秀吉の寵愛を受けた俊才・宇喜多秀家。絶体絶命の関ヶ原。心優しきリーダーの選択とは。(「BOOK」データベースより)
本書『宇喜多の楽土』は、備前・備中地方の戦国大名宇喜多秀家の生涯を描いた長編の時代小説で、第159回直木賞の候補作となった作品です。
この宇喜多秀家の父親が戦国の世を権謀術数を駆使して生き残ってきた大名の宇喜多直家であり、その姿を描いたのが木下昌輝のデビュー作の『宇喜多の捨て嫁』という作品です。
この本は表題作のほか五編の短編を収めた作品集で、表題作は第92回オール讀物新人賞を受賞しています。また作品集としては第4回歴史時代作家クラブ賞、舟橋聖一文学賞、高校生直木賞の各賞を受賞し、そして第152回直木賞にノミネートされました
本書『宇喜多の楽土』は、この『宇喜多の捨て嫁』の続編とも言えると思います。父直家とともに、宇喜多家の楽土を建設することを目標に生き抜いた宇喜多秀家という武将の姿を、豊臣秀吉という天下人の権威のもとで苦悩する姿と共に描き出しています。
秀家は幼い頃は八郎と呼ばれており、何故か秀吉に可愛がられています。本書ではその理由の一つとして、数えで十一歳になる八郎を秀吉の養女豪姫が気に入ったことを挙げています。また、秀家は秀吉による信長の弔い合戦である山崎の戦いでの落ち武者を捕まえるものの、これを逃がしてしまうのでした。
秀吉と家康とが対立した小牧長久手の戦いの折、宇喜多家と毛利家との間での係争地に関しtて秀吉の所領安堵状を得ます。しかし、そのことは地方の一大名にすぎない宇喜多家にとっては秀吉の傘下に入ることにほかなりませんでした。
数えで十四歳となった八郎は元服し宇喜多八郎秀家と名乗ります。秀吉に呼ばれた秀家は、秀吉からかつて落ち武者を逃がした犯人が秀家である証拠の剣片喰の紋が入った小柄を示されるのでした。
朝鮮出兵で晋州城(チンジュソン)を落とす武功を立てた二十二歳となった秀家でしたが、領内のすべての土地に検地を行おうとしたため、旧来の家臣団からの反発を受け、やむなく秀吉の検地命令状を出すしかありませんでした。
再度の朝鮮後の太閤の死後、宇喜多家内では所領を与える宛行(あてがい)に関し対立が続いていました。一方、大坂の石田三成の奉行衆と伏見の徳側家康との間でも対立が激しくなっていました。そんな中、伏見の徳川屋敷に諸大名が集まり、立てこもるという事件が起きます。
以降、宇喜多家内でも家中騒動があり、自分が隠居となることで争いをしずめ、家康に後始末を頼もうとする秀家でしたが、家康から後見人に指名されたのは宇喜多左京であり、左京では領民が苦しむのは目に見えているとして、考え直すのでした。
そうして、以降物語は「関ヶ原」の闘いを描く第四章へと進むのでした。
本書の作者木下昌輝には、第157回直木賞にもなった『敵の名は、宮本武蔵』と言う作品があるのですが、この作品はその視点のユニークさ、表現のダイナミックさなど、非常に惹かれるものがありました。
しかしながら、本書『宇喜多の楽土』は今ひとつのめり込めませんでした。主人公の宇喜多秀家の存在が今ひとつあいまいであり、存在感が感じにくかったのです。
序章で示された、秀家の「理念」と言っていいものか、「楽土」を目指すという生き方、干拓地で生きる流民の幸せのために生きる領主となるという決意があまり感じられなかったのです。
たしかに、隠居しようとする秀家の跡継ぎの後見を左京に任せるかの判断のときなど、領民のことを判断材料にするなどの描写はあります。
しかし、物語を通して感じられるのは、秀吉の傘下に入るか否かなど、宇喜多家の当主として宇喜多家を守るための判断、苦悩であり、領民の幸せは決して前面には出ていないということです。
勿論、戦国時代の大名の当主として、宇喜多家の存続を第一義に考慮することは当然でしょうし、またそうあるべきことなのでしょう。しかし、序章で示した本書の方向性という観点からは疑問があります。
また、細かな点を言えば、幼い八郎が落ち武者を逃がす行為や、秀家の従兄の左京の狂気もこれを描く意味が今一つ分かりませんでした。
この作者はこれまでの歴史小説からするととても斬新な観点から物語を紡がれている、非常に面白い作家さんだと思います。エンターテイメントとしての歴史小説の書き手としてもとても魅力的だと思います。
だからこそ、本書のような疑問点は残念でならないのです。
ともあれ、直木賞の候補作として挙げられているということは、それだけ期待も大きいのだと思います。今後の作品を期待したいものです。