『テミスの不確かな法廷』とは
本書『テミスの不確かな法廷』は、2024年3月に232頁のソフトカバーでKADOKAWAから刊行された連作の中編推理小説集です。
裁判官が主人公であること以上に、その裁判官が発達障害を患っているという設定に加え、その裁判官の心象の描写がかなり読みごたえのある作品でした。
『テミスの不確かな法廷』の簡単なあらすじ
任官七年目の裁判官、安堂清春は、東京からY地裁に赴任して半年。幼い頃、衝動性や落ち着きのなさから発達障害と診断され、専門医のアドバイスを受け、自身の特性と向き合ってきた。市長候補が襲われた詐欺未遂と傷害事件、ほほ笑みながら夫殺害を供述する女性教師、“娘は誰かに殺された”と主張する父親…。さまざまな事件と人との出会いを通じ、安堂は裁判官として、そしてひとりの人間として成長していく。生きづらさを抱える若手裁判官が、自らの特性と格闘しながら事件に挑む異色の青春×リーガルミステリ!(「BOOK」データベースより)
『テミスの不確かな法廷』の感想
本書『テミスの不確かな法廷』は、発達障害を患っている裁判官を主人公にしたユニークなミステリー作品です。
人の気持ちを読み取るのが苦手な自閉スペクトラム症(ASD)、衝動性によりじっとしていることを許さない注意欠如多動症(ADHD)であることを自覚して生きている主人公が、その特性と人並外れた記憶力とにより事件の裏側を読み解いていくさまは読みごたえがありました。
本書はお仕事小説としてのの側面も有していて、普段はまったく考えることもない裁判官の職務内容について私たちは如何にその仕事内容を知らないものかを思い知らされます。
単に知らないというだけではなく、その裁判官に判事、特例判事補、判事補という三つの種類があるといった形式的なことから、「宅調」という言葉で示される、自宅での作業がなければこなせない仕事量があることなど、実質的な仕事内容に至るまで詳しく知ることができるのです。
いわゆる法廷ものと呼ばれる作品は少なくない数の作品がありますが、裁判官が主人公のミステリーは思い浮かびません。
ただ家庭裁判所の裁判官を主人公にしたコミックでは、ヒューマンドラマではありますが毛利甚八原作で魚戸おさむが描いた『家栽の人』という作品が思い出されます。
本書『テミスの不確かな法廷』の主人公は、本州の最も西にある小さな裁判所に勤務する安堂清治という任官七年目の特例判事補です。
その裁判所のほかの裁判官もまた個性的であり、本書では主人公が属する三人一組の合議体の総括判事である門倉と、任官二年目の判事補の落合が登場しています。
彼らの間では普通のサラリーマンの会話にも似た会話が示されていて、特に門倉判事の言動はこれで裁判官としてやっていけるのかというほどユニークですが、法廷での訴訟指揮はさすがに裁判官と思わせられます。
さらには、弁護士の小野崎乃亜という女性弁護士が弁護人として各裁判に登場してきて花を添えるとともに、かなり重要な役割をになってきます。
本書内で挙げられている具体的な裁判例では現実にとんでもない裁判官もいるようで、そうした細かな知識も本書の魅力になっています。
なにより、ミステリーとしても本書の謎解きはそれなりの解決に加え、更にひとひねりが加えてあり、そうした点も魅力の一つといえます。
解決されるべき事件の被告人が弁護人との打ち合わせに反して罪状認否では犯行を認めなかったり、夫を殺害したと言いながら微笑んでいたり、「娘は誰かに殺された」と主張したりと少しずつ異なり、裁判の進行もちょっと異なります。
気になった一例だけ挙げると、第二話での裁判官から裁判員への「法廷での法廷でのやり取りを忘れるように」との言葉に対し、裁判員のそんなことはできないとの反論があり、これまでにはない進み方をした上で、最後にさらに別の仕掛けが待っているのです。
とはいえ、本書『テミスの不確かな法廷』の一番の特徴といえば主人公が発達障害を患っているということにあります。その上で、その症例についても詳しく描き出してあります。
