もっこすの城 熊本築城始末

本書『もっこすの城 熊本築城始末』は、新刊書で395頁の分量を持つ長編の歴史小説です。

我が郷里の象徴でもある熊本城の築城の物語、と思って読み始めたのですが、残念なことに私の思いとはかなり異なる好みとは言えない作品でした。

 

『もっこすの城 熊本築城始末』の簡単なあらすじ

 

織田信長の家臣・木村忠範は本能寺の変後の戦いで、自らが造った安土城を枕に壮絶な討ち死にを遂げた。遺された嫡男の藤九郎は家族を養うため、肥後半国の領主となった加藤清正のもとに仕官を願い出る。父が残した城取りの秘伝書と己の才知を駆使し、清正の無理な命令に応え続ける藤九郎―。戦乱の世に翻弄されながらも、次から次に持ち上がる難題に立ち向かう藤九郎は、日本一の城を築くことができるのか。実力派歴史作家が描く、日本一の城を造った男の物語。(「BOOK」データベースより)

 

『もっこすの城 熊本築城始末』の感想

 

熊本に住む人間にとって、熊本城は熊本のシンボルであり、心のよりどころでもあります。その思いをあらためて自覚させられたのは2016年4月の14日と16日におきた熊本地震の時でした。

というのも、テレビのニュースで熊本城が崩落している様子を見たときに目頭が熱くなったのです。

それまでも、阿蘇山以上にわが郷土の誇るべき遺産だと思ってはいたのですが、まさか崩壊した熊本城を見て涙ぐむとは思ってもいませんでした。

歳をとったためと言われればそれまでですが、熊本城に対する思いがそれほどにあったことを自分自身が驚いたほどです。

 

その熊本城の築城の物語が小説になった、と聞いたら読まないわけにはいきません。

図書館ですぐに借りたのですが、本書はそうした熊本城に対する思いを持って読んだためか、私の思っていたのとは異なる作品でした。

 

本書『もっこすの城 熊本築城始末』の主人公は、安土城と共に討ち死にした木村次郎左衛門忠範(高重)という実在した人物の息子で、木村藤九郎秀範という架空の人物です。

この藤九郎は父親より築城に関する秘伝書を受け継ぎ、なおかつ築城の極意を頭の中に叩き込んでいます。

この男が、加藤清正が豊臣秀吉から肥後の国の北半分を領地として与えられ、十九万石五千石の地行の主となるにあたり、新規に募集された家臣として加藤家に仕えることになります。

肥後の菊池川の改修に始まり、隈本北部の田原山の砦構築、秀吉の朝鮮侵攻にともない建てられることになった名護屋城や、朝鮮に渡って蔚山に構築された砦などに築城の才能を発揮し、清正から共に天下一の城を作ろうと声を掛けられるまでになります。

 

しかし、どうにも物語にのめり込むことができません。

その理由は、一つにはこの作者伊東潤の小説作法にありそうです。

それは、歴史小説を書くにあたり数多くの文献に当たられ、詳細に調査をしたうえで執筆に当たられているのはよく分かるのですが、歴史的な事実が並べられている印象が強いのです。

そこにいる人間の心象の描写や情景の描写は殆どなく、その会話は表面的に感じられてしまいます。

勿論、作者が思う人間像を描き出すための当該人物の心象などを書かれてはいるのですが、どうもその感覚が羅列的な印象で、人物の内面を練り上げられている感じがしないのです。

例えば清正と藤九郎との会話にしても、そこに心の交流は感じられず、人間としての生活が欠落している印象なのです。歴史的な事実を事実として並べてありますが、そこに人間は見えません。

 

また物語の内容も、父親から秘伝を教わりその書物を全部暗記しているにしても、現場を知らない若干二十歳の若者が、川の流れを変えるような大工事を差配できるものか、疑問です。

ましてや戦場の砦や築城など未経験でできるとは到底思えず、どうにもリアリティを感じられませんでした。

 

つまりは、根本的にこの作者の文章、物語の構成自体が私の好みと異なるようです。情報が多すぎるためか、情感が感じられず、どうにも読んでいてしっくりしません。

結局、本書『もっこすの城 熊本築城始末』は熊本城築城の物語というよりは、加藤清正の戦いの履歴を作事方の観点から見たものと言うべき作品になっていると思います。

具体的に熊本城が物語に絡んでくるのは「第三章 日乃本一の城取り」になってからであり、そこでも熊本城築城自体の様子はあまり描かれてはいません。。

また、清正自体も要の個所で主人公を鼓舞したり、軽く助けたりするだけであとは歴史的な事実を取り上げて紹介しているだけに近いのです。

 

しかしながら、歴史小説が好きな、それも人間ドラマというよりは歴史的な事実が再構築されるような物語が好きな読者にとっては非常に面白いと思える作品かもしれません。

作者の緻密な調査により加藤清正という武将の客観的な行動歴が確認でき、当時の武将たちの動静も確認できると思えるからです。

ともえれ、私個人の好みとは異なったということです。

 

