文久3年2月、幕府の徴募に応じ、尊皇攘夷派がはびこる京に上った浪士たち。その中に、近藤勇、土方歳三らの試衛館道場一行や、水戸浪人の芹沢鴨一派などがいた。清川八郎らと分かれた彼らは、京都守護職の差配下に入り、その屯所を置いた地名から、壬生浪士組と呼ばれる。―のちの「新選組」であった。彼らは尊攘派浪人の取締りに辣腕を発揮、やがて芹沢一派を粛清した近藤、土方らが台頭する。文字が読みやすい新版で登場。(「BOOK」データベースより)
本書で描かれている新選組は、人斬りの集団としてのそれとして冷徹な目で描かれており、数多くの新選組を描いた作品の中でも独特の位置を占める作品です。
本書の場合、津本陽という剣道三段、抜刀道五段の腕前を持つ作家(参考:ウィキペディア)らしく、剣戟の場面には特に見るべきものがあります。本書の場合、他の作品ではあまり見ることのなかったほどに凄惨です。
「乱闘の場では、死力をふるっての刃先に触れた敵味方の指が散らばっているそうである。往時の侍たちが斬りあいの場に及ぶときの鉢巻」は、「手ぬぐい」で「両耳をなかば覆って」「わが耳を削ぎ落とさない用心」とは、三条大橋橋詰の立て札事件の折の描写です。
例えば花村萬月の『武蔵』ほかで見られるような、暴力を前面に押し出しているような殺戮場面とも異なり、また誉田哲也 の『ブルーマーダー』で描かれているような場面の残虐さともまた異なります。やはり、「剣戟」の場面での結果としての残虐さであって、それは暴力ではあるのでしょうがむき出しのバイオレンスではなく、力としての暴行でもないのです。
確かにリアリティに富む描写ではあるのですが、このような殺戮の場面の描き方はあまり無かったように思います。
一方、新選組ものという数多くの作家が取り上げて作品数も多く、読者もかなりの知識を持っているであろう新選組を題材にした作品であるにしては、作家の独自の解釈による新たな視点というものはありません。
殺人集団としての新選組という取り上げ方自体がこの作家の個性と言えばそうなのでしょう。一般とは異なる解釈と思われる個所でも、単にそうした事実があったと述べられているだけで、そう解する根拠などは無いのです。
ですから、新選組ものとして一般に描かれている浪漫を追うような物語を期待しているといけません。近藤や土方は攘夷の意思を持った佐幕派の集団としての新選組を率い、そして沖田総司は人斬りの達人としてのそれなのです。
それでもこの作家の描く物語は、研ぎ澄まされていて面白い。