一路

失火により父が不慮の死を遂げたため、江戸から西美濃・田名部郡に帰参した小野寺一路。齢十九にして初めて訪れた故郷では、小野寺家代々の御役目・参勤道中御供頭を仰せつかる。失火は大罪にして、家督相続は仮の沙汰。差配に不手際があれば、ただちに家名断絶と追い詰められる一路だったが、家伝の「行軍録」を唯一の頼りに、いざ江戸見参の道中へ!( 上巻 : 「BOOK」データベースより)

中山道を江戸へ向かう蒔坂左京大夫一行は、次々と難題に見舞われる。中山道の難所、自然との闘い、行列の道中行き合い、御本陣差し合い、御殿様の発熱…。さらに行列の中では御家乗っ取りの企てもめぐらされ―。到着が一日でも遅れることは御法度の参勤交代。果たして、一路は無事に江戸までの道中を導くことができるのか!( 下巻 :「BOOK」データベースより)

 

ユーモア満載の、浅田次郎らしい長編の時代小説です。

 

十九歳まで江戸表で暮らしていた小野寺一路は、父弥九郎の突然の死去により、参勤交代の御供頭を勤めることとなった。

しかし、一路は御供頭の仕事について何も教えられてはおらず、また、貧乏くじを引くのを恐れて誰も手伝ってもくれない。

途方に暮れる一路だったが、屋敷の焼け跡から見つけた「元和辛酉歳蒔坂左京大夫様行軍録」と記された冊子頼りに、古式に則った参勤交代を行うことを決意するのだった。

 

この物語は、コメディ小説と言えるのでしょう。しかし、何となく、コメディと言い切ってしまうにはためらいを感じる、そんな小説です。

確かに、この物語では先祖の残した「行軍録」をもとに繰り広げられるドタバタ劇が展開されるし、更には馬が会話をし、鯉がひとりごちる場面があります。また、敵役の蒔坂将監の行いも、行列の成り行きが思惑とは異なって行くことからドタバタ劇が展開されます。そうした意味では、この物語はコメディ小説と言えるとは思います

しかし、小野寺一路の仕える蒔坂左京大夫(まいさかさきょうのだいぶ)の振舞いも、小野寺一路本人の行いも単純に笑い飛ばせないものがあります。武士とは、侍とは、という浅田次郎の大きなテーマの前で登場人物たちも必死に考え、行動していて、結果としてその様はコミカルなのです。そういう意味では、あの『フーテンの寅さん』のような人情喜劇と言うべきなのかもしれません。

単純なギャグではない、素の人間の、人間としての振舞いのもたらすおかしさこそが浅田次郎の、浅田次郎たる所以なのでしょう。

 

ただ、浅田次郎の他の作品と比べると若干完成度は下がるかなと感じました。他の作品と比べるとどこか満たされません。

壬生義士伝』などの『新選組三部作』や『天切り松 闇がたりシリーズ』という一級の作品程には達していないと思いますし、侍のあり方というテーマも『黒書院の六兵衛』の方がより直接的だったように思います。

ストーリー自体も、思いのほかに一路の思惑通りに行列が進み、意外性が余りありませんでした。人物設定にしても、蒔坂左京大夫が利発な自分を押し隠しているさまも、また敵役として登場する蒔坂将監も、夫々に登場人物として魅力が今一つのなのです。

 

ただ、浅田次郎の作品ですので作品の完成度に対する私の要求がかなり高くなっています。そうした要求を差し引いて見ると、そこはやはり浅田次郎の物語であり、面白く読めました。

きんぴか

本書『きんぴか』は、浅田次郎のごく初期のユーモア長編小説ですが、浅田次郎の泣かせ方や、見せ場の盛り上げ方などは既に備わっています。

全体として一本の長編ではあるのですが、各章が短編としても読めるエピソードで構成されている、まさに浅田次郎の物語といえる楽しく読める作品です。

阪口健太、通称ピスケン。敵対する組の親分を殺り13年刑務所で過ごす。大河原勲、通称軍曹。湾岸派兵に断固反対し、単身クーデターを起こした挙句、自殺未遂。広橋秀彦、通称ヒデさん。収賄事件の罪を被り、大物議員に捨てられた元政治家秘書。あまりに個性的で価値観もバラバラな3人が、何の因果か徒党を組んで彼らを欺いた巨悪に挑む!悪漢小説の金字塔。(第一巻 「BOOK」データベースより)

