火影に咲く

幕末の京を駆けた志士と、想いを交わした女たち。彼らが生きた、かけがえのない一瞬を鮮やかに描き出す珠玉の短編集。(「BOOK」データベースより)


 

描かれている人物、事実について調べてみると、六編の短編で描写されている細かな事実はまず歴史的な事実だと考えて良さそうです。

その事実をもとに、作者木内昇が具体的に肉付けをし、夫婦や侍のありようや、人を想うことの切なさなどをにじませた物語として結実させている作品集であり、じっくりと読みたい物語集となっています。

 
紅蘭

本編の主人公である紅蘭ウィキペディア : 参照 )とその夫の詩人梁川星巌ウィキペディア : 参照 )は共に実在の人物だそうですが、私はその名前を始めて知りました。

夫の漢詩の世界に共に生きようとした自分を、あらためて見つめ直し、ふつうの妻であるべきだったのか。自分も漢詩の世界に学んだことは、夫の安息の地に踏み込むことになったのではないかと自問自答する紅蘭の姿は哀れでもあります。

幕末における志士たちの情熱と、政に関心を持つ詩人の夫を持ちつつも漢詩の世界で夫の背中を追い続けている妻の心情に思いを馳せる一編です。

薄ら陽

吉田松陰からその才を称賛された吉田稔麿の最後の舞台である「池田屋事件」を、稔麿の視点で描いた一編です。

その稔麿と三条縄手通の料亭小川亭の若女将ていとの、心の交流ともいえない邂逅が描かれます。

稔麿にとってていは「喉の奥に明かりが灯ったような気」にさせてくれる、「温かく、安心できる、日溜りに似た光」を感じさせてくれる人だったのです。

呑龍

新選組一番の剣の遣い手として名高い沖田総司の姿を、いわゆる「明保野亭事件」を背景として切り取った好編です。

明保野亭事件」とは、新選組の池田屋事件後の残党探索の応援として会津藩から寄こされた柴司が、東山の料亭「明保野亭」へ武田観柳斎ら新選組隊士とともに探索に赴いた際、土佐藩藩士を傷つけた事件です。

その土佐藩藩士麻田時太郎が後に「士道不覚悟」を理由に腹を切ることになったことから、事態は混迷し、結局は柴司も切腹することになります( ウィキペディア : 参照 )。

武士たらんとする百姓上がりの近藤勇や土方歳三の姿と、作者木内昇の描き出すまっすぐな沖田総司との対比が見事です。

また、沖田総司と碓井良庵という町医の診療所で出会った“布来(ふき)”という婆さんの存在が気になります。

まるで総司の母親のような存在である布来婆さんですが、その来歴が明らかになったとき、布来婆さんを登場させた作者の意図は奈辺にあるのか、わからなくなりました。

母性の不安定さを言いたかったのかととも思いましたが、それでは少々物語の流れに沿わないと思われるのです。

春疾風

京都祇園の島村屋の芸妓である君尾の眼を通してみた長州の志士たちの評価一覧、とも言えそうな一編です。

とはいえ、君尾の男を測る基準は高杉晋作であり、井上聞多品川弥次郎などと深間になりながらも、常に高杉と伍することのできる女になることを目指しています。

この項のタイトルにもなっている「春疾風」は、高杉晋作の諱(いみな)を“春風”と聞いた君尾が、高杉は春風ではなく春「疾風(はやて)」だと言ったことから来ています。

 

この春風という諱で思い出したのが葉室麟の描く高杉晋作像である『春風伝』です。高杉の上海行の場面など、あまり好みではない箇所もありはしましたが、それなりに面白い作品でした。

 

 

