本書『オカシナ記念病院』は、現代医療の問題点をユーモラスに突く、新刊書で360頁の長編の医療小説です。
離島での医療の現場に対する新人研修医の空回りする情熱の矛盾点を指摘する物語ですが、面白い小説かと問われればもろ手をあげて賛成とは言えない小説です。
『オカシナ記念病院』の簡単なあらすじ
離島の医療を学ぼうと、意気込んで「岡品記念病院」にやってきた研修医の新実一良。ところが先輩医師や看護師たちはどこかやる気がなく、薬の処方は患者の言いなり、患者が求めなければ重症でも治療を施そうともしない。反発心を抱いた一良は在宅医療やがん検診、認知症外来など積極的な医療を取り入れようとするが、さまざまな問題が浮き彫りになっていき―。現代の医療の問題点を通して、生とは何か、死とは何かを問いかける。著者渾身の医療エンターテインメント。 (「BOOK」データベースより)
新人研修医の新実一郎は、人間味のある医者を目指して医師と患者との関係が濃厚そうな離島の病院での後期研修を望んで、南沖平島の岡品記念病院へとやってきた。
院長は岡品意了といい、白塔大学の出身であることもこの病院を選んだ理由の一つだった。
ところが、看護部長で内科病棟の看護師長も兼ねている福本の案内で岡品記念病院を見て回るとどうもおかしな感覚に襲われるのだった。
例えば、夜中の緊急医療でも喜んでお手伝いをするという一郎に対し、副院長の阿部など自分はできるだけ手術をしないようにしている、などというのだ。
また、外来診察を担当したとき、来院患者に対して看護師の高梨操はまるで世間話をするかのように話し込み、また治療に際してもさっさと患者の言う通りの薬を出すのだった。
さらには明らかに癌が疑わるため詳しい診察をしようとすると患者からは診察を断られ、強引に診察をしようとすると怒り出してしまうのだ。
しかも、それに対し看護師も何も言わず、患者のいうがままになっているのだった。
『オカシナ記念病院』の感想
本書『オカシナ記念病院』の主人公新実一郎は、白塔大学で学び、国家試験に合格したのち、二年間の初期研修を白塔病院で受けた新人研修医です。
最新の医療をするつもりで来た岡品記念病院だったのですが、患者からは最新の医療行為を断られ、さらには患者の意思が最優先され、一郎の感覚では医療の放棄としか思えない診察が為されていたのでした。
紹介されたスタッフは内科病棟看護師の宇勝なるみや内科医長の速石覚、外科医長の黒須静、それに副院長の外科の阿部和彦、泌尿器科部長の服部勇三などである。
本書『オカシナ記念病院』では全部で八話の物語からなっていますが、そのそれぞれの話で現代医療の問題点が示されます。
例えば第一話では、患者の意思を最優先しようとする看護師の態度に腹を立てた一郎は岡品院長に談判に行きます。
しかし、逆にがんを治療してもいずれは死ぬし、癌を治してくれと言ってきていない患者に癌の治療をしようとする一郎の行為は本人の意思を無視しているだけだと言われてしまいます。
次に来た患者に至っては、膵臓癌であるにもかかわらず治療を求めていないし、逆にいい医者になれよと励まされる始末で、さらに、死んだら何もわからず怖いも何もないというのでした。
次の第二話では、速石医師から「よけいな検査をして、万一がんが見つかったらどうするんだ」などと言われてしまいます。
また、患者自身も検査を望んでいないのです。
こうして、第三話では在宅医療、第四話ではがん検診、第五話では現役の医学部五年生への指導などをテーマに物語は続いていきます。
そして、岡品院長が現代の医療で指摘されている問題点を次々に指摘し、一郎の最先端医療を行おうとする意思をひとつひとつ叩き潰していくのです。
そうした重いテーマを持つ本書『オカシナ記念病院』ですが、そのタイトルや岡品意了(おなしな医療)や宇勝なるみ(うかつな、るみ)といった登場人物名からも分かるように、ユーモアに包まれた作品です。
だからといって、物語自体がユーモア満載の楽しい小説かというとそうではありません。やはりテーマの故か、重く暗い雰囲気ではないというだけで、明るく楽しい小説ではないのです。
同じように現代医療の問題点を指摘している作品として、夏川草介の『勿忘草の咲く町で ~安曇野診療記~』などがあります。
患者の目線での治療、ということを第一義とするその考え方は、本書で指摘している岡品医師の言葉に通じるものがあるように思えます。
結局、本書『オカシナ記念病院』は冒頭に述べたように現代医療の問題点を洗い出し、島の人たちの自然のままに生きるという死生観を肯定しているように見えます。
自分の命は自分で決めるし、死ぬときは死ぬときとして自然に任せることを良しとしているようです。
もちろん、医療行為を否定しているわけではなく、本人が望めばその治療に全力を尽くすことは当然です。ただ、本人が望まなければ積極的な治療はしないということです。
そのことの是非は私には分かりませんが、私自身は最低限の治療はしたいと思うし、ただ機械によって生きているような事態にはなりたくないと思うだけです。
こうした考え自体は昨今の医療の現実でもあるようです。
本書『オカシナ記念病院』の主張するところは一つの意見ではあると思います。しかし、本書で描かれる島民の死生観にはとても至りません。
本書で描かれているような、遠からずがんで死ぬことがわかっているのに挿管のために前歯を折り、人工呼吸のためにあばら骨を折り何とか生き返らせる治療はしようとは思いませんし、してもらいたくもありません。
ではどういう治療があるかと問われれば素人の私には全く分かりませんが、すくなくとも苦しみがあるのであればその苦しみはとってほしいと思うでしょう。
昨年、私の母を見送った際も、先生方と話し合い、どのようにしても助からない命であることを前提に、体に思い負担をかけるような抗がん剤治療はやめて、本人の苦しみを除く治療だけをしてもらいました。
ただ、その手立てすらないとするならば、多分、何もしないでいることいなるでしょう。
本書で提起されている問題は簡単に語れることではなく、だからこそ、小説として見た場合、いわゆる面白い小説ではないとしか言えないのです。