存在のすべてを

存在のすべてを』とは

 

本書『存在のすべてを』は、2023年9月に472頁のハードカバーで朝日新聞出版から刊行された長編小説です。

2024年の本屋大賞で第三位となっており、かなり惹き込まれて読んだ作品でした。

 

存在のすべてを』の簡単なあらすじ

 

前代未聞「二児同時誘拐」の真相に至る「虚実」の迷宮!真実を追求する記者、現実を描写する画家。著者渾身の到達点、圧巻の結末に心打たれる最新作(「BOOK」データベースより)

 

存在のすべてを』の感想

 

本書『存在のすべてを』は、ある幼児誘拐事件を背景に、その事件を追いかける記者の姿を借り、被害者である幼児や事件に絡む画家らの人生を描き出した力作です。

本書は第9回「渡辺淳一文学賞」を受賞し、「本の雑誌が選ぶ2023年度ベスト10」の第1位となり、さらには2024年の本屋大賞で第三位になっています。

松本清張を彷彿とさせる社会派の作品と言ってよく、久しぶりにかなり惹き込まれて読んだミステリーでした。

 

本書『存在のすべてを』では、冒頭の「序章」で同時に起きた二件の幼児誘拐事件への警察の対応の描写が実に緻密であり、緊迫感をもって描かれています。

そのため、この誘拐事件の犯人を探す過程が他の作品以上に手厚く描かれているのだろうと勝手に思い込んで読み進めることになりました。それほどに重厚感を持った描写が続くのです。

ところが、この二件の誘拐事件を描いた「序章」は意外な結末をもって犯人も捕まらないままに終わります。

そして三十年という年月が経ち、冒頭の誘拐事件に奔走した一人の刑事の葬儀の場面から本編が始まるのです。

 

そこで登場してくるのが本書の狂言回しとなる大日新聞宇都宮支局長の門田次郎です。

以降、この物語は門田の行動を追いかけると同時に、写実画家の野本貴彦と誘拐された幼児の一人である内藤亮、そして内藤亮の高校時代の同級生の土屋里穂といった人物たちの動向が記されていきます。

冒頭で起きた誘拐事件での捜査員の緊張感などを感じさせる濃密な描写とは異なり、次第に絵画、それも超写実主義の絵画に焦点が当たっていきます。

次第に写実を至高とする画家の内面に深く斬り込むようになり、少なくとも本書の途中まではこれらのテーマのどこに収斂していくのか見当もつかないのです。

 

読了した今では、本書は写実画という対象物の存在理由までも明らかにする絵画手法を通して、一人の写実画家の人生を顧みる作業だと思えます。

写実画家の画家の人生をあらためて追体験する、言い換えればこれらの画家の人生を明るみに出すことことにより、一人の人間と、その関係者の人生を俯瞰し再検討する物語なのではないか、と思います。

「存在のすべてを」というタイトルもそのことを示していると思うのです。

写実の画家である貴彦がある人物に対して言った、うまい絵を描こうとしなくていい、「大事なのは存在」だと言う言葉が心に残っています。

そしてその十数頁後には、便利な世の中になるとわざわざ触らなくても思い通りになると勘違いする人が増える、「だからこそ『存在』が大事」になり、「世界から『存在』が失われていくとき、必ず写実の絵が求められる。」という言葉が出てきます。そして、それは「考え方、生き方の問題だから」と続くのです。

 

また、本書『存在のすべてを』では、こうした写実絵画の意義についての主張と同時に、絵画の世界における有力者による不正問題も取り上げられています。

つまり、絵画の実力だけでは、画家の名を知らしめることのできる「民展」という展覧会への出展さえもできない状況が描かれています。

しかし、そのことは小説の中だけの虚構の出来事ではなく、現実にもあった出来事でした。

現実には2009年の朝日新聞の調査報道により「日本美術展覧会」、通称「日展」の不正審査問題が発覚して大問題となったのです。( ウィキペディア : 参照 )

