負けくらべ

負けくらべ』とは

 

本書『負けくらべ』は、2023年10月に336頁のハードカバーで小学館から刊行された長編のハードボイルド小説です。

やはりこの人の作品は異彩を放っているという印象がそのままにあてはまる、心に迫る物語でした。

 

負けくらべ』の簡単なあらすじ

 

初老の介護士・三谷孝は、対人関係能力、調整力、空間認識力、記憶力に極めて秀でており、誰もが匙を投げた認知症患者の心を次々と開いてきた。ギフテッドであり、内閣情報調査室に協力する顔を持つ三谷に惹かれたのが、ハーバード大卒のIT起業家・大河内牟禮で、二人の交流が始まる。大河内が経営するベンチャー企業は、牟禮の母・尾上鈴子がオーナーを務める東輝グループの傘下にある。尾上一族との軛を断ち切り、グローバル企業を立ち上げたい牟禮の前に、莫大な富を持ち90歳をこえてなお采配をふるう鈴子が立ちはだかる。牟禮をサポートする三谷も、金と欲に塗れた人間たちの抗争に巻き込まれてゆく。(「BOOK」データベースより)

 

負けくらべ』の感想

 

本書『負けくらべ』は、人間関係に特別な能力を有する初老の介護士を主人公とするハードボイルド小説です。

驚いたのは惹句の言葉そのままの86歳のハードボイルド作家が書いた19年ぶりの現代長編だということであり、その内容の見事さでした。

 

ただ、19年ぶりというのは文字通り現代長編の話であって、作品としては2019年10月に双葉社から書き下ろしで出版された『新蔵唐行き(とうゆき)』という時代小説が出版されています。

 

 

この作品は『疾れ、新蔵』の主人公であった新蔵の物語ですが、著者の志水辰夫は2007年に出した『青に候』以降、ずっと時代小説作品を刊行されていたのです。

そういう志水辰夫が19年ぶりに現代小説を出版されたのが本書『負けくらべ』ということになります。

 


 

志水辰夫の現代小説は、『飢えて狼』や『裂けて海峡』から始まった独特の雰囲気を持ったハードボイルド小説として一躍人気を博してきたのですが、ここしばらくは上記のように時代小説に移行されていたのです。

 


 

そんな志水辰夫の作品ですが、それはやはり期待に違わない素晴らしいものでした。

主人公は昨年65歳になったのをきっかけに会社を娘夫婦に譲り、いまは個人で介護士として活動しているという三谷孝という人物です。

この男は、対人関係能力や空間認識力、記憶力に優れた能力を有する、特定の分野で優れた才能を持つ人を意味するギフテッドでした。

この能力を生かして介護の仕事をしていた三谷ですが、一方で内閣情報調査室を勤め上げ、その外郭団体の東亜信用調査室を任されている青柳静夫の仕事をも請けていました。

 

負けくらべ』はこの三谷が大河内牟禮(むれ)というIT企業の経営者と出会い、彼が属する東揮グループの内紛に巻き込まれていく物語です。

東揮グループとは、牟禮の母親で現在90歳を超える尾上鈴子が率いるグループです。

このグループからの独立を目論んでいた牟禮の前に立ちふさがったのが東揮グループだったのです。

ここに牟禮の腹違いの長男である磯畑亮一や兄澄慶の子の英斗などが重要な役割を担って登場しています。

 

本書においては三谷の職務である介護の仕事についても、具体的に、しかし客観的に淡々とその内容を記しておられ、三谷という人物の背景をしっかりと構築することで、物語の奥行きが深いものになっています。

ただ、本書のラストはどういう意味があるのかいまだによく分かりません。幾通りもの解釈ができるエンディングだとしか思えず、何が正解なのか知りたいものです。

 

著者の志水辰夫は御年86歳という驚きの作家であり、今もなお作品を書き続けておられるそうです。

負けくらべ』の後はさらに時代小説を書くそうで、その後にはまた現代小説を書くということでした。

骨太のハードボイルド小説を書かれる作家さんが少なくなっている昨今、まだまだ良質の作品を提供してほしいものです。

疾れ、新蔵

新蔵は越後岩船藩の江戸中屋敷に向かった。姫を国許に連れ戻す手はずであった。街道筋には見張りがいる。巡礼の親子に扮し、旅が始まった。手に汗握る逃走劇の背後には、江戸表と国許の確執、弱小藩生き残りをかけた幕府用人へのあがきがあった。そして、天領だった元銀山の村の秘密、父子二代に亘る任務のゆくえも絡み一筋縄ではいかないシミタツの魅力満載!山火事が迫る中、強敵と対決する!姫を伴った新蔵の旅は成就するのか? (「BOOK」データベースより)

