四畳半タイムマシンブルース

本書『四畳半タイムマシンブルース』は、昨日へ戻りこわれる前のクーラーのリモコンを手に入れようとするタイムトラベルものの長編のSF青春小説です。

まるでハチャメチャなドタバタコメディではあるけれど、どことなくノスタルジーを感じさせる、面白い作品でもありました。

 

炎熱地獄と化した真夏の京都で、学生アパートに唯一のエアコンが動かなくなった。妖怪のごとき悪友・小津が昨夜リモコンを水没させたのだ。残りの夏をどうやって過ごせというのか?「私」がひそかに想いを寄せるクールビューティ・明石さんと対策を協議しているとき、なんともモッサリした風貌の男子学生が現れた。なんと彼は25年後の未来からタイムマシンに乗ってやってきたという。そのとき「私」に天才的なひらめきが訪れた。このタイムマシンで昨日に戻って、壊れる前のリモコンを持ってくればいい!小津たちが昨日の世界を勝手気ままに改変するのを目の当たりにした「私」は、世界消滅の危機を予感する。『四畳半神話大系』と『サマータイムマシン・ブルース』が悪魔合体?小説家と劇作家の熱いコラボレーションが実現!(「BOOK」データベースより)

 

本書『四畳半タイムマシンブルース』は、まさにドタバタ劇という他ない、支離滅裂な作品です。この点ですぐに思い出したのは筒井康隆の『日本列島七曲』などのスラプスティックコメディ小説です。

日常という言葉をどこかに置き忘れたかのような、普通ではない人々が普通ではない行いの末に普通ではない結果を引き起こすコメディです。

そこにタイムトラベルものを組み合わせるのですから、ドタバタ度はさらに増します。

 

 

そもそも時間旅行の話は、「もしも・・・・」という仮定の話の面白さと共に、そこに包含される過去の改変に伴う現実との不整合の発生というタイムパラドックスの問題があるから物語のテーマとして面白いのでしょう。

そのタイムパラドックスを、部屋のポンコツクーラーのリモコンの修理、さらには無くなったシャンプーの行方を探るという卑近な事実に適用し遊ぼうとするのです。

もしかしたら宇宙の存在自体の消滅という大変な事態を招きかねない事象を、リモコンの修理、シャンプーの行方の探索に利用しようとするその発想自体ふざけています。

 

タイムトラベルものの作品と言えば、いつもはR・A・ハインラインを挙げるのですが、ここでは畑野智美の『タイムマシンでは、行けない明日』を紹介します。

この作品は自動車事故のために帰らぬ人となってしまった初恋の人の死を回避しようとする若者の姿を軽やかに、屈託なく描いたSF恋愛小説で、丁寧に張られた伏線を回収していくさまが心地よい作品でした。

漫才師キングコングの西野亮廣がカバーイラストを担当していて、本書『四畳半タイムマシンブルース』とはかなり趣きが異なる作品です。

 

 

本書『四畳半タイムマシンブルース』は、上田誠により舞台化されていた話を作者の森見登美彦が自身の『四畳半神話大系』という小説に登場していた人物らを使って小説化したものだそうです。

この『四畳半神話大系』は、2005年に書き下ろし刊行された作品です。詳しくは下記「KAI-YOU.net」を参照してください。

京都市を舞台に、男子大学生である主人公の「私」が悪友・小津に振り回されながらも充実した光り輝く大学生活を送ろうと、クールな後輩・明石さんに近づこうとしたり、いくつもの並行世界に迷い込み、異なるサークルに入ったりとあがき続ける物語。
引用元:KAI-YOU.net

 

ここで名の上がった「小津」という人物が強烈で、まさに「私」にとっての悪魔的な人物です。

 

 

かれの行動を中心として本書『四畳半タイムマシンブルース』でも仲間たちが振り回されることになるのですが、その仲間自体が強烈な個性を持つ人物らばかりです。

まず、本書『四畳半タイムマシンブルース』の主人公は京都の某大学の三回生の「」であり、おんぼろアパート「下鴨幽水荘」の209号室に住む住人です。

この下鴨幽水荘のヌシと言われているのが樋口氏で、「私」の一年後輩でひたすらポンコツ映画を量産する明石さんは樋口氏を師匠と呼んでいます。

明石さんの所属する映画サークルのボスが城ケ崎氏で、また樋口氏、城ケ崎氏の知人であるらしい近所の医院に勤める歯科衛生士の羽貫さんがいます。

そして、「私」の同期生で「私」にとってのメフィストフェレスの小津がいて、二十五年後の未来からタイムマシンでやってきたもっさりとした男がこの騒動の元凶ともいえる、田村くんです。