こうした現実の社会的な不正をも物語の背景に置き主人公の人生を追体験させる手法が、社会派推理小説の代名詞ともいえる松本清張を思い出させたのです。

 

絵画そのものをテーマとした作品を挙げるとすれば、やはり原田マハの『暗幕のゲルニカ』などの作品をまず挙げるべきなのでしょう。

しかし、本書の内容からすると絵画をテーマとした作品と言うよりも、やはり松本清張やその系譜にあると思われる横山秀夫東野圭吾らといった社会派推理小説家の名を挙げるほうがしっくりくると思われます。

いずれにせよ、本書の迫力は今挙げた各作家の作品にも並ぶ面白さを持った作品だと思いました。

騙し絵の牙

騙し絵の牙』とは

 

本書『騙し絵の牙』は、現在の出版業界の現状をリアルに描き出す、432頁という長さの長編小説です。

著者の塩田武士氏は『罪の声』が2017年本屋大賞の候補作になりましたが、本書もまた2018年の本屋大賞にノミネートされています。

 

騙し絵の牙』の簡単なあらすじ

 

出版大手「薫風社」で、カルチャー誌の編集長を務める速水輝也。笑顔とユーモア、ウィットに富んだ会話で周囲を魅了する男だ。ある夜、上司から廃刊の可能性を匂わされたことを機に組織に翻弄されていく。社内抗争、大物作家の大型連載、企業タイアップ…。飄々とした「笑顔」の裏で、次第に「別の顔」が浮かび上がりー。俳優・大泉洋を小説の主人公に「あてがき」し話題沸騰!2018年本屋大賞ランクイン作。(「BOOK」データベースより)

 

 

騙し絵の牙』の感想

 

本書『騙し絵の牙』は、現在の出版業界の現状をリアルに描き出している、2018年の本屋大賞にノミネートされた作品です。

大泉洋のあて書きで書かれた作品だと聞いていたのでかなり期待をして読んだのですが、個人的には今一つの印象でした。

 

薫風社という大手出版社の発行する「トリニティ」という総合雑誌がありました。その編集長として速水という男がいます。この速水こそが大泉洋をあて書きして生まれたキャラクターです。

物まねが上手く、天性の人たらしである速水は、その才能をフルに生かして張り巡らした人脈を活用して、廃止を示唆された自らが編集長を務める雑誌「トリニティ」存続のために動き回ります。

作家を動かして人気小説の連載を確保し、トリニティに連載されていた小説の映像化を図り、そのために営業担当と掛け合って単行本の増刷を図るなど、多様な活動をこなす姿が描かれます。

その一方、家庭では妻の淋しさを顧みる暇もなく、夫婦の会話も無くなっていくばかりです。ただ、娘の成長だけが楽しみなのです。

 

残念ながら大賞受賞ということにはなりませんでしたが、著者の塩田武士にとっては2017年本屋大賞の候補作になった『罪の声』に次いで二冊目のノミネート作品ということになります。

本書『騙し絵の牙』の魅力は、第一には出版業界の裏側が実にリアルに描き出してあるところでしょう。

一般読者の知るところではない編集者の仕事内容を紹介したり、文芸雑誌の廃刊という流れの中で作家の収入の仕組みを解説したり、本書のストーリー自体が読者離れの激しい出版業界の現状に即して組み立てられているのです。

また、書店数もピーク時に比べ約四割減っている昨今、売り場面積はさほど減少していないそうです。ということは大型チェーン化が進んでいるともとれる事実の指摘があります。

また、中古本販売店や図書館の存在は作り手にとって脅威であって、「数年前から公立図書館の書籍貸出数が、販売数を上回る状態が続いている。」ことも登場人物に言わせています。

こうした業界の現状を示すとともに、自らが編集長を務める雑誌の廃刊を阻止するために奮闘する速水という人物を描き出し、エンターテインメント小説としての面白さをも追及してあります。

 

