流れ行く者

流れ行く者 』とは

 

本書『流れ行く者』は『守り人シリーズ』の第八弾で、2008年04月に偕成社からハードカバーで刊行され、2013年8月に新潮文庫から著者のあとがきと幸村誠氏の解説まで入れて301頁の文庫として出版された、長編のファンタジー小説です。

 

流れ行く者 』の簡単なあらすじ

 

王の陰謀に巻き込まれ父を殺された少女バルサ。親友の娘である彼女を託され、用心棒に身をやつした男ジグロ。故郷を捨て追っ手から逃れ、流れ行くふたりは、定まった日常の中では生きられぬ様々な境遇の人々と出会う。幼いタンダとの明るい日々、賭事師の老女との出会い、そして、初めて己の命を短槍に託す死闘の一瞬ー孤独と哀切と温もりに彩られた、バルサ十代の日々を描く短編集。(「BOOK」データベースより)

題名
浮き籾 | ラフラ〈賭事師〉 | 流れ行く者 | 寒のふるまい

 

流れ行く者 』の感想

 

本書『流れ行く者 』は、十代のバルサを主人公とした、バルサの短槍の師ジグロとの用心棒をしながらの逃亡の日々を描く、『守り人シリーズ』本編の間隙を埋める番外編に位置づけられる作品集です。

 

第一話 浮き籾」は、トロガイのもとで世話になっていたバルサが、トロガイたちが他出している間にバルサを慕ってくるタンダの相手をしながらタンダの叔父に対する想いをかなえてあげる物語です。

守り人シリーズ』の世界における田舎の生活、風景を緻密に描写しながら、若き二人の日々の生活や、特にタンダのやさしい性格を描きながら村の風習やそこにかかわるバルサの生活をも描き出してあります。

 

第二話 ラフラ〈賭事師〉」は、本書の中で一番最初に書かれた物語だとあとがきに書いてありました。

人けのない酒場に座って賽子を転がしているいる老女とそれを見ているバルサという光景がいきなり頭の中に浮かび、その瞬間に物語の全体像もほぼ出来上がっていたそうです( 著者による『文庫版のあとがき「ひとつの風景」』:参照 )。

ロタ王国のとある酒場に用心棒として雇われているジグロと、酒場の手伝いをしているバルサは、その酒場に雇われている老ラフラ(賭事師)のアズノと知り合います。

アズノはサイコロを使う遊戯であるススットの遣い手であり、バルサともススットを通して知り合ったのです。

この物語は、流れ者の用心棒や賭事師の浮き草のような生活を描き出すとともに、プロとしてのアズノの厳しさを哀しみとともに描き出してあり、特にそのラストは妙に心に残る作品でした。

 

第三話 流れ行く者」は、第二話と同じく明日をも知れぬ用心棒生活を描いてありますが、なかでも直接に自らの命を懸けて依頼人を守るという厳しい暮らしと、用心棒の仲間同士の繋がりが語られています。

特に、ある隊商の護衛士としての旅の中での出来事が、用心棒家業の厳しさを教えてくれるのです。

 

第四話 寒のふるまい」は、ほんの数ページのショートショートともいうべき一編です。

「寒のふるまい」とは、冬の最中の食べ物が乏しい時期に、山の獣たちに食べ物を分けることをいうそうです。

その「寒のふるまい」をもって山に入ることを口実にしてトロガイのもとへと駆けるタンダの姿が描かれている、寂しさが溢れている物語です。

 

全体を通して、父がわりのジグロとの厳しい用心棒生活が描かれている中で、バルサがいかにジグロやトロガイ、そしてタンダらに愛されていたかがよく分かる物語になっています。

その上で、今のバルサの短槍使いとして、また用心棒として一流になっているその背景がよく分かる物語になっています。

単なる冒険ファンタジーの物語を越えた作品として存在するこの『守り人シリーズ』の存在意義をあらためて感じさせてくれる一冊でした。

獣の奏者 外伝 刹那

獣の奏者 外伝 刹那』とは

 

本書『獣の奏者 外伝 刹那』は『獣の奏者シリーズ』の第五弾で、2013年10月に講談社文庫から刊行された、長編のファンタジー小説です。

生命の尊さを、夫婦、親子、恋人などそれぞれの姿を通して描き出した、本編では描くことのできなかった感動に満ちた作品集でした。

 

獣の奏者 外伝 刹那』の簡単なあらすじ

 

エリンとイアルの同棲時代、師エサルの若き日の苦い恋、息子ジェシのあどけない一瞬……。 本編では明かされなかった空白の11年間にはこんな時が流れていた!
文庫版には、エリンの母、ソヨンの素顔が垣間見える書き下ろし短編「綿毛」を収録。
大きな物語を支えてきた登場人物たちの、それぞれの生と性。

王国の行く末を左右しかねない、政治的な運命を背負っていたエリンは、苛酷な日々を、ひとりの女性として、また、ひとりの母親として、いかに生きていたのか。高潔な獣ノ医術師エサルの女としての顔。エリンの母、ソヨンの素顔、そしてまだあどけないジェシの輝かしい一瞬。時の過ぎ行く速さ、人生の儚さを知る大人たちの恋情、そして、一日一日を惜しむように暮らしていた彼女らの日々の体温が伝わってくる物語集。

【本書の構成】
1 文庫版描き下ろし エリンの母、ソヨンが赤子のエリンを抱える「綿毛」
2 エリンとイアルの同棲・結婚時代を書いた「刹那」
3 エサルが若かりし頃の苦い恋を思い返す「秘め事」
4 エリンの息子ジェシの成長を垣間見る「はじめての…」

「ずっと心の中にあった
エリンとイアル、エサルの人生ーー
彼女らが人として生きてきた日々を
書き残したいという思いに突き動かされて書いた物語集です。
「刹那」はイアルの語り、「秘め事」はエサルの語りという、
私にとっては珍しい書き方を試みました。
楽しんでいただければ幸いです。

上橋菜穂子」 (「内容紹介」より)

 

獣の奏者 外伝 刹那』の感想

 

本書『獣の奏者 外伝 刹那』は、全四巻で完結した『獣の奏者シリーズ』の外伝であり、これまで作者がシリーズ本編では描き出す必要性を感じなかった物語を紡ぎ出した作品集です。

