騙し絵の牙

本書『騙し絵の牙』は、現在の出版業界の現状をリアルに描き出す、432頁という長さの長編小説です。

著者の塩田武士氏は『罪の声』が2017年本屋大賞の候補作になりましたが、本書もまた2018年の本屋大賞にノミネートされています。

 

騙し絵の牙』の簡単なあらすじ

 

出版大手「薫風社」で、カルチャー誌の編集長を務める速水輝也。笑顔とユーモア、ウィットに富んだ会話で周囲を魅了する男だ。ある夜、上司から廃刊の可能性を匂わされたことを機に組織に翻弄されていく。社内抗争、大物作家の大型連載、企業タイアップ…。飄々とした「笑顔」の裏で、次第に「別の顔」が浮かび上がり―。俳優・大泉洋を小説の主人公に「あてがき」し話題沸騰!2018年本屋大賞ランクイン作。(「BOOK」データベースより)

 

薫風社という大手出版社の発行する「トリニティ」という総合雑誌がありました。その編集長として速水という男がいます。この速水こそが大泉洋をあて書きして生まれたキャラクターです。

物まねが上手く、天性の人たらしである速水は、その才能をフルに生かして張り巡らした人脈を活用して、廃止を示唆された自らが編集長を務める雑誌「トリニティ」存続のために動き回ります。

作家を動かして人気小説の連載を確保し、トリニティに連載されていた小説の映像化を図り、そのために営業担当と掛け合って単行本の増刷を図るなど、多様な活動をこなす姿が描かれます。

その一方、家庭では妻の淋しさを顧みる暇もなく、夫婦の会話も無くなっていくばかりです。ただ、娘の成長だけが楽しみなのです。

 

騙し絵の牙』の感想

 

本書『騙し絵の牙』の魅力は、第一には出版業界の裏側が実にリアルに描き出してあるところでしょう。

一般読者の知るところではない編集者の仕事内容を紹介したり、文芸雑誌の廃刊という流れの中で作家の収入の仕組みを解説したり、本書のストーリー自体が読者離れの激しい出版業界の現状に即して組み立てられているのです。

また、書店数もピーク時に比べ約四割減っている昨今、売り場面積はさほど減少していません。ということは大型チェーン化が進んでいるともとれる事実の指摘があります。

また、中古本販売店や図書館の存在は作り手にとって脅威であって、「数年前から公立図書館の書籍貸出数が、販売数を上回る状態が続いている。」ことも登場人物に言わせています。

こうした業界の現状を示すとともに、自らが編集長を務める雑誌の廃刊を阻止するために奮闘する速水という人物を描き出し、エンターテインメント小説としての面白さをも追及してあります。

 

本書『騙し絵の牙』の二番目の魅力と言えば、大泉洋のあて書きということになるでしょう。

上記の出版業界の現状を示すその手段として、人気俳優の大泉洋という底抜けに明るいキャラクターをモデルにあて書きして話題性も作り出しているのです。

速水という主人公の人たらしぶりは人的な魅力であり、その魅力を通じて構築した人脈が主人公の武器となって、雑誌廃刊阻止の様々な手段を講ずるのです。

 

ただ、逆に言えばこの点が私の評価としては今ひとつと感じたところでもあります。主人公がスマートすぎて、私が感じる大泉洋の印象と少々異なるのです。

ただ、この点は個人的な側面が強いので、ことさらに言う点でもないとも思います。

今ひとつは、タイトルであり、謳い文句でもある「騙し絵の牙」という点です。本書のエピローグが「騙し」と、また「牙」と言えるほどのものなのか若干の疑問を抱いてしまいました。

 

話は変わりますが、本書『騙し絵の牙』のような編集者の物語と言えば三浦しをんの『舟を編む』という物語がありました。

この作品は、辞書の編纂作業を行う編集者たちを、辞書の作成される過程を如実に描きながら、主人公らの人ドラマも絡めて描写してある小説で、2012年の本屋大賞を受賞し、また松田龍平主演で映画化もされていて、かなりの人気を得たと覚えています。

 

 

また、特撮映画の編集者の人捜しを主軸に編集者を描き出した作品が月村了衛の『追想の探偵』という作品でした。

全く架空の特撮作品に絡む人物を探し出し、その雑誌のメインとする女性編集者を主人公にした、「日常のハードボイルド」という言葉をうたい文句にした小説ですが、本書とはその趣が少し異なる作品でした。

 

 

ちなみに、本書『騙し絵の牙』が映画化されることになりました。

著者の塩田武士氏は、『罪の声 』という作品が2017年の本屋大賞の候補作品になったことは冒頭に書きましたが、『罪の声 』は映画化もされています。

 

同時に、本書『騙し絵の牙』も勿論大泉洋主演で映画化されることになりました。

共演陣も佐藤浩市や松岡茉優といった人たちが脇を固めており、見ごたえのある作品になるのではないでしょうか。

公開日は2021年3月26日です。詳しくは下記を参照してください。予告編もそちらにあります。

罪の声

本書『罪の声』は、2017年の本屋大賞の候補作品にもなった、文庫本で544頁の長編の推理小説です。

実際に、1984年から1985年にかけて関西方面で実行された、いわゆる「グリコ・森永事件」という多数の食品会社への脅迫等事件をモデルとしています。

 