徒花

幕末と言えば必ず名前が挙がる坂本龍馬を岡本健三郎の視点で描いた作品です。

本稿の「岡本健三郎」も実在の人物で、本稿で述べられている事柄もほとんど歴史的な事実のようです( 幕末維新風雲伝 : 参照 )。

ただ、これまでかなりの数の幕末を描いた小説を読んできたつもりですが、岡本健三郎という名前は記憶にありません。

本編は、この岡本健三郎の眼を通して坂本龍馬を描きながらも、岡本健三郎と河原町四条下ル売薬商亀田屋の娘タカとの恋模様を描写した好編です。

作者木内昇の文章のうまさには定評がありますが、本編でも「池に投げ込まれた猫のような哀嘆」を浮かべたタカとの別れは哀しみを誘います。

光華

「人斬り」という言葉で括られることしかない薩摩の中村半次郎ですが、本編ではさとという娘に対する半次郎の狂おしいばかりの恋心が四十頁余りの短編で表現されています。

四条小橋東詰にある村田煙管店の娘さとと、後に桐野利秋と名乗ることになる中村半次郎との写真が、「ウィキペディア」に乗っていました。

 

本書で描かれている主な人物はほとんどの場合歴史上高名な人物たちです。

しかし、第一話の紅蘭や、第二話に登場する小川亭の若女将てい、第四話の芸妓君尾、第五話の岡本健三郎とタカ、第六話のさと、と、歴史的な実在の人物として知られてはいても決して高名とは言えない存在です。第三話に登場する「布来(ふき)」だけは「唯一の架空の人物なん」だそうです( 「青春と読書」 : 参照 )。

そうした人物に光をあて、その存在の一断面を切り取り一編の物語として読者に提示する、そうした手法は作者木内昇の得意な手法なのかもしれません。

木内昇のそうした作品としては『新選組 幕末の青嵐』が浮かびます。この作品は個々の隊士の視点から新選組を立体的に描いた作品であり、幕末の青春群像ともいうべき作品となっている作品で、新選組を語る上では今では必読書だと思っています。

 

 

ともあれ、本書は久しぶりに読んだ木内昇の作品でしたが、やはりこの人の作品は私の感性にあいます。やはり、ほかの作品も読んでいたいと思う作家さんです。

新選組裏表録 地虫鳴く

本書『新選組裏表録 地虫鳴く』は、無名の隊士に焦点を当てて新たな新選組の姿を描き出す長編の時代小説です。

一般の新選組の物語には名前すら出てこない無名の隊士の行動を軸に、伊東甲子太郎が暗殺される「油小路事件」へ向けての新選組が描かれていて、掘り出し物の面白い小説でした。

走っても走ってもどこにもたどりつけないのか―。土方歳三や近藤勇、沖田総司ら光る才能を持つ新選組隊士がいる一方で、名も無き隊士たちがいる。独創的な思想もなく、弁舌の才も、剣の腕もない。時代の波に乗ることもできず、ただ流されていくだけの自分。陰と割り切って生きるべきなのか…。焦燥、挫折、失意、腹だたしさを抱えながら、光を求めて闇雲に走る男たちの心の葛藤、生きざまを描く。(「BOOK」データベースより)

 

木内昇の『新選組 幕末の青嵐』に続く新選組を描いた作品です。

新選組 幕末の青嵐』も新しい視点で描かれた面白い小説でしたが、本書も中心となる登場人物の殆どはその名前を知らないであろう人物が配されていて実にユニークです。

 

 

多数ある新選組の物語では、試衛館出身の仲間を中心に芹沢鴨や伊東甲子太郎らが登場するのが一般です。

しかし、本書『新選組裏表録 地虫鳴く』では、そうした物語には名前すら出てこない無名の隊士が、その内面まで突き詰めて描写されています。

そうしたあまり知らない人物たちの行動を軸に、伊東甲子太郎が暗殺される「油小路事件」へ向けての新選組が描かれているのです。

 

まず、冒頭は史談会での阿部隆明という老人の証言の場面から始まります。

この「史談会」は、東屋梢風氏の「新選組の本を読む ~誠の栞~」に紹介してある『新選組証言録』によりますと、「明治22年に設立された。生存者から幕末維新期に関する証言を集め、史料として残すことを目的とした任意団体」であり、この場面は史実の再現シーンなのですね。