獣の奏者シリーズ』の外伝ではあるのですが、本書に収められた作品はそれぞれが物語として独立しており、はっきりとした主張を持っています。

とはいえ、それぞれの作品の前提となる情報はやはり『獣の奏者シリーズ』で提供された情報を前提としているのであり、スピンオフ的な作品と言われるだけの立場ではあります。

しかしながら、本書の各作品は『獣の奏者シリーズ』が抱えているテーマとは異なるテーマを与えられているという点で、外伝という他ないのでしょう。

 

また、通常ならばファンタジー小説は、彼ら登場人物が私たちが暮らすこの世界とは異なる理(ことわり)の中で、与えられた世界の中で生きる姿を描きだすそのストーリーの面白さを楽しむものだと思います。

しかしながら、本書『獣の奏者 外伝 刹那』の場合はそうしたストーリー展開の面白さではなく、母娘や夫婦、恋人同士といった身近な大切な人との在りようを描き出した作品集です。

母親が我が子に抱く愛情を暖かなタッチで描き出す「綿毛」は、『獣の奏者シリーズ』の主人公であるエリンの母親ソヨンが、エリンをその胸に抱いた時の気持ちを、優しくそして情感豊かに描き出してあります。

シリーズの本編では母親のソヨンは物語の開始早々に亡くなってしまい、殆どその情報がありません。しかし、ここでエリンにお乳をあげるソヨンの母親の姿があります。

 

次の「刹那」では、エリンとその夫イアルの夫婦生活、それも二人の子のジェシ誕生にまつわる出来事がイアルの視点で描かれています。

ジェシの誕生に至るこの話のクライマックスは生命の誕生の美しさと怖さが描かれていて、女性の出産という命がけの作業の尊さが表現されています。

この話の終盤に示される、タイトルの「刹那」という言葉に込められた意味が強く胸に迫ってくるのです。

 

秘め事」は、エリンの師でもあるエサルの若かりし時代を描いた物語です。そこにはエリンの命の恩人でもあり育ての親でもあるジョウンの若かりし頃の姿もあります。

何より人を愛すること、そして愛することの尊さが描かれているのです。

 

はじめての…」では、エリンの子育ての姿が描かれます。ジェシの成長を見守る本編での男勝りのエリンとは異なる、母としてのエリンがここにはいるのです。

 

本書『獣の奏者 外伝 刹那』は上橋菜穂子が描く親子の物語であり、恋愛小説です。

母親の自分の子へそそぐ愛情の深さの描き方が実に自然に、暖かく微笑ましく描かれています。

そして上橋菜穂子が描く恋愛小説である本書の「刹那」や「秘め事」には人間の普通の生活の中にふと訪れる異性への小さな想いが見事に言語化されて表現してあります。

自分の感覚として、人を想うという気持ちの描写として、上橋菜穂子の文章は素直に心に染み入ってくるし、納得しています。

人に対する思いやりの視線、論理的に組み立てられ、そのくせ優しさを持った上橋菜穂子の文章の美しさを堪能するしかありません。

蒼路の旅人

蒼路の旅人』とは

 

本書『蒼路の旅人』は『守り人シリーズ』の第六弾で、2005年04月に偕成社からハードカバーで刊行され、2010年8月に新潮文庫から著者のあとがきと大森望氏の解説まで入れて380頁の文庫として出版された、長編のファンタジー小説です。

チャグムが主人公の作品としては『虚空の旅人』に続く作品であり、国家間の思惑なども加味された新たにダイナミックに展開される物語としてバルサの話とはまた違った面白さを持った作品となっています。

 

蒼路の旅人』の簡単なあらすじ

 

生気溢れる若者に成長したチャグム皇太子は、祖父を助けるために、罠と知りつつ大海原に飛びだしていく。迫り来るタルシュ帝国の大波、海の王国サンガルの苦闘。遙か南の大陸へ、チャグムの旅が、いま始まる!-幼い日、バルサに救われた命を賭け、己の身ひとつで大国に対峙し、運命を切り拓こうとするチャグムが選んだ道とは?壮大な大河物語の結末へと動き始めるシリーズ第6作。(「BOOK」データベースより)

 

蒼路の旅人』の感想

 

本書『蒼路の旅人』では、チャグムが主人公となってタルシュ帝国を舞台として冒険物語が繰り広げられます。

これまで、バルサが主人公の作品では「新ヨゴ国」(『精霊の守り人』『夢の守り人』)、「カンバル王国」(『闇の守り人』)、「ロタ王国」(『神の守り人』)が、またチャグムが主人公の作品としては「サンガル王国」(『虚空の旅人』)がそれぞれに物語の舞台として設定されていました。

そしてバルサが主人公の場合は、舞台となっている土地に伝わる伝説と異世界との絡みを中心に、短槍使いのバルサならではの活劇を絡めた物語として構成されていました。

一方、チャグムが主人公の物語では、新ヨゴ皇国の皇子としてのチャグムという立場に応じた国家間の対立を前提とした構成になっています。

そして本書は『虚空の旅人』の続編として、今後の国家間の争いを前にしてのタルシュ帝国が舞台になっているのです。

 

本書『蒼路の旅人』では、サンガル王国からの援軍の要請に対し、チャグムの祖父の海軍大提督トーサに主力軍の三割ほどの艦隊を任せ派遣するという帝の決定に反対し帝の怒りを買ったチャグムは、トーサと共に出陣することを命じられます。

チャグムには護衛兵として<帝の盾>で別名<狩人>と呼ばれる暗殺者のジンユンが同行しており、帝のチャグムへの決別の意思を見ることができるのでした。

本書でのチャグムは、父王の怒りをかった結果従軍することになりますが、サンガル軍にとらわれた後、チャグムの父である帝の命によりチャグム暗殺の任を担っているジンの助けを得てサンガル軍から脱出した後が本来の物語に入ります。

