汚れた手をそこで拭かない

本書『汚れた手をそこで拭かない』は、新刊書で237頁の第164回直木賞の候補作となったミステリー短編集です。

平凡な日々を送る普通の人の日常生活に潜むミステリーを拾い出し描き出す、ちょっとした恐ろしさも感じる作品集でした。

 

『汚れた手をそこで拭かない』の簡単なあらすじ 

 

平穏に夏休みを終えたい小学校教諭、認知症の妻を傷つけたくない夫。元不倫相手を見返したい料理研究家…始まりは、ささやかな秘密。気付かぬうちにじわりじわりと「お金」の魔の手はやってきて、見逃したはずの小さな綻びは、彼ら自身を絡め取り、蝕んでいく。取り扱い注意!研ぎ澄まされたミステリ5篇。(「BOOK」データベースより)

 

ただ、運が悪かっただけ
工務店勤務の夫が譲り渡した脚立を使用し、顧客が足を踏み外して亡くなった。余命半年との宣言を受けた私は夫のその告白を聞いて、その内容にかすかな疑問を感じるのだった。

埋め合わせ
プールの水の排水バルブを閉め忘れ、プールの水が半分になっているのに気づいた小学校教諭の千葉秀則は、何とか責任を逃れようと画策する。しかし、そこにこの学校で唯一の同い年の男性教員の五木田が現れた。

忘却
アパートの隣の部屋に住む笹井という男が熱中症で死んだ。電気が止められていてクーラーもかけずに昼寝をしたためらしいと聞き、電気代の督促状が我が家に誤配され、笹井に渡すように妻に頼んだことを思い出すのだった。

お蔵入り
ベテラン俳優の岸野に薬物使用疑惑が持ち上がった。「薬はやめられない」という岸野の言葉に、監督の大野は思わず旅館の六階の部屋から岸野を突き落としてしまう。大野は映画の上映を止めたくないプロデューサーらの言葉に従い、自分たちのアリバイを工作するのだった。

ミモザ
料理研究家の荒井美紀子は、突然現れた、かつて付き合っていた瀬部庸平につい金を貸してしまう。ところが、瀬部はその後もしつこく借金をせがみ美紀子に付きまとうのだった。

 

『汚れた手をそこで拭かない』の感想

 

本書『汚れた手をそこで拭かない』の作者芦沢央氏は、『火のないところに煙は』で2019年本屋大賞にノミネートされています。そして本書で第164回直木賞の候補作となっているのです。

個人的には前著『火のないところに煙は』の仕掛けに驚かされたほうなので、前著に軍配を挙げたくなりました。

それは本書が日常生活を対象としているため、とも思ったのですが、同じく日常の謎を描く米澤穂信の『氷菓』などにはそうした印象を抱かなかったので、日常性の問題ではないでしょう。

 

 

前著に軍配を挙げるといっても本書『汚れた手をそこで拭かない』が面白くないという意味ではなく、本書は本書で楽しませてもらいました。

ではその差は何なのかというと、本書に違和感を感じる点があったからだと思えます。

そもそも第一話の「ただ、運が悪かっただけ」という物語がどうにも場面設定を素直に受け入れがたく、描かれた行為がやはり偶然性をあてにしていると思われました。

聞き役の奥さんが死を目前にしているという設定についても、それがどんな意味を持つのか、などと不要な疑問を持ってしまったことがいけなかったのかもしれません。

設けられた脚立の秘密にあまりのめり込むことができないなど、微妙な違和感を持ったがために、第一話、そして次の第二話の物語に本書の印象が引っ張られたようにも思えるのです。

 

第二話は面白く読みましたが、ただ主人公の自分のミスを隠そうとする行動の描写が細かく、また主人公は考えすぎではないかと感じ、第一話の印象と相まって本書の印象が固まった気がします。

でも、それ以外は面白く、特に五木田の言葉は簡潔で分かり易く、意外性もあってとても素直に読むことができました。

 

第三話がいちばん普通の人の日常生活に隠された秘密らしくあって好感を持って読みました。

主人公の奥さんの認知症との兼ね合いもあって、二重の仕掛けも面白く読むことができたのです。

 

第四話は、意外性という点では一番感じたと思います。主人公以外のプロデューサーらの行動が今一つ見えない点が気になりましたが、ラストのどんでん返しは意外性があり、気に入りました。

この第三、四話に関しては違和感はあまり感じなかったと思います。

 

第五話は、かなり怖い話です。そして、主人公の夫の行動の意味するものがまたよく分からず、いかようにも読み取れるため、怖さも倍増でした。

ただ、主人公の行動が元恋人の男にずるずると引きずられていくだけのものである点がもどかしく、また苛立たしくも感じてしまうのです。

 

以上述べてきたように、全体としてみると、先に書いた第一、二話で感じた違和感が本書の印象を決定した、と感じられるのです。

それぞれの話での仕掛け自体は出来、不出来があったと思われ、その点に関してはまた個々人の好みもあって評価は様々でしょうが、全体としてみるとよく考えられたミステリーでした。