お城を建築する話としては門井慶喜の『家康、江戸を建てる』という作品があります。

この作品は徳川家康が江戸に新たな街づくりを始める際の全五話の短編からなる第155回直木賞候補になった作品で、江戸城築城自体を描いた作品ではありませんが、石垣造りや天守閣の白壁などについて詳しく描いてありました。

 

 

ほかに山本兼一の『火天の城』がありますが、この作品は映画版は見たのですが原作は読んでいません。

それでも、縄張りの仕方や木曾材の切り出しなどといった基本的なところから描き出した作品であったときおくしています。

 

 

本書『もっこすの城 熊本築城始末』は確かに歴史的な事実は細かなところまでよく調べられ、また築城の技術にしてもよく調べて書かれていることはよく分かります。

前述したように、そうした歴史そのものが好きな読者にとってはとても面白い作品だともいます。

しかし、熊本市に住み、清正公(せいしょこ)さんと親しんできた清正公の描写も少なく、熊本城自体の築城の模様も殆どない本書は残念としか言いようがありません。

池田屋乱刃

「私は卑怯な男だ」。明治十年、死の床についた長州の英雄・木戸孝允こと桂小五郎が、かつての同僚にある真実を語り始めた―。「池田屋事件」。その後、日本は明治という近代国家に向かって急激に加速していく。池田屋で新選組に斬られ散っていった各藩の志士たち。吉田松陰や坂本龍馬といった熱源の周囲で懸命に生き、日本を変えようとした男たちの生き様と散り際を、最注目の作家が熱く描いた「志士たちへの挽歌」。幕末京都の、熱くて一番長い夜。道半ばで斃れ、日本の礎となった男たちを描ききった連作長編。(「BOOK」データベースより)

第一話 「二心なし」 福岡祐次郎
第二話 「士は死なり」 土佐の北添佶摩
第三話 「及ばざる人」 肥後の宮部鼎蔵
第四話 「凜として」 長州の吉田稔麿
第五話 「英雄児」 長州の桂小五郎

本書は、明治維新の一大事件である「池田屋事件」を、個々の浪士の視点で描き出した短編集です。

「池田屋事件」とは、京都の町に火を放ち、その混乱に乗じて孝明天皇を長州へと動座させ、『八月十八日の政変』で失脚した長州藩を中心にした新政府を樹立し、対外的独立を維持しようとする長州藩、土佐藩、肥後藩らの尊王派が、新選組に捕縛された古高俊太郎の奪還について話し合うために集まっていたところに、近藤勇を中心とする新選組の十人が駆け付け、うち四人が斬り込んだ事件のことを言います( ウィキペディア : 参照 )。

二十数名という志士たちのいる中に、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の四人で斬りこむというドラマチックな展開であると同時に、志士の側でも多くの有能な志士たちが命を落とし、維新が一年遅れたとも、逆にはやめたとも言われる歴史的にも重要な出来事だったのです。

この事件は幕末に起きた色々な事件の中でも特筆すべき出来事であり、中でも新選組の名を一気にたかめた事件でもありました。したがって、新選組を描いた種々の小説では、この池田屋事件がフィクションを越えたドラマチックな展開であることもあって必ず描かれる事件でもあります。

 

本書で取り上げられている人物は全員が実在の人物です。ただ私は、第一話「二心なし」の福岡祐次郎と第五話「英雄児」の長州藩京都藩邸留守居役の乃美織江という人物は知りませんでした。

他の北添佶摩、宮部鼎蔵、吉田稔麿、桂小五郎らは明治維新を描いた小説には必ずと言っていいほどに登場する著名な人物です。

北添佶摩は土佐藩の出身で、少なくとも坂本竜馬の神戸海軍塾の場面ではこの人物に触れない作品はないでしょう。

宮部鼎蔵はわが郷土熊本から出た志士であり、松平春嶽の政治顧問ともなった思想家の横井小楠と共に熊本の生んだ巨人です。

吉田稔麿は長州の吉田松陰門下生の秀才として高名な人物で、桂小五郎に至っては後の木戸孝允という名で知っている人も多いでしょう。

これらの人物を主人公としてそれぞれの池田屋事件への関わりを描き、池田屋事件という一大事件の姿を立体的に浮かび上がらせている作品が本書です。

第一話「二心なし」の間者として送り込まれた無名の人間の哀切極まりない話もあり、蝦夷地での国防という大望がありながらも仲間と共にその夢を断った第二話「士は死なり」の北添佶摩の悲壮な話もあって、また第三話「及ばざる人」では世界に目を向けていた宮部鼎蔵が描かれています。

そして第四話「凜として」で、幕府との話し合いを望んでいた長州の吉田稔麿がいて、第五話「英雄児」では、ちょうど池田屋におらず難を逃れた桂小五郎の死に臨んでの回想が語られるのです。

 

本書のように多視点である事柄を描き出すという手法をとった物語としては、まずは芥川龍之介の短編小説『藪の中』があります。藪の中で見つかった死体について複数の証言を取り上げているもので、それぞれの証言が矛盾することから「藪の中」という言葉が生まれています。しかし、多視点というだけで本書と同様と言っていいものか疑問は残ります。

