夜に星を放つ

夜に星を放つ』とは

 

本書『夜に星を放つ』は2022年5月に220頁のハードカバーで刊行され、第167回直木賞を受賞した短編小説集です。

どの物語も優しい言いまわしで、それでいて人物の心情や物語の内容は素直に理解できる話ばかりの読みやすい作品集でした。

 

夜に星を放つ』の簡単なあらすじ

 

かけがえのない人間関係を失い傷ついた者たちが、再び誰かと心を通わせることができるのかを問いかける短編集。
コロナ禍のさなか、婚活アプリで出会った恋人との関係、30歳を前に早世した双子の妹の彼氏との交流を通して、人が人と別れることの哀しみを描く「真夜中のアボカド」。学校
でいじめを受けている女子中学生と亡くなった母親の幽霊との奇妙な同居生活を描く「真珠星スピカ」、父の再婚相手との微妙な溝を埋められない小学生の寄る辺なさを描く「星の随に」など、人の心の揺らぎが輝きを放つ五編。(内容紹介(出版社より))

 

夜に星を放つ』の感想

 

本書『夜に星を放つ』は、身近な人を何らかの理由で失った登場人物の日常が描き出されている、第167回直木賞を受賞した短編集です。

私のような単なるエンタメ小説好きにとっては、例えば第167回直木賞の候補作である河﨑秋子の『絞め殺しの樹』のような、人間の業を重厚な筆致で描き出す作品が「賞」の受賞作と呼ばれるような作品にふさわしいと思いがちです。

 

 

しかし、第167回直木三十五賞を受賞したのは、そうした重厚さとは程遠い本書『夜に星を放つ』でした。

本書は難解ではない普通の文章で、日常に存在する悲哀の中のかすかな希望だけを余韻とした作品集です。

何も特別なことが描き出してあるわけではありませんが、しかし受賞作とななりました。

それだけ選考委員の心を打つ何かがあったと思われるのですが、私にはその何かがよく理解できず、本書が選ばれた理由がよく分かりませんでした。

もちろん、本書が面白くなく、直木賞にふさわしくないなどと言うつもりは毛頭ありません。

ただ、他の作品と比べて特別優れている点がよく分からないのです。

 

たしかに、本書『夜に星を放つ』は非常に読みやすい文章であり、描かれている人たちの描写もうまいものだとは思いますが、そうした文章を書く作家さんは少なからずおられるのではないでしょうか。

読後に直木賞の選考委員の林真理子さんの、本書は「文章がすばらしく技巧を凝らしている。文章はなめらかに進み構成に無理がなく、短編のお手本のようだと高く評価する人もいた」という文章に出会いました。(NHK NEWS WEB

結局、当たり前ですが、やはり素人には本書の作者窪美澄の文章の技巧、構成を見抜く能力がないということを思い知らされただけの結果でした。

このような選考理由を聞くと、私の若い頃に芥川賞を受賞した庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』という作品を思い出します。

この作品も普通の文章で一人の高校三年生の日常を描き出した作品であり、皆が誰でも書けそうな文章だと言っていた記憶があります(この点、サリンジャーの影響をいう声が高かったようです)。

 

 

直木賞とは離れて見る本書『夜に星を放つ』自体は、冒頭に書いたように身近な人を失った人物の日常を読みやすい文章で描き出す作品集です。

作品それぞれは多様であり、病や離婚、事故、失恋などで大切な人と別れ別れになった人物が主人公になっています。

しかし、殆どはかすかではあっても希望を抱かせるものであり、コロナ禍の未来を見据えている気もします。

 

第一話の「真夜中のアボカド」では恋人に裏切られた主人公と、亡くなってしまった双子の妹の元恋人との不思議な関係が描かれます。

第二話の「銀紙色のアンタレス」は、祖母のいる田舎で出会った人妻への恋心と幼なじみの思慕を描いた、ひとことでいうとベタな青春の一頁の物語です。

第三話「真珠星スピカ」は、交通事故で母を亡くしたいじめられっ子の中一の女の子の日々を描いたファンタジー小説です。主人公にしか見えない死んだはずの母親が現れ、主人公を見守ります。

第四話「湿りの海」は、離婚して母親と共にアメリカに行ってしまった娘を思い続ける男の、隣に越してきた母と自分の娘と同じくらいの幼い娘との物語。何とも煮え切らない男の、私にはよく分からない作品でした。

第五話「星の随(まにま)に」は、両親が離婚し、新しい母親の渚と赤ちゃんの海君と暮らす小学校四年生の想の物語。実の母を慕い暮らす小学生の主人公の大人への配慮だけが目立つ、哀しさにあふれた作品でした。

 