というのも、チャグムはタルシュ帝国の密偵であるアラユタン・ヒュウゴに捕らわれ、タルシュ帝国の実情をその目で見ることになるのです。

このヒュウゴという人物が本書での要となる人物であり、新ヨゴ皇国の母国でもあるタルシュ帝国の枝国となった元ヨゴ皇国の出身だったのです。

チャグムはこの虜囚となった経験により、タルシュ帝国の枝国となることの意味を思い知らされ、同時に新ヨゴ皇国の存続、新ヨゴ皇国の民の平和な生活のためには現在の帝、即ちチャグムの父が如何に障害になっているかをも思い知らされるのです。

 

こうしてチャグムが虜囚となっている間に、タルシュ帝国のハザールラウルという二人の皇子、それにラウル皇子に仕えるヒュウゴの話などを通して、ものの見方の多様性などを学んでいきます。

つまりは、読者は著者上橋菜穂子の「歴史には絶対の視点などなく、関わった人の数だけ視点があり、物語がある。」(文庫版あとがき「蒼い路」:参照)という視点が明確に示されていることに理解が及びます。

ただ、新ヨゴ皇国の民の幸せに帝がいかに障害となっているかを思い知らされたチャグムの決断は哀しみに満ち溢れたものにならざるを得ません。

 

本シリーズは個人の視点が主になるバルサの物語と、ダイナミックな国家間の物語が描かれるチャグムの物語とではかなりその色合いを異にします。

その二つの物語が合流することになる『天と地の守り人』はどのような物語になるのか、楽しみでなりません。

神の守り人 (来訪編・帰還編)


神の守り人』とは

 

本書『蒼路の旅人』は『守り人シリーズ』の第五弾で、2003年07月に偕成社からハードカバーで刊行され、2009年8月に新潮文庫から著者のあとがきと児玉清氏の解説まで入れて来訪編と帰還編とを合わせて629頁の文庫として出版された、長編のファンタジー小説です。

『守り人シリーズ』の世界の中で、ロタ王国を舞台として異世界の神を身に宿す一人の少女を救うために立ち上がったバルサの姿が描かれた、国家のあり方と国と民との関係にまで思いを馳せる雄大な物語です。

 

神の守り人』の簡単なあらすじ

 

女用心棒バルサは逡巡の末、人買いの手から幼い兄妹を助けてしまう。ふたりには恐ろしい秘密が隠されていた。ロタ王国を揺るがす力を秘めた少女アスラを巡り、“猟犬”と呼ばれる呪術師たちが動き出す。タンダの身を案じながらも、アスラを守って逃げるバルサ。追いすがる“猟犬”たち。バルサは幼い頃から培った逃亡の技と経験を頼りに、陰謀と裏切りの闇の中をひたすら駆け抜ける。(来訪編 :「BOOK」データベースより)

(帰還編 :南北の対立を抱えるロタ王国。対立する氏族をまとめ改革を進めるために、怖ろしい“力”を秘めたアスラには大きな利用価値があった。異界から流れくる“畏ろしき神”とタルの民の秘密とは?そして王家と“猟犬”たちとの古き盟約とは?自分の“力”を怖れながらも残酷な神へと近づいていくアスラの心と身体を、ついに“猟犬”の罠にはまったバルサは救えるのか?大きな主題に挑むシリーズ第5作。「BOOK」データベースより)

 

神の守り人』の感想

 

本書『神の守り人』は、ロタ王国を舞台に、アファール神の支配するこの世のむこうにある異界ノユークと、ノユークから流れくる川に住まう恐ろしき神タルハマヤが顕現する中でのバルサの冒険が語られます。

前巻の『虚空の旅人』では、シリーズの流れが国家間の関係までをもの組み入れた流れへと大きく変わったのですが、本書では一旦バルサ個人の冒険物語へと戻った印象があります。

でありながら、物語の根底にはロタ王国の南北の対立が存在しており、その先にはロタ王国の併呑を狙う某大国の存在までも見えてくるのです。

そこには、ロタ王国の南の豊饒な気候と海洋取引に裏付けされた豊かな商人たちの存在と、過酷な北部の気候のもと暮らす民の存在がありました。

さらに北部地方には古くからの伝承を守り生き続けている〈タルの民〉らの存在もまた特別な意義が与えられていて、単なる経済面での対立以上のものもあったのです。

 

ロタ王国に近い都西街道の〈草市〉の立つ宿場町で見かけた兄妹を、ヨゴ人の人身売買組織<青い手>から助けようと様子をうかがっているバルサでしたが、<青い手>の一味は何者かに喉を咬み裂かれ、バルサもまた殺されそうになります。

その後、タンダの古い知り合いの呪術師スファルとその娘シハナたちが、バルサが助けようとした兄妹の妹アスラが抱えている秘密をめぐりアスラを殺そうとしていることを知ったバルサは、兄のチキサをタンダにまかせ、自分はアスラを連れて逃亡することを決意するのです。

バルサたちの逃亡を知ったスファルはタンダたちを味方につけるのが得策と考え、アスラをめぐる秘密を明かすことを選択します。

しかし、シハナはタルハマヤの力を借りようと秘密を抱えるアスラを捉えようとしていたのでした。

シハナは、ロタ王国の王室に伝わる伝説のもと北部地方のタルの民と南部大領主たちとの対立に苦しむロタ王室のヨーサム王の弟イーハン殿下に仕えており、バルサたちも王室を巻き込む陰謀に巻き込まれてしまうのでした。

 

本シリーズでは、新ヨゴ皇国、カンバル王国、前巻のサンガル王国、そして本書『神の守り人』でのロタ王国と、舞台として国を変えた冒険が語られてきました。

その上で各話ごとに異世界とこの世とのつながりが語られていましたが、本書でもまた異界ノユークから流れくる川によりもたらされる豊かで滋養に満ちた水がこの世界にも豊かさがもたらされているとの事実が明らかにされます。

ところが話はそれだけにとどまらず、恐ろしい力をもつ異世界の神タルハマヤをこの世に顕現させようと画策する姿が描かれているのです。

そこで重要な役割を果たすのが、サーダ・タルハマヤに仕えたスル・カシャル<死の猟犬>の子孫であるスファルであり、その娘のシハナだったのです。

 

「バルサは己の歩幅でものを考えるからこそ、地を歩む人々の視線と同じ目線で発想している」のですが、「シハナは大きな構図の中の構成物であるというような発想はしない」のです。

