似せ者

「似せ者とわかっていながら、なぜこんなにも心が騒ぐのだろうか」。時は江戸。歌舞伎芝居の名優のそっくりさんが二代目を名乗り、人々は熱狂して迎えるが…。表題作のほか、若い役者二人の微妙な関係を描く『狛犬』、お仕打が東奔西走する『鶴亀』、幕末混乱期の悲恋をめぐる『心残して』の全4編を収録。(「BOOK」データベースより)

「似せ者」
名優坂田籐十郎亡き後、桑名屋長五郎という籐十郎そっくりの芸を見せる男を藤十郎の二代目として売り出そうと仕掛ける与一だったが、二代目籐十郎として出た人気も下火になるにつれ、自分の芸を見せたいと思うようになる長五郎の心は計算外だった。
「狛犬」
いつも市村助五郎の後を追っていた大瀧広治だったが、二人が舞台でとった勧進相撲が大当たりをし、広治もそれなりに自信をつけていく。代わりに二人の仲は疎遠になるのだった。
「鶴亀」
興行師の亀八は、突然引退興行を打つと言いだした人気役者の鶴助に当初こそ反対したものの、途中からは一世一代の引退興行にしようと力を入れ、後世に語り継がれるほどの引退興行を成功させた。しかし、鶴助の芸人魂に火をつけることにもなってしまったのだった。
「心残して」
市村座の囃子方の杵屋巳三次は、美しい声の主である旗本の次男坊の神尾左京と出会い、左京の妾である吉乃に三味線を教えることになる。しかし、左京は彰義隊に参画するのだった。

桑名屋長五郎という名を持ちながら、二代目籐十郎として舞台に立つ芸人と、自らも芸人であった芸人の番頭である与一との内面の葛藤を描く「似せ者」。引退興行を打ちながらも、その盛況さに芸人魂に再び火がついてしまう姿を描く「鶴亀」など、どの物語も芸人の芸道に生きるものとしての心を真摯に描き出してあり、実に読み応えのある作品です。さすがに第128回直木賞の候補作となった作品集でした。

個人的には最後の「心残して」に一番惹かれるものを感じました。巳三次が左京の声に、そしてその人柄にほれ込み、更には左京の想い人である吉乃に心騒がせるに至る様子が、明治初期の市井の描写を背景にひそやかに語られるこの物語は私の心に一番はまりました。

また、「狛犬」の助五郎の内面の描写もまた巧妙で、思わず惹きこまれるものでした。助五郎の、常に自分の格下だと思っていた広治の引き立て役に回らざるを得なくなる男の悲哀。その思いは、二人が通っていた踊りの師匠の娘お菊を挟んでの恋模様とも重なり、小さな感動を呼ぶラストへとつながるのです。

ここでの助五郎は、少々強引な気もしますが、山本周五郎の名作『さぶ』の栄二のようでもありました。器用な栄二と不器用なさぶ。濡れ衣を着せられ人足寄せ場に送られ自棄になってしまう栄二と、面会を断られても何度も会いに来るさぶ。「狛犬」の二人とは性格も状況も異なりますが、自分がいてこその広治であり、自分がいなければ何もできないという、助五郎の広治に対する微妙な思いは、自分が助けていたさぶに面会を受ける立場の寄せ場にいる自分という、自棄になった栄二と重なります。

吉原十二月

大籬・舞鶴屋に売られてきた、容貌も気性もまったく違う、ふたりの少女。幼い頃から互いを意識し、妓楼を二分するほど激しく競り合いながら成長していく。多くの者が病に斃れ、あるいは自害、心中する廓。生きて出ることさえ難しいと言われる苦界で大輪の花を咲かせ、幸せを掴むのはどちらか。四季風俗を織り込んだ、絢爛たる吉原絵巻!(「BOOK」データベースより)

 

松井今朝子の『吉原手引草』に続く吉原ものの連作の短編集というより、長編時代小説といえます。

吉原手引草』が吉原に暮らす多くの人への聞き取り形式だったのに対し、本作『吉原十二月』は、大籬の楼主、四代目舞鶴屋庄右衛門が、月ごとのひとり語りという形態をとっています。

吉原案内の上級編と言ったところでしょうか。

 