自閉スペクトラム症と注意欠如とが混合した状態になり、何かへの強い執着から離れることができず、訴訟記録を読むことができなくなるなど、その具体例は驚きです。
その一例として挙げると、記録上に被告人の上田正という名前が出てきたときに、その氏名が縦線と横線だけで成り立っていること、さらに「正」という字は「一」と「止まる」という文字から成っており、正しいとは一度立ち止まって考えることなのか、などと考えてしまうというのです。
それだけでなく、「正」という文字は「上」と「下」という正反対の意味を持つ感じから成り立っていることなどに気が移ってしまい、他のことが考えられなくなってしまう、ともありました。
こうした症状は人により異なるものではあるのでしょうが、発達障害に対する自分の知識の無さに驚くばかりでした。
そうした頭脳の働きの特性が集団行動になじまず、社会生活を営むうえで困難さをもたらすことは素人考えでも分かります。
そんな状況の中で主人公は裁判官として対象となる事件の記録を読み進め、弁護人や検事と会い、訴訟の指揮をとらなければならないのです。
現実にそんなことができるのか、ということが第一の印象でした。しかし、現実にできるかどうかの判断が法律も医学も分からない素人に判断ができるはずもなく、この点は無視することとしました。
ただ、裁判官と弁護人が法廷外で会って事件について話す場面があり、そうしたことが許されるものかは疑問として残りましたが、その点も素人には判断がつかない以上、無視することにします。
この二点を考えずに本書を評価すると、本書は主人公の裁判官のユニークな性格設定と卓越した記憶力のため独特な推理の過程を経て、ミステリーとして実に面白い物語となっているのです。
本書『テミスの不確かな法廷』はもしかしたら続編は書かれないのかもしれません。そう思わせるラストシーンでもあるのです。
しかしながら、主人公の設定の面白さ、その推理過程のユニークさなどを考えると、是非続巻を読んでみたいと思わせられる作品でした。
警察医の戒律(コード)
『警察医の戒律(コード)』とは
本書『警察医の戒律(コード)』は2022年8月に角川春樹事務所から刊行された、294頁の連作の警察小説集です。
物語の中心にいる警察医の判断をきっかけに、ジェンダー班の面々が事件解決に奮闘する姿が描かれている、最終的には面白い作品でした。
『警察医の戒律(コード)』の簡単なあらすじ
死者と語り、どこまでも真実に執着する警察医である法医学者。
多様化する性を取り巻く犯罪に立ち向かうジェンダー班の刑事たち。
死に隠れた謎を解き明かす、新たなドラマの幕が上がる!
医師が最期を確認する病死以外は〈異状死〉と呼ばれる。
欧米では異状死の五割を解剖しているが、日本の解剖率は二割に届いていない。
国内に法医学者の絶対数が少ないうえ、犯罪捜査のための解剖を行う公的機関が常設されていないからだ。
重大犯罪が見逃されていないか?(内容紹介(出版社より))
『警察医の戒律(コード)』の感想
本書『警察医の戒律』は、ニューヨークの検視局で十一年のキャリアを積んで帰国し、横浜の山下公園の近くで法医学研究所開いているユニークな警察医の幕旗治郎を中心にした物語です。
ただ、幕旗はあくまで遺体と文字通り対話して得られる情報を伝えるだけであり、実際に捜査に当たるのはジェンダー班と呼ばれる新設の捜査班です。
ここで「警察医」とは、「警察の捜査に協力する医師のことで、主に検案として死因不明の遺体を調べて死因を医学的に判断する業務を行な
」うそうです。
また、「犯罪性はないものの、検案しても死因が不明なままの場合
」に行政解剖を行なうのが「監察医」です。
そして、「人が亡くなった原因に犯罪が関わっている可能性があるとき(犯罪死)
」に死因の究明をするために行われるのが「司法解剖」であって、「検察官や警察署長などから嘱託を受けた大学医学部などの法医学者が執行
」するとありました( 以上、パブリネット : 参照 )。
「診療行為に関 連した予期しない死亡,およびその疑いがあるもの