きんぴかシリーズ(全三巻 完結)

  1. 三人の悪党
  2. 血まみれのマリア
  1. 真夜中の喝采

 

やっとシャバに出てきたヤクザ「ピスケン」、自殺未遂を起こした元自衛隊員の「軍曹」、そして大物政治家の収賄の罪を被った元大蔵キャリア「ヒデさん」の三人は、第一巻の冒頭で、退職間際の刑事「マムシの権佐」と引き合わされることからこの物語は始まります。

この作品も他の作品と同じく、荒唐無稽ではあるけれども、江戸っ子堅気に見られる「粋」や「義」で貫かれた、不器用とも言える「男気」の物語であって、これは即ち浅田次郎の基本であるようです。

 

第二巻目『血まみれのマリア』では阿部マリアの救急救命センターでの看護師長としての活躍が描かれていますが、このマリアはその後に『プリズンホテル』でも登場し読者の涙を誘います。

つまり本書『きんぴか』は、直接には『プリズンホテル』や『天切り松 闇がたりシリーズ』に連なる作品と言えるでしょう。

 

 

ただ、男気にあふれる三人の夫々の夫婦や家族の物語は、「粋」や「義」という「男の意地」の物語であって、それは『壬生義士伝』での吉村貫一郎の家族への思いや、『黒書院の六兵衛』の的矢六兵衛の行動にも通じていると言えそうです。

ただ、本書『きんぴか』はごく初期の作品であるがために、脂の乗った現在の作品である上記の『黒書院の六兵衛』程の完成度が無いのは仕方がなく、そのレベルを要求するわけにはいきませんが、あらためて現在の浅田次郎か書いた『きんぴか』の三人の物語を読みたいものです。

 

憑神

神頼みのはずが、現れたのは三人の災いの神だった-。
時は幕末。別所彦四郎は、下級武士とはいえ、代々将軍の影武者をつとめてきた由緒ある家柄の出。幼いころより文武に優れ、秀才の誉れ高かった彦四郎だが、戦のない平和な世においては影武者の出番などあるはずもなく、毎日暇をもてあますばかり。出世はもはや神頼みしかないと、すがる思いで祈ったお稲荷はなんと災いの神をよびよせるお稲荷様だった―。どこか憎めなくも必殺の労災力を持つ、貧乏神・疫病神・死神の三人の神に取り憑かれる彦四郎。人生のツキに見放され、不幸の神様にとりツカれ愛されてしまった男の運命は?( Amazon【ストーリー】参照 )

 

この作品にも西田敏行という名前があり、原作が浅田次郎ということで見る気になりました。西田敏行さんの出番は少なかったのですが、この映画も楽しめた映画でした。

 

しかし、その後原作を読んだ後に再度DVDを見るとやはり少々物足りない映画だった、と言わざるを得ません。

全般的に原作のイメージを損なわずに作られているとは思うのですが、詰め込み過ぎなのでしょうか。少なくない個所で、原作での夫々の台詞の持つ「意味」に気付かされたのです。

もう少し、その言葉を発する意味を分かりやすく描写してあれば、と思わざるを得ませんでした。特に最後の場面は少々雑に過ぎる印象しか残りませんでした。

憑神

浅田次郎著の『憑神』は、実にコミカルで読みやすく、それでいて読了時には幕末の武士の存在について思いを馳せることになる、浅田次郎らしい長篇時代小説です。

 

時は幕末、処は江戸。貧乏御家人の別所彦四郎は、文武に秀でながら出世の道をしくじり、夜鳴き蕎麦一杯の小遣いもままならない。ある夜、酔いにまかせて小さな祠に神頼みをしてみると、霊験あらたかにも神様があらわれた。だが、この神様は、神は神でも、なんと貧乏神だった!とことん運に見放されながらも懸命に生きる男の姿は、抱腹絶倒にして、やがては感涙必至。傑作時代長篇。(「BOOK」データベースより)