本書『騙し絵の牙』の二番目の魅力は、作者による大泉洋のあて書きということになるでしょう。

上記の出版業界の現状を示すその手段として、人気俳優の大泉洋という底抜けに明るいキャラクターをモデルにあて書きして話題性も作り出しているのです。

速水という主人公の人たらしぶりは人的な魅力であり、その魅力を通じて構築した人脈が主人公の武器となって、雑誌廃刊阻止の様々な手段を講ずるのです。

 

ただ、逆に言えばこの点が私の評価としては今ひとつと感じたところでもあります。主人公がスマートすぎて、私が感じる大泉洋の印象と少々異なるのです。

ただ、この点は個人的な側面が強いので、ことさらに言う点でもないとも思います。

今ひとつの疑問点はタイトルであり、謳い文句でもある「騙し絵の牙」という点です。本書のエピローグが「騙し」と、また「牙」と言えるほどのものなのか若干の疑問を抱いてしまいました。

 

話は変わりますが、本書『騙し絵の牙』のような編集者の物語といえば三浦しをんの『舟を編む』という物語がありました。

この作品は、辞書の編纂作業を行う編集者たちを、辞書の作成される過程を如実に描きながら主人公らの人間ドラマも絡めて描写してある小説で、2012年の本屋大賞を受賞し、また松田龍平主演で映画化もされていて、かなりの人気を得たと覚えています。


 

また、特撮映画の編集者の人捜しを主軸に編集者を描き出した作品が月村了衛の『追想の探偵』という作品でした。

全く架空の特撮作品に絡む人物を探し出し、その雑誌のメインとする女性編集者を主人公にした、「日常のハードボイルド」という言葉をうたい文句にした小説ですが、本書とはその趣が少し異なる作品でした。


 

ちなみに、本書『騙し絵の牙』が映画化されることになりました。

著者の塩田武士の作品で、『罪の声 』という作品が2017年の本屋大賞の候補作品になったことは冒頭に書きましたが、この『罪の声 』は映画化もされています。

同時に、本書『騙し絵の牙』も勿論大泉洋主演で映画化されることになりました。

共演陣も佐藤浩市や松岡茉優といった人たちが脇を固めており、見ごたえのある作品になるのではないでしょうか。

公開日は2021年3月26日です。詳しくは下記を参照してください。予告編もそちらにあります。

罪の声

罪の声』とは

 

本書『罪の声』は、2016年8月に講談社からハードカバーで刊行され、2019年5月に講談社文庫から544頁の文庫として出版された、長編の推理小説です。

現実に起きたいわゆる「グリコ・森永事件」をモデルとしていて、冗長さを感じもしましたが、それなりに面白く読んだ作品です。

 

罪の声』の簡単なあらすじ

 

京都でテーラーを営む曽根俊也。自宅で見つけた古いカセットテープを再生すると、幼いころの自分の声が。それは日本を震撼させた脅迫事件に使われた男児の声と、まったく同じものだった。一方、大日新聞の記者、阿久津英士も、この未解決事件を追い始め―。圧倒的リアリティで衝撃の「真実」を捉えた傑作。(「BOOK」データベースより)

 

罪の声』の感想

 

本書『罪の声』は、1984年から1985年にかけて関西方面で実行されたいわゆる「グリコ・森永事件」という多数の食品会社への脅迫等事件をモデルとしていて、2017年の本屋大賞の候補作品にもなっています。

非常に緻密に描き出された作品であって若干読むのに苦労しましたが、それでも面白く読んだ作品です。

 

父の遺品の中に「ギン萬事件」の犯人を示す証拠かもしれないカセットテープやノートをみつけ、真実を知りたいと調査に乗り出す曽根俊也と、大日新聞の年末企画で「ギン萬事件」を扱うことになり、英検準一級を持っていることからロンドンでの取材を任されることになった、文化部記者の阿久津英士の取材という二つの流れがあります。