( 日本法医学会 異状死ガイドライン : 参照 )」と定義される「異状死」について、日本では犯罪捜査のための解剖を行う公的機関はなく、欧米では異状死の五割を解剖しているのに日本では二割に満たないそうです。
そうした異状死の解剖が少ないという事実の他に、異状死が発生したときにまず現場に入るのは幹部警官である「検視官」と、警察と契約している前記の「警察医」ですが、ただ、その能力には疑問符がつく者も多いと本書でも指摘してあります。
そうしたことから、本書の幕旗医師は、研究機関である大学の研究室には入らずに民間の法医学研究所を作ったのだというのです。
このようなことを読んでいると、以前読んだ海堂尊の例えば『チーム・バチスタの栄光』などで読んだ「Ai(オートプシー・イメージング : 死亡時画像診断)」という言葉を思い出します。
この主張は、適切な治療効果判定のために患者が亡くなった際に病理診断のためにCTやMRIなどの画像を活用すべき、という主張であって直接犯罪と関係するものではないのですが、間接的にはかかわってくる問題だと思われます。
本書『警察医の戒律』でエキセントリックなキャラクターとして描いてある幕旗医師とは別に、捜査の実働部隊である警察側の担当として「ジェンダー班」の存在が重要です。
この「ジェンダー班」は多様化する性を取り巻く犯罪に適切に対処しようと警視庁捜査一課に新設された部署で、人権への配慮が欠かせない事件や他の班への応援に入ることも想定されています。
班長が村木響子警部で、他にあと三年で定年の久米勝治警部補、二十一歳の金沢佐織巡査部長、それに採用三年目の技術支援員の戸口遥という三人がいるだけの小所帯です。
登場人物という観点では、上記のジェンダー班の面々に加え、幕旗医師の法医学研究所に勤務する助手の小池一樹が、微妙な立ち位置で幕旗を助けています。
このジェンダー班が、その設立目的のとおりに働くのが第二話「秘密の涙」であり、若い女性の遺体がスーツケースに詰め込まれた状態で発見された事件です。
首の骨を折られていたこの被害者は、骨盤の形から見て男性だと判断され、自前の衣装で女装していたことも判明し、まさにジェンダー班の出番でした。
遺体の発見者は機動隊の巡査長である山野節人という男であり、警察犬だったバロンの散歩の途中、バロンが見つけたというのです。
この山野節人という人物が後に重要な役目を果たすことになります。
この著者の前著『転がる検事に苔むさず』や『恋する検事はわきまえない』がかなり面白く読めた作品だったのでハードルが高くなっていたのかもしれませんが、第一話「見守りびと」の中ほどまで読み進めても、どうにも本書にのめり込めません。
物語の展開が少ないということもあるかもしれませんが、何よりも主人公のキャラクターに魅力を感じないのだと思えます。
法医学者である幕旗とその助手の小池との会話で、小池の質問に対して「コード7」などと単純にコード番号だけで返事をするために、小池は意味が分からずにいる場面など、どうにも拒否感しかありません。
主人公が変人であるのは問題ないと思います。というより、エンタメ小説の主要キャラクターにはその方が多いくらいだと言えるでしょう。
しかし、本書『警察医の戒律』の場合、序盤での主人公の性格についての説明がないために主人公に対して感情移入するだけの材料が無いのです。そうした人物が教えを乞う相手に対してコード番号だけで応えても意地悪としか取れません。
また本書では、解剖時も含めて、幕旗が死体と一緒にいると死体が生き返って幕旗と会話をする場面が数か所あります。
もちろん、幽霊が存在して幕旗と会話をしているわけではなく、幕旗の潜在意識を死体が生き返ったように認識し、いろいろと会話をし、教えてくれているのですが、こうした場面も何となくの拒否感を感じてしまったのです。
本書では幕旗の人物像など、例えば村木との関係や、彼が夜驚症であることなど少しずつ明かされていますが、それも幕旗のキャラクターが良くつかめない理由なのかもしれません。
ところが、こうした違和感がそのままに後の伏線になっていて、第二話の最終行にはどんでん返しの結果が有名なとある映画のように、驚かされてしまいました。
