ、それが日本医療小説大賞の受賞にも結び付きましたが、本書でも前作に劣らない設定が為されています。

 

本書の帯にも書かれている、「なにより大切にせねばならぬ人の命。その命を守る治療ができぬよう政治という手が私を縛るのであれば、私は政治と戦わねばなりません。」というホッサルの言葉は、俗事に惑わされずに医療に専念したい気持ちを表しています。

こうして、本書ではオタワル医術と、東乎瑠(ツオル)帝国の医術である清心教の宮廷祭司医との対立を中心に、「医療」をテーマに物語が展開するのです。

誤解を恐れずに簡単にまとめると、オタワル医術は究極的には患者の命を救うためにはあらゆる手段を尽くすべきという立場であり、清心教の医師団は、病は人間の体の穢れを原因とするのであり、禁忌を犯して命を救ってもあの世での幸せな後生を得ることはできないとします。

 

ここで大事なのは、両者ともに患者のことを真摯に考え、患者のためにはどうすればいいのかを第一義に考えている点では同じだということです。

単純な善悪二元論ではなく、双方にそれなりの理由が、正義があり、その正義のために自説を曲げずに貫いているのです。

そうした点も含めて、上橋菜穂子という作家の紡ぎだす物語の世界は、物語の社会が見事なまでに構築されています。

トールキンのファンタジーの名作『指輪物語』でも物語の舞台となる世界が、架空の言語まで作り上げられていて、比類なきファンタジーとして成立していたように、上橋菜穂子の紡ぎだす世界は細部まできちんと積み上げられていて、登場人物らの行動もその社会の中で必然として存在しています。

 

 

そうした舞台背景があってこその物語であり、それぞれの立場での主張がそれなりに正当性をもって繰り広げられる様は読んでいてとても心地よいものです。

どちらか一つの価値観だけを押し付けられるのではない、お互いの主張にそれなりの根拠づけがなされ、その上で相手を論破していく。

そうした過程を経て導かれる結論は読み手の心にこれ以上はないほどに迫ってきて、大きな感動をもたらしてくれるのです。

 

本音を言えば、前作の続編として、ヴァンやユナらのその後を読みたい気持ちももちろんあります。しかし、本書は本書として感動的な作品として見事に前作の流れを引き継いでいます。

更なる続編を読みたいというのは作者の苦労を知らない読者の勝手でしょうが、読みたいです。続編を期待します。

鹿の王

本書『鹿の王』は、文庫本全四巻で1270頁弱の長さを持つ長編のファンタジー小説です。

「生命」という壮大なテーマを掲げながらも非常に読みやすい物語であり、また日本医療小説大賞や本屋大賞を受賞した皆に愛されている小説です

 

鹿の王』の簡単なあらすじ

 

強大な帝国・東乎瑠から故郷を守るため、死兵の役目を引き受けた戦士団“独角”。妻と子を病で失い絶望の底にあったヴァンはその頭として戦うが、奴隷に落とされ岩塩鉱に囚われていた。ある夜、不気味な犬の群れが岩塩鉱を襲い、謎の病が発生。生き延びたヴァンは、同じく病から逃れた幼子にユナと名前を付けて育てるが!?たったふたりだけ生き残った父と子が、未曾有の危機に立ち向かう。壮大な冒険が、いまはじまる―!( 第一巻 :「BOOK」データベースより)

謎の病で全滅した岩塩鉱を訪れた若き天才医術師ホッサル。遺体の状況から、二百五十年前に自らの故国を滅ぼした伝説の疫病“黒狼熱”であることに気づく。征服民には致命的なのに、先住民であるアカファの民は罹らぬ、この謎の病は、神が侵略者に下した天罰だという噂が流れ始める。古き疫病は、何故蘇ったのか―。治療法が見つからぬ中、ホッサルは黒狼熱に罹りながらも生き残った囚人がいると知り…!?( 第二巻 :「BOOK」データベースより)

何者かに攫われたユナを追い、“火馬の民”の集落へ辿り着いたヴァン。彼らは帝国・東乎瑠の侵攻によって故郷を追われ、強い哀しみと怒りを抱えていた。族長のオーファンから岩塩鉱を襲った犬の秘密と、自身の身体に起こった異変の真相を明かされ、戸惑うヴァンだが…!?一方、黒狼熱の治療法をもとめ、医術師ホッサルは一人の男の行方を追っていた。病に罹る者と罹らない者、その違いは本当に神の意思なのか―。( 第三巻 :「BOOK」データベースより)