こうして本書『神の守り人』では、先に述べたように単にバルサ個人の冒険譚を越えた物語が展開されています。

作者上橋菜穂子の大局的な視点は、本書のようなファンタジー物語においても多面的なものの見方を示しながらも、ファンタジー小説としてエンターテイメント小説としての面白さを持った作品を提供してくれるています。

 

本シリーズも終わりが近くなっています。シリーズの最後の作品を読むのを待ちかねているのですが、読み終えてしまうのが淋しいような、複雑な気持ちにいます。

虚空の旅人

虚空の旅人』とは

 

本書『虚空の旅人』は『守り人シリーズ』の第四弾で、2001年08月に偕成社からハードカバーで刊行され、2008年7月に新潮文庫から著者のあとがきと小谷真理氏の解説まで入れて392頁の文庫として出版された、長編のファンタジー小説です。

『夢の守り人』に続く『守り人シリーズ』の第四弾である本書は、新たにチャグムを主人公とした作品である「旅人シリーズ」の開始作品でもある、新たな展開が面白い作品でした。

 

虚空の旅人』の簡単なあらすじ

 

隣国サンガルの新王即位儀礼に招かれた新ヨゴ皇国皇太子チャグムと星読博士シュガは、“ナユーグル・ライタの目”と呼ばれる不思議な少女と出会った。海底の民に魂を奪われ、生贄になる運命のその少女の背後には、とてつもない陰謀がー。海の王国を舞台に、漂海民や国政を操る女たちが織り成す壮大なドラマ。シリーズを大河物語へと導くきっかけとなった第4弾、ついに文庫化。(「BOOK」データベースより)

 

虚空の旅人』の感想

 

本書『虚空の旅人』は、主人公がチャグムへと変わり、物語もサンガル王国を舞台に冒険活劇が展開されます。

 

これまではバルサを中心として、バルサの働きを描く冒険活劇の側面が大きい作品でしたが、本書ではそうした流れから一変し、主人公は新ヨゴ皇国の皇子であるチャグムとなります。

そのことは当然のことですが物語の流れも異なってきます。

つまり、これまでは短槍使いのバルサ個人の冒険活劇小説としての色合いが濃い物語だったのですが、本書からは国同士の思惑が絡み合うダイナミックな物語へと変貌し、個人の物語から国同士の戦いの話へと変化していくのです。

もちろん、これまでのシリーズの一巻から三巻までの物語が重要な意味を持ってくることになるし、それらのエピソードの上に新しい視点の物語が展開されていくことになります。

 

父王から疎まれているチャグムは、新ヨゴ皇国の南に位置する海洋王国であるサンガル王国の「新王即位ノ儀」に出席を命じられます。

サンガル王国の王家の出自は海賊であり、海をその生活の場とする海洋国家でした。

星読博士のシュガと共に、サンガル王国へと向かったチャグムは、新王となるカルナン王子やその弟のタルサン王子らに拝謁します。

そこに「ナユーグル・ライタの目」となったという娘のエーシャナが連れてこられます。サンガル国の言い伝えでは海の底の異世界ナユーグルに住むというナユーグル・ライタの民が地上の民の子を通して地上の様子を探るというのです。

この「ナユーグル・ライタの目」は、最終的にはホスロー岬から海へ落とす「魂帰し」という儀式が行われることになっていました。

一方、そんなはるか南の大陸のタルシュ帝国は、サンガル王国へ侵略手掛かりを作っていました。

カルシュ島の「島守り」であり、サンガル王の長女であるカリーナ姫を妻に迎えているアドルや、ノーラム諸島の島守りで次女のロクサーナを妻に迎えているガイルらを支配下に収め、サンガル王国を裏切りらせる段取りを整えていました。

そんな時、タルシュ帝国はサンガル王国の南端の島の近海まで軍船を進めていたのです。

 

作者上橋菜穂子によると、これまではシリーズ化など夢にも思わずに書き綴ってきたものの、本書を書き終えたときは単なる一話完結の物語では済みそうももない「予感」があったそうです。

あくまで「予感」ですから、守り人シリーズの主人公はバルサである以上本書は外伝的な位置づけになるだろうと思い、タイトルも「旅人」としたのだといいます。

結果として、「守り人」と「旅人」は、やがて『天と地の守り人』で交わり、一つの流れとなって完結を向かることになります。

作者は、「多くの異なる民族、異なる立場にある人々が、それぞれの世界観や価値観をもって暮らす世界」を具現化したいと思っていたそうです(以上 文庫版あとがき「全十巻への舵を切った物語」: 参照)。

そして、そうした作者の思いは十分に反映されている物語としてこの物語がここに完成しているのです。

 

本シリーズの魅力として緻密に構築された世界を舞台としているという点が挙げられますが、本書でもサンガル王国という海洋王国の設定が詳細に為されています。

サンガル王国という島々からなる王国は、その島々に王家ゆかりの女性を嫁がせて「島守り」として海の守りを固めていて、この女性らが連携して島々の王家に対する忠誠を守っているという仕組みを持っています。

さらには、船に住まい、海をその生活の場とする自由の民もいて王家とは良好な関係を保っていたのです。

また、新たに異世界としてナユーグルがあり、そこのナユーグル・ライタという民は「ナユーグル・ライタの目」という存在を通して地上を知るという言い伝えを設けています。

こうした新たな国を舞台としてチャグムの冒険が始まるのです。

 

これまでのバルサの冒険とはまた異なりますが、より対極的な視点を持つこの物語もまた心躍る物語でした。

夢の守り人

夢の守り人』とは

 

本書『夢の守り人』は『守り人シリーズ』の第三弾で、2000年5月に偕成社からハードカバーで刊行され、2007年12月に著者のあとがきと養老孟司氏の解説まで入れて348頁の文庫として新潮文庫から出版された長編のファンタジー小説です。

トロガイやタンダ、チャグムなどの『精霊の守り人』に登場してきた人物たちが再び顔を揃える作品となっている、期待に違わない作品した。

 

夢の守り人』の簡単なあらすじ

 