 

 

この阿部という老人からまず知りません。ちょっと分かりにくいのですが、この阿部が、本編が始まると高野十郎という名前で登場し、すぐに阿部十郎と改名し、重点的に描かれていきます。

自尊心が高いくせに目的意識が無く卑屈な存在で、常に他者を拒絶しています。ただ、自分をもう一度新選組に誘ってくれた浅野薫にだけは心を許しています。

その浅野は善人であることだけが取り柄のような人物なのですが、やはり試衛館組には負い目を感じているのです。

高名な斎藤一も阿部には何故か心をとどめていて、裏切られ全く孤立している阿部に対し上手く手助けの言葉を言えない自分を悔いるような言葉を発したりもしています。

ついで、篠原泰之進や三木三郎といった伊東甲子太郎の仲間の名前が挙がり、更に中心的な役割を果たす監察方の尾形俊太郎らが登場します。

 

勿論、高台寺党は伊東甲子太郎が中心であり、事実、伊東甲子太郎についてかなり書き込まれています。

しかし心に残るのはいつも土方に鬱屈を抱えているような伊東の実弟の三木三郎や、自分の意思が見えない篠原泰之進であり、卑屈でいながら自尊心は強い阿部十郎なのです。

三木三郎に「屈折に支配されて振り回されている生き方」が気に入っている、と言われる阿部は全く自分の居場所を見失っています。

そして、伊東の腹心とも言える篠原泰之進も引きずられるように行動している男だったのです。

ただ、伊東の「僕には夢があってね。」と語り出すその言葉を聞いて「自分の中のなにかがぐるりと一回転」するのを感じ、「自分にとって心地良い場所だと」あらためて自分の位置を掴みます。

 

本書『新選組裏表録 地虫鳴く』では、これまでその存在も知らない隊士たちが単に「新撰組隊士」としてまとめられる存在ではなく、血と肉を与えられて鬱屈を抱えている一個の人間として動き始めています。

その夫々があるいは鬱屈にけりをつけて途を見出し、あるいはそのまま憤懣を抱きながら袋小路から出れなくなってしまいます。

木内昇はこうした弱さを持つ、普通の人間の描き方が実に上手いのです。

 

また、山崎烝と共に監察方として働く尾形俊太郎が良く書き込まれています。

伊東らが新選組を脱退する話し合いの場に行く途中で、尾形は以前屯所の家主であった八木源之丞と出会い、思わずこみあげてくるものを感じて涙を流してしまいます。こうしたシーンには実に作者の巧みさを感じます。

ここで尾形は、まだ新選組という名称も無く田舎浪士の集団にすぎなかったあの頃から立派になった現在までを一瞬で回顧し、これから離別の場に臨むのです。様々の思いを込めた涙は見事です。

 

心象の描き方はインタビュアーとして培われたものでしょうか。この本の五年後に書かれる「漂砂のうたう」でも情景描写が素晴らしく、直木賞を受賞されます。

 

 

本書『新選組裏表録 地虫鳴く』は『新選組 幕末の青嵐』には一歩及ばない気もしますが、個人の好みの問題でしょう。本作品の方が好みだ、という人もかなり居るのではないでしょうか。

いずれにしても掘り出し物の一冊でした。

漂砂のうたう

本書『漂砂のうたう』は、明治という新たな時代を迎え、自分を見失ったかつての武士などの姿を描き、第144回直木賞を受賞した長編小説です。

登場人物が独特な存在感を持ち、物語の持つ雰囲気も谷中という土地柄を表したものか、水底を思わせる不思議な魅力を持った作品でした。

御一新から10年。武士という身分を失い、根津遊廓の美仙楼で客引きとなった定九郎。自分の行く先が見えず、空虚の中、日々をやり過ごす。苦界に身をおきながら、凛とした佇まいを崩さない人気花魁、小野菊。美仙楼を命がけで守る切れ者の龍造。噺家の弟子という、神出鬼没の謎の男ポン太。変わりゆく時代に翻弄されながらそれぞれの「自由」を追い求める男と女の人間模様。第144回直木賞受賞作品。(「BOOK」データベースより)