その直前にも第二話の謎解きで驚かされているのですが、その驚きに続いての真相激白だったので、更なる衝撃でした。
また、この作者の前著である『転がる検事に苔むさず』などでは全く感じなかったのですが、本書『警察医の戒律』ではなんとも文章のリズムが悪いと感じました。
短めのなんの情緒も感じられない文章が続くだけで、すっきりしないのです。しかし、第二話へと進み物語の構造が見えてくると、この文章にも慣れたためか文章から感じた違和感も気にならなくなっていました。
つまりは、本書を読み始めた当初に『転がる検事に苔むさず』などの作品から受ける印象との差から何となくの拒否感を抱いてしまったのでしょう。
それが、本書を読み進めるにつれ本書の世界観に慣れ、この作者本来の持ち味を味わうことができるようになったのだと思われます。
結局、どんでん返しも含め、この作者の作品世界に捕まってしまったようで、最終的には面白い作品だったとの感想でした。
本書『警察医の戒律』も多分ですが続編が書かれることになるのでしょう。
それを楽しみに待ちたいと思います。
恋する検事はわきまえない
『恋する検事はわきまえない』とは
本書『恋する検事はわきまえない』は、2022年2月に刊行された作品で、新刊書で266頁の実質四篇の短編からなる推理小説集です。
『転がる検事に苔むさず』の次に刊行された第二作目となる作品集ですが、第一作目と変らぬ軽いユーモアと切れ味とを持つ読みがいのある作品集でした。
『恋する検事はわきまえない』の簡単なあらすじ
特捜部初の女性検事、着任早々大暴れ!
人が人を裁けるのかーー
「正義」の番人たちの懊悩に迫る人情検察小説。「特捜部初の女性検事」として期待と嫉妬を一身に背負う常盤春子は、着任早々、下水道事業の五社談合事件を任された。落とし所は末端社員たちの摘発ーー。しかし、取り調べ中に闖入してきた被疑者の幼なじみによって、捜査は思わぬ方向に転がり始めた。
築地の魚屋で働く男は、被疑者を庇いながら言葉を吐く。
「おれはよ、法に背いたのは人間じゃねえ気がするんだ。人間の周りを囲んでいる全体みたいなもんだ」
覚悟を決めた春子は、検察幹部仰天の一手に出た(表題作)。見習い検事が異動先の鹿児島で一騒動を起こす「ジャンブルズ」、小倉支部の万年窓際検事が組織から孤立しながら凶悪暴力団に立ち向かう「海と殺意」ほか、全四話+αの連作短編集。
「罪をつくるのは個人か、社会かーー。
この小説は軽やかに根源的な問いを突きつける」
元厚生労働事務次官
村木厚子さん激賞!(内容紹介(出版社より))
『恋する検事はわきまえない』の感想
本書『恋する検事はわきまえない』は、著者の直島翔のデビュー作である『転がる検事に苔むさず』に登場して脇を固めていた人たちを主人公にした作品集です。
本書『恋する検事はわきまえない』第一話の「シャベルとスコップ」と最終話の「春風」はそれぞれにプロローグやエピローグ的な短い物語でありますが、ともにかなり重要な物語であって、インパクトのある内容となっています。
「シャベルとスコップ」は、鹿児島地検への転任が決まっている倉沢ひとみ検事の、区検浅草支部での最終日の出来事です。久我周平検事ならではの事実認定のやり方を教えられる場面が展開されます。
「ジャンブルズ」は、倉沢ひとみ検事が主人公の短編向きの軽い謎解き物語であり、最後の最後のちょっとした仕掛けには驚かされましたが、楽しく読むことができた作品です。
「恋する検事はわきまえない」は官製談合事件の裏話を検事の世界の出世争いに絡めた作品で、意外な展開は読みごたえがありました。そして、この物語でも最後にちょっとした仕掛けがあります。
この話は前作の『転がる検事に苔むさず』で久我周平検事をかわいがっていた弁護士の常磐春子が検事だった頃の話です。
著者自身の言葉として、「公取委が刑事告発に踏み切った実際の官製談合事件をモデルにしました。」「人を罪に問うことに真剣に向き合う検察官と、どうもそうではない出世しか頭にないタイプや事なかれ主義者の検察官を対比させた」などの言葉がありました。( ※週刊ポスト : 参照 )