人の夢を糧とする異界の“花”に囚われ、人鬼と化したタンダ。女用心棒バルサは幼な馴染を救うため、命を賭ける。心の絆は“花”の魔力に打ち克てるのか?開花の時を迎えた“花”は、その力を増していく。不可思議な歌で人の心をとろけさせる放浪の歌い手ユグノの正体は?そして、今明かされる大呪術師トロガイの秘められた過去とは?いよいよ緊迫度を増すシリーズ第3弾。(「BOOK」データベースより)

 

夢の守り人』の感想

 

本書『夢の守り人』は、カンバル王国が舞台だったシリーズ第二巻『闇の守り人』を経て再び第一巻『精霊の守り人』と同じ新ヨゴ皇国が舞台になっています。

ただ、シリーズ第一巻の『精霊の守り人』で描かれていた異世界であるナユグの描かれ方がより詳しくなっています。

というのも、本書は『精霊の守り人』に登場してきたチャグムらがふたたび顔を揃え、夢の世界即ち異世界へと連れていかれた人たちを助け出そうとする姿が描かれている物語だからです。

そういう意味では、本書の舞台は新ヨゴ皇国ではありますが、物語の本当の舞台はナユグだということもできるかもしれません。

 


 

著者 上橋菜穂子自身のあとがきによれば、本書は「夜の力」と「昼の力」の両方を知り、その狭間に立つことを選んだ人たちの物語、だそうです。

つまりは、現実(昼の力)しか知らない多くの人達と、現実を生きてはいるものの夢(夜の力)の世界へと行くこともできる呪術師であるトロガイタンダら少数の人達との物語なのです。

 

バルサは、サンガル人の狩人の手から助けたユグノという歌い手を隠すためにタンダのもとへと連れていこうとしていました。

しかし、そのタンダは眠ったまま目を覚まさないタンダの姪のカヤの魂を連れ戻すために<魂呼ばい>を試し、何者かにその身体を乗っ取られていたところでした。

また、チャグムもトロガイと会っているという星読み博士のシュガの話を聞き、バルサたちとの暮らしを思い出して夢の世界へ入ったまま目覚めることができなくなっていたのです。

そこに、バルサが助けたユグノは異世界へと繋がる特別な歌い手のリー・トゥ・ルエン〈木霊の想い人〉と呼ばれる人物だったことが分かり、バルサは再び異世界に捕らえられたチャグムらを助ける冒険が始まるのです。

 

本書『夢の守り人』では、呪術師であるトロガイとトロガイの師匠ノルガイとの出会い、そしてトロガイは何故に呪術師へとなったのかが明らかにされます。

そこではやはり「夢」の世界が関係してくるのですが、前巻同様にシリーズを通して語られるサグ呼ばれるこの世とナユグと呼ばれる異世界との関連は未だ明らかにはされていません。

前述のとおり本書はまだシリーズ第三弾であり、作者も本シリーズが最終的に全十巻を越える大河作品になるとは思っていなかった頃の作品です。

従って、物語は単巻で終わっていて、この後のシリーズ作品が他国をも巻き込んだダイナミックな物語展開になるとは予想できないでしょう。

 

とはいえ、本書での単巻で完結する物語の面白さは後の変化に満ちた物語に劣らない面白さを持っています。

というよりも、次巻からの面白さとは質が異なるというべきかもしれません。

今後新たな展開となっていくにしても、これまでの三巻の内容が次巻『虚空の旅人』からの物語展開の基礎となっていて、これまでの物語があってこそその後の物語が深みを持ってくる構成となっています。

本書は本書として十分な面白さを持っていて、さらに今後の展開の下敷きとなっているという点でも重要な展開なのであり、作者の力量が十二分に示された作品だと思います。

 

闇の守り人

闇の守り人』とは

 

本書『闇の守り人』は『守り人シリーズ』の第二弾で、1999年1月に偕成社からハードカバーで刊行され、2007年6月に新潮文庫から著者のあとがきと神山健治氏の解説まで入れて387頁の文庫として出版された、長編のファンタジー小説です。

『精霊の守り人』に続く『守り人シリーズ』の第二弾である本書は、バルサの生まれ故郷カンバル国へと向かい、バルサの過去が語られます。

 

闇の守り人』の簡単なあらすじ

 

女用心棒バルサは、25年ぶりに生まれ故郷に戻ってきた。おのれの人生のすべてを捨てて自分を守り育ててくれた、養父ジグロの汚名を晴らすために。短槍に刻まれた模様を頼りに、雪の峰々の底に広がる洞窟を抜けていく彼女を出迎えたのは―。バルサの帰郷は、山国の底に潜んでいた闇を目覚めさせる。壮大なスケールで語られる魂の物語。読む者の心を深く揺さぶるシリーズ第2弾。(「BOOK」データベースより)

 

闇の守り人』の感想

 

シリーズ第一巻『精霊の守り人』では、「新ヨゴ皇国」がバルサとチャグムが活躍する舞台でした。

それに対し本書『闇の守り人』ではバルサの故郷であるカンバル王国が舞台となっています。バルサの短槍の師であるジグロの身内に会い、あらためて過去の自分と向き合うために戻ったのでした。

バルサの過去は『精霊の守り人』でも少しだけ語られていましたが、本書でその成り行きが詳しく語られることになります。

 

 

バルサは、本来であればカンバル王国へ戻るために通るべきはずの正式な門ではなく、<山の王>が支配するという迷路めいた洞窟を抜ける道を選んでいました。

そこで、ヒョウル<闇の守り人>に襲われていたカッサジナ兄妹を助けたことからカンバルのある企みにまつわる騒ぎにまきこまれてしまいます。

この洞窟が本書の眼目であるカンバルの地の伝説と深くかかわる洞窟であり、カンバルという国の存続にもかかわる場所だったのです。

 

このカンバル王国の秘密にまつわる話が本書『闇の守り人』の魅力の第一点です。

まず、王国の秘密とはカンバルに伝わる儀式や伝承などにかかわるものであり、文化人類学者である著者上橋菜穂子の本領を発揮する分野です。

前巻の『精霊の守り人』のクライマックスでも同様に伝承が生きる場面がありましたが、日々の暮らしに溶け込んでいる言い伝えなどが持つ本来の意味を教えてくれ、それは私たちの現実の生活でも当てはまるものです。

