『人魚が逃げた』とは
本書『人魚が逃げた』は、2024年11月にPHP研究所からソフトカバーで刊行された、短編のファンタジー小説集です。
アンデルセンの童話『人魚姫』をモチーフに、東京銀座の歩行者天国での出来事が互いに関係していく様子を紹介するこの作者らしい心温まる物語集でした。
『人魚が逃げた』の簡単なあらすじ
小説を愛するすべての人に、この嘘を捧ぐー。あの三月の週末、SNS上で「人魚が逃げた」という言葉がトレンド入りした。どうやら「王子」と名乗る謎の青年が銀座の街をさまよい歩き、「僕の人魚が、いなくなってしまって…逃げたんだ。この場所に」と語っているらしい。彼の不可解な言動に、人々はだんだん興味を持ち始めー。そしてその「人魚騒動」の裏では、五人の男女が「人生の節目」を迎えていた。銀座を訪れた五人を待ち受ける意外な運命とは。「王子」は人魚と再会できるのか。そもそも人魚はいるのか、いないのか…。(「BOOK」データベースより)
『人魚が逃げた』の感想
本書『人魚が逃げた』は、銀座の歩行者天国を舞台にしてアンデルセンの童話『人魚姫』に登場する「王子」をめぐる五つの物語が展開されるファンタジー小説集です。
作者の青山美智子は四年連続で本屋大賞にノミネートされているのですが、本書もまた多分ノミネートされるのではないでしょうか。
と書いていたら、本年(2025年)2月3日に本屋大賞の候補作の発表があり、本書『人魚が逃げた』もまたノミネートされました。
本書は、東京銀座の歩行者天国で「王子」と名乗る人物が「僕の人魚が、いなくなってしまっ」た、とインタビューに答えている場面から始まります。
この王子をめぐり、この作者のいつもの作品と同じく、心が温まる優しいストーリーが展開されていきます。
つまり、ある話にほんの少しだけ登場する人物が次の物語の主役となって新たな物語が展開されていくのです。
例えば、「一章 恋は愚か」に登場するティファニーブルーの紙袋を下げた娘とその母親は、次の「二章 街は豊か」の主役として登場します。
また、同じく一章に登場した紫色のワンピースを着たバカでかいイヤリングをつけたお婆さんは「三章 嘘は遥か」に登場し、重要な役割を果たしているのです。
こうして、新たな物語が始まるたびに、この人物はこれまでの話の中のどこに出てきたかを探すのも一つの楽しみになるかもしれません。
「プロローグ」では、芸人のロブ秋村が「週末あなた様」というテレビの情報番組で、王子にインタビューをした言葉だけが簡単に紹介されています。
「一章 恋は愚か」は、自分は十二歳も年上の恋人の理世さんに相応しい人間かと悩む友治という青年の物語です。
「二章 街は豊か」は、ヘアメイクアップアーティストとしてアメリカへ行くことを決めた娘奈緒の心配をする母親伊都子の物語です。
本当にやりたいことを見つけ、育て、つかんだ我が子を見て、「私はいったい誰なのか」とあらためて自分の人生を考える伊都子でした。
「三章 嘘は遥か」は、別れた妻の須美子から贈られた懐中時計を手放そうか迷っていた渡瀬昇という絵画好きの男の物語です。
この話に登場する「ギャラリー渦」という画廊が本書の他の場所でも重要な役割をはたしています。そして、渡瀬昇もまた自分の人生を顧みることになります。
「四章 夢は静か」は、銀座に実在する喫茶店「カフェーパウリスタ」で「山川英吾賞」という文学賞の結果発表を待つ日下部伸次郎という作家の物語です。
日下部伸次郎は、自分のような社交性のない男は、快活で多くの人に好かれ、経済力もある妻の多恵にふさわしくないのではないかと一人思い悩んでいました。
多恵は自分を「かわいそう」との思いで一緒になっているのではないかと思い、作家としての自分に自信が持てなくなっていたのです。
「五章 君は確か」は、一章の主役である友治の恋人の理世さんが本性の主役です。
友治は理世との仲について、現在の自分の年齢や社会的な地位について引け目を感じていましたが、この話の主役である理世も一回りも年下の友治に対して負い目を感じていたのです。
「エピローグ」は、三章に出てきた「ギャラリー渦」を舞台にした話が語られます。
そして、最後に少しの驚きが用意されていました。
この作者の他の作品と同じく、本書でも登場人物は何らかの屈託をかかえていますが、物語が進んでいくなかで、その物語の主役が遭遇する人や出来事によって解決されていきます。
そして、自分が抱えている問題が自分が思い込んでいるだけであり、自分自身と向き合い、さらに相手と十分な意思疎通を図ることでほとんどの問題が解決することに気がつくのです。
特に五章では理世と友治の物語が語られると同時に、本書を通しての「王子」の正体が明かされます。
同時に、「エピローグ」では再びギャラリー渦の店長が登場して種明かしをしてくれます。
その意外性は本書『人魚が逃げた』自体の持つ構造を明らかにすると同時に、五章の展開にも小さな驚きを付け加えています。
やはりこの作者は本書でも暖かな物語を提供してくれると同時に、私たちが幼いころから見聞きしていたアンデルセンの「人魚姫」の物語の新たな解釈を示してくれています。
そうした観点もまた物事の一面的な見方をいましめ、思い込みを正しているようにも思えます。
そしてまた、これからもこの作者の作品を読み続けたいと思うのです。