 

現在の上野駅の西側の不忍通りを道なりに北西に進み、言問通りとの交差点を越えたあたりに本書の舞台となる根津遊郭がありました。

この根津という土地は近くに「谷中」という地名があることからも分かるように、「東の上野台と西の本郷台との間にはさまれた中央の谷筋」に位置し、湿気のたまる土地であったそうです。

本書『漂砂のうたう』は、その土地の持つ湿っぽい、どことなくやるせない雰囲気をまとわせた遊郭を舞台として、鬱屈を抱えながら生きている主人公が描かれています。

 

時は明治10年、明治維新の騒動もひと落ち着きした頃、御家人の次男坊だった定九郎は根津遊郭で立番(客引)をやっていた。

定九郎は御一新という時代の変動の中、御家人の次男坊という身分から逃げ、根津に居ついたのだが、結局はそこに捉われているとの思いから脱却できずにいた。

いつも此処では無いどこかへの飛躍を思っているが、結局は現在の自分からの逃亡であることに次第に気付き始める。

 

本書『漂砂のうたう』は実に不思議な小説です。読み始めは先に読んだこの作家の「櫛挽道守」と同じく、無名の主人公の生き様を描く重めの物語だと決め付け、手に取るのにためらいを感じつつ読み進めていました。

 

 

しかし、途中から少々雰囲気が変わってきます。登場人物が夫々に色を持ち始めるのです。

龍造はヤクザに声をかけた定九郎の失敗の後始末で男を見せるし、反対に下働きの嘉吉は下衆(げす)な男として強烈で、小野菊は売れっ子花魁としての存在が強調されていきます。それなりに、登場人物のキャラが立ち、物語も動きが出てくるかと期待されます。

 

しかし、普通は登場人物は血肉を持った人間としての存在感があるものですが、どういう訳か本書の登場人物は定九郎とポン太を除き、その存在感をあまり感じません。

強烈な「男」を感じさせる龍造すらも人物の背景は全く不明で、場面に必要な情報だけがあり、他の場面になるとその存在すら感じられないのです。

でも、こうした印象は私個人だけのようで、他の人の書評を読んでも誰もこうした印象は書いていません。

 

ポン太はまた特別です。もしかしたら、ポン太の師匠である三遊亭圓朝の怪談話の登場人物がその場面に置かれているのではないか、そんな印象すらあります。

このポン太は全編を通して定九郎のそばにいるのですが、その実、見えているのは定九郎だけのような、不思議な存在です。

定九郎は常にどこか違う場所の自分を思うのですが、結局は現実に立ち戻り、生簀の中の金魚に自らの身を重ねます。そして物語はクライマックスへと向かうのです。

 

本書『漂砂のうたう』は、全編を通して昔読んだ漫画でつげ義春の『ねじ式』を思い出してしまいました。

物語の内容も表現形式も全く違うのですが、その水底に居るような倦怠感の漂う雰囲気が、どことなく共通しているのでしょう。この物語は作品の世界にのめり込む人と、嫌う人とにはっきりと分かれるような気がします。

 

 

蛇足ながら、ポン太という人は三遊亭圓朝の弟子として実在した人だそうです。

櫛挽道守(くしひきちもり)

本書『櫛挽道守』は、幕末という時代背景のもと、木曽の山奥の町で「お六櫛」の櫛職人を目指す一人の娘の半生を描き出す長編の時代小説です。

家の跡取りとなる男子を産み、家を守ることこそが女の務めであった時代に、職人として生きることを選んだ一人の女の生き様が描かれており、親子、家族、そして夫婦の在り方まで考えさせられる一冊です。