 

貧乏御家人の別所彦四郎は小十人組組頭でしたが、配下の者のしくじりにより職務も、婿としての立場も無くしてしまい、今は部屋住みの身分でした。

ある日、ほろ酔い気分で三巡稲荷と読める小さな祠に手を合わせたところ、貧乏神に取りつかれる羽目に陥ってしまいます。何とか”宿替え”という秘法により貧乏神のとり憑く先を変え、何とかその場を逃れた彦四郎だったのですが・・・。

 

この物語の重要な登場人物の一人である村田小文吾は、普段は少々間の抜けた男なのですが一種の神力を持っています。物語の当初に、この小文吾を加えた貧乏神との三人のやり取りはまるで落語の一場面を見ているようで、軽妙な面白さにあふれています。

貧乏神を追い払った後、今度は疫病神が現れ、彦四郎本人、そして周りの人々は疫病神の仕業に振り回さることになります。この間、彦四郎は自らの役務、ひいては武士というものの存在について考えるようになるのでした。

 

この過程の描写は実に細やかです。主人公の別所彦四郎は、御徒士(おかち)組の小十人組組頭という設定です。文庫本のあとがきの磯田道史氏によると、この御徒士組の描写は、浅田次郎が実在した御徒士の懐旧談が載っている「幕末の武家」という本を読み込まれて書かれたそうで、その暮らしぶりの描写はそれなりに根拠があるそうです。

このような具体的な資料に裏打ちされた文章ですので、ユーモラスに描かれている主人公の行動やお徒士と呼ばれる武士たちの行いも真実味にあふれています。

 

物語も後半になると彦四郎の武士道というものに対する考察も、より深いものになっていきます。それとともに前半のコミカルな描写は少しずつ影をひそめて行きます。

最終的に浅田次郎の武士道についての考えが示されていて、読み手の心に心地よい感動を残すのです。

 

この浅田次郎の幕末における武士のあり方、についての考察は、後に書かれることになる『黒書院の六兵衛』へと連なっていきます。また『流人道中記』もこの流れにある作品ではないでしょうか。

 

 

 

数年前に見た「憑神」映画で得た印象とは異なる作品でした。あの映画は今思えばユーモラスなストーリーに焦点を当てた作品として作られたということなのでしょう。

 

黒書院の六兵衛

新撰組三部作のような重厚な江戸城引渡し劇を期待して読み始めたのですが、思惑が外れました。浅田次郎お得意のファンタジーとまでは言いませんが、それに近い、寓意的なミステリー小説でした。

しかし、小説としての面白さは『新撰組三部作』に匹敵する物語であり、最後には大きな感動が待っていました。
 

江戸城明渡しの日が近づく中、てこでも動かぬ旗本がひとり━━。
新政府への引き渡しが迫る中、いてはならぬ旧幕臣に右往左往する城中。ましてや、西郷隆盛は、その旗本を腕ずく力ずくで引きずり出してはならぬという。外は上野の彰義隊と官軍、欧米列強の軍勢が睨み合い、一触即発の危機。悶着など起こそうものなら、江戸は戦になる。この謎の旗本、いったい何者なのか―。
周囲の困惑をよそに居座りを続ける六兵衛。城中の誰もが遠ざけ、おそれ、追い出せない。
そんな最中、あれ? 六兵衛の姿が見えぬ!?勝海舟、西郷隆盛をはじめ、大物たちも顔をだす、奇想天外な面白さ。……現代のサラリーマンに通じる組織人の悲喜こもごもを、ユーモラスに描いた傑作。( 上巻 : 「BOOK」データベースより)

