騙し絵の牙

大手出版社で雑誌編集長を務める速水。誰もが彼の言動に惹かれてしまう魅力的な男だ。ある夜、上司から廃刊を匂わされたことをきっかけに、彼の異常なほどの“執念”が浮かび上がってきて…。斜陽の一途を辿る出版界で牙を剥いた男が、業界全体にメスを入れる! (「BOOK」データベースより)

本書は現在の出版業界の現状をリアルに描き出す長編小説です。著者の塩田武士氏は『罪の声』が2017年本屋大賞の候補作になりましたが、本書もまた2018年の本屋大賞にノミネートされています。

薫風社という大手出版社の発行する「トリニティ」という総合雑誌がありました。その編集長として速水という男がいます。この速水こそが大泉洋をあて書きして生まれたキャラクターです。

物まねが上手く、天性の人たらしである速水は、その才能をフルに生かして張り巡らした人脈を活用して、廃止を示唆された自らが編集長を務める雑誌「トリニティ」存続のために、作家を動かして人気小説の連載を確保し、トリニティに連載されていた小説の映像化を図り、そのために営業担当と掛け合って単行本の増刷を図るなど、多様な活動をこなす姿が描かれます。

その一方、家庭では妻の淋しさを顧みる暇もなく、夫婦の会話も無くなっていくばかりです。ただ、娘の成長だけが楽しみなのです。

本書の魅力は、第一には出版業界の裏側が実にリアルに描き出してあるところでしょう。一般読者の知るところではない編集者の仕事内容を紹介したり、文芸雑誌の廃刊という流れの中で作家の収入の仕組みを解説したり、本書のストーリー自体が読者離れの激しい出版業界の現状に即して組み立てられているのです。

また、書店数もピーク時に比べ約四割減っている昨今、売り場面積はさほど減少していないのであり、ということは大型チェーン化が進んでいるともとれる事実の指摘があります。

また、中古本販売店や図書館の存在は作り手にとって脅威であって、「数年前から公立図書館の書籍貸出数が、販売数を上回る状態が続いている。」ことも登場人物に言わせています。

こうした業界の現状を示すとともに、自らが編集長を務める雑誌の廃刊を阻止するために奮闘する速水という人物を描き出し、エンターテインメント小説としての面白さをも追及してあります。その手段として、主人公を人気俳優の大泉洋という底抜けに明るいキャラクターをモデルにあて書きして話題性も作り出しているのです。

本書の二番目の魅力と言えば、大泉洋のあて書きということになるでしょう。速水という主人公の人たらしぶりは武器であり、その魅力を通じて構築した人脈が主人公の武器となって、雑誌廃刊阻止の様々な手段を講ずるのです。

ただ、逆に言えばこの点が私の評価としては今ひとつと感じたところでもあります。主人公がスマートすぎて、私が感じる大泉洋の印象と少々異なるのです。ただ、この点は個人的な側面が強いので、ことさらに言う点でもないとも思います。

今ひとつは、タイトルであり、謳い文句でもある「騙し絵の牙」という点です。本書のエピローグが「騙し」と、また「牙」と言えるほどのものなのか疑問なしとは言えないのです。

話は変わりますが、編集者の物語と言えば 三浦しをんの『舟を編む』という物語がありました。この作品は、辞書の編纂作業を行う編集者たちを、辞書の作成される過程を如実に描きながら、主人公らの人ドラマも絡めて描写してある小説で、2012年の本屋大賞を受賞し、また松田龍平主演で映画化もされていて、かなりの人気を得たと覚えています。

また、特撮映画の編集者の人捜しを主軸に編集者を描き出した作品が 月村了衛の『追想の探偵』という作品でした。全く架空の特撮作品に絡む人物を探し出し、その雑誌のメインとする女性編集者を主人公にした、「日常のハードボイルド」という言葉をうたい文句にした小説ですが、本書とはその趣が少し異なる作品でした。

罪の声

京都でテーラーを営む曽根俊也は、ある日父の遺品の中からカセットテープと黒革のノートを見つける。ノートには英文に混じって製菓メーカーの「ギンガ」と「萬堂」の文字。テープを再生すると、自分の幼いころの声が聞こえてくる。それは、31年前に発生して未解決のままの「ギン萬事件」で恐喝に使われた録音テープの音声とまったく同じものだった―。(「BOOK」データベースより)

本書は、2017年の本屋大賞のノミネート作品にもなっているほどに人気の高い、長編の推理小説です。実際に、1984年から1985年にかけて関西方面で実行された、いわゆる「グリコ・森永事件」という多数の食品会社への脅迫等事件をモデルとしています。