また、この話はあとで出てくる「春風」での話とも繋がってくる物語であり、どこに仕掛けがあるか分からない本書の特徴的な話でもあります。
「海と殺意」は福岡地検小倉支部時代の久我周平が主人公です。
日本一凶悪なヤクザと言われた「白王会」に立ち向かう小倉中央署の暴力団担当の池崎将洋警部補の話で、それを助ける久我周平の物語です。
若干、ストーリーが無理筋とも感じられる箇所もありましたが、それでもなお小技の効いたひねりには感心させられた面白い話で、久我検事と福岡地検時代の常磐春子検事正との出会いの場面もある一編でもあります。
「健ちゃんに法はいらない」は隅田署の交番巡査有村誠司を主人公とする作品です。
有村は保育園の防犯教室でボランティアの健介と知り合い、お節介な彼に言われるまま、虐待が疑われる少年を見守ることになります。
第一話「ジャンブルズ」で、倉沢ひとみ検事と有村巡査との電話での会話の場面が、ここでは有村巡査の視点で再現されているという遊び心を持った連携場面もあり、楽しく読めた話でした。
「春風」は久我周平検事の話で、次回作につながるであろうエピソードを簡単に紹介してあり、重要です。
本書『恋する検事はわきまえない』は、シリーズの登場人物それぞれを個別の主人公にした、言ってみればシリーズ外伝的な物語集であり、本シリーズに奥行きと深みを持たせ、さらには読者により興味を持たせる効果があると思います。
本書では特に、シリーズの主役である久我周平検事の姉貴分的な立場にいる、シリーズ本体ではヤメ検として高名な常磐春子に関する事柄が目を引きます。
久我との出会いや、常磐春子のプライベートな事柄まで踏み込んで書かれていて、これからのシリーズの展開にも大きく関係してくるであろう常磐春子の人となりが垣間見えて興味を惹かれます。
著者の直島翔の作品は、私の好みにかなり合致した作品であり、これからの作品がとても楽しみな作家さんの一人です。
ちなみに、出版社の「内容紹介」では「常盤春子」と表示してありますが、本書内では「常磐春子」と表記してあり、「盤」と「磐」と文字が異なっています。
前著ではどうだったのか、手元に本がありませんので、そのうちに確認してみようと思っています。
転がる検事に苔むさず
『転がる検事に苔むさず』とは
本書『転がる検事に苔むさず』は2021年8月に刊行された、新刊書で316頁の人情味豊かな長編の推理小説です。
「警察小説大賞」を受賞している作品でありながら、主人公は検察官で警察官は脇役に回っているにすぎないものの、新感覚のミステリーとしてとても楽しく読むことができた作品でした。
『転がる検事に苔むさず』の簡単なあらすじ
夏の夜、若い男が鉄道の高架から転落し、猛スピードで走る車に衝突した。自殺か、他殺か。戸惑う所轄署の刑事課長は、飲み仲間である検事・久我周平に手助けしてほしいと相談を持ちかける。自殺の線で遺書探しに専念するが、このセールスマンの周辺には灰色の影がちらついた。ペーパーカンパニーを利用した輸入外車取引、ロッカーから見つかった麻薬と現金ー死んだ男は何者なのか。交番巡査、新人の女性検事とともに真相に迫る。心に泌みる本格検察ミステリー。第3回警察小説大賞受賞作。(「BOOK」データベースより)
目次
プロローグ
第一章 川辺の検事
第二章 人事案
第三章 とり急ぎ、雷
第四章 赤提灯
第五章 ボニーのささやき
エピローグ
ある日、鉄道の高架から転落したと思われる若い男が車に衝突し死亡するという事件が発生した。
たまたまその現場に行くこととなった東京区検察庁浅草分室に勤務する検事の久我周平は、追出刑事課長から検視に手を貸して欲しいと頼まれる。
転落死した男は、持っていた免許証や名刺から自動車ディーラーの営業職の河村友之、二十七歳と判明した。
後日、久我は有村巡査の上司から、高架下の事件の処理をさせて有村の刑事志望の意志をかなえてやりたいので面倒を見てくれるよう頼まれた。
一方、久我が指導する新任の倉沢検事は、現在は東京地検の刑事部主任である久我の二期下の小橋検事が久我の粗さがしをしているとの情報を聞かされるのだった。