神戸新聞での将棋担当記者という経験をもつ作者の塩田武士は、当然のことながら本書の主人公の一人である阿久津英士に投影されているものと思われます。

その取材時の記者の心象については、同じ文化部出身の記者としての経験が十分の反映され、臨場感に満ちたものだと感じ入りました。

「真実は時に刃になる。それが周囲の人間を傷つけてしまうこともある。」などの言葉は、作者の記者としての経験から出てきた言葉だろうと、特に印象的でした。

また、「ギン萬事件」の犯人の家族と目される曽根俊也や、事件追及の過程で出てくるもうひと組の犯人家族の物語は、単に「グリコ・森永事件」についての再構成というにとどまらない厚みをこの作品に与えています。

クライマックス近くになってくると、本書の持つサスペンス的印象が強くなり、物語に強く惹きつけられたものでした。

 

以上のように本書『罪の声』は、迷宮入りとなった「グリコ・森永事件」について緻密に調査が為され、その結果が再構成されて本書として結実している、大変な力作です。だからこそ、本屋大賞にもノミネートされているのでしょう。

ただ、それまでの間、この物語を冗長に感じたことも確かです。

確かに、本書の成立する前提として、「ギン萬事件」(グリコ・森永事件)についての知識が必要でしょうから、ある程度の事件の紹介のための描写は仕方のない側面はあると思います。

しかし、二つの物語それぞれの流れで、もう少し簡潔に語ってくれれば、物語の世界に入り込めたのに、と感じてしまったのです。

 

本書『罪の声』のように、現実に起きた犯罪事実をもとにして書かれた小説はかなりの数にのぼると思います。

中でも映画化もされた名作としては、佐木隆三の書いた、第74回直木賞を受賞した『復讐するは我にあり』という作品が最初に思い出されました。

この作品は、1963年10月から翌年の1月に逮捕されるまでの間に、5人を殺害した西口彰事件をモデルに描かれたノンフィクションです。

そして、今村昌平を監督とし、今は亡き名優の緒方拳主演で作成されたこの映画は1979年4月に公開されました。

私がこの作品を最初に思い出したのは、第22回ブルーリボン賞や第3回日本アカデミー賞作品賞を受賞した映画を覚えているからです。緒方拳という役者の素晴らしさが光った映画でした。

 


また、近年公開された『悪人』という映画も素晴らしい出来栄えの作品でした。

この作品は李相日監督のもと、妻夫木聡と深津絵里という役者さんを得て映画化され、最優秀作品賞こそ「告白」になりましたが、その他の第34回日本アカデミー賞各賞を総なめにしました。

この映画は、主演男優賞を受賞した妻夫木聡の演技もさることながら、主演女優賞を受賞した深津絵里という女優さんの演技には驚かされたものでした。

原作は吉田修一の『悪人』という作品で、第61回毎日出版文化賞と第34回大佛次郎賞を受賞しています。また2008年度本屋大賞第4位にもなっているのですが、この作品も私は読んでいません。


他にも、角田光代の『八日目の蝉』という作品もあります。1993年12月に起きた、いわゆる日野OL不倫放火事件をもとにした小説だそうですが、現実に起きた実際の事件とはかなり異なる内容のようで、現実の事件は幼子が二人も死亡する悲惨な事件だったようです。

ただ、この作品を原作とする映画「八日目の蝉」も見事でした。井上真央と永作博美、小池栄子という三人の女優それぞれが素晴らしかった。この映画も第35回日本アカデミー賞を総なめにしていますね。


結局上記の三作品共に、私は原作を読んでいません。全部映画だけです。できれば原作も読んでみたいとは思うのですが、次から次に読みたい本が出てきますので、なかなかそれもかなわないことのようです。

他にも、高村薫の『冷血』などの多くの作品があります。


現実に起きた事件、そこには普通ではない人間ドラマがある筈で、それを描き出すことが人間そのものを描き出すことに通じているものだと、創作者は思うのでしょうか。

そして、同じクリエーターとしての映画人もまた、同様の想いからこれらの原作を映像化するのでしょう。

 

ちなみに、本書『罪の声』も小栗旬と星野源によって映画化され、2020年10月30日に公開されています。

詳しくは、下記のサイトを見てください。予告編もそちらで見ることができます。