岩塩鉱を生き残った男・ヴァンと、ついに対面したホッサル。人はなぜ病み、なぜ治る者と治らぬ者がいるのか―投げかけられた問いに答えようとする中で、ホッサルは黒狼熱の秘密に気づく。その頃仲間を失った“火馬の民”のオーファンは、故郷をとり戻すべく最後の勝負を仕掛けていた。病む者の哀しみを見過ごせなかったヴァンが、愛する者たちが生きる世界のために下した決断とは―!?上橋菜穂子の傑作長編、堂々完結!( 第四巻 :「BOOK」データベースより)

 

鹿の王』の感想

 

本書が抱えているテーマは「生命」です。そのテーマを展開するためにこの物語の構築している世界は綿密に計算されていて、本書に登場する地方ごとの政治体制や各部族の習俗などが緻密に構築されています。

その世界を主人公ヴァンらが所狭しと活躍します。決して一つの地方だけではなく、構築された物語の世界を縦横無尽に駈けまわり、物語の世界の広大さを感じさせてくれます。

 

上橋菜穂子という作家は、物語の舞台となる架空の世界の構築が非常にうまい作家さんです。基本となる世界感が厳密に構築されているからこそ、その舞台に登場する人物らが生き生きと動き回ることができるのです。

特に本書はそうで、飛鹿(ピュイカ)というカモ鹿に似た動物を乗りこなす、などのファンタジー特有の架空の設定が実にリアリティーを持って読者に迫ってきます。

 

本書にはもう一人の主人公と言ってもいい医術師であるホッサルという人物がいます。この人物を巡っての物語の部分で、より直截的に医療行為についての考察が為されます。

そして、もう一人ヴァンと共に流行り病を生き延びたユマという幼子がいて、本書で重要な役割を担っているのです。

これらの人物の配置は、本書を冒険譚として読み進めるうちに本書のテーマとする「生命のありよう」が自然に読者の心の裡に住みついている、という本書のもつ仕組みの重要な要素となっています。

本書はまた、個々の人間の身体に存在する無数の微生物の活動によって人間の生命活動が維持されているように、個々の人間が集まって社会を形成しつつ生きているというその関係性を小説として組み立てています。

 

こうした描き方は日本のSF界の重鎮でありあの名作『日本沈没』を著わした小松左京が顕著でした。

小松左京という人は壮大なハードSFからコミカルな短編まで様々なジャンルの小説を書かれていますが、アイデアの源泉を人体に求めている短編作品が少なからずあったのです。

 

 

その点では半村良にも人体の仕組みをモデルにした作品がありましたが、残念ながら小松左京の作品も半村良の作品もタイトルを覚えていません。

 

本書は宗教の側面も考えられています。それは、ホッサルらの治療行為を神の意思に反するものとして受け入れない帝国の医師団として設定されています。

このことは現実にもキリスト教の一つの派の中に似たような考え方をする人らがいて問題となりました。

 

このように多くの問題提起を含む本書ですが、先にも述べたように、示されているテーマなど考えずにただ一遍の冒険譚としてみても非常な面白さを持った作品です。

単純に主人公ヴァンらの冒険譚として十分以上に面白い物語なのです。

だからこそ本屋大賞も受賞し、加えて日本医療小説大賞をも受賞しているのだと思われます。

 

ちなみに、本書には『鹿の王 水底の橋』という続編が出版されました。

この続編ではオタワルの天才医術師ホッサルが主人公であり、戦士のヴァンと孤児のユナは全く登場しません。ヴァンやユナのその後の物語も是非読みたいものです。

 

 

また電子書籍版での合本版も、Amazon Kindl版、Rakuten kobo版ともに出版されています。

 

 

さらに、2022年2月4日に本書を原作とするアニメ映画が「鹿の王 ユナと約束の旅」というタイトルで公開されます。詳しくは下記サイトを参照してください。

 

精霊の守り人 [ DVD ]

女用心棒のバルサは新ヨゴ国の王子チャグムが川に転落したところへ通りかかり、命を救った。宮殿に連れて行かれたバルサは、妃から「王子を連れて逃げてほしい」と頼まれる。チャグムには精霊の卵が宿ったが、その精霊は悪しき魔物と言われており、帝から暗殺されようとしていると言うのだ。やむなくチャグムを連れて逃亡するバルサ。バルサは闘い、生きる厳しさと身を守る術をチャグムに教えていく。シーズン1DVD-BOX。(「Oricon」データベースより)

 

綾瀬はるか主演のNHKテレビドラマのDVDBOXです。

獣の奏者エリン [ DVD ]

崇高な獣“王獣”と心を通わせた少女・エリンが、その類まれな才能ゆえに王国の勢力争いに巻き込まれ、波乱万丈の人生を送ることになり…。『精霊の守り人』の上橋菜穂子による巨編ファンタジー『獣の奏者』を、高いクオリティで定評のあるProduction I.Gとトランス・アーツの制作でTVアニメ化。第1話から第4話までを収録。(「Oricon」データベースより)

 

DVD12巻。全50話。未見です。