精霊の守り人』ではこの世(サグ)とは異なるナユグという異世界がこの世と隣り合わせにあるという物語世界の成り立ちが説明がありました。

本書では、それに加え山の王という存在が語られ、同時に、バルサが通ってきた洞窟には<闇の守り人>がいてカンバル王国を守っているという伝説の真の意味も明確にされていきます。

この山の王の話とナユグとの関連は未だ明確ではありませんが、今後明らかにされるのでしょう。

 

そしてもう一つ、本書『闇の守り人』ではバルサの師匠であるジグロの壮絶な生き方に隠された、バルサの父カルナの死の謎やカンバル王国の王の槍と呼ばれる武人たちの存在など、バルサの短槍使いとしての生き方の意味も明らかになります。

ジグロも、カルナを脅し当時の王ナグルを毒殺した王弟ログサムもすでにいないカンバルの地で久しぶりに会った叔母ユーカに話を聞くと、ジグロの弟のユグロが裏切り者とされていたジグロを討ち果たして国宝の金の輪を持ち帰った英雄として称えられていたのです。

バルサの人生はカンバル王国の秘密の上に積み上げられたものであり、今回の帰省によって父カルナや師匠ジグロなどの汚名を晴らすことにもなるのです。

 

こうして、バルサは故郷カンバル王国の危難に立ち合い、これを救うことになります。

一級のファンタジーであり冒険小説である本書『闇の守り人』は、さらに今後の展開をも期待させる物語の序章でもありました。

精霊の守り人

精霊の守り人』とは

 

本書『精霊の守り人』は『守り人シリーズ』の第一弾で、1996年7月に偕成社からハードカバーで刊行され、2007年3月に新潮文庫から恩田陸氏と神宮輝夫氏の解説まで入れて360頁の文庫として出版された、長編のファンタジー小説です。

日本人が書いた日本にルーツを持ったファンタジーとして評価された作品の中の一つであり、大人気シリーズの第一巻目となる作品です。

 

精霊の守り人』の簡単なあらすじ

 

老練な女用心棒バルサは、新ヨゴ皇国の二ノ妃から皇子チャグムを託される。精霊の卵を宿した息子を疎み、父帝が差し向けてくる刺客や、異界の魔物から幼いチャグムを守るため、バルサは身体を張って戦い続ける。建国神話の秘密、先住民の伝承など文化人類学者らしい緻密な世界構築が評判を呼び、数多くの受賞歴を誇るロングセラーがついに文庫化。痛快で新しい冒険シリーズが今始まる。(「BOOK」データベースより)

 

精霊の守り人』の感想

 

本書『精霊の守り人』は、短槍使いのバルサという女性を主人公とした長編のファンタジー小説です。

著者の上橋菜穂子が抱いていた「異界が、人の生きる世界に近々と重なって存在している世界」( 偕成社「守り人」シリーズ 公式サイト : 参照 )というイメージをもとに構築された世界で主人公たちが生き生きと動き回る、十分な面白さを持った物語です。

三十歳の女性の槍使いという設定も独特なものですが、「<精霊>や<神>に思える存在がうごめく異界」が自分たちの生きる世界の隣に存在している世界、という物語世界もまた魅力的です。

 

ただ、『鹿の王』や『香君』などの近時の上橋菜穂子作品を読み終えている今の私には、本書の文章は若干もの足りない印象でもありました。

それは物語世界の造り込みが足りない、ということもあるでしょうし、それ以前の文章そのものの物足りなさもあると思います。

というよりは、作家としての上橋菜穂子の成長の結果の作品が『鹿の王』( 角川文庫全五巻 )や『香君』( 文藝春秋上下二巻 )だと言えるでしょうから、それは読者にとっても幸せなことだというべきなのでしょう。

そうしたことを前提に上橋菜穂子の初期の作品である本シリーズの第一作である本書『精霊の守り人』を見ると、主人公バルサというキャラクターもとても魅力的で、一気に読み終えてしまったのも当然だと思えます。

 


 

まず、何の説明もないままに主人公の女性がとある事件に巻き込まれる場面からこの物語は始まります。

この場面だけで主人公の女性は異国生まれの三十歳のバルサという名の手強い短槍使いであり、この場所は青弓川にかかる鳥影橋の上であって、上流の山影橋からこの国の第二皇子が川に落ちた皇子が何か奇妙な現象に巻き込まれていることが分かります。

続いて始まる第一章で、この国が王制が敷かれている新ヨゴ皇国という名前であり、バルサが助けた第二皇子の名はチャグムと言ってその身体に何か起きていること、そしてその異変のために父王からチャグムが殺されようとしていることなどを聞かされるのです。

そして、チャグムの母親である二ノ妃からチャグムの用心棒を頼まれることになります。

 

青霧山脈や青弓川などの名称から、まるでトールキンの『指輪物語』( 評論社文庫 )に出てきそうなファンタジー小説にありそうな名称の世界であり、主人公が槍使いの名手であることなどが第一章の始めまでに示されるのです。

 

 

本シリーズでは、主人公たちが日々の生活を送っているサグという世界と、ナユグという目に見えない精霊の世界とが重畳的に存在しているという、ユニークな世界観を有しています。

さらに登場するキャラクターも魅力的で、ファンタジー小説に対して拒否感を持つ人でない限りは誰もが本書のとりこになるだけの作品だと思います。

キャラクターと言えば、主人公バルサの他に、本書での救出当時は新ヨゴ皇国の第二皇子だったチャグムが本シリーズのもう一人の主人公ともいえる存在になるそうです。

また、バルサの幼馴染の呪術師タンダやその師匠のトロガイ、父の親友でバルサの槍の師匠だった短槍の達人ジグロといった魅力的に人物たちが登場します。

一方、新ヨゴ皇国の側にも現時点ではシリーズ内でどのような立場になるのかよく分からない、星読博士のシュガという人物も登場します。

 

こうして、著者自身による文庫本あとがきによれば、著者すらもこれほど長く書き綴るをは思ってもいなかったという物語が始まるのです。

日本初のファンタジーとして、非常に面白い物語で、是非読んでみることを勧めします。

香君

香君』とは

 

本書『香君』は、2022年3月に上・下二巻として刊行された、上下巻合わせて900頁弱の長編のファンタジー小説です。

『鹿の王』で本屋大賞を受賞した著者上橋菜穂子による新たな冒険への旅立ちの書であり、非常に興味深く読んだ作品です。

 

