地図と拳

地図と拳』とは

 

本書『地図と拳』は、2022年6月に本文だけで625頁のハードカバーで刊行され、第13回山田風太郎賞を受賞し、第168回直木賞を受賞した長編の歴史×空想小説です。

膨大な量の情報が詰め込まれた、しかし読み手を選びそうな個人的には難解と感じた作品でした。

 

地図と拳』の簡単なあらすじ

 

「君は満洲という白紙の地図に、夢を書きこむ」日本からの密偵に帯同し、通訳として満洲に渡った細川。ロシアの鉄道網拡大のために派遣された神父クラスニコフ。叔父にだまされ不毛の土地へと移住した孫悟空。地図に描かれた存在しない島を探し、海を渡った須野…。奉天の東にある“李家鎮”へと呼び寄せられた男たち。「燃える土」をめぐり、殺戮の半世紀を生きる。(「BOOK」データベースより)

 

地図と拳』の感想

 

本書『地図と拳』は、満州国を時代背景として、架空の街である「李家鎮(リージャジェン)」を主な舞台として、複数の人間の数十年を描く作品です。

また、本書は「序章」「終章」を加えて全二十章からなる作品で、各章ごとに特定の年度のある季節における数多くの登場人物の様子を語る群像劇ということもできます。

全部で六百頁を越えるという分量であり、例えば会話文の多い今野敏などの小説でいうと三冊分を軽く超える分量になるでしょう。

その分量に加え、描き出されている情報量も、巻末には全部で八ページにもなる参考資料が掲示してあることからもわかるように膨大なものがあり、地図や建築などに関しての著者の調査結果に基づく知識が詰め込まれています。

その上、個々人の行動のみならずその思考に関しての描写は私の理解力を越えたところにある箇所が少なからず見られ、なかなかに読了に体力を要するものでした。

しかしながら、本書が直木賞の受賞作となっていることやネット上での評判の良さからも分かるように、そうした読了の困難さはひとえに私の力の無さに由来するというべきことなのかもしれません。

 

本書『地図と拳』では、日本がロシアとの間の戦争、そして支那事変を経て太平洋戦争へと至る過程での満州、特に李家鎮をめぐる登場人物たちの姿が描かれています。

そして登場人物も、李家鎮の顔役である李大綱イヴァン・ミハイロビッチ・クラスニコフというロシア人神父、孫悟空という拳匪、東京帝国大学で気象学を学んでいた須野、赤銃会の孫丞琳、仙桃城守備隊配属憲兵の安井、須野の息子である正男明男、同潤会の中川石本という明男の友人といった人物らが入れ替わり登場し、李家鎮を起こし、発展させ、没落させていくのです。

 

また、本書冒頭では対ロシアの諜報の任務に就くためにハルビンへ向かう船上の高木と通訳の細川という二人の日本人の様子から始まります。

ここからしばらくは大きくは物語の変動がありませんが、この序盤に描かれた高木や細川、それにロシア人宣教師のクラスニコフ、李大綱らはこの物語で重要な位置を占めることになります。

特に、楊日網と孫悟空の李大綱との関係はきちんと押さえておかなければ物語の方向性を見失ってしまいますし、後に登場する須野やその息子の明男、中国人の孫丞琳なども重要です。

 

理解できないという点を挙げるとすれば、本書を通しての作者の意図ですが、細かい点を挙げるとすればまずはクラスニコフの存在でしょう。

クラスニコフは物語の随所で神の教えを説いていますが、教えを説かれた者のほとんどは教えを理解することなく例えば抗日運動に身を投じるなど、他人からの攻撃に対し反撃することを選択しています。

作者がクラスニコフに託した思いは何なのか、神の教えが意味の無いものだということを言いたいのか。それとも本書のような過酷な状況においてもなお神を信じ、他者の暴力に耐える者のいることを肯定し、賛美するのか。

そこのところがよく分かりませんでした。

究極は遠藤周作の『沈黙』に置いて書かれている信仰の強さと、現世の暴力に屈し他人を売る弱者の存在との対比、「神」は存在するか、という根源的な問いを示すのでしょうか。

 

 

そして本書『地図と拳』を通しての作者の意図が不明です。

中盤あたり、須野が登場してくるころから物語は動き始めますが、展開される場面が多く、また時系列も決して直線的ではないために若干の戸惑いを感じた点も読書の困難さを感じた理由の一つかもしれません。

作者小川哲は「敗戦に至る過程を一から知りたかった。満洲を書くことが20世紀前半の日本について書くことの縮図だと思った」のだそうです( 好書好日 : 参照 )。

確かに日本と中国、そしてロシアの当時の状況を実によく調べ上げられ、それをエンターテイメント化されたフィクションとして構築されている姿はただ素晴らしいものがあります。

直木賞の受賞作となっているのもよく分かる力作です。

 

しかしながら、個人的な好みとは合致しない作品でもありました。

本書が当時の日本の縮図といえるのか、戦争に向かう国の意思が定まっていく様子が本書のような個々人の動向を描くことで示すことができるのか、よく分かりませんでした。

作者は「特に僕のように親が戦争を知らない世代も多い今は、それをフィクションで体験するのも一種の反戦活動になると思う。」と言っておられます( P+D MAGAZINE : 参照 )。

しかし、本書『地図と拳』のようなフィクションを読むことが本当に反戦活動といえるのか、疑問があります。

反戦文学といえば、五味川純平の『戦争と人間』や『人間の条件』(Kindle版)のような作品こそ反戦文学と思っていた私にとって、本書はよりエンターテイメント性が強く、理解もしがたい作品だったのです。