天朝様が江戸城に玉体を運ばれる日が近づく。が、六兵衛は、いまだ無言で居座り続けている……。虎の間から、松の廊下の奥へ詰席を格上げしながら、居座るその姿は、実に威風堂々とし日の打ち所がない。それは、まさに武士道の権化──。だが、この先、どうなる、六兵衛!
浅田調に笑いながら読んでいると、いつの間にか、連れてこられた場所には、人としての義が立ち現れ、思わず背筋がのび、清涼な風が流れ込んでくる。奇想天外な面白さの傑作です。( 下巻 : 「BOOK」データベースより)

 

江戸城引渡しに備え、官軍入城に先立っての露払いとして尾張徳川家の徒組頭加倉井隼人が選ばれた。早速に江戸城西の丸御殿に行くと、待っていた勝海舟に打ち明けられたのは、未だ一人の侍が立退かずにいる、ということだった。

外には官軍がひしめいており、官軍総大将の西郷からは「些細な悶着も起こすな」と言われているため、力を使うこともならず、途方に暮れるのみだった。

 

西の丸御殿に居座っている侍は何者なのか、という謎の解明だけで展開される上下二巻の大作です。

的矢六兵衛という名前は分かっている、しかし、この侍は的矢六兵衛ではない、というところが不思議の発端で、加倉井は勝から紹介された福地源一郎と共に解明に動き出します。

事情を知るものへの聞き取りの度に、その者の一人称の語りが挟まれるという浅田次郎お得意のパターンで物語は進み、少しづつ謎は解き明かされていきます。

と同時に、浅田次郎の思う「武士道とは」という問いに対する答えも少しづつ示されていて、この作品全体として、浅田次郎の思う「武士道」が示されていると感じられます。

 

一方、この作品では江戸城についてのトリビアも示されています。江戸城開け渡しの時には本丸、二の丸は焼け落ちており、仮御殿である西の丸のみが再建されていことや、的矢六兵衛の属する書院番は由緒正しき近侍の騎兵であるとか、お茶坊主が何かと「シィー、シィー」と奇矯な声出すなど、数限りなくと言って良いほどに記されていて、この点でも興味を惹かれました。

 

本書『黒書院の六兵衛』と同じく、江戸城明け渡しの前日に江戸城に居残った人物を描き出すという小説があります。それは朝井まかてが描く『残り者』という作品です。

ただ、この『残り者』で居残っているのは五人の女たちです。彼女らが何者かはすぐに明らかになり、何故に江戸城に居残っていたのかがゆっくりと語られることになります。それぞれの行動がユーモラスに、また時には哀しみを漂わせながら描かれているのです。

この作品もかなり読み応えのあるいい作品でした。

 

 

蛇足ながら、私が読んだ新刊書の『黒書院の六兵衛』では、巻末に江戸城西の丸借り御殿の略図が載っています。この略図がまるで迷路です。この迷路の中で六兵衛はその位置を少しづつ変えていくのです

 

ちなみに、2018年7月22日(日)から、WOWWOWの連続ドラマWで、『黒書院の六兵衛』がドラマ化されます。

主演は吉川晃司で的矢六兵衛を演じ、加倉井隼人役は上地雄輔が演じます。吉川晃司の役者としての魅力もさることながら、おバカタレントとして人気者であった上地雄輔が、役者としてどれだけ成長しているものか、出来れば見たいのですがWOWWOW未加入なので、DVD化されることを期待し、それを待つつもりです。

 

天切り松 闇がたり ( DVD )

2004年7月にフジテレビ系で放映された浅田次郎原作によるドラマをDVD化。大正、昭和、平成の3時代にわたり、激動の時代を生き抜いた伝説の泥棒・天切り松を描く。篠原涼子、中村獅童、井川遥らの若手俳優も多数出演、好演している。(「キネマ旬報社」データベースより)

 

2004年7月に関西テレビで制作されたドラマです。天切り松の口調は確かに勘九郎(故十八代目 中村 勘三郎)のべらんめえなのですが、映像は小太りの勘九郎ではイメージ違いとしか思えませんでした。

 

抜け弁天の杉本安吉を渡辺謙、黄不動の栄治を椎名桔平が演じています。

でも、原作を読んでいた時のイメージとはかなり異なる渡辺謙であり、椎名桔平でした。この原作のイメージは読み手夫々に異なるでしょうから、そのイメージを壊さないで映像化することは至難の業だとは思います。