香君』の簡単なあらすじ

 

遥か昔、神郷からもたらされたという奇跡の稲、オアレ稲。ウマール人はこの稲をもちいて帝国を作り上げた。この奇跡の稲をもたらし、香りで万象を知るという活神“香君”の庇護のもと、帝国は発展を続けてきたが、あるとき、オアレ稲に虫害が発生してしまう。時を同じくして、ひとりの少女が帝都にやってきた。人並外れた嗅覚をもつ少女アイシャは、やがて、オアレ稲に秘められた謎と向き合っていくことになる。( 上巻 : 「BOOK」データベースより)

「飢えの雲、天を覆い、地は枯れ果て、人の口に入るものなし」-かつて皇祖が口にしたというその言葉が現実のものとなり、次々と災いの連鎖が起きていくなかで、アイシャは、仲間たちとともに、必死に飢餓を回避しようとするのだが…。オアレ稲の呼び声、それに応えて飛来するもの。異郷から風が吹くとき、アイシャたちの運命は大きく動きはじめる。( 下巻 : 「BOOK」データベースより)

ウマール帝国から帝国支配下の西カンタル藩王国に視察官として派遣されていたマシュウは、西カンタル藩王国のかつての国王だったケルアーンの孫娘であるアイシャとその弟のミルチャを捉えた。

現西カンタル藩王国ヂュークチの前に連れ出されたアイシャは殺される運命を受け入れていたものの、彼女が有する優れた嗅覚により目の前にいる国王が毒殺されようとしている事実を指摘するのだった。

またアイシャはその嗅覚によって自分たちに出された飲み物に毒が入っていることに気付いたものの、そのまま飲み物を飲み干し埋葬されてしまう。

しかし、アイシャ兄弟は毒薬入りの飲み物を飲んだにもかかわらず、マシュウ=カシュガによって助けられたのだった。

 

香君』の感想

 

著者上橋菜穂子が、2015年度の本屋大賞と日本医療小説大賞をダブル受賞した『鹿の王』の次に出版されたファンタジー小説です。

 

 

本書『香君』は、「香り」に焦点を当て、特別な嗅覚をもつ者を主人公としたこれまでにない視点の物語です。

そうした独特な視点のこの物語世界には「香君」という活神の制度があり、帝国国王とは別に国民の信頼を集めています。

この「香君」という制度では、活神の身体が老いると<再来の年>にお告げの場所で十三歳になった新しい香君を見つけるといい、それはまるでチベットにおけるダライ・ラマの制度のようでもあります( 14世ダライ・ラマ法王発見の経緯と輪廻転生制度 : 参照 )。

 

本書『香君』のようないわゆるファンタジーと呼ばれる作品は、殆どの場合はその世界観がそれなりに構築されていて物語を違和感なく読むことができます。

しかし、本書の著者上橋菜穂子が描く作品のように物語世界丁寧に描かれている作品はそうはないと思います。

例えば三部作が映画化もされたファンタジーの名作中の名作である『指輪物語』は分かり易い例の一つでしょう。

 

 

他に日本の作品でいえば『図書館の魔女シリーズ』などの 高田大介の作品が挙げられると思います。

 

 

こうした作品は物語の世界がその世界としてきちんと作り上げられているからこそ、その世界のリアルさを表現していることができていると思うのです。

 

そうしたなかでも上橋菜穂子の描く作品は物語の世界が丁寧に構築してあり、この世界の政治体制や権力のありようが苦労することなく頭に入ってきます。

そのことは上記の『鹿の王』にしても、また本書『香君』においても当てはまり、ウマール帝国を中心とする政治体制とそこに存在する「藩王国」との関係、それに「香君」という特殊な制度の在りようが物語の前提として理解できるのです。

そうした前提は、この丁寧に構築された世界で「香君」が存在する理由も、主人公が冒頭から殺されそうになりつつも、その後の目まぐるしく身分が変転する理由を理解することが容易になります。

 

本書『香君』の魅力はその物語世界の正確性と同時に、上記の「香君」という存在の設定でしょう。

特別な「嗅覚」という能力を持つ者を主人公に据えるという他にはない発想で綴られたこの物語は、作者により丁寧に構築された物語世界のうまさと相まって、読む者に多くの期待を抱かせる作品です。

読んでいる途中では特殊能力を持つ主人公の設定が先にあって、その能力に合わせた世界を考えたのかと思っていたのですが違いました。

作者によるあとがきを読むと、優れた嗅覚を持つ者を主人公としたのではなく、植物や虫が発する香りについての知見が先にあり、その微細な香りをも嗅ぐことのできる能力を有する者という設定ができたのだそうです。

 

そうした設定の中に設けられた「オアレ稲」という物語の道具がまたよく考えられていて、本書の魅力の構築に役立っています。

適当な配合、そして量で作られた秘伝の肥料を与えることを前提に、暑さにも寒さにも、また害虫にも強いという性質をもつこの植物は、その性質のために帝国の存立基盤ともなっている植物なのです。

この「香君」と「オアレ稲」の存在とがこの物語の核であり、サスペンスフルな物語展開の骨子となっています。

つまり、オアレ稲は民を豊かにはしたものの、他の作物が育たなくなるという欠点を有しており、さらには特別な肥料が必要特性も有し、帝国の支配の道具としてうってつけの存在だったのです。

 

こうした作物は戦略的な意義を有していて、私達の現実世界を意識した寓意的な物語ではないかと考えてしまいます。

そんな生々しい現実世界の情勢を背景に垣間見ることのできる本書の物語は、それでもアイシャという少女と香君の存在により、未来を見据え、力強く生きていくことを示してくれています。

切れ者の大人たちの謀りごとを前に、ただ卓越した嗅覚を持つ少女がその能力をフルに生かして皆の幸せを祈り、そして行動していく話ですがその未来への展望が見事です。

 

著者上橋菜穂子の作品では、心に残る言葉が記されていますが、本書においてもそれは変わりません。

自然の摂理は確かに無情だけれど、でも、けっこう公平なものだとか、人には知識や経験から推論を導き、考え、希望を見出す力がある、などというアリキ師の言葉などそうでしょう。