志水辰夫が4年半ぶりに発表した長編時代小説です。

一人の男が江戸から越後の国元まで十歳の志保姫を連れ戻す、それだけの物語です。しかしながら、細谷正充氏が「逃走と追跡のドラマは、冒険小説の十八番」と書いておられるように、逃走劇こそは冒険小説の格好の舞台でした。

本書は、読み始めてしばらくは、読者には新蔵が国元まで幼い姫を連れて逃げなければならない理由は不明のままです。しばらくはそのままで、途中で拾った駕籠かきの政吉と銀治やわけありのおふさ、それに敵役の藤堂兄弟などの登場人物が色を添えているといった程度で、逃避行それ自体はそれほどに取り上げて言うべきものは無い、などと思いながら読み進めていました。

ところが、中盤あたりから物語が動き始めると、面白さは急に増してきます。更にクライマックス近くになり、この物語の隠された事実が明らかになり、それぞれの思惑が見えてくると、志水辰夫の物語です。そして、物語の終わり近く、藤堂兄弟との決着がついた後、とある女性を掻き抱いてからの新蔵の心情はまさにシミタツ節健在でした。

志水辰夫という作家は、もう80歳になるそうですが、それでいて本書のようなバイタリティあふれる作品を書かれるのですから大したものです。


冒険小説の名作中の名作であるG・ライアルの『深夜プラス1』も、フランス西岸のブルターニュからスイスとオーストリアの中間にあるリヒテンシュタインという小さな国まで、マガンハルトという実業家を運ぶだけという文字通りの逃走劇でした。この物語でも『ハヤカワミステリ』の「冒険小説人気キャラクター」部門で1位を獲得するほどの人気を博したハーヴェイ・ロヴェルなどの名物キャラクターがいました。

名作と言えばもう一冊、D・バグリィの『高い砦』もあります。こちらはアンデス山中でハイジャックされ生き残った九名の、山中からの脱出を描いた作品です。彼らを追うのは軍事政権側の部隊が追いかけてきており、朝鮮戦争の生き残りであるパイロットのオハラを中心にした闘いの素人である九名の生存者たちの闘い方のユニークさもあり大人気となった小説です。

つばくろ越え

江戸と諸国を独りで結ぶ、通し飛脚。並外れた脚力に加え、預かった金品を守るため、肝がすわり機転がきき、腕も立つ男でなければ務まらぬ。蓬莱屋勝五郎の命を受け、影の飛脚たちは今日も道なき道を走る。ある者は寄る辺ない孤児を拾い、ある者は男女の永遠の別れに立会う。痛快な活劇と胸を打つ人間ドラマを共に備えた四篇を収録。著者の新世紀を告げる時代小説シリーズ、ここに開幕。(「BOOK」データベースより)

 

飛脚問屋蓬莱屋シリーズの第一作目の四編の短編を収めた時代小説集です。

 

飛脚問屋蓬莱屋の雇人夫々に焦点が当たり、各短編を構成しています。そして全体として飛脚問屋蓬莱屋の物語なのです。

夫々の短編の主人公の書き分けが若干分かりにくいかなという気はしますが、それでも、その人物なりの生き方を芯に持って、ただひたすらに生きていく様が描写されています。

 

この本を読んで久しぶりに良質のハードボイルドに出会った気がして、また志水辰夫の未読の本を数冊読むことになりました。

みのたけの春

幕末の北但馬。寂れつつある農村の郷士・清吉は、病気の母と借財を抱えながらも、つましく暮らしていた。ある日、私塾に通う仲間・民三郎が刃傷沙汰を起こす。清吉は友を救うべく立ち上がるが、事態は思わぬ波紋を呼んだ。激動の予兆に満ちた時運に、民三郎らが身を委ねていくなか、清吉はただ日常をあくせくと生きていく道を選ぶのだった。名もなき青春群像をみずみずしく描いた傑作時代長編。(「BOOK」データベースより)

 

志水辰夫の描く第二弾の長編時代小説です。

 

幕末、若者は時代の変革に乗り遅れまいとしますが、主人公の暮らす田舎へも時代の波は押しかけます。

病の母の看病に追われる主人公はその波に飲み込まれようとする仲間を引きとめますが、時代はそれを許そうとはしません。主人公とその仲間の生きざまを描きだす名品だと思います。

 