吉原手引草』でもそうでしたが、語り口のうまさに引き込まれます。

今回は吉原大籬の主、四代目舞鶴屋庄右衛門の語りですが、この語りが見事です。絢爛豪華という吉原の印象をそのままに、花魁たちの成長が軽快に語られてゆきます。

 

月ごとに季節にあった場面が展開していきます。

まず正月は、容貌も気性もまったく違う「あかね」と「みどり」という物語の中心となる禿二人と庄右衛門とのかかわりが紹介されます。

次いで二月(如月)には、十六歳となった「あかね」と「みどり」が、それぞれに「初桜(はつはな)」と「初菊(はつぎく)」という新造名を得て振袖新造となり、その後「小夜衣(さよぎぬ)」と「胡蝶」という花魁となる次第が、初午に絡めて描かれています。

そして、三月、四月とその月の行事に合わせて続いていくのです。

 

「禿(かむろ)」とは遊郭に住み込む幼女のことで、高級女郎の身のまわりの世話をしながら、遊女としてのあり方などを学ぶのだといいます。

禿がある年齢(十五歳位)になると遊女見習いの後期段階になり「新造」となります。この「新造」にも「振袖新造」「留袖新造」「番頭新造」などがあるそうです。

「花魁」というのは最高に位の高い遊女のことを言います。以上のことは吉原遊郭についてのことで、京の島原遊郭などではまた若干異なります。

ここらのことは「吉原雀」や「意外と知られていない吉原の実態 – マイナビウーマン」というサイトに詳しく説明してあります。

月が変わるごとに章が変わり、庄右衛門の口から二人の女郎の成長の様子が語られていくのですが、その語りが実に小気味いいのです。

天切り松-闇がたりシリーズ』の浅田次郎という作家の台詞回しが歌舞伎の河竹黙阿弥の台詞回しに通じていて粋で見事と言われていますが、松井今朝子の語りも、黙阿弥とは言いませんが、同じような小気味よさがあります。

共に江戸弁を使いこなしているところから来ているのかもしれません。

 

 

加えて、松井今朝子という作家の知識量の膨大さが印象的です。読んでいて、提示される情報の多さに圧倒されるところがあります。

それでもなお、示される新たな事実に驚嘆しながらも、繰り広げられる吉原という別世界の豪華さに惹きつけられ、酔うのです。

 

ただ、エンターテインメント小説としてみるとき、派手な展開があるわけでもない本書は、読み手によっては若干間延びする印象をもつかもしれません。

でも、二人の禿たちの成長を追い、吉原のしきたりや花魁たちの日常などに触れることはまた新たな喜びをもたらしてくれると思います。そして、やはりこの作家らしく最後にちょっとした仕掛けまで用意されているのです。

 

多くの作品を出されているこの作家はしばらく追いかけたい作家でもあります。

吉原手引草

廓遊びを知り尽くしたお大尽を相手に一歩も引かず、本気にさせた若き花魁葛城。十年に一度、五丁町一を謳われ全盛を誇ったそのとき、葛城の姿が忽然と消えた。一体何が起こったのか?失踪事件の謎を追いながら、吉原そのものを鮮やかに描き出した時代ミステリーの傑作。選考委員絶賛の第一三七回直木賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

 

傾城吉原を舞台にした時代ミステリーでありながらタイトルのままに吉原の手引書にもなっている、第137回直木賞を受賞した長編の時代小説です。

近時読んだ作品の中では一、二を争う作品だと感じました。

 

一人の男が吉原の引き手茶屋の内儀に聞き取りをしている場面から始まります。

吉原の町並みの説明から、吉原で遊ぶ際の手順、しきたり等が内儀の口から語られ、最後に葛城花魁のことを聞きだそうとするところで見世を追い出されます。

次の章は、大籬(おおまがき)の舞鶴屋の見世番である寅吉の話です。大籬とは大手の妓楼のことであり、魁道中を行うような花魁を抱える見世のことを言います。

この章では、具体的に見世に上がってからのしきたりなどが語られ、最後に葛城花魁のことを尋ねて終わります。

その次は同じ舞鶴屋の番頭の話があり、そしてその次には舞鶴屋抱え番頭新造の話と次から次に聞き取りの相手が変わっていきます。

 