『転がる検事に苔むさず』の感想
本書『転がる検事に苔むさず』の主人公は検察官です。
それも被疑者から話を聞き出す名手という設定で、その判断の根底には人情味豊かな思いが横たわっていて、ミステリー界にまた新しい感覚の作家、そして作品が登場してきたとの印象です。
もちろん、第20回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した作品である『特許やぶりの女王 弁理士・大鳳未来』を記した南原詠のような新しい分野を舞台にした新人も登場しています。
でも、本書の惹句に「人情をもって真実を照らし出す。」とあるように、主人公が謎解きに邁進するだけでなく、謎解きの過程に「人情」が持ち込まれていて、こうした作品はあまりないと思います。
謎解きの過程に「人情」というクッションが挟まることで文章も優しさが増した印象で、物語もずっと奥行きが広がっているようです。
こうした面は、もちろん本書が私の好みでもあるためでしょうが、見方によっては「人情もの」とも呼べそうな魅力を付加しているのではないでしょうか。
この人情ものという側面を本書『転がる検事に苔むさず』の第一の魅力だとすれば、次にあげられる二番目の魅力は、検察庁内部での権力闘争、出世競争の側面を描いてあることでしょう。
主人公の久我周平自身が現在は「東京区検察庁 浅草分室」という、裁判所で言えば簡易裁判所に相当する、出世とは関係の無さそうな小さな事件ばかりを主に扱う部署に勤務しています。
本来は検察の花形部署と言われる特捜部に異動するはずであったのに、出世争いの嫌がらせから、大きな事件を扱うことのない現在の支部に異動させられているのです。
こうした本人が意図しない形での、検察庁内部での上層部での権力争いの余波をもろに受けている主人公やそのライバルなどの姿は、法曹界の裏面を見るようで単なるミステリーを越えた魅力があります。
この浅草分室に、久我周平を指導官として配属されたのが新米検事の倉沢ひとみであり、この人物が物語の進行に彩りを与えています。
そして、人物配置の視点で言えば、実際の捜査をすることのない検事の代わりに手足となって動く人物として配されたのが 刑事志望の有村誠司巡査です。
そして、この有村巡査を見てやってくれと頼むのが久我の飲み友達である墨田署の追出刑事課長です。
そして、久我を目の敵にする小橋克也という検察官、久我が憧れの対象とする 今は検察官を辞めて弁護士となっている常盤春子など、ユニークな人物たちが登場します。
これらの魅力的な人物の配置が本書の魅力の三番目だと言えるかもしれません。
そして、最後に謎解きの面白さがあります。
刑事志望の巡査や新米検事が、鉄道の高架から転落したらしい若い男の背景を調べていくうちに、隠されていた謎を暴いてくという流れも、複雑すぎず、わりと面白く読めました。
それも、検察内部の様々な争いごとなどが絡められながらの、事件の展開であるため、より気楽に読めたと思われます。
本書『転がる検事に苔むさず』の主人公である久我周平という検察官の姿を見ていると、魚戸おさむの『家栽の人』というコミックを思い出してしまいました。
『家栽の人』の主人公は家庭裁判所の判事ですが、単に法律を杓子定規に当てはめるのではなく、関係者の真の姿に思いを馳せ持ち込まれた揉め事を解決していくという人情物語でした。
さらに検察官が主人公の推理小説と言えば、近年では柚月裕子の『佐方貞人シリーズ』があります。
シリーズ第一巻『最後の証人』こそヤメ検である弁護士佐方貞人が活躍する物語ですが、第二巻からは過去に戻り、正義感にあふれる検事時代の佐方貞人を主人公とするミステリーです。
「時効によって逃げ切った犯罪者を裁くことは可能か」という問いが着想のきっかけだというこの作品は、二人の検事それぞれが信じる「正義」の衝突の末に生じるものは何か、が重厚なタッチで描かれるミステリーです。
ともあれ、本書『転がる検事に苔むさず』は私の好みに合致した作品でした。
続編の『恋する検事はわきまえない』も出版されているようですので、さっそく読んでみたいと思います。