罪の声』の簡単なあらすじ

 

京都でテーラーを営む曽根俊也。自宅で見つけた古いカセットテープを再生すると、幼いころの自分の声が。それは日本を震撼させた脅迫事件に使われた男児の声と、まったく同じものだった。一方、大日新聞の記者、阿久津英士も、この未解決事件を追い始め―。圧倒的リアリティで衝撃の「真実」を捉えた傑作。(「BOOK」データベースより)

 

罪の声』の感想

 

本書『罪の声』では、父の遺品の中に「ギン萬事件」の犯人を示す証拠かもしれないカセットテープやノートをみつけ、真実を知りたいと調査に乗り出す曽根俊也と、大日新聞の年末企画で「ギン萬事件」を扱うことになり、英検準一級を持っていることからロンドンでの取材を任されることになった、文化部記者の阿久津英士の取材という二つの流れがあります。

神戸新聞での将棋担当記者という経験をもつ作者の塩田武士は、当然のことながら本書の主人公の一人である阿久津英士に投影されているものと思われ、その取材時の記者の心象については、同じ文化部出身の記者としての経験が十分の反映され、臨場感に満ちたものだと感じ入りました。

「真実は時に刃になる。それが周囲の人間を傷つけてしまうこともある。」などの言葉は、作者の記者としての経験から出てきた言葉だろうと、特に印象的でした。

また、「ギン萬事件」の犯人の家族と目される曽根俊也や、事件追及の過程で出てくるもうひと組の犯人家族の物語は、単に「グリコ・森永事件」についての再構成というにとどまらない厚みをこの作品に与えています。

クライマックス近くになってくると、本書の持つサスペンス的印象が強くなり、物語に強く惹きつけられたものでした。

 

以上のように本書『罪の声』は、迷宮入りとなった「グリコ・森永事件」について緻密に調査が為され、その結果が再構成されて本書として結実している、大変な力作です。だからこそ、本屋大賞にもノミネートされているのでしょう。

ただ、それまでの間、この物語を冗長に感じたことも確かです。

確かに、本書の成立する前提として、「ギン萬事件」(グリコ・森永事件)についての知識が必要でしょうから、ある程度の事件の紹介のための描写は仕方のない側面はあると思います。

しかし、二つの物語それぞれの流れで、もう少し簡潔に語ってくれれば、物語の世界に入り込めたのに、と感じてしまったのです。

 

本書『罪の声』のように、現実に起きた犯罪事実をもとにして書かれた小説はかなりの数にのぼると思います。

中でも映画化もされた名作としては、佐木隆三の書いた、第74回直木賞を受賞した『復讐するは我にあり』という作品が最初に思い出されました。

この作品は、1963年10月から翌年の1月に逮捕されるまでの間に、5人を殺害した西口彰事件をモデルに描かれた小説です。

そして、今村昌平を監督とし、今は亡き名優の緒方拳主演で作成されたこの映画は1979年4月に公開されました。

私がこの作品を最初に思い出したのは、第22回ブルーリボン賞や第3回日本アカデミー賞作品賞を受賞したこの映画を覚えているからです。緒方拳という役者の素晴らしさが光った映画でした。

 

 

また、近年公開された『悪人』という映画も素晴らしい出来栄えの作品でした。この作品は李相日監督のもと、妻夫木聡と深津絵里という役者さんを得て映画化され、最優秀作品賞こそ「告白」になりましたが、その他の第34回日本アカデミー賞各賞を総なめにしました。

この映画は、主演男優賞を受賞した妻夫木聡の演技もさることながら、主演女優賞を受賞した深津絵里という女優さんの演技には驚かされたものでした。

原作は吉田修一の『悪人』という作品で、第61回毎日出版文化賞と第34回大佛次郎賞を受賞しています。また2008年度本屋大賞第4位にもなっているのですが、この作品も私は読んでいません。

 

 

他にも、角田光代の『八日目の蝉』という作品もあります。1993年12月に起きた、いわゆる日野OL不倫放火事件をもとにした小説だそうですが、現実に起きた実際の事件とはかなり異なる内容のようで、現実の事件は幼子が二人も死亡する悲惨な事件だったようです。

ただ、この作品を原作とする映画「八日目の蝉」も見事でした。井上真央と永作博美、小池栄子という三人の女優それぞれが素晴らしかった。この映画も第35回日本アカデミー賞を総なめにしていますね。

 

 

結局上記の三作品共に、私は原作を読んでいません。全部映画だけです。できれば原作も読んでみたいとは思うのですが、次から次に読みたい本が出てきますので、なかなかそれもかなわないことのようです。

他にも、高村薫の『冷血』などの多くの作品があります。

 

 

現実に起きた事件、そこには普通ではない人間ドラマがある筈で、それを描き出すことが人間そのものを描き出すことに通じているものだと、創作者は思うのでしょうか。

そして、同じクリエーターとしての映画人もまた、同様の想いからこれらの原作を映像化するのでしょう。

 

ちなみに、本書『罪の声』も小栗旬と星野源によって映画化され、2020年10月30日に公開されています。

詳しくは、下記のサイトを見てください。予告編もそちらで見ることができます。