各章がすべて、聞き取り相手の語り、という体裁で進んでいきます。聞き取りをしている人物の言葉は一言もありません。ただ、相手が一人でしゃべるのみです。

このおしゃべりの間に、花魁の葛城の起こしたとある事件について調べているのだとわかってきます。それでも何故そのような聞き取りをしているのかは不明なのです。

こうした聞き取り形態の小説としては、浅田次郎の『壬生義士伝』が思い浮かびます。子母沢寛を思わせる聞き取り手に対し、相手が新撰組に関する思い出を語っていく、という形式は一緒です。

 

 

しかし、本書ではミステリーとしての要素がかなり強い点が異なります。勿論、新撰組と吉原という異なる世界の物語という点も違いますが。

読み始めは、ひたすら一人称の語りを聞くだけという体裁に加え、何を聞いているのかも分からないので、読み手は若干の欲求不満がたまっていきます。

それでも、吉原という江戸時代でもっとも有名な地名のひとつでありながら、その内実をほとんど知らない「吉原」という不思議空間についての知識が与えられることで、なんとかついていく印象です。

 

しかし、途中から吉原についてのトリビア的知識に加え、葛城花魁が起こしたという事件についての謎に関心が移っている自分に気づかされます。

終わり方になり、語り手の一人が「吉原は虚実ない交ぜた駆け引きの世界であり、その駆け引きこそが面白い」と言い切ります。

最後の章「詭弁 弄弁 嘘も方便」の章では全ての種明かしがなされます。

ミステリーとしてこうした手法が評価されるのかどうかは私には分かりませんが、久しぶりに「意外性」という意味で面白い小説に出会ったと思いました。

 

吉原についての情報と同時に、それをミステリーとして仕上げたその手法には、ただ感じいるばかりでした。

道絶えずば、また

江戸中村座。立女形三代目荻野沢之丞が、引退を決めて臨んだ舞台で、奈落へ落ちて死んだ。大道具方の甚兵衛が疑われたが、後日首を吊った姿で見つかる。次に沢之丞の次男・宇源次が、跡目相続がらみで怪しまれた。探索にあたる北町奉行所同心・薗部は、水死体であがった大工の筋から、大奥を巻き込んでの事件の繋がりに気づくのだが…。多彩な生き様のなかに芸の理を説く長編時代ミステリー。(「BOOK」データベースより)

 

歌舞伎の世界を舞台にした時代ミステリーです。「風姿花伝」三部作の完結編です。

 

ミステリーなのですが、当初は多彩な登場人物の相互関係、その物語上での立ち位置などがよく分からず、役者の世界に対する作者の該博な知識も相まってか、なんとなくの読みにくさを感じていました。

この点は、シリーズを順序よく読んでいけば少しは良かったのかとも思えます。

 

ミステリーとしての本書を見た場合、謎解き自体は若干のご都合主義を感じなくもありません。

しかしながら作者は「家族」のあり方を主題としていたと思え、そうしてみれば全体がそれとしてまとまって見えてきます。

とくに、終盤での長男市之介と次男宇源次兄弟の会話の場面は、芸の道に生きるものの心情を表わしていて圧巻でした。

ここまでに至る物語はこの場面へのフリではなかったかと思えるほどなのです。

 

話自体は同心の薗部理市郎が探偵役として進んでいきます。

しかし、理市郎が手先として使おうとしている女形沢蔵も事件の真相を探ろうとしてあちこちに探索の手を広げているので、探偵役の側面も若干の曖昧さが残っています。

と言ってもこの点は強いて言えばの話ですが。

 

『非道、行ずべからず』『家、家にあらず』そして本書『道絶えずば、また』の三冊で「風姿花伝」三部作と呼ばれています。

どのタイトルも世阿弥の能楽論『風姿花伝』からとった一文だそうです。

 

本書の『道絶えずば、また』についてみると、「道絶えずば、また、天下の時に会うことあるべし」という言葉からとったものだといいます。

「たとえ人から見捨てられても、決してあきらめずにひとつの道をずっと歩み続けていれば、再び浮かび上がるときがあるだろう。」というその言葉は、本書のテーマそのものでした。

 

蛇足ながら、本書を含めた松井今朝子氏の作品の装丁がなかなかにインパクトがあって惹きつけられました。