『木挽町のあだ討ち』とは
本書『木挽町のあだ討ち』は、2023年1月に272頁のハードカバーで新潮社から刊行された長編の時代小説です。
第169回直木三十五賞や第36回山本周五郎賞を受賞した作品だけあって、一読して一気に虜になった作品でした。
『木挽町のあだ討ち』の簡単なあらすじ
疑う隙なんぞありはしない、あれは立派な仇討ちでしたよ。芝居町の語り草となった大事件、その真相はーー。ある雪の降る夜に芝居小屋のすぐそばで、美しい若衆・菊之助による仇討ちがみごとに成し遂げられた。父親を殺めた下男を斬り、その血まみれの首を高くかかげた快挙は多くの人々から賞賛された。二年の後、菊之助の縁者という侍が仇討ちの顚末を知りたいと、芝居小屋を訪れるがーー。現代人の心を揺さぶり勇気づける令和の革命的傑作誕生!(内容紹介(出版社より))
『木挽町のあだ討ち』の感想
本書『木挽町のあだ討ち』は、「木挽町の仇討ち」と呼ばれている事件について、複数の人物の証言によって新たな視点を与えようとする物語です。
具体的には、誰もが見事だったという衆人環視の中で成し遂げられた仇討ちについて、その裏側に隠された物語が次第にあぶり出されていくというミステリー仕立ての作品です。
この時代の江戸の町には、幕府から芝居興行を許されている芝居小屋が三つありました。堺町の中村座、葺屋町の市村座、そして本書の舞台となっている木挽町の森田座で、これを「江戸三座」といいます。
本書では、そのそれぞれに控櫓なるものも存在するなど詳しいことも説明してありますが、ここでは不要なので省略します。
重要なのは、芝居小屋が集められている芝居町が、色里である吉原遊郭とは別の芝居が好きな江戸の民の娯楽街でもあって、同様に「悪所」と呼ばれる場所だったということであり、この物語がそこで暮らす人々の物語だということです。
本書『木挽町のあだ討ち』の冒頭に、「鬼笑巷談帖」の中の一文として「木挽町の仇討」と題した文章が紹介されています。
睦月晦日の戌の刻に、赤い振袖を被き傘を差した若衆が、近寄ってきた博徒の作兵衛に対し名乗りを上げ、返り血で真っ赤に染まった白装束で作兵衛の首級を上げた、というのです。
本書は、この仇討の顛末を知りたいと森田座を訪れてきた十八歳になる若武者が、この仇討の目撃者に話を聞いて回る様子が描かれているのです。
その目撃者、つまりは語り部を登場順に挙げていくと、一人目が吉原で生まれ育ち、太鼓持ちとして生きていた末に森田座の呼び込みとして生きている木戸芸者の一八でです。
二人目が相良与三郎という浪人者です。与三郎が十八の頃に通っていた道場主や父親が、仕官のために悪を見逃せといったことに絶望し、放浪の末に森田座での立師という居場所を見つけたのです。
三人目は芳澤ほたるです。火葬場の穏亡であった過去を持っていましたが、初代の芳澤ほたるに助けられて芝居小屋で仕事をするようになり、初代芳澤ほたるからその名を譲り受けたものです。
四人目は芝居の小道具を作る、「阿吽の久蔵」と言われるほど寡黙な久蔵とその妻のお与根です。
五人目は旗本の次男坊だった篠田金治という戯作者です。遊んでいても食う寝るところに困ることはない自分の生き方に疑問を抱き、上方へ行って並木五平に弟子入りをして筋書となった人物です。
前述のとおり本書『木挽町のあだ討ち』は、ある聞き取り人がいて、その人物の問いに対して章ごとに答える人が変わっていく、という構成になっています。
ただ、本書の場合、聞き取り人(インタビュアー)は質問に応えている人自身の来歴まで知りたがっていて、それは異なるところです。
その相違点はそのままに本書全体の構成へと繋がっていき、『壬生義士伝』では、複数の人物の話を聞くことで主人公の吉村貫一郎という人物像を浮き上がらせていきますが、本書の場合、木挽町で行われた仇討ちの実相を明らかにしようするミステリーになっているのです。
多視点の物語としては、浅田次郎には『赤猫異聞』など少なくない作品がありますが、他の作家にも松井今朝子の『吉原手引草』や、木内昇の『新選組 幕末の青嵐』などがすぐに思い浮かびます。
一方、本書の背景となっている芝居関連の作品にも読みごたえのある作品が多くあります。
上に挙げた『吉原手引草』』は吉原の生活を詳しく描き出した作品ですが、同じ松井今朝子の『道絶えずば、また』を完結編とする『風姿花伝三部作』なども歌舞伎の世界を描き出した作品で、非常に面白く読んだ作品でした。
そうした小説手法はともかく、本書『木挽町のあだ討ち』が語り手個人の来歴まで語ることによって、当時の時代背景や庶民、そして侍の暮らしなども描き出し、加えて芝居の魅力についてまで浮かび上がらせている点は魅力的です。
さらに言えば、当たり前でもありますが、それぞれの語りが見事な人情短編にもなっている点に個人的には惹かれます。
例えば第一章の物語は、廓に生まれ育ち、生き抜いていく一八に対し、幇間の師匠の左之助が「ここにいたらお前さんはお前さんの胸の内を見捨てることになっちまう」とかけた言葉に表されているように、上質の人情物語になっているのです。
そうした物語が集まって、全体としてミステリーを構成しているのですから面白い筈です。
ただ、このミステリーとしての本書は途中で何となくその意図が判ります。しかし、そのことは本書の面白さに何の影響も与えません。
それは、本書の謎の細かなところまでが判明するわけでもないこと、それに最後に明らかになる謎は読み手のもう一段上を行っていること、などにあるからでしょう。
著者の永井紗耶子は、『女人入眼』も167回直木賞の候補作となっていたのですが、本書『木挽町のあだ討ち』で第169回直木賞を受賞されました。
以前も面白い作家さんが登場してきたと思ったのですが、近頃面白いと思った青山文平や砂原浩太朗といった私好みの時代小説作家作家さんたちに新たに一人加わったと考えてもいいのかもしれません。