吉法師は母の愛情に恵まれず、いつも独り外で遊んでいた。長じて信長となった彼は、破竹の勢いで織田家の勢力を広げてゆく。だが、信長には幼少期から不思議に思い、苛立っていることがあった―どんなに兵団を鍛え上げても、能力を落とす者が必ず出てくる。そんな中、蟻の行列を見かけた信長は、ある試みを行う。結果、恐れていたことが実証された。神仏などいるはずもないが、確かに“この世を支配する何事かの原理”は存在する。やがて案の定、家臣で働きが鈍る者、織田家を裏切る者までが続出し始める。天下統一を目前にして、信長は改めて気づいた。いま最も良い働きを見せる羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、柴田勝家、滝川一益。あの法則によれば、最後にはこの五人からも一人、おれを裏切る者が出るはずだ―。(「BOOK」データベースより)
本書は、これまでも多くの作者によって取り上げられてきた信長を描いた長編時代小説で、第160回直木賞の候補作となった作品です。
本書の特徴は、信長の生き方を、「パレートの法則」や「働きアリの法則」と呼ばれている現象を通して組み立てているところでしょう。
ここで「パレートの法則」とは、「経済において、全体の数値の大部分は、全体を構成するうちの一部の要素が生み出しているという理論」のことをいいます。
そのパレートの法則の亜種として「働きアリの法則」というものがあって、「組織全体の2割程の要人が大部分の利益をもたらしており、そしてその2割の要人が間引かれると、残り8割の中の2割がまた大部分の利益をもたらすようになる」というのです(ウィキペディア : 参照 )。
本書の信長は、幼いころに蟻の働く姿を見てこの法則に気づきます。この法則をもとに二割の精悍な軍勢をより大きく育てようともしますが、なかなかにうまくいきません。
そうした心の動きを緻密に追い求め、描写する場面が本書の各所に見られます。
それはこの法則から武将たちの動きを考察しようとする信長だけのことではありません。時には秀吉であり、柴田勝家であり、その他の武将であったりもするのですが、少々緻密に過ぎる、とも思えてきました。もう少し楽に構えていいのではないかと思えます。
しかし、作者は「僕はこの小説で、事実と事実の間にある登場人物達の内面や思考を、とことん突き詰めて書こうと思
」ったのだそうです。そうして、思い通りに動かない部下を持つワンマン社長の苦悩、またそのトップに振り回される部下達の苦悩を描きたかったと書いておられます( 小説丸 : 参照 )。
それが作者の意図である以上は仕方のないことなのかも入れませんが、小説を読む読者の目線からすればもう少し簡潔にあってほしいと思ったのです。
このように、本書は全体的に登場人物の心象が前面に押し出して書かれています。以前この作者が第156回直木賞の候補作になった『室町無頼』の時は、心象描写はずっと抑えてあったのではないでしょうか。その上で人物らをダイナミックに動かして時代の波を描いてあったように思えます。
本書は歴史的な事実をよく調べ上げて書いておられると思いながらの読書になりました。信長の合戦の様子を、具体的な戦闘の場面などは書かないままに砦や城を落としていく過程を細かに記し、また軍勢の展開の様子を描いてあります。
それはそれでこれまであまりなかった描き方だと思いますし、主だった参考文献の数も膨大な数に上っていて、歴史小説としての労作だと思います。
ただ、同じことを繰り返しますが、確かに人物の動向は理解しやすいものの、視点が変わるたびになされる視点の主の内心描写は細かすぎます。
さらに言えば、武将の心象描写が、作者が知っている歴史的事実に合致するように描かれているようにも感じました。例えば、三方ヶ原の戦いに関する家康の本音についての光秀の考察など、普通とは異なる思考過程なのにあえて歴史的事実に合わせているように感じたのです。
とはいえ、以上書いてきたことと矛盾するようではありますが、普通ではあまりない柴田勝家という武将や松永弾正久秀などについて少なくない頁数を費やしてあることは歓迎すべきことでもありました。
特に松永久秀に関しての信長の思い入れの描写などは、 花村萬月の『弾正星』を面白く読んでいたので、うれしくなってしまったものです。
本書は、全体的に見て少々食傷気味になるところもあるものの、ユニークな観点の歴史小説として評価できるのではないでしょうか。