ともぐい

ともぐい』とは

 

本書『ともぐい』は、2023年11月に304頁のハードカバーで新潮社から刊行され、第170回直木賞を受賞した長編の動物文学です。

その自然の描写、動物たちの生態の生々しさは尋常ではなく、街の佇まいこそが不自然なのだと思い知らされるような、存在感に満ちた作品でした。

 

ともぐい』の簡単なあらすじ

 

死に損ねて、かといって生き損ねて、ならば己は人間ではない。人間のなりをしながら、最早違う生き物だ。明治後期、人里離れた山中で犬を相棒にひとり狩猟をして生きていた熊爪は、ある日、血痕を辿った先で負傷した男を見つける。男は、冬眠していない熊「穴持たず」を追っていたと言うが…。人と獣の業と悲哀を織り交ぜた、理屈なき命の応酬の果てはー令和の熊文学の最高到達点!!(「BOOK」データベースより)

 

ともぐい』の感想

 

本書『ともぐい』は、北海道の自然の中で一人生き抜いている熊爪という漁師の生きざまを描いた第170回直木賞受賞作となった作品です。

本書の作者河崎秋子という人の作品では、本書同様に第167回直木賞候補作となった『絞め殺しの樹』という作品があります。

この作品は理不尽な仕打ちばかりの人生を耐え抜く一人の女性の生涯を描いた作品ですが、私の好みとはことなるものの、妙に惹かれる作品でもありました。

その“妙に惹かれる作品”だったという部分が取り出されたのが本書だといっても過言ではなさそうです。

 

本書『ともぐい』の主人公は、熊爪という猟師の男です。彼は大自然の中で山菜を採り、兎や鹿そして熊などの動物を殺すことで生きています。

獲った動物は、取れるものはその皮をはいで毛皮としたり、肉は自分と、飼っている名前のない猟犬とで食べ、また保存食とするのです。

たまには獲った動物の肉などを売ったり、鉄砲の弾丸などを購入するために町へ出かけますが、他人との会話を苦手としていてすぐにでも山へ帰りたいと思っているような人物です。

その動物の肉などを買い取ってくれる店が「門屋商店」であり、門屋主人の井之上良輔には世話になっており、良輔に山の話をしつつ、一夜の宿を借りるのを常としています。

この井之上良輔の妻が熊爪が苦手とするふじ乃であり、門屋商店の番頭が幸吉といいます。

そしてこの店にはもうひとり重要な人物がおり、それが陽子(はるこ)という目の見えない少女です。

熊爪は、山で熊を仕留め損ねて大けがをした太一という阿寒湖の畔の集落から来た猟師を助けたことから物語は動き始めます。

 

本書『ともぐい』の一番の魅力は熊爪という男の造形であり、熊爪の犬と共に暮らす山の生活の描写だと言っていいと思います。

他者との交流を好まず、犬と自分一人が生きていくだけに必要な生き物を殺し、それを食し、必要に応じて町へ行って売りさばいて火薬などの必需品を購入する、それだけの暮らしが描かれます。

本書冒頭から、主人公の熊爪が、自分が狩った鹿を解体する様子が詳細に語られています。

自分が村田銃の照準を合わせ仕留めた鹿に小刀を使い、立ちあがった「暖かく緩んだ蒸気」の匂いを嗅ぎながら、内臓を取り出し、赤紫色をした肝臓の端を切り取り、巣食う虫の痕跡のないことを確認して口の中に放り込むと言うのです。

そこにあるのは熊爪と動物との戦いであり、命のやり取りです。

その暮らしの様子が詳細に語られるのですが、その描写が実にリアリティーに富んでいます。

 

ところが、後半になると物語は全く異なる顔を見せてきます。

太一というよそ者が連れてきた「穴持たず」の熊は、熊爪が太一を見つけたときに恐れたように、熊爪の生活に大きな変化をもたらすのです。

それは、熊爪の孤高の生き方にくさびを打ち込み、あれほど嫌っていた他者との関りを熊爪に強制することになります。

そして、大自然の中で、大自然と共に生きてきた熊爪の生活の変化は、単なる生きる場所が移った以上の変化をもたらすのです。

 

作者の河崎秋子は、「道東端の酪農家に生まれ」、「兄が害獣駆除の免許を持っており、仕留めたシカの解体は私の担当だった。」と言われているので、鹿の解体の場面などは実体験に基づいているのでしょう( 東京新聞 Tokyo web : 参照 )。

もともと前著『絞め殺しの樹』の描写でも分かるように、並外れた筆力の持ち主である作者が実体験に基いて描き出しているのですから、上記の描写などリアリティーに満ちているのも当然なのでしょう。

そうした筆力は他の場面でも惜しみなく発揮されており、本書全体の醸し出す雰囲気に読者が惹き込まれるのも当たり前だと思います。

 

先述のように、物語も後半になると熊爪が否応なく人間との関りの中で生きるしかなくなっていく姿が描かれています。

そこでの熊爪の生き方はやはり哀しみに覆われており、先行きを暗示しているようです。

 

本書『ともぐい』は、第170回直木賞受賞作となったというのも納得の作品であり、小説の持つ迫力というものをあらためて感じさせられた、重厚な作品でした。

絞め殺しの樹

絞め殺しの樹』とは

 

本書『絞め殺しの樹』は2021年12月に刊行され、第167回直木三十五賞の候補作となった長編小説です。

ひたすらに虐げられ、理不尽な仕打ちを受けながら生きるしかなかった女性を主人公とした重厚な、しかし好みとは異なる作品でした。

 

絞め殺しの樹』の簡単なあらすじ

 