生き物は自分ではどのような存在に生まれるかは選べないが、どんな小さな者も己の役割を担って生きている、などという「香君」オリエの言葉などもそうです。

こうした言葉が本書のあちこちにちりばめられています、だからといって、本書が難しく高尚な言葉を語っているということではありません。

まさにファンタジーとして読みやすい物語のなかに必然的な言葉として散りばめられているのであって、普通に読んでいるままに頭に入ってきます。

 

ただ、本書『香君』は、著者上橋菜穂子の『鹿の王』のような元気のいいアクションの場面はありません。相手は言葉を持たず動くこともない植物であり、人間同士の戦いの場面もありません。

虫との戦いはありますが、彼らも単に本能に従って食べ物を探すだけです。

植物の発する「香り」が主人公のアイシャには、ときには嬉しく、ときには騒がしく「聞こえる」のです。

その植物の香りをもとに推測し、考え、行動するアイシャの姿はアクション場面こそないものの心動かされます。

この点の発想は、多分ですが、日本文化の一つとしてある、香りと出会い向き合う「香道」の「聞く」という言葉から発想されているのでしょう( 香りと出会い、向き合う。聞香・お香の楽しみ方 : 参照 )。

 

でも、そうしたことはどうでもよく、単純に本書『香君』という物語に身を委ね、物語を楽しめばいい、と心から思います。

それほどに面白く、よく考えられた物語です。

鹿の王 水底の橋

本書『鹿の王 水底の橋』は、文庫本で464頁の長編のファンタジー小説です。

2015年本屋大賞を受賞した『鹿の王』の続編となる物語ですが、戦士のヴァンと孤児のユナは登場せず、医術師ホッサルを中心とする物語です。

 

鹿の王 水底の橋』の簡単なあらすじ

 

伝説の病・黒狼熱大流行の危機が去った東乎瑠帝国では、次の皇帝の座を巡る争いが勃発。そんな中、オタワルの天才医術師ホッサルは、祭司医の真那に誘われて恋人のミラルと清心教医術発祥の地・安房那領を訪れていた。そこで清心教医術の驚くべき歴史を知るが、同じころ安房那領で皇帝候補のひとりの暗殺未遂事件が起こる。様々な思惑にからめとられ、ホッサルは次期皇帝争いに巻き込まれていく。『鹿の王』、その先の物語!(「BOOK」データベースより)

 

東乎瑠帝国では皇帝の後継者問題で揺れていた。現皇帝那多瑠帝の娘婿である比羅宇候と、那多瑠帝の弟である由吏候とが次期皇帝候補として有力者として囁かれていた。

皇帝になる人物次第で帝国内でオタワル医術や清心教医術に対する対応が異なっていたため、その争いはホッサルたちにも無関係でありえなかった。

比羅宇候は宮廷祭司医長の最有力候補である津雅那の後ろ盾であるし、由吏候はオタワル医術の庇護者だとみられていたのだ。

そのため、東乎瑠(ツオル)帝国の後継者問題は清心教医師団とオタワル医師団にとっても死活問題であり、ホッサルらもそうした世の動きに巻き込まれ、いやでも政治との関係を考えないわけにはいかないのだった。

 

鹿の王 水底の橋』の感想

 

本書『鹿の王 水底の橋』は、本書だけの独立した物語、といっても過言ではなく、前作を読んでいなくても本書だけで充分面白く読むことができます。

前作では主人公としては戦士のヴァンと孤児のユナがいて、そしてもう一人の主人公として東乎瑠(ツオル)帝国の医術師ホッサルがいました。

本書はその医術師ホッサルひとりが主人公であり、ヴァンらは全く出てきません。

 

そして、医師であるホッサルが主人公ということは、本書のテーマが医療、もしくは生命であることにも繋がります。

前作でも医療についての深い考察がなされ、それが日本医療小説大賞の受賞にも結び付きましたが、本書でも前作に劣らない設定が為されています。

 

本書の帯にも書かれている、「なにより大切にせねばならぬ人の命。その命を守る治療ができぬよう政治という手が私を縛るのであれば、私は政治と戦わねばなりません。」というホッサルの言葉は、俗事に惑わされずに医療に専念したい気持ちを表しています。

こうして、本書ではオタワル医術と、東乎瑠(ツオル)帝国の医術である清心教の宮廷祭司医との対立を中心に、「医療」をテーマに物語が展開するのです。

誤解を恐れずに簡単にまとめると、オタワル医術は究極的には患者の命を救うためにはあらゆる手段を尽くすべきという立場であり、清心教の医師団は、病は人間の体の穢れを原因とするのであり、禁忌を犯して命を救ってもあの世での幸せな後生を得ることはできないとします。

 

ここで大事なのは、両者ともに患者のことを真摯に考え、患者のためにはどうすればいいのかを第一義に考えている点では同じだということです。

単純な善悪二元論ではなく、双方にそれなりの理由が、正義があり、その正義のために自説を曲げずに貫いているのです。

そうした点も含めて、上橋菜穂子という作家の紡ぎだす物語の世界は、物語の社会が見事なまでに構築されています。

トールキンのファンタジーの名作『指輪物語』でも物語の舞台となる世界が、架空の言語まで作り上げられていて、比類なきファンタジーとして成立していたように、上橋菜穂子の紡ぎだす世界は細部まできちんと積み上げられていて、登場人物らの行動もその社会の中で必然として存在しています。

 

 

そうした舞台背景があってこその物語であり、それぞれの立場での主張がそれなりに正当性をもって繰り広げられる様は読んでいてとても心地よいものです。

どちらか一つの価値観だけを押し付けられるのではない、お互いの主張にそれなりの根拠づけがなされ、その上で相手を論破していく。

そうした過程を経て導かれる結論は読み手の心にこれ以上はないほどに迫ってきて、大きな感動をもたらしてくれるのです。

 

本音を言えば、前作の続編として、ヴァンやユナらのその後を読みたい気持ちももちろんあります。しかし、本書は本書として感動的な作品として見事に前作の流れを引き継いでいます。

更なる続編を読みたいというのは作者の苦労を知らない読者の勝手でしょうが、読みたいです。続編を期待します。