 

こられの登場人物が、突如現れたタイムマシンを利用してクーラーの復活を目指し、昨日へとなだれ込んで大騒動を巻き起こします。

その騒動の中にタイムパラドックスを仕掛けるのですから大変です。タイムパラドックスに伴う論理上の破綻がないように、緻密に組み立てなければならないからです。

タイムパラドックスが仕掛けられたほとんどの場合は、「鶏が先か卵が先か」の問題の解決がつかないままに終わってしまいます。

そしてそのことは本書においても妥当し、リモコンの最初の出どころはどこなのか、本書では触れられていません。

しかしながら、そのこと自体は本書『四畳半タイムマシンブルース』の面白さに何の影も落としてはいないのです。

単純に、自分の青春時代と重ね合わせ、そして自分の青春時代にタイプスリップして楽しめばいいのだと、作者は言っているようです。

熱帯

沈黙読書会で見かけた『熱帯』は、なんとも奇妙な本だった!謎の解明に勤しむ「学団」に、神出鬼没の古本屋台「暴夜書房」、鍵を握る飴色のカードボックスと、「部屋の中の部屋」…。東京の片隅で始まった冒険は京都を駆け抜け、満州の夜を潜り、数多の語り手の魂を乗り継いで、いざ謎の源流へ―!(「BOOK」データベースより)

 

最後まで読み終えた人がいないという一冊の本をめぐって多彩な人物たちが入れ替わり登場する、私にとっては難解な長編の幻想小説でした。

なお、本書は2019年本屋大賞候補作で第160回直木賞候補作にもなっています。

 


 

「私」が学生時代に読んだ佐山尚一という人物が書いた小説『熱帯』について語り始めるところから始まります。場面は「私」の学生時代へと移り、誘われて参加した沈黙読書会で問題の『熱帯』を持った女性を見つけ、その女性が『熱帯』について語り始めます(第一章)。

この物語はこうして始まりますが、このあと物語の展開は通常の小説のようには進みません。

 

そもそもこの物語の「私」、つまり森見登美彦という名の作家は、冒頭から『千一夜物語』について語り始めます。本書は森見登美彦の『千一夜物語』へのオマージュ、もしくは誰かが書いていたように本歌取りのような作品です。

つまりは、異なる物語が次々と語られる、または物語の中でさらに新たな物語が語られる、という構造そのままに本書も紡がれているということです。ただ、本書で語られる話は『熱帯』という小説に関連した話です。

「第一章 沈黙読書会」では「私」こと森見登美彦の『熱帯』との出会いと、「沈黙読書会」でのとある女性による『熱帯』について語りがあり、第二章へと入っていきます。

その「第二章 楽団の男」では語り部の女性白石さんにより、池内氏や「学団」という『熱帯』についての読書会の話が語られます。次いで千夜さんを追って京都に行った池内氏のノートが届いて白石さんが読み始めることにより第三章につながります。

「第三章 満月の魔女」では池内氏の京都での体験が語られます。その中で、池内氏が知り合ったマキさんによる語りがあって、今西さんという人物による千夜さんの父永瀬栄造という人物についての話などの後、第四章、そして第五章へとなだれ込みます。

この「第四章 不可視の群島」、「第五章 『熱帯』の誕生」がよくわかりません。『熱帯』についての話ではありますがこれまでとは独立した話です。

そもそもここでの語り手の「僕」は、これまでの話の流れからは池内氏とおもっていたのですが、最終的にはどうも違うように思われ、結局これまでの物語はは何だったのか、との疑問だけが残り、その答えは分かりませんでした。どうにも中途半端に終わってしまっています。

 

普通の物語のように物語が因果律に沿って流れてはおらず、物語の流れの中で支流に入り、別次元の世界で終わったような、妙に浮遊感しか感じられない結末です。

 