あなたは、哀れでも可哀相でもないんですよ

北海道根室で生まれ、新潟で育ったミサエは、両親の顔を知らない。昭和十年、十歳で元屯田兵の吉岡家に引き取られる形で根室に舞い戻ったミサエは、ボロ雑巾のようにこき使われた。しかし、吉岡家出入りの薬売りに見込まれて、札幌の薬問屋で奉公することに。戦後、ミサエは保健婦となり、再び根室に暮らすようになる。幸せとは言えない結婚生活、そして長女の幼すぎる死。数々の苦難に遭いながら、ひっそりと生を全うしたミサエは幸せだったのか。養子に出された息子の雄介は、ミサエの人生の道のりを辿ろうとする。数々の文学賞に輝いた俊英が圧倒的筆力で贈る、北の女の一代記。

「なんで、死んだんですか。母は。癌とはこの間、聞きましたが、どこの癌だったんですか」
今まで疑問にも思わなかったことが、端的に口をついた。聞いてもどうしようもないことなのに、知りたいという欲が泡のように浮かんでしまった。
「乳癌だったの。発見が遅くて、切除しても間に合わなくてね。ミサエさん、ぎりぎりまで保健婦として仕事して、ぎりぎりまで、普段通りの生活を送りながらあれこれ片付けて、病院に入ってからはすぐ。あの人らしかった」(本文より)(内容紹介(出版社より))

 

絞め殺しの樹』の感想

 

本書『絞め殺しの樹』は、根室のとある気位ばかりが高い家に引き取られた一人の女の子の成長記録であり、理不尽な暮らしにただ耐えるしかない女性の物語です。

こうした理不尽な生活にただ耐えることしかできない人物を主人公とした物語は決して私の好むことろではありません。

例えば、2022年本屋大賞の候補作にもなった町田そのこの『星を掬う』も幼い頃に母親に捨てられ、結婚してからは夫のDVに苦しむ女性の物語です。

この作品はDVの他に育児放棄や介護の苦しみなどの様々な家族の問題を抱えた人物が登場する、やはり一般的な評価は高い作品ですが、個人的にはどうに好みとは言えない作品でした。

この作品も本書も主人公は明確な自己主張をすることができず、ただ親や夫の言葉に従うだけです。私はそうした人物の物語を受け付けないようです。

 

 

本書『絞め殺しの樹』は第167回直木三十五賞の候補作となったほどに評価は高い作品ですが、本書のような作品を読むといつも「直木賞とは?」という疑問が湧いてきます。

そもそも直木賞は「新進・中堅作家によるエンターテインメント作品」( 日本文学振興会 : 参照 )に対して与えられる賞であって、別な言い方をすると、それは「大衆性」のある長編小説あるいは短編集に与えられる文学賞だということです( ウィキペディア : 参照 )。

とするならば、本書のような文学性の高い作品がなお「大衆性」を持った「エンターテイメント作品」だと言えるのか、といつも思うのです。

プロの人たちが直木三十五賞の対象として選んでいるのですから、素人が口を出すことではないでしょうが、それでもやはり違和感が残ります。

 

でも、それだけ本書『絞め殺しの樹』の持つ香りに圧倒されたということはできると思います。

先に述べたように、本書の内容はどこまでも暗く、そして重く、私の好みとはかなり異なる作品でした。

しかしながら、そんな作品でありながらも途中で読むのを辞めようとなどは全く思わず、それどころか妙に惹かれた作品でもあったのです。

それは文章の力なのでしょうか。それとも物語の構成がうまいからなのでしょうか。

 

読書中に思い出したのは赤松利市の『』という作品です。

本書の作者河崎秋子赤松利市とでは作品はそのジャンルも内容も全く異なります。赤松利市の作品は暴力的な雰囲気を纏った冒険小説であり、登場人物は陽気ではあっても物語のトーンは昏いのです。

そこに未来への志向や希望などという展望はなく、ただ刹那的な生存への願望だけが存在します。多分その一点で本書との同じ匂いを嗅ぎ取ったのだと思います。

 

 

北海道の厳しい開拓の様子を描き出した作品と言えば、高田郁の『あい – 永遠に在り』という作品がありました。

この作品は北海道開拓に身をささげた関寛斎の妻である「あい」という実在の女性を描いた作品で、強い女性が描かれた感動的な作品でした。

 

 

それに対し、本書『絞め殺しの樹』の主人公は自分が置かれた環境を前提としてひたすらに耐えることで生き抜いている女性です。

吉岡家という気位ばかりが高い家でこき使われている自分の立場を所与のものとして受け入れているのです。

そんな人を主人公に据え、ただ理不尽で哀しみしかない女性の生涯を描く作品を私は好まないのです。

 

物語自体は吉岡家の理不尽な仕打ちにひたすら耐え続けるしかないミサエという十歳の女の娘が成長し、助けを得て一旦は吉岡家の呪縛からは逃れたものの、故郷のために再び保健婦として根室に戻るという話です。

そこには救いはありません。

もし本書の物語に少しでも救いを求めようとすれば、それは随所に出てくる白い猫の姿でしょう。最初吉岡家で登場する白妙という白い猫と思しき猫がほかの場面でも名を変え登場してきます。

勿論違う猫でしょうが、同じ猫が転生したものだと言わんばかりの登場の仕方を見せます。

第一部での終わりでの「地獄に猫はいないだろう」というミサエの独白の意味は、ねこが象徴するものが安楽や安心などの温もりだと思っていいのだろうかと考えてしまいます。

 

繰り返しますが、本書『絞め殺しの樹』は私の好みではありませんが、しかし妙に心惹かれる作品でもありました。

多分、賞の対象にならない限りこの作者の他の作品は読まないとは思いますが、どこかでそれを心待ちにもしている、妙に気にかかる作品でもありました。