羊と鋼の森

本書『羊と鋼の森』は、第154回直木賞の候補作であり、第13回本屋大賞を受賞した長編の音楽小説です。

一人の新人調律師の苦悩する姿を描いて、調律師という全く知らない世界を垣間見せてくれる好編です。

 

ゆるされている。世界と調和している。それがどんなに素晴らしいことか。言葉で伝えきれないなら、音で表せるようになればいい。ピアノの調律に魅せられた一人の青年。彼が調律師として、人として成長する姿を温かく静謐な筆致で綴った、祝福に満ちた長編小説。(「BOOK」データベースより)

 

調律師の板鳥宗一郎の調律したピアノの音に魅せられ、自分も調律師になって自分の音を探す若者の物語です。

直木賞の候補作であり、調律師という見知らぬ世界の物語というそれだけの理由で読んだ物語です。しかしながら、この作家の「音」を表現する言葉の選択、文章の組み立てに惹かれました。

それは、主人公が育ってきた故郷にある森の佇まいを借りた表現であり、この作家独自のものと言えるのでしょう。

 

本書『羊と鋼の森』は、音楽についての物語ではありません。音楽ではなく音そのものを追及する調律師の物語です。

ですから、ピアノの構造から説き起こし、ピアノという楽器で音が作り出される過程を追っています。

まず、タイトルで言われている「羊と鋼」とは、ピアノの鍵盤を叩くことでピアノの内部にあるフェルトで作られたハンマーがピアノ線を叩いて音が出る構造を指しています。

ここで、調律とは、ピアノの鍵盤やハンマー、ピアノ線の張り方などの数多くの部品を調整することで音程や音色などを調整する作業です。詳しいことはウィキペディアのピアノ調律を見てください。(ウィキペディア : 参照)

その上で、調律師は調律を頼むお客が求める「音」を追及するのです。

 

私は調律して欲しいというお客の要望が、単に音程が正確であることを望むだけではないことすら知りませんでした。例えば「柔らかい音」などの要望に応えるのも調律の仕事だそうです。

そうした要望に応える調律師を目指す若者の成長物語でもある本書ですが、当然のことながらピアノの音について表現が要求されます。

その、随所に表現されているピアノの音についての表現は秀逸です。音楽のことも、勿論調律のことも、何も分からない一般人である読者にも、ピアノの音のイメージを理解しやすく表現してくれています。

その方法が「森」なのです。誰もが知っている木々のざわめき、風にそよぐ枝などの絵を借りて表現される音の表現は見事という他に言葉を知りません。

 

近頃読んだ中山 七里の『さよならドビュッシー』を始め、藤谷治の『船に乗れ!』など音楽をテーマにしている作品はそれぞれに見事な音の表現をされています。

作家という職業の言葉に対する感性の素晴らしさを思い知らされることになる作品ばかりです。その中での本書『羊と鋼の森』の「音」についての表現は素晴らしいと思うのです。

 

 

上記二作品も素晴らしいものでしたが、特に156回直木三十五賞と2017年本屋大賞のダブル受賞を果たした恩田陸の『蜜蜂と遠雷』という作品は、物語の全編が、あるピアノコンクールを描いたものであり、クラシック音楽を文字で表現した見事な作品でした。

 

 

蛇足ですが、『花田少年史』の一色まことが書いているコミック『ピアノの森』は、森に捨てられたピアノをオモチャ代わりにして育った一ノ瀬海を主人公に、ピアニストとして世界に羽ばたこうとする姿を描いています。

私は数巻しか読んではいないのですが、かなりよく書きこんであるコミックだという印象を受けました。たかがコミックと言うなかれ。上手いものはうまいのです。

 

 

ちなみに、本書『羊と鋼の森』を原作として映画化もされています。監督は橋本光二郎、主演は山崎賢人で、他に三浦友和や鈴木亮平、上白石萌音・萌歌姉妹が出演しています。

個人的にはあまり良い出来の映画とは思えませんでした。本書で描かれているの調律師が調整する音の微妙なニュアンスが表現できているとは思えなかったのです。