いわゆるヒーローが活躍するハードボイルドではありませんが、主人公の内面を叙情的な文体で照らしだす本書はまさにシミタツ節です。

本書は志水辰夫の時代物第二作です。

約束の地

ただひとりの肉親だった祖父を目の前で殺害された渋木祐介少年の生活は、その日を境に一変した。事件を契機に、大物右翼の庇護を離れて成長していった祐介は、やがて祖父と自身の出自、そして祖父の死の真相を知ることになる。運命に弄ばれるかのように、波乱の人生を送る祐介の姿を描いた長編冒険小説。(「BOOK」データベースより)

 

主人公は幼いころは祖父のもとで暮らしています。しかし、目の前で祖父を殺され生活は一変します。長じて自身や祖父のの秘密が明らかになるにつれ、トルコやアルメニアの歴史が絡むスケールの大きな話になっていきます。

 

この本を紹介するのはもしかしたら間違いかもしれない、と思うほどに少々とりつきにくい本です。

しかし、後半展開が動いてくるにつれ物語に引き込まれていきます。

行きずりの街

女生徒との恋愛がスキャンダルとなり、都内の名門校を追放された元教師。退職後、郷里で塾講師をしていた彼は、失踪した教え子を捜しに、再び東京へ足を踏み入れた。そこで彼は失踪に自分を追放した学園が関係しているという、意外な事実を知った。十数年前の悪夢が蘇る。過去を清算すべき時が来たことを悟った男は、孤独な闘いに挑んでいった…。日本冒険小説協会大賞受賞作(「BOOK」データベースより)

 

かつて女生徒とのスキャンダルで学園を追われた、今は塾講師をしている元教師が主人公のハードボイルド長編小説です。

塾の教え子が失踪し、その捜索の過程でかつて自分が勤務した名門校や自身の過去のスキャンダルに絡む謎も明らかになっていきます。

 

1990年の日本冒険小説協会大賞を受賞し、1992年度の「このミステリーがすごい!」第一位を取得してることをとってもその面白さは保証済でしょう。

読んでから20年近くたっているのでその詳細な内容までは覚えていません。この本より「裂けて海峡」の方が印象に残っているのは否めません。しかし、その面白さには間違いがなく、お勧めです。

 

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飢えて狼

ささやかだが平穏な暮らしが、その日、失われた。怪しい男たちが訪れた時刻から。三浦半島で小さなボート屋を経営していた渋谷は、海上で不審な船に襲われたうえ、店と従業員を炎の中に失う。かつて日本有数の登山家として知られた渋谷は、自らの能力のすべてを投じ、真実を掴むための孤独な闘いを開始する。牙を剥き出し襲いかかる「国家」に、個人はどう抗うことが出来るのか。(「BOOK」データベースより)

 

日本の名作冒険小説と言われる長編小説です。

 

再読してみました。前に読んでからもう30年以上もたっているでしょうか。

 

今は三浦半島で小さなボート屋を営んでいる、かつての日本有数の登山家だった主人公は、ある日突然店を焼かれ従業員も殺されてしまう。

その後、真相解明のために調べ始めるとCIAやKGBといった国家間の諜報戦の様相が見えて来て、その戦いに巻き込まれていくのだった。

 

やはり読み始めたら一気に読んでしまいました。文庫本で430頁余の本を4時間弱で読んだことになります。読む速度が速いのかそれと遅いのかは分かりませんが、やはり引き込まれてしまいました。

勿論本書の時代背景は古く、1976年9月に起きたベレンコ中尉亡命事件をモチーフに、北方領土問題を絡ませた物語なので、昔を知らない人たちにはピンと来ないかもしれません。

しかし、そうした時代背景は知らなくても、今でも最上級の冒険小説としての面白さをもっている本だと、今更ながらに実感しました。

 

途中で国後島での逃避行の描写がありますが、著者の手元にあった資料だけで書いたなどとは思えない迫力です。解説にも書いてありましたが、作家という人種は「見てきたような嘘」をつくのです。

また、志水辰夫氏本人の言として、北方領土問題をスローガンとして終わらせるのでは無く、「いまのうちに、かつての記録を、商業ベースに乗る本にして残しておきたいと思った」と言われています。

そしてこの資料が先にあって、「日本領土でありながら日本支配の及んでいない望郷の島、ここに日本人を潜入させ、高さ四、五百メートルもある絶壁を攀じ登らせたらどうだろう。」ということで本書の主人公の渋谷が生まれたのでそうです。

の発想でこれだけの本が書けるのですから、その才能がすごいとしか言いようがありません。

 

まずはこのあたりの作品を読んでもらうと志水辰夫という作家が分かるのではないでしょうか。

是非読むべき本の一冊です。お勧めです。