“雑司ヶ谷の妖怪”こと、泰幸会教祖・大河内泰が死んだ。享年102。葬儀に参列するため中国から帰国した俺を待っていたのは、ババアが書き残した謎の遺書。教祖のイスと莫大な財産は俺の父親に譲るというが、親父ならとっくに死んでいる。ババアの魂胆は何か?初代教祖の戦前戦後の過去と、二代目就任をめぐる抗争劇の現代が交錯する、衝撃の問題作「雑司ヶ谷」シリーズ第二弾。(「BOOK」データベースより)
前作『さらば雑司ヶ谷』の続編です。一言で言って、残念ながら、私の好みには合わない作品でした。
勿論、と言っていいものかわかりませんが、本書も前作と同じように多数の作品へのオマージュ、パロディ、引用等に満ちていると思われますが、読み手の私が元ネタがさっぱりわからないのです。本書を読みこなす知識などを含めた読み手の力量が無ければ、この本の良さは分からない、というところなのでしょう。
本書は大河内太郎の現況を挟みながら大河内泰の生涯をたどる全四部の物語になっています。
第一部は、泰が泰幸会を作り上げるまで。第二部は、太郎を殺そうとする石田吉蔵という男を中心とする現代の描写がメインで、第三部は、泰幸会は権力の頂点に立ちますが、孤独の中で生きる泰が描かれます。第四部は「アイ・アム・ザ・レザレクション」と題され、泰と太郎の親子の関係が描かれ、そして終幕へと向かうのです。
本書を読んで感じた拒否感の一番は、物語全体を貫く、主人公たちの歴史への絡み方の薄さでしょうか。大河内泰の苦労の描写はあっても、のし上がった大河内泰に時の権力者たちが媚びる、というだけに終始しています。
加えて、特にその第二部に登場する石田吉蔵というキャラクターに対する違和感がありました。あの格闘技漫画『グラップラー刃牙』に出てくる一国の軍隊よりも強い男である範馬勇次郎という人物を思わせるキャラクターで、ミサイルを撃ち込んでも死にません。その存在自体が違和感満載なのです。
強いて本書の魅力を挙げるとするならば、昭和の戦後裏面史とでも言うべき物語の流れの中、大きな出来事に大河内泰を絡めて語っていることでしょうか。でも、その点でさえ伝奇小説としては読めない流れなので心に残りませんでした。本来であれば、それなりに面白さを感じ取っても良い設定のはずですが、細かな歴史的事実の積み重ねの上に虚構を重ねるという伝奇小説としての手続きが無いので、真実味を書いた嘘話に終始してしまいました。
それこそが著者の狙いなのでしょうが、いかんせんパスティーシュ・オマージュの元がわからない私には受け入れられませんでした。
当たり前のことですが、本書をとても面白いと評価する方もおられます。ことの善しあしは別として、物語としてはきちんと書き込みをしてあるので、読み手によっては行間をも読みとる力量を持った方には面白いものだと思われます。
ただ、私にとっては感覚に合わないのです。前作はまだ許容する余裕がありましたが、本作は受け付けませんでした。
「お金を払って読んでくれた人こそ読者です」とはっきりというこの作者は、本書の最後に「公立図書館のみなさまへ この本は、著作者の希望により2011年8月25日まで、貸し出しを猶予していただくようお願い申し上げます。」というお願いを掲載しています。本書は2011年2月25日の出版なので、半年の間、貸し出しを待ってもらえないかという図書館に対する作者のお願いですね。個人的には、この主張自体には諸手を挙げて賛成したいところです。
図書館による新刊の貸し出しと新刊書の売れ行きとの間の因果関係についてきちんと検証されたことがあるのか私は知りませんが、全国の図書館の数は4,741館だそうなので(日本著者販促センター : 参照 )、相当数がタダで読まれていることは想像できます。
この点、有川浩氏が「町の書店さんが次々に姿を消し、出版不況が叫ばれて久しい時代に『本を買う』意味」について書いておられます。言っていることは直接的には異なりますが、本が売れないことによる業界の不振という点では同じことでしょう。( エンタメの未来が危ない!作家・有川浩が決意の緊急提言 現代ビジネス : 参照 )
出版文化も含めたエンタメ文化の衰退を防ぐためにも、あらためて考えることが必要でしょうね。でも、もっぱら図書館を利用している私が言うべきことではないですね。