しかしながら、ネットでのレビューを読むと、ある種の冒険物語として非常に好意的なものばかりしかありません。

勿論、物語として独特な雰囲気を持っていて、作者のイマジネーションの豊かさ、幻想文学特有の物語展開のうまさなど感じることばかりではあります。ただ、個人的には、因果の流れに沿ったそれなりの結末のないこの作品は欲求不満の残る物語だったのです。

決して幻想文学が嫌いなわけではありません。それこそブラッドベリの『十月は黄昏の国』『火星年代記』などの作品群のように大好きな作品もあります。

 

 

ただ、2017年本屋大賞候補作で第156回直木賞候補作ともなったこの作者の『夜行』でも感じた 曖昧さと言いますが不可解さは私の感性と少々ずれているとしか言えないようです。

 

夜行

『夜は短し歩けよ乙女』『有頂天家族』『きつねのはなし』代表作すべてのエッセンスを昇華させた、森見ワールド最新作!旅先で出会う謎の連作絵画「夜行」。この十年、僕らは誰ひとり彼女を忘れられなかった。(「BOOK」データベースより)

「第一夜 尾道」 中井
家を出た中井の妻を迎えに行った尾道という町で出会った不可思議な出来事。
「第二夜 奥飛騨」 武田
武田他三人の飛騨旅行で出会った、ミシマという女の「二人にシソウが出ている」という言葉の意味は。
「第三夜 津軽」 藤村
藤村夫妻と小島の三人で行った津軽への旅で起きた不可思議。
「第四夜 天竜峡」 田辺
豊橋へと帰る途中で出会った佐伯はそこにいた女子高生が岸田を殺したと言いだした。
「最終夜 鞍馬」
10年前の長谷川と同様に、久しぶりに集まった仲間たちがいなくなってしまう。しかし、・・・。

始めて読んだ森見登美彦氏の作品でした。そのためなのかどうかは分かりませんが、とにかくよく分からない、それでいて独特の魅力を持ったホラー作品でした。2017年本屋大賞候補作であり、また第156回直木賞候補作でもあります。

鞍馬の火祭を見に来た際に仲間の一人である長谷川という女性が行方不明となって十年。五人の仲間が久しぶりに集まって昔語りをするのです。

どの話も、物語に結末らしい結末が見えず、それでいて岸田道生という画家の「夜行」という一連の作品に焦点があたっています。しかし、それぞれの話の関連性はそれだけで、一体何を語ろうとしているのかよく分からないまま読み進めることになります。

そして、どことなく座りの悪いまま、五人それぞれの話は、それぞれの話をしている現在とどのように関連しているのかなどの疑問はありつつも、何ら手がかりのないまま、いや岸田道生の「夜行」という手がかりしかないまま、最終話へとなだれ込んでいきます。

その最終夜の「鞍馬」の話で、前提であった筈の現在が前提ではなくなり、この物語全体が、岸田道生の「夜行」という絵画を中心とした、計算され尽くした世界へと移行し、一気に異なる物語へと変貌してしまうのです。

だからといって、それぞれの話で感じた疑問点が解消したのかといえば、そういうことはありません。結局、この物語自体が不安定なまま落ち着いてしったという感じなのです。

本書が私の好みかと問われれば諸手を挙げて賛成とまではいきませんが、本書が2017年本屋大賞と第156回直木賞それぞれの候補作となったのもそれなりに納得する作品でした。この不思議な世界感にはもう一度会ってみたい気はする、そういう物語です。


本書の印象からは、乙一のホラー作品を思い出していました。彼の作品はまだ『平面いぬ。』しか読んだことはないのですが、日常の中の非日常といっていいものか、ダークファンタジーとも言うべき印象の作品でした。「せつなさ」という言葉で表現されることの多い作家さんらしいのですが、確かに心の隙間にそっと忍びこんでくる、やるせなさや哀しみを感じさせられた作品でした。

そしてもう一点、ホラーではない作品なのですが、第157回直木賞受賞作である、佐藤正午の『月の満ち欠け』という作品を読んでいたとき、本書を思い出していました。

テーマも内容も全く異なる両作品なのですが、日常の生活がいつの間にか非日常の生活に移行しているという一点においてその類似性を感じたようです。