銀河鉄道の父

宮沢賢治は祖父の代から続く富裕な質屋に生まれた。家を継ぐべき長男だったが、賢治は学問の道を進み、理想を求め、創作に情熱を注いだ。勤勉、優秀な商人であり、地元の熱心な篤志家でもあった父・政次郎は、この息子にどう接するべきか、苦悩した―。生涯夢を追い続けた賢治と、父でありすぎた父政次郎との対立と慈愛の月日。(「BOOK」データベースより)

今さら言うまでもない宮沢賢治をその父の目線で描いた長編小説で、第158回直木賞受賞作です。

宮沢賢治という名前は知っていても、またその作品を何冊かは読んだことはあっても、賢治本人のことについてはほとんど何も知りませんでした。

これまで宮沢賢治の作品できちんと読んだ作品として覚えているものと言えば『注文の多い料理店』と『セロ弾きのゴーシュ』くらいでしょうか。

(ちなみに上記二冊の作品は Amazon の Kindle では無料で読めるようです(2018年1月23日現在)。リーダーのKindle自体も 無料版(Kindle for PC)をインストールできますので、結局はすべて無料です。)

宮沢賢治という名前は、その作品というよりも他の作家の作品の中で取り上げられていた印象の方が強いと思います。


例えば、夢枕獏という作家は宮沢賢治に傾倒していたらしく、とくに彼の初期の作品の中で宮沢賢治の名を聞いたものです。中でも日本SF大賞を受賞した『上弦の月を喰べる獅子(ハヤカワ文庫 JA 〈上・下〉』という作品は、宮沢賢治本人を主人公に設定しているほどで、「螺旋」をモチーフに宗教小説と言ってもいいほどに、仏教の本質をテーマにした物語でした。

ほかにも賢治自身は登場していなくても、賢治の詩などの作品を織り込んだ短編はけっこうあったと記憶しています。

中でも『銀河鉄道の夜』は様々な作品で取り上げられているのはあらためて言ううまでもありません。一番有名なものでは漫画では『銀河鉄道999』でしょうか。

宮沢賢治は1896年(明治29年)にうまれ、1933年(昭和8年)に亡くなっています。明治から大正、昭和を生きたことになりますが、その頃の父親は今の父親像とはかなり異なる父親だったでしょう。

実際、本書でも父政次郎は厳格な家長であり、その父喜助の後を継いで家業の質屋を栄えさせています。

しかし、少々イメージが異なったのは、賢治が六歳のとき赤痢にかかったときの父性の発露の描写でした。あるべき家長像をそつなくこなしてきた政次郎が、大甘の父親へと一瞬に変貌するのです。

そもそも父政次郎は、封建思想としてではなく、合理的結論として家族の意識高く、家そのものを組織としなければ、この生き馬の目をぬく世の中にあっては商家が生き延びてはいけないと考えていたのです。

しかし、賢治が生まれたとき赤子の小さな手が自分の小指を掴んだときは、「目の奥が湯で煮えた」と感じた政次郎であり、これから先の父親としての行いを暗示していました。

その父親としての行いが賢治の病で一気に噴出します。「世間で当然とされる家長像、父親像がまるで霧のように消え去った」のです。

この本書冒頭で示された父親としての政次郎が本書全編を貫いています。

宮沢賢治が長ずるにつれて為したいたずらも不問に付し、金の力で批判をおさえ、更に、賢治の中学への進学も賢治の祖父喜助の反対も押し切って許します。

その後、賢治の卒業前でのチフス罹患の折も、看病中に自分も罹患しながらも、進学の希望をかなえます。それは中学卒業後も質屋仕事に身の入らぬ賢治を、この帳場から「逃げ出したい」からだと見極めたからかもしれません。

生活能力が全くなく、それでいて夢想ばかりしているわが子、親の金を無心することに後ろめたさも感じていないわが子、しかし、妹に童話を作り読み聞かせることを大好きなわが子。

その賢治が盛岡高等農林学校を卒業後、実業への転身を夢見るも結局学校に残ったものの結核の疑いで郷里に戻ることになります。しかし、今度は日本女子大学に進んでいた妹のトシが肺炎にかかってしまい、盛岡へと帰るのでした。

このあたりの、トシが肺炎で入院する第六章「人造宝石」から、トシの亡くなる第七章「あめゆじゅ」、トシの死後の賢治の様子を描いた第八章「春と修羅」までが、賢治本人は「心象スケッチ」と呼ぶ詩集「春と修羅」で描かれている場面が中心となっていると思われ、非常に印象的でした。

この後、トシが逝き、再度東京に出た賢治はことごとく出版を断られ、失意の内に再発した結核のために故郷で政次郎らに見取られながら亡くなります。

こうした間も常に賢治の行いの裏にある「現実からの逃避」を見出す父政次郎であり、それを許してきた政次郎でした。

賢治の死後、草野心平らによる賢治の評価が進み、今では宮沢賢治の名を知らないものはいないほどになっています。

ここで出てきた「春と修羅」という詩集( 宮沢賢治 『春と修羅』 – 青空文庫 : 参照 )は私の好きな詩集の一つですが、この詩集を、私は村上もとかという漫画家の『六三四の剣』という漫画で具体的に知りました(第10巻168頁)。「春と修羅」という賢治の詩集の存在は知っていたものの、実際に読み通したことはなく、したがって「永訣の朝」も知らなかったのをこの漫画を通して知ったのでした。

