『獣たちの海』とは
本書『獣たちの海』は2022年2月に刊行された、著者自身による「後記」とシリーズの「資料」を加えて265頁になる文庫本書き下ろしのSF小説です。
『オーシャンクロニクル・シリーズ』の中の一編であり、三篇の短編と一編の中編の物語から構成されている文学性の強い抒情的なSF作品集でした。
『獣たちの海』の簡単なあらすじ
陸地の大半が水没した25世紀。生物船“魚舟”を駆る海上民と陸上政府は、海上都市への移住権をめぐり対立していた。一触即発の危機迫るなか海上都市の保安員と海上民の長の交歓を描く中篇「カレイドスコープ・キッス」、己の生まれた船団を探し続ける“魚舟”の心身の変容を追う表題作ほか、海に暮らすものたちの美しくも激しい生きざまを叙情的に紡ぐ、全篇書き下ろしの“オーシャンクロニクル・シリーズ”中短篇4作。(「BOOK」データベースより)
迷舟
朋ともたないムラサキは、体皮は柘榴石のように濃い赤色でところどころに放射状に白い筋が走っている、まるで海に投げ込まれた一粒の宝石のような迷船を見つけた。
獣たちの海
双子のとして生まれて海に放たれた、「朋」を探して彷徨う一匹の魚舟の物語。
老人と人魚
迷いはぐれたのか、<大異変>後の人類の継承者として深海にいるはずのルーシィが浅瀬にいた。老人はこのルーシィと共に海で死ぬために旅立つのだった。
カレイドスコープ・キッス
都市型世代の最初の海上民の一人である銘は、保安員として、海上都市周辺にいる海上民船団の安全を見守っていた。ある日、マーロの船団の長(オサ)が交代するために、新しい長のナテワナという女性のもとへと連れていかれるのだった。
『獣たちの海』の感想
本書『獣たちの海』は、上田早夕里の人気シリーズ『オーシャンクロニクル・シリーズ』に属する物語です。
本書の説明をするには前提として『オーシャンクロニクル・シリーズ』の世界観を知っておく必要があるでしょう。
簡単にいえば、海面上昇が起きた未来の地球で、環境に応じて地上民と海上民とに別れて生き残っている人類が、最長でも五十年の後には再び起きると予測されている地殻変動に立ち向かう様子が描かれている物語です。
この地殻変動は「大異変」と称されており、地球規模での寒冷化現象が引き起こされ人類は生き残れないと言われています。
そこで、寒冷化に耐えうるために人類を改変し種としての人類を残そうとしているのです。
詳しくは下記サイトに詳しくまとめられているので、そちらを参照してください。
本書『獣たちの海』では、こうした世界のもと、海上民を中心にその社会や一生懸命に生きている人々を主人公とした物語が紡がれています。
特異なのは海上民の生態で、彼らは海で生きていますが、その生活は魚舟という巨大な魚の甲殻内に住み暮らしているのです。
その魚舟の物語として『魚舟・獣舟』という作品があります。
この時代、出産は人工胚に二人の遺伝子情報を注入して人工子宮で育てるだけであり、親の性別に関係なく、同性間でも子供を持つことが可能となっています。
ただ、海上民は医療環境の関係から未だに旧来の方法、つまりは子宮で育て出産しますが、ただ、昔よりもずっと楽な出産になるように、あらかじめ体を改変されています。
また、海上民の場合、子は必ずヒトの姿をした子と、サンショウウオにも似た魚との双子を産みます。
このサンショウウオに似た双子の片割れである魚舟は産まれて一日の後に海に放たれ、将来双子の片割れを探しだして「朋」として共に暮らすことになるのですが、「朋」を見つけられない魚舟は獣舟に変るのです。
この「朋」を持たない海上民の物語が最初の「迷舟」であり、『オーシャンクロニクル・シリーズ』の世界を絵にすることを前提に書かれたそうです。
逆に魚舟の側から描かれたのが第二話の「獣たちの海」で、本書の中では最も古い時期に着想された作品だそうです。
そして、「大異変」後の世界に備えてその生態を改変された人類が「ルーシィ」であり、このルーシィと死を間近に控えたひとりの海上民の老人の物語が、『深紅の碑文』刊行直後(2013年末)からすぐに書きはじめられた第三話「老人と人魚」だと書いてありました。
ちなみに、この老人は先行作品を読んだ者であればすぐに誰だかわかると書いてあるのですが、読んだのが昔なのですぐには分かりませんでした。
最後の「カレイドスコープ・キッス」は、「銘」という名の海上での生活を忘れた海上民の話です。
この銘は、「大異変」に備え人類の生き残りをかけて作られた海上民用の赤道海上都市群のひとつマルガリータ・コリエの第四都市で育った最初の都市型世代の一人です。
こうして本書『獣たちの海』は、あたかも歴史小説が現実の歴史上の間隙を作家の想像力で埋めていく作業であるように、まだ来ていない未来の歴史の間隙を埋めている作品群だと言えます。
そのうえで、作者の上田早百合という人の想像力・文章力が素晴らしいものであるために、物語の中の人物たちが実在の人間であるかのように喜び、哀しみ、苦悩する姿が明確に描き出されています。
だからこそ、その文章に隠された命に対する真摯な思いや、差別や戦いなどを抱えた人間の営みが読み取れるのだと思います。
とはいえ、そうしたメッセージ性は脇においてもSF小説として、またエンターテイメント小説として強烈な魅力を持っているのです。
そうした点においては、私にとっては物語の方向性こそ異なっていますが、『鹿の王』(全五巻)という作品で本屋大賞を受賞した上橋菜穂子を思い出す作家でもありました。
この『オーシャンクロニクル・シリーズ』というシリーズ自体が壮大なスケールを持つ物語であり、既刊として『魚舟・獣舟』『華竜の宮』『深紅の碑文』『夢みる葦笛』といった読み応えのある作品が出版されています。
本書での著者上田早夕里自身による「後記」によれば、『華竜の宮』『深紅の碑文』という長編に組み込めなかった四つのエピソードが収録されているそうです。
また、それぞれの物語について簡単な説明があり、それが上記の各話の説明の中に織り込んであります。
本『オーシャンクロニクル・シリーズ』は発表はされたもののまだ出版されていないもの、まだ書かれていないもの、出版されていないのに図書館に入っていないもの、などがあり全部を読めているわけではありません。
続巻の出版を期待したいし、図書館にも入れてほしいものです。