大変な力作です。迷宮入りとなった「グリコ・森永事件」について緻密に調査が為され、その結果が再構成されて本書として結実している、そのことはよく分かります。だからこそ、本屋大賞にもノミネートされているのでしょう。

本書には、父の遺品の中に「ギン萬事件」の犯人を示す証拠かもしれないカセットテープやノートをみつけ、真実を知りたいと調査に乗り出す曽根俊也と、大日新聞の年末企画で「ギン萬事件」を扱うことになり、英検準一級を持っていることからロンドンでの取材を任されることになった、文化部記者の阿久津英士の取材という二つの流れがあります。

神戸新聞での将棋担当記者という経験をもつ作者の塩田武士は、当然のことながら本書の主人公の一人である阿久津英士に投影されているものと思われ、その取材時の記者の心象については、同じ文化部出身の記者としての経験が十分の反映され、臨場感に満ちたものだと感じ入りました。

「真実は時に刃になる。それが周囲の人間を傷つけてしまうこともある。」などの言葉は、作者の記者としての経験から出てきた言葉だろうと、特に印象的でした。

また、「ギン萬事件」の犯人の家族と目される曽根俊也や、事件追及の過程で出てくるもうひと組の犯人家族の物語は、単に「グリコ・森永事件」についての再構成というにとどまらない厚みをこの作品に与えています。

また、クライマックス近くになってくると、本書の持つサスペンス的印象が強くなり、物語に強く惹きつけられたものでした。

ただ、それまでの間、この物語を冗長に感じたことも確かです。

確かに、本書の成立する前提として、「ギン萬事件」(グリコ・森永事件)についての知識必要でしょうから仕方のない側面はあるとは思います。しかし、この二つの物語それぞれの流れで、もう少し簡潔に語ってくれれば、物語の世界に入り込めたのに、と感じてしまったのです。


本書のように、現実に起きた犯罪事実をもとにして書かれた小説はかなりの数にのぼると思います。

中でも映画化もされた名作としては、佐木隆三の書いた、第74回直木賞を受賞した『復讐するは我にあり』という作品が最初に思い出されました。この作品は、1963年10月から翌年の1月に逮捕されるまでの間に、5人を殺害した西口彰事件をモデルに描かれた小説です。

そして、今村昌平を監督とし、今は亡き名優の緒方拳主演で作成されたこの映画は1979年4月に公開されました。私がこの作品を最初に思い出したのは、第22回ブルーリボン賞や第3回日本アカデミー賞作品賞を受賞したこの映画を覚えているからです。緒方拳という役者の素晴らしさが光った映画でした。


また、近年公開された『悪人』という映画も素晴らしい出来栄えの作品でした。この作品は李相日監督のもと、妻夫木聡と深津絵里という役者さんを得て映画化され、最優秀作品賞こそ「告白」になりましたが、その他の第34回日本アカデミー賞各賞を総なめにしました。

この映画は、主演男優賞を受賞した妻夫木聡の演技もさることながら、主演女優賞を受賞した深津絵里という女優さんの演技には驚かされたものでした。

原作は吉田修一の『悪人』という作品で、第61回毎日出版文化賞と第34回大佛次郎賞を受賞しています。また2008年度本屋大賞第4位にもなっているのですが、この作品も私は読んでいません。


他にも、角田光代の『八日目の蝉』という作品もあります。1993年12月に起きた、いわゆる日野OL不倫放火事件をもとにした小説だそうですが、現実に起きた実際の事件とはかなり異なる内容のようで、現実の事件は幼子が二人も死亡する悲惨な事件だったようです。

ただ、この作品を原作とする映画「八日目の蝉」も見事でした。井上真央と永作博美、小池栄子という三人の女優それぞれが素晴らしかった。この映画も第35回日本アカデミー賞を総なめにしていますね。

結局上記の三作品共に、私は原作を読んでいません。全部映画だけです。できれば原作も読んでみたいとは思うのですが、次から次に読みたい本が出てきますので、なかなかそれもかなわないことのようです。

他にも、 高村薫の『冷血』や『レディ・ジョーカー』、桐野夏生の『OUT』、それに 野沢尚の『魔笛』などの多くの作品があります。

現実に起きた事件、そこには普通ではない人間ドラマがある筈で、それを描き出すことが人間そのものを描き出すことに通じているものだと、創作者は思うのでしょうか。そして、同じクリエーターとしての映画人もまた、同様の想いからこれらの原作を映像化するのでしょう。