幕末の木曽山中。神業と呼ばれるほどの腕を持つ父に憧れ、櫛挽職人を目指す登瀬。しかし女は嫁して子をなし、家を守ることが当たり前の時代、世間は珍妙なものを見るように登瀬の一家と接していた。才がありながら早世した弟、その哀しみを抱えながら、周囲の目に振り回される母親、閉鎖的な土地や家から逃れたい妹、愚直すぎる父親。家族とは、幸せとは…。文学賞3冠の傑作がついに文庫化!(「BOOK」データベースより)

 

木曾山中の藪原(やぶはら)宿で、「お六櫛」という名産の櫛があります。解かし櫛とは異なり、髪や地肌の汚れを梳(くしけず)るのに用いられる「お六櫛」は、「とりわけ歯が細かく、たった一寸の幅におよそ三十本も」櫛の歯があるそうです。

吾助は、それほどに間隔の狭い櫛の歯を「板に印もつけもせず、勘だけで均等に引くことができる」名人でした。

本書『櫛挽道守』では、父親のような櫛職人になることを目指す、吾助の娘登瀬の半生が語られます。

 

時代は黒船が来航し、攘夷勢力と勤皇の思想との激しい対立が渦巻いている中、登瀬は藪原にある家の職場である板の間しか知らずに暮らしていた。

しかし、時代の波はそうした藪原にも押し寄せる。事故により跡取りである息子直助を亡くした吾助の一家は、登瀬の願いに応え、婿を取ることになるのだった

 

その他の重要な登場人物として登瀬の弟の直助の存在があります。本書の節々に、早世した直助の書いていたという物語が登瀬の前に現れます。

同時に、直助の書いた物語の載った草紙を、直助と共に旅人に売っていた源次という男も登瀬の心の片すみに残る男として現れます。

もう一人実幸というこれもまた天才肌の男が職人として吾助と登瀬の前に現れ、登瀬の家に住み込みとして働き、吾助の技を学んでいきます。この男もまた重要な役目を担っています。

 

本書『櫛挽道守』は、登瀬という女性の成長譚であると同時に、名人である吾助一家の家族の物語でもあり、登瀬の婿との夫婦の物語という側面も持っています。

ただひたすらに藪原で櫛を作る職人でありたいと願う登瀬ですが、その人生は決して明るいものではなく、この物語も全体として重いトーンで進みます。

 

とても「新選組 幕末の青嵐」を書いた作者と同一人物とは思えない雰囲気です。この本を先に読んでいたら、多分他の本は読まなかったのではないでしょうか。私の好みのタッチとは異なるのです。

 

 

でも、家に仕えるのが当たり前であったこの時代で、職人になるというその思いがいかに大変なものであったことか。

その中で自分の意志を貫こうとする一人の女性の強い生き方の物語として見た場合、物語としても引き込まれて読む人は多数いるのではないでしょうか。

 

例えば、一人の女性の生きざまを描き出した作品として朝井まかての『恋歌』や高田郁の『あい―永遠に在り』などがあります。

これらの作品は、ひたすらに夫を想いながら自分の生き方を貫く女性を描いた作品でしたが、これらとはまた異なり、本作品は職人になるために打ち込む女性を描いた作品として魅力的です。

 

 

本書『櫛挽道守』は、けっして私の好みの作品ではなかったのですが、それでもなお主人公の登瀬の姿には惹きつけられるものがあり、小さな感動を呼ぶ作品でした。

蛇足ながら、「木曽のお六櫛公式サイト」では「薮原では一口に『お六櫛』と総称していますが、その種類は多義にわたり、梳き櫛・解かし櫛・挿し櫛・鬢掻き櫛などがあります。」と記されていて、若干『お六櫛』についての説明の記述が違います。少々気になりましたので記しておきます。