 

嘘と正典

零落した稀代のマジシャンがタイムトラベルに挑む「魔術師」、名馬・スペシャルウィークの血統に我が身を重ねる「ひとすじの光」、無限の勝利を望む東フランクの王を永遠に呪縛する「時の扉」、音楽を通貨とする小さな島の伝説を探る「ムジカ・ムンダーナ」、ファッションとカルチャーが絶え果てた未来に残された「最後の不良」、CIA工作員が共産主義の消滅を企む「嘘と正典」の全6篇を収録。(「BOOK」データベースより)

 


 

『ゲームの王国』で第38回日本SF大賞と第31回山本周五郎賞とをW受賞した小川哲のSF作品を中心にした短編集で、本書は第162回直木賞の候補作品となりました。

ほとんど「時間」をテーマにしたSF作品と言える作品でしょうが「ひとすじの光」と「ムジカ・ムンダーナ」は違います。


 

本書には意外性に満ちた六編の物語が収められています。それは、物語の設定自体の意外性のこともあり、物語の展開の意外性ということもあります。

そして、殆どの物語は、一読しただけではその意味を掴むことができませんでした。再読、三読して初めて物語の内容がくみとれた、ということもありました。

結局、最後まで意味がよく分からないままに終わった、という作品もあります。「魔術師」など特にそうで、第一話目がこの作品でしたからなおのこと本書全体を分かりにくいと思い込んだきらいすらあります。

もしかしたら、そのあいまいさこそが作者のねらいだったのでしょうか。

ともあれ、本書は普通の人間には一読しただけでは分かりにくい物語ばかりです。しかしながら、発想のユニークさ、予想外のストーリー展開は妙に心惹かれる作品ばかりでもありました。

この作者の評判の作品で、日本SF大賞を受賞した『ゲームの王国』も読んでみるか、迷っているところです。
 


魔術師
あるマジックの舞台上でタイムマシンを発明し、過去へ帰ってきたという父竹村理道。最終的には更なる過去へと戻り、いなくなってしまいます。ところが今度は姉が父親と同じタイムマシンマジックに挑むことになるのです。

この物語はSFではありません。しかし、SFの設定を借りたマジックの話であり、ミステリーでもある話です。

私はこの物語の構造を今でも理解できていません。結局、父親の理道はどこに消えたのか、姉のマジックの結果はどうなるのか、作者の意図は、何もわからないのです。

それは、一つには単純にタイムマシンだけだけではなく並行世界の話まで持ち出してあるからです。並行世界を前提とするならば、どんな結論でもありになってしまいます。

この物語をよくわからないと言う人は多いと思ったのですが、各種レビュー、評論を見る限りではわかりにくいいう人はほとんどいませんでした。

ちなみに、この物語に出てくる「サーストンの三原則」については下記サイトに詳しく書かれています。興味のある方はご覧ください。

 

ひとすじの光
父親は何故かテンペストという競走馬だけを残し、他の財産を処分してしまっていた。何故この馬だけを残したのか、主人公はその理由を追いかける。

この物語はSFではありません。実在の「スペシャルウィーク」という名の競走馬についての話を巡る家族の話です。

血統を追う主人公のすがたがある種のミステリーとして展開されます。競走馬のサラブレッドの血統を追うことで、父親を理解しようとする主人公の姿が描かれるのです。

 

時の扉
「時間」についての様々な考察を挟みながら、王に対し一人の男が語りかけ、三つの話をします。

途中で挟まれる「ゼノンのパラドクス」やそれに基づく「時間」の概念の理解。そして罰としての時間の理解は面白く読みました。

三回にわたり語られてきた過去を改変するエピソードがそれぞれに意味を持ち、クライマックスの仕掛けへとなだれ込んでいきます。

一人のユダヤ人とその迫害者との関係性をつづったこの話ですが、物語としての意味は王と語り部との関係性だけなのか、それ以外にもあるものなのか、分かりません。

 

ムジカ・ムンダーナ
フィリピンのデルカバオ島に住むルテア族という音楽を通貨とする民に会いに来た高橋大河は、この島で最も裕福な男が持っているという音楽を探すためにやってきました。

音楽を通貨とする、その発想には驚かされましたが、正直、通貨とされた音楽の実際の機能を思い浮かべることが困難で、なんとも不思議としか言いようのない物語でした。

大河は、父親の遺品の「ダイガのために」と題された一本のカセットテープに録音してあった音楽の意味を探るためにここまでやってきました。それは、つまりは残されていた音楽を通して大河と父親との関係を描こうとしているのでしょうか。

 

最後の不良
「流行をやめよう」という言葉のもとに「流行」が消滅した世界で、自己を貫こうとする男の物語。

この短編で言われていることは社会生活を営んでいる人間の“他者とのかかわり”という本質にかかわるものなのでしょう。

ただ、この物語の結末が結局何だったのか、主人公の怒りを描いただけなのか、何となく落ち着きませんでした。

 

嘘と正典
アメリカの諜報員が、とあるきっかけで過去へメッセージを送る手段を見つけた男と知り合い、過去へメッセージを送り過去を改変することで、現在の共産主義の存在を抹消しようとする試みを描きます。

前提として、今の共産主義社会の存在はマルクスの思想とエンゲルスの経済との合致がもたらしたものとする考えがあります。その上で、マルクスとエンゲルスとの出会いをなかったものにしようとするのです。

その上で、最終的には、この本のタイトルにもなった「正典」の意味が明かにされ、思いもかけない結末が描かれます。