どの物語も使われている言葉や物語の展開に難解なところはなく、それでいて中心となる人物の心情や物語の内容は素直に理解できる話ばかりでした。

そうした理解のしやすさなども受賞の理由の一つになるのでしょうか。

ともあれ本『夜に星を放つ』は、物語としては読みやすい作品集でした。

トリニティ

本書『トリニティ』は、昭和の経済成長期を中心に、ある雑誌を舞台に展開される三人の女性の生き方を描き出した、第161回直木賞の候補作となった長編小説です。

私の好みとする作品ではありません。しかし何故か引き込まれて読んだ作品でした

 

50年前、出版社で出会った三人が人生を賭けて求めたものとは―昭和・平成から未来へと繋ぐ希望を描き切る。(「BOOK」データベースより)

 

現代に生きるある女性によるインタビューへの回答という形を通して過去を語り、三人の女性の三様の生きざまを描いてあります。

背景となる昭和史は私個人の歴史との重なる部分もあり、取り込まれて一気に読んでしまいました。

 

本作品の構成は、第158回直木賞の候補作品となった伊吹有喜の『彼方の友へ』と似たものを感じました。

 

 

両方の作品共にある雑誌を舞台に、文化面から見た昭和史を背景としながら、出版の世界に身を置いた女性の生き方を、老境にいる女性の回想という形式で生き生きと描き出した作品です。

ただ、『彼方の友へ』のほうが時代が少し前であり、主人公の佐倉波津子個人の物語というよりは当時の出版文化を守ろうとした編集者たちの物語と言えそうです。

そして何よりも『彼方の友へ』のほうがノスタルジックであり、より情緒的です。

それに対し、本書『トリニティ』は時代が戦後の経済成長期がメインで、タイトルからも分かるように三人の女性の物語です。

そして、出版文化というよりはウーマンリブ運動を背景とした新しい女性を中心に、普通の生活者の目線も取り入れて個々の女性の生き方を描いてあることなどが違いとして挙げることができるかと思います。

 

そしてまた『トリニティ』の時代背景が私個人の青春時代に重なることは大きいものがありました。特にどのレビューを見ても一番の印象的な場面として挙げてある1968年の新宿騒乱事件は私が高校生だったこともあり、印象に残っている事件です。

というのも、その後の東大紛争や神田カルチェラタンなどの事件をあげるまでもなく、当時の世相の余韻が私の学生時代にもまだ残っていたのです。

 

話を本書に戻すと、巻末に挙げられている参考文献を見るまでもなく、読んでいる途中から本書のモデルは「平凡パンチ」だろうと思いながら読みました。

でも、レビューの中でどなたかが書いておられましたが、モデルが誰で、舞台はどの雑誌かなどということはほとんど意味がないと思われます。モデルがいたとしても本書に描かれている事柄は作者の創作が殆どだろうと思われるからです。

 

本書『トリニティ』の主人公の三人は、女性のフリーライターの先駆けともいえる佐竹登紀子、イラストレーターの早川朔こと藤田妙子、生活者の道を選んだ宮野鈴子の三人です。

母娘三代にわたって文章で生活してきた登紀子は時代の先端を生きる女性です。自分が稼ぐことで生活力のない、しかし夢を追い続ける夫を食べさせることに生きがいを感じています。

一方、幼いころに母親に捨てられた経験を持つ妙子は若くしてイラストレーターの才能を見出され、とある雑誌の表紙を飾ることになり、時代の寵児となります。

妙子が高校になるときに再び現れた母親の苦労のおかげで大学まで行かせてもらった妙子は、子育てまで母親任せになるほどの売れっ子として生きています。

また、高卒で事務員として雇われた鈴子は、登紀子や妙子をあこがれの対象としては見るものの、早くに結婚して家庭に入ることを夢見る娘でした。

 

そして、本書の狂言回し的な立場にいて、登紀子から回想を引き出す役目を担っているのが鈴子の孫の奈帆です。

この奈帆が三人の過去を改めて掘り起こし、鬱病を発症するほどに追い込まれた自分を取り戻して、三人の生き方から新たな生き方を見つけていく姿もまた一編の物語となっています。

 

この三人が1968年の新宿騒乱事件の暴動の様子を見に行ったことが各々の生き方の一つのきっかけとなるという、先述した場面は圧巻です。

この数年後の新宿西口のフォークゲリラの場面がその後に出てきますが、学生になった私はその残滓の残る西口に行ったことを覚えています。

雑誌を全く読まない私です。ましてや流行のファッションやアクセサリーなど全く関心がありません。ですから本書の舞台に関してはほとんど分かりません。

しかしながら大橋歩というイラストレーターの作品が表紙を飾る「平凡パンチ」やもう一つの人気雑誌だった「週刊プレイボーイ」などはどうしても目に入ったものです。

 