第164回直木賞の候補作となったのも納得の作品でした。

火のないところに煙は

本書『火のないところに煙は』は、新刊書で221頁の2019年本屋大賞の候補作となった全部で六編の短編からなるミステリーホラー短編小説集です。

と、思って読んでいくとこれが・・・。いろいろな、思いもよらない仕掛けのある作品です。

 

『火のないところに煙は』の簡単なあらすじ 

 

「神楽坂を舞台に怪談を書きませんか」突然の依頼に、作家の「私」は、かつての凄惨な体験を振り返る。解けない謎、救えなかった友人、そこから逃げ出した自分。「私」は、事件を小説として発表することで情報を集めようとするが―。予測不可能な展開とどんでん返しの波状攻撃にあなたも必ず騙される。一気読み不可避、寝不足必至!!読み始めたら引き返せない、戦慄の暗黒ミステリ!(「BOOK」データベースより)

 

 
第一話 染み
芦沢央自身が友人から依頼を受け、別れるならば死ぬという恋人の不思議な死のあとに訪れた奇妙な現象。

第二話 お祓いを頼む女
作者の知人が、ある女性から、自分は祟られているからお祓いをしてくれと一方的に言い寄られる話。

第三話 妄言
榊桔平から聞いた、新築の家を購入したものの、ある事無いことを言いつける困った隣人の話。

第四話 助けてって言ったのに
新潮社の編集者から聞いた、義理の母親とまったく同じ夢を見るある女性の話。

第五話 誰かの怪異
著者が聞いた、新しく借りたアパートで起きる怪奇現象の話を聞いた住人の知人が為した失敗した除霊の話。

最終話 禁忌
これまでの話に隠されたある秘密の話。

 

『火のないところに煙は』の感想

 

本書『火のないところに煙は』は、芦沢央、つまり本書の作者を語り手としており、映画などで言う“ドキュメンタリー風表現手法”を意味する「モキュメンタリー」の手法で書かれた作品です。

そのドキュメンタリー風にもっていく仕掛けが大掛かりになっていることに驚きました。勿論、本書を読んでいるときはそのようなことは知りません。

 

まずは読後すぐに、目の前にあった本書の裏表紙に描かれた染みに目がいき、第一話で言われていた「染み」を思い出しました。この点に関しての説明は本書を読んでもらうしかありません。

 

次いで、本書を読み終えた後に本書について調べているときに「榊桔平」という人物が記したエッセイを見つけたことで新たな疑問が浮かびました。

それは、「榊桔平」という人物は本書『火のないところに煙は』にも探偵役として登場する重要人物ですが、その同姓同名の「榊桔平」という人物が現実にエッセイを書いているのはどういう意味かということです。

そこで、「榊桔平」という人物について調べてみると、新潮社のサイト「榊桔平 | 著者プロフィール | 新潮社」という頁に、榊桔平なる人物のプロフィールが掲載されていました。

しかし、そのプロフィール内容は事実上何も書いて無く、その実在は疑わしいのです。

もしこの人物が架空の人物だとすれば、その仕掛けは出版会社まで取り込んだ大仕掛けということになります。

そしてまた、各話の構成がいかにもの書き方をしてあるのです。

そうした内容、仕掛けが功を奏したのでしょう、本書『火のないところに煙は』について「実話ですか? 呪われませんか?」という問い合わせが来たというほどのリアリティを持った小説として仕上がっています。

 

たしかに、読み進むにつれて何となくの不気味さが募ってくる小説でした。

個人的にはホラー小説はあまり好きな分野ではありません。しかしながら、本書はホラーとしての面白さに加え、怪奇現象の裏を探るミステリーとしての面白さが控えています。

そのミステリーとしての面白さゆえに次の話へと読み進めていくことになったのですが、最後に再度のミステリーとしての仕掛けが待ち構えていました。

二段構えの構成自体は珍しいものではないにしても、本書の場合はちょっと異なりました。ネタバレになりますので、具体的には実際に本書を読んでいただくしかありません。

 

本書の持つミステリーとしての面白さは、例えば米澤穂信の『真実の10メートル手前』という作品の持つ、太刀洗万智という主人公の行う小気味いい推理に通じるものがあります。

 

 

また、長岡弘樹の描く切れ味の鋭い心理的トリックが光る日本推理作家協会賞(短編部門)を受賞した作品である『傍聞き』という作品をもまた思い出していました。

 

 

先に述べたように、本書『火のないところに煙は』には幾重にも読者を待ち構えた仕掛けがあります。

それも普通の仕掛けとは異なるものでした。そうした点で本屋大賞にノミネートされるのも納得の面白さがあったのです。

あらためて、この作者の他のミステリー作品も読んでみたいと思わせられる作品でした。