であるならば木内昇の『新選組 幕末の青嵐』を挙げるべきでしょうか。ただ、この作品はある事象というよりは、無名の個々の隊員の視点を借りることで新選組という組織に焦点を当てた作品というべきであり、若干異なる気もします。

とすれば、誉田哲也の『ノワール-硝子の太陽』と『ルージュ: 硝子の太陽』ということになるのでしょうか。それぞれに誉田哲也の別なシリーズに属する作品で共通する事件があり、その事件に個別の登場人物が異なる視点からアプローチするのです。この作品のほうが構造という点ではいいかもしれません。

ともあれ、多視点、それも年齢も身分も異なる人物が一つの事柄を異なる目線で描いた作品であり、池田屋事件を新たに見直す作品でもあって、実に興味を持って読むことができた作品でした。

天下人の茶

絢爛豪華たる安土桃山文化の主座を占める茶の湯。それは、死と隣り合わせに生きる武士たちの一時のやすらぎだった。茶の湯文化を創出した男とその弟子たちの生き様もまた、武士たちに劣らぬ凄まじさをみせる。戦国時代を舞台に繰り広げられる“もう一つの戦い”秀吉対利休。果たして実際の勝者はどちらなのか。傑作時代長編。(「BOOK」データベースより)

これまであった千利休の物語とは全くと言っていいほどに視点を違えた、独自の解釈で語られる小説です。それは茶の湯の「茶道」としてのありようを探る物語ではなく、茶道を政(まつりごと)の道具として捉えなおす物語であり、信長にしても秀吉にしても、天下統治の道具として茶道を捉えています。

そのことは、宋易(利休)にしても同じであり、現の世の支配者であろうとした信長、秀吉に対し、美の世界での支配者たらんとした宋易にしても同様です。

「天下人の茶 第一部」
秀吉の千宋易(のちの利休)との出会いを、回想という形で描いた作品です。配下に分け与える土地の限界を感じ、天下布武のための政策の一つとして、土地の代わりに名物茶道具を下賜する形で「茶の湯」を使おうとした信長。その信長の設けた茶席で秀吉は利休と出会います。
「奇道なり兵部」
宋易の弟子である牧村兵部は、宋易から「奇道こそ侘茶の境地」と言われたことから、「ゆがみ茶碗」に「奇道」を見出します。朝鮮侵攻に際し一個の古茶碗を見つけた牧村兵部は、その美しさから、他の作品を探しに山間の村へと出かけるのだった。
「過ぎたる人」
弟秀長、あと継ぎの鶴松を亡くした秀吉は、姉の子秀次を養子とし関白職を譲る。秀次の家臣とされた瀬田掃部は、師匠利休の「この国を正式方向に導かれよ。」という言葉のもと、秀次とともにある決心をするのです。
「ひつみて候」
茶道の世界でも著名な武人である古田織部は、秀吉の枕元に呼ばれ、身分制度に見合った茶の湯の秩序を構築することを命じられる。織部は豊臣と徳川の戦いにおいても徳川に与し、新たな世の茶の湯を構築する。しかしながら、そこには落とし穴が待っていた。
「利休形」
病のため床についていた蒲生氏郷と、見舞に訪れた細川忠興との間で、利休と秀吉との間に隠されたある秘事についてある会話が為されます。その秘事とは信長の最後についてのものでした。
「天下人の茶 第二部」
茶道具の価値を高めようとした信長に対しの湯を庶民まで普及させ天下の静謐を保とうとした秀吉でした。信長の家臣であった秀吉は、訪ねてきた宋易との間で、秀吉の世の礎ともなる事柄について話し合うのでした。




牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、細川忠興といった弟子たちを通して、秀吉をそして宋易を立体的に浮かび上がらせようとした作品です。

利休を描いた作品としては数多くの作品があるようですが、まずは第140回直木賞受賞作でもある山本兼一著の『利休にたずねよ』を思い出しました。私はまだ読んでいませんが、市川海老蔵が利休を演じた映画を先に見てしまい、出来が良いとは思えなかったので原作も未読のままです。

他にネットで探してみると、野上弥生子著の『秀吉と利休』や井上靖の『本覚坊遺文』が見つかります。この両作品ともに私はまだ読んでいないのですが、利休を描いた作品といえばまずは挙げられる小説のようです。

上記利休の弟子の一人に古田織部という武人がいます。この人の名は昔から茶人として知ってはいたのですが、より強烈には山田芳裕が書いた『へうげもの』というコミックがありました。この漫画は、第13回文化庁メディア芸術祭マンガ部門の優秀賞、そして第14回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した作品で、NHKBSプレミアムでアニメ化もされています。

ともあれ、本書『天下人の茶』は、第三者の語りを通して、秀吉と利休の人物像を独自の視点で客観的に浮かび上がらせた作品として高い評価を受けた作品です。実際、茶道を「道」としてではなく、純粋に「政」の道具として捉え、物語の中心に据えた作品であり、単なる視点のユニークさにとどまらない、驚きの仕掛けをも有した読み応えのある作品でした。