また、近頃どこかでこの話題について読んだと思っていたら、第156回直木三十五賞および2017年本屋大賞を受賞した恩田陸の『蜜蜂と遠雷』のなかで、コンテスタントの自由な解釈をもとにしての即興的な演奏をするカデンツァのテーマが「春と修羅」でした。

家康、江戸を建てる

本書『家康、江戸を建てる』は、文庫本で488頁の全五話からなる短編の時代小説集です。

徳川家康が江戸に新たな街づくりを始めるに際しての物語で、技術者集団としての配下個々人を描いた2016年上半期の直木賞候補になった作品です。

 

家康、江戸を建てる』の簡単なあらすじ

 

「北条家の関東二百四十万石を差し上げよう」天正十八年、落ちゆく小田原城を眺めつつ、関白豊臣秀吉は徳川家康に囁いた。その真意は、湿地ばかりが広がる土地と、豊穣な駿河、遠江、三河、甲斐、信濃との交換であった。家臣団が激怒する中、なぜか家康は要求を受け入れる―ピンチをチャンスに変えた究極の天下人の、日本史上最大のプロジェクトが始まった!(「BOOK」データベースより)

第一話 「金貨(きん)を延べる」
北以外は海と萱の原に囲まれ、北が少し開けているのみの江戸の地。町の基礎づくりのために選ばれた伊奈忠治は、北から流れ込む川を制御するために川を曲げるというのだった。

第二話 「流れを変える」
家康は江戸の町で品位(金の含有率)の良い小判を鋳造することで江戸の町を日本の経済の中心とすることを図る。そのために上方での貨幣の鋳造を担ってきた後藤家に仕えていた橋本庄三郎という男を江戸に招くのでした。

第三話 「飲み水を引く」
武蔵野の原野での鷹狩りの折に土地の者から湧水のありかを聞いた家康から、江戸の町へ水を引くための普請役を命じられた内田六次郎は、菓子作りが得意な大久保籐五郎の力を借りてその難工事に挑むのだった。

第四話 「石垣を積む」
家康は千代田城建設の着手を決めた。代官頭である大久保長安は「みえすき吾平」と呼ばれる石工の親方の噂を聞き、千代田城のための石を切り出すように命じるのだった。

第五話 「天守を起こす」
千代田築城に際し、家康は城の壁を白壁にするようにと命じ、秀忠に対し、白壁にする意味を問うのだった。しかし、秀忠はその意味を汲み取れずにいた。

 

家康、江戸を建てる』の感想

 

本書『家康、江戸を建てる』の読み始めは若干の説明臭を感じる物語であり、本書ははずれかと思ったものでした。

しかし第二話になり、町造りの基礎としての経済的観点からの貨幣鋳造、という視点は面白く読みました。そこに人間ドラマを絡め、この物語からは本書『家康、江戸を建てる』の物語としての面白さを感じ始めたものです。

次いで第三話で語られる江戸の町の水道は有名ではありますが、その建設という観点はユニークです。

エンターテインメント小説としての醍醐味も出てきた話で、非常に面白く読んだものです。

また第四話も第二話同様に人間ドラマを絡めての石垣造りの話であって、職人の物語としての面白さを感じたものです。

また最終話で、江戸城が1657年の明暦の大火で焼失し、再建されることがなかったという話は聞いたことがありましたが、江戸城の天守閣の壁が白壁であったことは知りませんでした。

そして最終話に至って本書が直木賞候補作になった理由も納得しました。これまではあまりい描き方をされてこなかった二代秀忠と家康との会話は実に読み応えがあったのです。

 

本書は、武将家康による町づくりの物語という思い込みとは異なり、個々の技術者の物語でした。

著者である門井慶喜の「家康を一種のプロデューサーと捉えて、その部下である街づくりのエキスパートを主人公にしようと思いました」との言葉どおりの物語であり、ユニークな視点の物語として楽しむことができました。

 

江戸の町造りという観点では、半村良の『江戸打入り』という作品があります。

秀吉から事実上関東移封を命じられた家康の江戸への移封の話を、下級武士から見た物語で、大半は普請担当の足軽が、戦のために荷駄を運び、橋を架け、宿営の準備をする様子が描かれている作品で、直接的に江戸の町を構築するという話ではありません。

 

 

また、私はまだ読んでいませんが、伊東潤には『江戸を造った男』という作品があります。

しかし、この作品は家康の時代ではなく、1657年の明暦の大火のときの材木の買い占めで財をなした河村瑞賢という人物を描いた一代記で、本書とはちょっとその趣を異にするようです。