新選組 幕末の青嵐

『新選組 幕末の青嵐』は、多視点という新たな観点から新選組を描き出す、長編の時代小説です。

新選組の主な構成員の夫々に均等に光を当て、短めの項立ての中で客観的に新選組を浮かび上がらせているその構成がユニークで、新しい新選組の物語と言える、かなり読みごたえのある小説でした。

身分をのりこえたい、剣を極めたい、世間から認められたい―京都警護という名目のもとに結成された新選組だが、思いはそれぞれ異なっていた。土方歳三、近藤勇、沖田聡司、永倉新八、斎藤一…。ひとりひとりの人物にスポットをあてることによって、隊の全体像を鮮やかに描き出す。迷ったり、悩んだり、特別ではないふつうの若者たちがそこにいる。切なくもさわやかな新選組小説の最高傑作。(「BOOK」データベースより)

 

本書『新選組 幕末の青嵐』は、これまで良く知られている新選組の物語ではあるのですが、特定の個人を取り上げて論じているのではありません。項毎に特定の人物の視点を借り、他の構成員や新選組の出来事をその人物の主観を通して描き出しています。

つまり、視点を借りているその人物の内心を考察するのですから当然その人物像を詳しく語ることになり、且つその者の眼を通して他者を語らせることを繰り返すことで、結果的には様々なフィルターを通した新選組という組織の描写になっているのです。

もっとも、様々の視点の先に据えられているのは最終的には「土方歳三」という人間です。近藤勇や沖田総司といった人物についても照明はあたっているのですが、結果として近藤勇ではなく、土方歳三が中心に浮かび上がっています。

 

勿論、山南敬助の脱走事件や伊東甲子太郎の「油小路事件」などの定番の事件も簡潔かつ丁寧に描写されており、エンターテインメントとしてのかたちも抑えてあります。

前述の手法は、時代の変革期にその命をかけて生き抜いた若者たちの青春群像劇を際立たせることにもなり、こうした定番の事件もまた新たな視点で読むことが出来ました。

 

読み終えてみると、木内昇という作家は思いのほかに情感豊かで優しい作風の作家さんでした。

例えば、土方の義兄にあたる佐藤彦五郎の視点で語られる「盟友」の項では「どこまで行っても手に入らぬと思い込んでいた美しいものは、存外、自分のすぐ近くにあるものだ。それを知ったとき、今まで感じたことのない確かな幸福が、その人物のもとを訪れる。」と記しています。

名主という立場の彦五郎は、夢に向かって走り出せない自分だけど、代わりに夢を果たしている盟友を持つが故に、自分にも豊潤な日々の暮らしはある、と思いを巡らします。

 

更に、「脱走」の項では沖田総司の視点で山南敬助の脱走事件の顛末が語られます。他のどの作者の作品でもポイントとなる場面ではあるのですが、本作品でも特に胸に迫るものがあります。

山南を追いかける総司。その総司の内面の描写。帰営してからの特に永倉の言動が簡潔に描かれます。その解釈にとりたてて新鮮なものがあるわけではないのですが、本作品での山南と総司の描かれ方が描かれ方でしたので、一層に心に迫るのです。

 

他に、「油小路」の項では永倉新八の視点で藤堂平助の最後が語られますが、これがまたせつないのです。

 

このところ、 浅田次郎の『壬生義士伝』などの新選組三部作を読んで間も無いこともあり、読み手として新選組という題材自体の持つセンチメンタリズムに酔っているところがあるかもしれません。

しかし、そういう点を差し引いても本書の持つ魅力は褪せないと思うのです。

 

 

蛇足ですが、私はあとがきを読むまでこの木内昇という作家が女性だとは知りませんでした。「きうち のぼる」ではなく、「きうち のぼり」と読むのだそうです。

本書『新選組 幕末の青嵐』は実に面白い一冊でした。新選組という題材自体の持つセンチメンタリズムを越えたところで展開される本書は是非お勧めです。