本書『トリニティ』は三人の女性を描くことで女性の生き方を見つめるとともに、戦後の女性の地位の変化をも描き出しています。

そこにはウーマンリブ運動から、独立した自我を確立していく現代女性への系譜の姿がありました。

しかしながら、そうした女性たちを家庭に入った生活人としての鈴子が現在では一番安定して暮らしており、その孫がキーマンとして三人の生き方を掘り起こしつつ、また新たな生き方を模索している姿は実に象徴的です。

けっして私の好みの作品だとは言えませんが、かなり引き込まれて読んだ作品でもありました。直木賞受賞こそなりませんでしたが、候補作としてふさわしい作品だったと感じます。

じっと手を見る

本書『じっと手を見る』は、七章からなっている長編の恋愛小説です(連作短編集と書いてあるレビューもあります)。各章ごとに視点の主体が変わる一人称の物語で、第159回直木賞の候補となりました。

なんとも微妙に関心を惹かれる小説でした。

 

富士山を望む町で暮らす介護士の日奈と海斗はかつての恋人同士。ある時から、ショッピングモールだけが息抜きの日奈のもとに、東京の男性デザイナーが定期的に通い始める。町の外へ思いが募る日奈。一方、海斗は職場の後輩と関係を深めながら、両親の生活を支えるため町に縛りつけられる。自分の弱さ、人生の苦さ、すべてが愛しくなる傑作小説。(「BOOK」データベースより)

 

日奈と海斗は富士山の見える町で暮らす介護士で、海斗は懸命に日奈に尽くしますが、日奈はどうしても心から海斗を愛することはできません。

そのうちに、東京からやってきた宮澤という妻ある男に心を奪われた日奈は、宮澤のいる東京へと行き、共に暮らすようになります。

富士山の見える街に一人残された海斗は、日奈への気持ちを持ちつつも職場の後輩の畑中という子持ちの女と暮らすようになりますが、畑中の気持ちはいつもここではないところに向いているのでした。

 

本書『じっと手を見る』の読み始めは、濃厚なベッドシーンから始まるこの物語の各章の語り口も、またその後の登場人物のそれぞれの生き方も、どうにも後ろ向きの気持ちしか感じられず、何となくやるせない感じしか持てませんでした。

海斗にしてもケアマネージャー試験の合格というそれなりの目標を持ち、それを目指している筈なのですし、日奈も、畑中も同様に生活に流されつつも一応の目標を持っている筈です。しかし、物語全体を覆っているのは閉塞感です。倦怠感と言ってもいいかもしれません。

しかし、章が変わり、視点の主体も同時に代わって同じ出来事も立体的に見ることができるようになってくると、少しずつ本書の見え方が変わってきます。

 

一つの事象を多視点で描くことにより、その対象を立体的に浮かび上がらせるという手法は、このところよく見る手法です。

最初にその表現手段を多視点ゆえの効果だと認識して読んだのは木内昇の『新選組 幕末の青嵐』という作品でした。新選組という誰でもよく知っている幕末に存した集団を、無名の隊士による多視点で描き出したこの作品は、幕末の青春群像劇という意味でも実に衝撃的な時代小説作品でした。

 

 

その後もいくつかの作品を経たのちに読んだのが、誉田哲也の『ノワール-硝子の太陽』と『ルージュ: 硝子の太陽』という作品です。

それぞれの作品が『ジウサーガ』と『姫川玲子シリーズ』という二つの人気シリーズに属する本でありながら、同じ時間軸で一つの事件を取り上げ、登場人物さえ交錯するという独特な構成で、読者の驚きを誘った警察小説です。

 

 

上記の二冊(正確には三冊)がこの手法でインパクトの強かった作品ですが、本書はこれらの小説とは全く異なる、恋愛小説と呼ばれる分野の作品です。この分野での多視点の作品は本書が始めてであり、印象深い作品でした。

恋愛小説自体はあまり得意ではない私ですが、井上荒野の『切羽へ』などの作品には非常な魅力を感じたものです。

本書のような直接的な官能の場面はありませんが、全体として文章の運び自体が官能的で、また違った意味で驚かされ、感動したものです。

 

 

本書『じっと手を見る』での四人の織りなす話自体は特別なものがあるわけではありませんが、四人それぞれの心象の描き方に、若干の重さを感じながらも惹かれるのは何故でしょうか。

それは一つには、本書が恋愛小説というジャンルを超えたところにある、男と女のふるまいのあり方をむき出しに描いているところにあるような気がします。

ですから、本書の持つ倦んだ印象自体は変わらないままに、語りの主体となる四人の男女、すなわち日奈、海斗、宮澤、畑中の四人の心の動きに少しずつ惹かれていったのでしょう。

そうしてみると、本書の『じっと手を見る』というタイトルがそれなりの意味を持って迫ってくるようです。

 

私にとっては決して好みではない恋愛小説ですが、本書のような作品であればまた読んでみたいと思う、そんな作品でした。