だとしても、原作の持つノスタルジックで、そのくせきらびやかな大正、昭和史を期待するだけに残念でした。

天切り松-闇がたりシリーズ

天切り松 闇がたりシリーズ(2018年12月現在)

  1. 闇の花道
  2. 残侠
  3. 初湯千両
  1. 昭和侠盗伝
  2. ライムライト

 

夜更けの留置場に現れた、その不思議な老人は六尺四方にしか聞こえないという夜盗の声音「闇がたり」で、遙かな昔を物語り始めた―。時は大正ロマン華やかなりし頃、帝都に名を馳せた義賊「目細の安吉」一家。盗られて困らぬ天下のお宝だけを狙い、貧しい人々には救いの手をさしのべる。義理と人情に命を賭けた、粋でいなせな怪盗たちの胸のすく大活躍を描く傑作悪漢小説シリーズ第一弾。(第一巻 :「BOOK」データベースより)

 

天切り松こと村田松蔵が語り聞かせる、浅田次郎最高のダンディズムに満ちた作品集です。

 

浅田次郎の魅力が一番出ている出色のシリーズ、というのが正直な感想です。全編を貫く’粋’さ、作者の言う男のダンディズムに満ちた最高の作品だと思います。

頭(かしら)である目細の安吉を始め、寅弥(説教寅)、おこん(振袖おこん)、英治(黄不動の英治)、常次郎(書生常)という安吉一家の面々の物語を、村田松蔵(天切り松)がある時は留置場でそこに居る盗人相手に、ある時は署長室で所長相手にと昔語りをするのです。

この松蔵の江戸弁が実に粋で、小気味良く、物語の中の聞き手のみならず、この本の読者までも一気にひきこまれてしまいます。

 

安吉一家を通して見た日本の現代史、という一面もあるかもしれません。一巻目から山県有朋や永井荷風といった歴史上実在の人物が命を得て登場してきます。また、これからも色々登場するのでしょう。

 

各話の終わり方に松蔵が一気に江戸弁で語る場面があります。改行無しで書かれた、一頁ほども一気に語られるその場面は魅力的です。

一巻目で言うと、「白縫華魁」での白縫の道行、更に「衣紋坂から」の最後の松蔵の臓腑をえぐる独白など、この松蔵の江戸弁が一気に迫ってきて、涙なくして読み進めません。

 

三巻目の文庫本あとがきを2012年に亡くなった十八代目中村勘三郎氏が書いておられます。そこには、その台詞回しが粋で見事なのは、浅田次郎本人が江戸っ子であり、黙阿弥に影響を受けていることにあるらしいとありました(このことは「読本」の中でのお二人の対談においても語られています)。

この小説の台詞回しの上手さは、歌舞伎の、それも河竹黙阿弥の台詞回しに通じているようです。先に述べた「白縫華魁」での白縫の道行など、まさに舞台上の大見得を切る場面に通じるのでしょう。

結局は「情」、とか「侠気(おとこぎ)」などという言葉で語られる日本人の心の根底にある情感に関わってくるような気がします。本書はそうした粋で固めた一級の人情話、と言いきって良いと思います。

 

現時点(2018年12月)現在では文庫本で五巻がでています。「読本」の中で筆者は「ライフワーク」だと言っておられますので、この後も続いて行くでしょうし、続いて行くことを心から願います。

鉄道員(ぽっぽや)

北海道のローカル線の終着駅で駅長を務める初老の男が、ある少女との出会いを機に、孤独だった人生に暖かさを見出す人間ドラマ。高倉健主演。“<東映 ザ・定番>シリーズ”。(「キネマ旬報社」データベースより)

 

第23回日本アカデミー賞・最優秀作品賞を受賞しました。

 

ストーリーは原作をなぞってはいたものの、映画は映画として独立した作品でしたね。そこには高倉健という役者さんならではの色が存在し、やはり高倉健という俳優さんの存在感は凄いと改めて思わされた作品でした。