平場の月

朝霞、新座、志木―。家庭を持ってもこのへんに住む元女子たち。元男子の青砥も、このへんで育ち、働き、老いぼれていく連中のひとりである。須藤とは、病院の売店で再会した。中学時代にコクって振られた、芯の太い元女子だ。50年生きてきた男と女には、老いた家族や過去もあり、危うくて静かな世界が縷々と流れる―。心のすき間を埋めるような感情のうねりを、求めあう熱情を、生きる哀しみを、圧倒的な筆致で描く、大人の恋愛小説。(「BOOK」データベースより)

 

本書の帯にいう「もう若くはない男と女の、静かに滾るリアルな恋」を描き出し、第161回直木賞の候補作となった長編の恋愛小説です。

 

やはり恋愛小説は苦手だと、あらためて思わされた作品でした。本書ではそれに加えて「癌による死」という私が禁じ手と思っている手法をとっていたため、さらに読み続けることが困難でした。

たかだか240頁の決して大部とは言えない本ですが、読み終えるのにかなりの時間がかかってしまうほどだったのです。

 

しかしながら本書は読者から絶大な支持を受けています。それを証明するように、本書は山本周五郎賞を受賞し、その上の直木賞の候補作にも選ばれてもいます。

確かに、本書の文章、また言葉の選び方には、非凡としか思えない感性のひらめきを随所に見て取ることができます。

多用されている比喩も、心のひだを浮き上がらせるようであり、まるで詩人が私たち素人の思いもつかない言葉を選んで一編の詩を紡ぎ出すような、そんな印象さえ持ってしまうものがあるのです。

 

五十歳になる主人公の青砥健将は、妻子と別れ母親の世話のために地元の印刷会社に就職しています。そして検査のために行った病院の売店で、中学時代の同級生である須藤葉子に再会するのです。

かつてどこか“太い”と感じていた印象そのままの須藤でしたが、青砥と同様に身体の不調を感じて検査を受けることになりました。

 

実に平凡な、普通の「平場」に暮らす人間の普通の生活のなかで、これまたありふれた中学時代の同級生同士の再会から変じた五十歳の大人同士の恋愛。

ここでタイトルにもなっている「平場」とは「ひらたい地面でもぞもぞ動くザッツ庶民。空すら見たり見なかったりの。」と著者は言っています。

 

二人の普通の暮らしもまた実に緻密に描写してあります。

彼らが飲む酒も発泡酒であり、さらに飲む場所も互いの部屋飲みです。

彼らの周りにいる青ブレもまたありふれた話し好きなおばさんであり、落ちぶれた雰囲気感満載の同僚たちです。

どこをとってもおしゃれでもスマートでもない、ありふれたおっさんとおばさんのありふれた恋。

そんなありふれた日常から紡ぎ出される物語は、悲しみに満ちています。その原因は病であり、互いを思いやる心です。

そこには特別な関係性がありました。

 

本書のように私が苦手と思った恋愛小説としては凪良ゆうの『流浪の月』や島本理生の『ナラタージュ』という作品があります。

流浪の月』という作品は、本書と同じく2020年本屋大賞にノミネートされていて、誘拐犯とされた小児性愛者の男とその被害者の女の独特なありようを通して人間同士や社会との関係性のあり方を描きだした作品です。

 

 

次の『ナラタージュ』の著者島本理生は2018年に『ファーストラヴ』で直木賞を受賞した作家さんです。

この人の『ファーストラヴ』という作品はミステリー仕立てであったこともあってかなり引き込まれて読みました。

それもあって読んだ『ナラタージュ』は、主人公である工藤泉の高校時代の恩師である葉山先生への思慕を描いた作品と言え、本書同様に読み続けることに拒否感を感じた作品でもありました。

 

 

本書のような物語は何のために読むのだろうと、常に思ってしまいます。

本は、その本を読むひとときが幸せだと、楽しいと思えることがいいのだと、私は思ってきました。

ところが本書のような作品は、読書のひとときがつらく、重く、哀しみにあふれてしまうのです。

本書が直木賞の候補となっていなければ決して読まなかった本でしょう。

 

人間をその内面へと深く追求することで人間の本質を描こうとする作品は私の読書の対象範囲外であり、だからこそ私は芥川賞関連の作品はほとんど読んでいないのです。

読書は楽しくありたい。そしてその楽しさは予想外の驚き、意外性からくる感動などに心を動かされるところにあるのであり、だからこそSF作品やミステリーに惹かれます。

良い本と好みの作品とは異なるという何度も書いてきた言葉がここでも当てはまりました。