青山に在り

川越藩筆頭家老の息子・小河原左京は、学問剣術いずれにも長け、将来を嘱望される13歳の少年。ある日、城下の村の道場で自分と瓜二つの農民の少年と出会ったところから、運命の歯車が大きく動き出す―。幕末の川越藩を舞台に、激動の時代と数奇な運命に翻弄されながらも、己に誠実に、まっすぐ生きようとする若者たちを清冽に描き出した青春時代小説の永遠のスタンダード、誕生!(「BOOK」データベースより)

 

幕末の川越を舞台にした長編の青春時代小説です。

本書タイトルにある「青山」とは「墳墓」のことを指します。幕末の僧月性の言葉と言われる「人間到る処青山あり」という言葉で知っている人も多いかと思われます。

 

本書の帯には、「こういう幕末ものを待ち望んでいた!」という菊池仁氏の言葉などを載せ、青春小説の傑作ということを声高に主張してありました。

私もそうした惹句を読んで本書を手に取った一人ではありますが、読んでいる途中からこうした惹句に対して違和感を感じていました。

 

本書冒頭の「序章」から第一章初めの、左京の叔父の将佐政美と左京の師との間で左京のずば抜けた才能について語る場面あたりまではかなり期待できそうな物語だと思っていました。

しかしながら、左京が鶴間村へと行き、時蔵という自分とうり二つの少年と出会ったあたりから、おかしくなっていきます。

 

本書で描かれる内容が、幕末という時代の波の中で翻弄される少年らの物語、という勝手な思いは崩れ、左京と時蔵と二人の間で揺れる想いをもてあます一人の少女の話へと収斂し、それだけの物語となってしまいました。

それに敵役である宗方舎人という侍が加わります。

そこには、青春小説の醍醐味である少年の成長に伴う心や身体に訪れる変化といった観点はあまり見出せません。

 

時代小説における青春小説と言えば『バッテリー』で有名なあさのあつこを思い出します。

青春小説の第一人者と言えるでしょうが、その人が舞台を時代小説に移し書いたのが、山の民に育てられた燦と田鶴藩筆頭家老の嫡男吉倉伊月という双子の話である『』です。文庫本で全八巻にもなる作品ですが、一冊が薄く、普通の文庫本にすれば三巻ほどに収まるでしょう。

 

 

申し訳ないけれど、あさのあつこの作品で描かれる少年たちの存在感と比べてしまい、本書で描かれる人物らの薄さは、残念としか言いようがありません。

本書の主人公のひとりは、文武両道において完璧な、しかし若干内省的な小河原左京という少年です。でも、そこにいるのは頭の中で考えられた理想的な少年像でしかありません。それは時蔵も同様です。

さらに言えば、左京の父左宮にしても、葉室麟の『蜩ノ記』の戸田秋谷のような侍像を狙ったのでしょうが、そこにいるのは形式的な人間であり、血の通った人間とは思えませんでした。

 

 

そのことは、敵役の宗像舎人にしても全く同じで、左京に対する恨みをそのままに左宮に対しぶつけながらも自身の感情が誤りであることを自覚もしているような矛盾した存在です。

本来、そうした苦悩を抱えた存在は物語に厚みを加えてくれると思うのですが、逆に人物像が薄く感じられるのは残念でした。

 

そもそも、本書の舞台設定自体がありがちであり、加えてその登場人物の人物像がきちんと描かれているとは思えない以上、感情移入できるはずもありません。

本書の惹句で書かれている言葉は受け入れることはできないのです。

かなり厳しいことばかり書いてきました。期待が大きかった分、その反動が大きかったと思われます。それほどに本書の内容は私の好みからは外れたものでした。